第三章7
フェリスタはたいそう賑やかな少年だった。
ヴェガスタは、フィガスタという脅威が去ったためか生気を取り戻し、手を上げて店員を呼んだ。その間にもフェリスタは椅子をがたがたさせながらエルギンの隣に割り込ませ、机の上に残っていた食べ物の皿を抱え込んでもりもり食べた。そうしながら隣のエルギンに身を寄せるようにして言う。
「なーんだお前、なんかお坊ちゃまみてえな顔してんな。ひょろひょろしやがって、ちゃんと食ってんのかよ? それ食わねーのか? そんなら俺様が食ってやっけど」
「フェリスタ、みっともねー真似すんじゃねえ」
ヴェガスタがたしなめるとフェリスタは鼻で笑う。
「はん、絶縁状渡されてんのに信じねーで三ヶ月もしつこく居座ってるほーがよっぽどみっともねーわ」
まあそれは少々一理ある、とラセミスタは思う。その気配を敏感に感じ取ったのか、フェリスタは今度はラセミスタの方に身を乗り出した。
「だろ? そーだろ、ねーちゃんもそう思うだろ? つーかなんだこのねーちゃん良く見りゃすっげー別嬪さんじゃん! 名前なんつーの? 俺ぁな、草原のフェリスタってんだ」
「おい鼻たれ小僧、俺の客を口説くなんざ十年早えぞ!」
「はん! 十も年下の女に入れあげてケツ追っかけ回してるよーな奴に言われたかねーんだよお代わりー! この店の飯うっめーな! 肉料理上から下まで持って来てー!」
ラセミスタは圧倒されていた。ずっと引きこもっていた身には、この少年のけたたましさは新鮮だった。まるで珍獣である。何しろあのヴェガスタが押されている。彼はつくづくとため息をついて、なんとかフェリスタをたしなめようとする。
「あのなあ、さっきのねーちゃんが服乾かしてきたらそろそろ出るんだ。てめーの飯終わんの待ってる暇ぁねーんだよ」
「いーよそしたら全部包んでもらえばいーわけだし」
「あの」とエルギンがフェリスタに言った。「……君も一緒に来るの?」
「あ? そりゃそーだよ聞ーてたろ? 俺あフィグの兄貴にこのクソ兄貴見張っとけって言われてんだ」
「で、でも――」
「ああ? 俺が一緒に行っちゃいけねーってのか? へん、おきれーな顔したお坊ちゃまだなてめえ、ちゃんとでーじなもんついてんのか?」
たちまち凄む辺りに、ヴェガスタとの血のつながりを感じる。さっきの細身で穏やかそうだったフィガスタよりも、この親子ほどに年の離れている少年の方が、遙かにヴェガスタに似ている。エルギンはむうっと唇を引き結んだ。この王子様はフェリスタのガラの悪さに驚いてはいるが、怯えているわけではないらしい。臆せずに言い返した。
「あまり人数が増えると良くないんじゃないかと思うんだ」
「俺あな」フェリスタは届いた骨付きの肉に噛みついてむしり取って見せた。「……ほーへんのふぇいすははへ? ふみじゃーひょっとはのひえは、……男なんだよ」
飲み込むまで何言ってるかわからなかった。しかしエルギンは聞き返しはしなかった。すっと手を伸ばして自分も骨付きの肉を取り、がぶりと噛みついてむしり取って見せた。お坊ちゃま、と言われたのがもしかしたら腹に据えかねたのかも知れない。なかなか豪快な――というか、お行儀の悪い食べっぷりだ。
「へええ」
ニヤリ、とフェリスタが笑う。そして骨付き肉にもう一度かぶりつく。まるで獣みたいな食べ方だ。エルギンも負けじと噛みついて、二人は噛みついたまま睨み合った。がっはっは、とヴェガスタが笑う。
「勝負はあのねーちゃんが戻ってくるまでだぞ」
勝負だったのか。どうやって勝ち負けを決めるのだろう。一本目の肉を食べ終えたのはほとんど同時だった。エルギンが次の肉を取りフェリスタが自分のを取った。めりめりむりむりばりばりと、食事にあるまじき音を聞いていると、なんだかもう、それだけでお腹がいっぱいだ。
籠いっぱいのロールパンが香ばしい匂いを立てながら運ばれてきたとき、ニーナが席を立った。ラセミスタの視線に気づいて、彼女はにっこりと笑う。
「ちょっと、お花摘みに行ってくるね」
「あ、そう? 一緒に行こうか?」
「だいじょうぶー」
ニーナは軽やかに手を振って、とことこと歩いていった。
*
扉を抜けると、そこはもう外だった。
星が輝いているのが見える。
【壁】ができる前、エスメラルダの気候は穏やかだったと習った。確かにそのとおりだったらしい。現代のエスメラルダでは、真夏でも夜には一枚羽織るものが欲しくなるけれど、今は全然寒くない。
フィガスタは後ろ手に店の裏戸を閉め、手袋を外した。
月明かりに浮かび上がったその手を見て、マリアラは絶句した。
彼の右手には、びっしりと、若草色の複雑な紋様が描かれていた。このような暗がりでもその細かい紋様がよく見える――ごくわずかにだが、若草色に発光している。その光を見て、またフェルドを思い出した。フェルドが魔力を使うとき、こういう粒子が見えることがある。
マリアラが驚いている内にその光は見る見るうちに強くなり、そして、
ごっ!
