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魔女の遍歴  作者: 天谷あきの
魔女の冒険
134/765

第三章6

「やっべ」


 ヴェガスタが呻いた。

 その時には、背の高い男は躊躇いのない足取りでこちらへ歩いてきていた。その後ろから、エルギンと同い年くらいの少年がついてくるのも見える。ヴェガスタは気まずそうにそちらに向き直りながら、エルギンに言った。


「まあ食ってなって。腹減ってんだろ坊主。草原に誓って、毒なんか入れてねえから」

「何を言ってるんだこのバカ」


 その罵倒は、新たな男の口から放たれた。

 暗くて見えづらいが、優しげな顔立ちに見えた。体つきもほっそりしていて威圧感はない。なのに口から放たれた声がとても冷たく辛辣で、彼が心底怒っていることがうかがえる。

 その怒りを、ヴェガスタも理解しているらしい。ヴァシルグの前ではあれほど堂々としていたのに、今ヴェガスタは、小さく縮こまっていた。おもねるような、怒りを逸らそうとするような、おずおずとした声を上げる。


「よ、よう、フィグ。よよよ良くここがわかったなあ」

「今日の店じまいを終えた服屋を脅して無理矢理開けさせたくせに」

「う」

「目抜き通りで大騒ぎを起こしてよりによってこの店の扉を破壊して無理矢理席を用意させたくせに」

「うう」

「俺の耳に入らないと、本当に思っていたのかこのクソ兄貴」

「い、いやあフィグ――」

「フェリスタ、本人で間違いない。他の奴らに伝えてこい」

「へーい」


 フィグ、とヴェガスタが呼んでいる背の高い男は、ヴェガスタの言い訳を無視して、後ろにいた少年に言いつけた。少年も頷いて踵を返す。ヴェガスタが、その少年の背に声をかけた。


「ひ、ひひ久しぶりだな鼻たれ小僧」

「たれてねえよクソ兄貴、さんざん心配かけやがってバーカバーカ」


 フェリスタと呼ばれた少年は遠ざかっていきながらヴェガスタに向かって悪態をついた。しかしその悪態はあっけらかんとして明るく、ヴェガスタに悪印象を持っていないことがよくわかる言い方だった。マリアラは驚いた。兄貴って、言った?


 ヴェガスタはどう見ても三十代もしくは四十代くらいだ。ダニエルよりも絶対に年上だ。しかしフェリスタと呼ばれた少年は十代前半である。ずいぶん年齢の離れた兄弟ではないだろうか。親子だと言われた方がまだわかるくらいなのに。


 ヴェガスタは青年の凍てつくような視線から目を逸らしてこちらに向き直った。エルギンにまた声をかける。


「食えっつったろ。鼻たれ小僧が戻ってきたらおめえ、全部食われるぞ。今のうちに食っちまえ」


 エルギンはそう言われ、食べ物の存在を思い出したらしい。やっと食事に手をつけた。ニーナは自分の前の皿は既に綺麗に食べ終えていて、ヴェガスタがいそいそとニーナにお代わりをよそってやる。ラセミスタが食べ始め、マリアラもスパゲッティらしきものを一口食べた。味などわからないような気がしていたが、口に入れたらそれはもう、びっくりするくらい美味しかった。にんにくのきいたソースに野菜と肉団子がどっさり入っている。肉団子を見て、フェルドを思い出した。フィと連絡が取れればいいのに。フェルドもちゃんとおいしいものを食べているだろうか。巾着袋をいつも持ち歩いている、と、ラセミスタが言ってくれたから、そのあたりのことはあまり心配しないでいいのかも知れないけれど。


 新たに現れた細身の男は、近くの机に座っていた客を睨んでいた。睨んで、睨んで、睨んで、その圧力に耐えかねた客(今度はふたり)がそそくさと移動していき、睨んで退かせた男は当然のようにそこに座った。確かにこの人とは兄弟なのかも知れない、とマリアラは思う。


「……それで、」

「あ、ああそうだ、紹介するわ。な。こいつは俺の弟でな、フィガスタという。こここ怖い顔してるけどな、ここここう見えて悪い奴じゃねえから」

「あんたの方がよっぽど悪人顔だろふざけんな」フィガスタは流れるような口調で言った。「お嬢さん方、食事中にすまないね。状況を説明しよう。こいつは俺の兄で、草原の民の長だ。長だ。長だぜ? 長っつーのは一族をまとめる義務があるんだ、そうだろ? それがその義務をほったらかして三ヶ月も」


「三ヶ月!?」


「そう、三ヶ月だ」フィガスタはマリアラに頷きかけた。「俺は次男だからな、行方不明の長兄の代わりに一族をまとめる代役をして、さらにこのバカを捜すという過酷な日々を過ごしていたわけだ。同情してくれるな? な? なに、食事中に引きずり出すまではしねえよ。だが終わったらこいつをぶん殴るくらい、許されるんじゃねえかと思うんだ」


 マリアラは引きつった声を上げた。「お、穏便に……」


「もちろん穏便にするさ。本来丸太で叩きたいところだが」

「丸太!?」

「棍棒くらいで勘弁してやる」


 それでも打ち所が悪かったら死ぬんじゃないのか。フィガスタは口調こそ冗談めかしていたものの、暗くてあまり表情が見えないのですごみがある。なにしろあの剛胆なヴェガスタが借りてきた猫のようにおとなしい。弟をよっぽど恐れているらしいと思うと、本気で棍棒で滅多打ちにしそうで恐ろしい。


「……それで?」


 フィガスタはヴェガスタをまっすぐに見た。


「言いわけがあるんなら聞こうか。半ば予期してはいたが、まさか本当にまだアナカルディアに残っていやがったとは。振られた女にいつまでも未練たらしいったらねえよ、しつこい男は嫌われるんだぜ」