出し抜けに風が巻き起こった。上から覆い被さるように襲いかかってくるその風が自分の体を切り裂こうとしていることに気づいて反射的に両手を上げた。無意識のうちに周囲の光をかき集めていた。この薄暗がりの中でも、風はなんとか反応した。マリアラの周囲の空気が渦を巻き、フィガスタの起こした風に立ち向かっていく。ふたつに編んだお下げが風に煽られる。ぎちぎちっ、周囲の木塀や積まれた木箱が軋んだ音を立てた。
「……やっぱりか」
そう言ってフィガスタは手を下ろした。襲いかかってきていた風が収まる。まだ警戒するように渦を巻くマリアラの風の向こうから覗き込むようにして、フィガスタは囁いた。
「何を考えて陸に上がってきた?」
「えっ?」
何を言われたのかわからない。聞き返したマリアラに、フィガスタは顔をしかめて見せた。
「国中の医師が匙を投げた病人を治して欲しい――そんな願いに応じてルファルファが遣わした? 見たところまだ若い、むしろ幼いくれえの年頃の娘が、何でも治せる医師だって?」
「……」
「そもそもおかしいと思った。エルギン王子は今まさに、ルファ・ルダで狩りの真っ最中のはずだ。なのにここにいる。どうやら本物らしい。元気満々な草原の馬を何頭も取りかえながら走ったとしても四日はかかる距離を飛び越えてな。ルファルファ神の娘までがここにいる、ムーサの魔の手を辛くも逃れる形で――か。ああ……あんたが誰だか、わかってますよ。隠すのはやめてください。女神の愛し子を助けるという理由があったんだ、陸に上がってきた理由はよくわかります。だがレスティス妃まで助けるのはやり過ぎだ。頼むからあんたらの気まぐれで、俺ら人間の営みを、引っかき回さねえでくれませんか」
どうしよう。意味がわからない。
かろうじてフィガスタが、マリアラを誰かと誤解しているらしいことはわかった。マリアラは必死で頭を働かせた。治療ができる、陸に上がった、気まぐれ、という発言からして――
「わ、たしは、人魚じゃありません」
そう答えるのが精一杯だった。言いながらすとんと腑に落ちていた。なるほど確かに、未来から来た人間という真実を言い当てるよりも、通りがかった人魚が気まぐれで人に姿を変え、エルギンとニーナに手を貸している、と言う方が、まだ信憑性があるだろう。
フィガスタは左手で、自分の右手を押さえていた。その右手の発光が、強さを増している。
怒っているのだ。そう悟って、マリアラは店内に戻ろうとした。だがその寸前にフィガスタが、店の裏口の前に割り込んだ。長々とマリアラを見て、吐き捨てる。
「そう言い張るならそれでもいいさ。俺らみてえな下等生物には言いたかないことも多かろう」
「そんな」
「だが覚えておいてくれ。あんたは既にルファルファの愛娘と、ついでにあの王子を救った。それで満足してくれ。――うちのバカ兄貴にどうそそのかされたか知らねえが、あいつはアンヌって名の王妃のことしか考えちゃいねえんだよ。レスティスって女が生きようが死のうが知ったこっちゃねえんだ。はっきり言っておくが、レスティスって女を助けるのは王子のためにはならねえぞ」
「えっ」
「その辺の事情もわからねえくせに、しゃしゃり出てくるんじゃねえよ……! どーすんだよあの子ら、人魚のご加護を期待して、すっかり母親助けられる気になってるじゃねえか! ヴェグにもそれが好都合だから黙ってるだけだぞ! 頼むから――」
フィガスタが右手を、マリアラの前に突き出した。
「今ここであのふたりを見捨ててくれ。その方があの子らのためだ」
「あなたは――」
「……俺にもあの子らはどうでもいいさ。いや、ルファルファの神子の方には生きててもらわねえと困る。この地に住む人間全ての平穏は、あの子の生存の上にかかってる。だからあんたが、神子を助けてくれたことには感謝する。
だが俺は草原の民だ。草原はアナカルシスに従うようになってまだ日が浅えんだ。民ん中にゃあ長の決定にぶんむくれて、大勢が流れ者になっちまった。長が弱腰だの色ボケだのって罵る声も大きいし、と言って今さらアナカルシスに牙を剥きゃあ、今度こそ完全に滅ぼされるだろうし――草原の民ってのは気が短えのが多くてさ、誇りはあるし血は熱いしで、従わねえと殺すぞって言われるとさ、上等じゃねえか気に入らねえ主に仕えてるくらいなら一族郎党潔く死んでやらあ、みてえな声がでかいんだよ。ふざけんなよ、人の気も知らねえで」
「……」
「……だからさあ」フィガスタは大きなため息をついた。「ヴェグがこれ以上なんかやらかす前に、草原に引っ張って帰りてえんだよ。王妃は俺たちをもういらねえって言ったんだ。もともと俺たちが王妃の為に働いてたのは、草原を抑える人質みてえな意味合いが強かったんだ。……それが帰っていいって言われたんだ。帰るだろ普通。その道理がわからねえのはあの馬鹿兄貴だけだ」
「エルギンのお母様を……助けるのが、あの子のためにならないって、どういう意味ですか?」
「……あの女は病気じゃねえ。自分で毒を飲んでるんだ」
マリアラは絶句した。「……?」
「長話してる暇はねえ。とにかく頼む。これ以上あの子らに関わるな。このまま立ち去れ。全ての水の源に帰ってくれ」
「そ、それはできません。わたし」
ぱしっ。
軽い乾いた音がした。フィガスタが指を鳴らした。その瞬間、マリアラはゾッとした。すぐ背後の板塀の向こうに、ぬっと男が立ったのだ。――いや。
新たに現れたのは、背後の男だけではなかった。
右手にも左手にも、頭を廻らせれば背後の男の後ろにも、いつしか男が立っていた。彼らは皆こちらに何かを向けていた。――弓だ。マリアラはまたゾッとした。顔を上げてみれば今出てきたばかりのレストランの屋根にもいた。何てことだ。全然気づかなかった。
「人魚に喧嘩を売るなんざあんまりやりたくなかったが。……警告しておく。あいつらは全員火矢も油の入った瓶も持ってる。俺の合図でこの辺一帯が火の海になるぞ」
そう言えば、草原の民の長――の、弟だとか言っていた。マリアラは目眩を感じた。指を鳴らすだけで現れた男たちは、まるでフィガスタの手足のようで、一糸乱れぬ統率力が何よりも怖ろしい。
「店ん中にもうひとり、人魚がいるだろう、髪の毛のふわふわした別嬪だ。あの人魚もなんとか言いくるめて諦めさせる。……このまま立ち去ってくれ。頼むから」
どうするのが最善なのか、全くわからなかった。“平和ボケ”しないようにと気を引き締めたばかりだったのに、フィガスタに騙されてのこのことラセミスタから離れてしまったことが悔やまれてならなかった。人魚じゃないと主張したってわかってくれそうな気がしないし、ただ治療ができるだけで攻撃手段を持たない間抜けな左巻きなのだとバレたら、それこそこれ幸いと矢を射られかねない。
でも、ラセミスタを置いてひとりでこの事態から手を引くなんて。
そんなこと、絶対にできるわけがない。
そう思った瞬間だった。出し抜けに背後からがっしりした太い腕が伸びてきて、マリアラの喉に巻き付いた。「!」悲鳴さえ出なかった。引きずり上げられて、つま先が地面から離れた。自分の体重が首に掛かって息が詰まる。男の手には全く容赦というものがなく、痛くて苦しくて何が何だかわからない。
「こいつ本当に人魚なのか、フィグ」
野太い男が言った。
みし、首の骨が軋んだ。
真っ赤なもやに閉ざされていた視界が白く濁り始める。
「どこからも水が来ねえ。ただの娘ならさらっちまえば――」
『なあにすんのよこの変態!!!』
突然マリアラの首元から飛び立ったミフが元の大きさに戻りざま、背後の男をぶん殴った。「!!」悲鳴を上げて男が下がり、マリアラはその場に倒れ込んだ。急に酸素がなだれ込んできて目が回る。地面すれすれの暗がりに身を縮め、痛む喉に左手を押し当てた。魔力が勝手に流れ出て、ずきずきする喉の痛みを鎮めていく。
『どこの誰だか知んないけどマリアラにひどいことしたら許さないんだからね! めっためたのぎったぎたにしてやるから覚悟しなさ――きゃー!?』
矢が飛んだ。屋根から放たれた矢はミフの穂すれすれをかすめて板塀に突き刺さった。マリアラはなんとか顔を起こした。だん、だんだん、続けざまに矢が射られてミフが悲鳴を上げる。
『こ、壊れちゃうー!』
「ミフ……!」
ミフの穂の中には複雑な回路が仕込まれているはずだ。射られたらミフが壊れてしまう。ミフは動転しており小さく縮むことに気が回らない。マリアラは思わず声を上げた。
「ミフ、小さく縮んで……!」
「やめろ」
フィガスタが鋭く言った。続けざまに降り注いでいた矢が止んだ。ミフは遅ればせながら、ぽん、という音を立てて小さく縮み、マリアラの手の中に飛び込んできた。マリアラはミフを握りしめて身を起こし、フィガスタが、両手を挙げているのを見た。
その後ろに立つ、幼い少女の姿も。
「あたしの友達に手を上げるなんて絶対に許さない」
フィガスタの肩甲骨の辺りに右手を押し当てたまま、今まで聞いたこともないほど冷たい声でニーナは言った。
ふがふが言ってたフェリスタの台詞「俺は草原のフェリスタだぜ? 弓じゃあちょっと名の知れた男なんだよ」