「……振られてねえ」

「は?」

「振られてねえよ俺は。あのな、俺に出てけっつったのがあの娘っ子ならそりゃもちろん諦めるさ、そもそもそういう契約だったからな、けど――」

「花押入りの正式な絶縁状渡されてんだろうが!」

「顔付き合わせてはっきり言われるまで本心かどうかわかんねえだろ!」

「あーあー、あんたはそういう奴だ。顔付き合わせてはっきり言われたとしても、『本心じゃねえ、あれは本気の目じゃねえ、絶対誰かに言わせれてるに違いねえ』って言い張るだろーがあんたは! ふざけんな! 自分の望む答えしか聞かねえっつーのは相手にとっちゃ迷惑千万なんだよ三十八にもなって情けねえな!」

「るっせー! うるせえうるせえうるせえ! 俺は信じねえ! ムーサって男をフィグ、てめえもよく知ってんだろうが! 書類の偽造くらい朝飯前だろ! あの娘っ子の力を殺ぐために書類偽造して遠ざけたに違えねえ、俺を拒否するほどあの娘っ子はバカじゃねえ!!」

「始めっから手に入らねえ女相手に入れあげやがって、てめえはほんっと草原の恥さらしだな!!」


 なんだろう。

 マリアラは聞いているうちにだんだん遠い目になってきた。

 なんだか、話だけ聞いていると、痴話喧嘩のようではないか。痴情のもつれで殺傷沙汰になるというのは、小説やドラマでは良くあるけれど、【暗黒期】前であるはずのこの時代にもこんな話を聞くだなんて。人間というのは古今東西、往古来今、根本的には変わらないものなのだろうか。


「アンヌ様は」とエルギンが小さな声で言った。「……ヴェガスタ、あなたにも、絶縁状を渡されたのですか……」

「だから渡されてねえんだって! あの娘の本心じゃねえんだって!」反射的にヴェガスタが叫び、

「……お前何者だ?」とフィガスタが言った。「ガキのくせに妙に――」


 しん。

 その時、空気が変わったのを、マリアラははっきりと感じた。

 フィガスタにも、今まで、ヴェガスタの同行者が誰なのか、わかっていなかったのだろう。しかしその時はっきりと悟った。まじまじとエルギンをのぞき込み、フィガスタは無言のまま体を起こした。


 ぎぎぎい、と音を立てそうなぎこちなさで首を回してヴェガスタに言った。


「――表へ出やがれ、くそ兄貴」

「いいや行かねえ。お前に口出しされる筋合いのことじゃねえ。俺は」

「前にも言ったはずだ。あんたは草原の長だ。その職からは逃げられねえ。あんたがする行動は嫌だろうとなんだろうと草原全体に及ぶんだって、何遍言ったらわかるんだ!!」


 ヴェガスタは押し黙った。まるで聞き分けのない幼い子どものようだった。店中が静まりかえっていた。この異様な兄弟喧嘩を、客も従業員も全員、固唾を飲んで見守っている。


 フィガスタはまだ何か言おうとし、兄の頑なな横顔を見て、悔しそうに唇を噛んだ。それからこちらを見た。エルギンを見、ニーナを見、ラセミスタを見、それからマリアラを見た。最後にまたエルギンに視線を戻して、呻く。


「あんたも何考えてんだ……」


 王子だと悟ったのだろうと思ったが、それにしてもぞんざいな物言いだった。エルギンは何事か考え込んでいたようで、フィガスタの言にはっとした。


「……僕ですか?」

「そう、あんただ」フィガスタは周囲の聞き耳を避けるように身を乗り出して囁いた。「今狩りだかなんだかの真っ最中じゃなかったのか。なんでこんなところにいる、なんでこのバカにとっ捕まるような――あんたの“剣”はどこだ。今どこでなにやってんだよ? 明日の昼までにあっちに戻んねえとあんた、」

「……それについては諦めざるを得なかったのです」


 エルギンもひそひそと囁いた。フィガスタが手を伸ばしてヴェガスタのビールジョッキを奪い、止める間もなくぐいっと飲んだ。げっぷと共に吐き出したのは酷く辛辣なひと言だ。


「あんたの身内が気の毒だ」

「僕もそう思います……」

「なんでだ。ムーサか?」

「はい。ムーサの企みを知る機会があったのです。あちらに残っていたら、今頃僕はこの世にいませんでした。ルファルファの神子はマーセラの手に落ち、ルファ・ルダは完全にマーセラのものになっていたでしょう」


 フィガスタは、うーん、と呻いた。ちらりとニーナを見て、額に手を当てる。


「……それで、王宮へか……。母親の実家でも頼るつもりで?」

「そうよ」ニーナがこくりと頷いた。「レスティス様に会いに来たの」

「……」


 フィガスタは長々と息を吐いた。

 それから、言った。


「悪いことは言わねえから……それはやめとけ」

「あら、どうして?」

「あのおん……あの人は病気だ。酷なようだが、もう長くはねえ」

「え……」


 マリアラは思わず声を上げた。これから会いに行く予定の、エルギンのお母様、レスティス妃と呼ばれる女性が、今病の床に伏しているなんて初耳だ。エルギンはマリアラの声にちらりとこちらを見て、恥じ入るように目を伏せた。


「そうなの? 病気って、どんな病気? お母様って、まだ若いでしょう」


 遺伝子系の疾患だろうか? もし末期癌などということになると、治療にはかなり時間がかかる。こんなところで話し合っていないで、早いところ行った方がいいのではないだろうか。


「大丈夫よ。だって“お母様”のご加護があるもの、きっとうまく治せるわ。マリアラ、まだお願いしていなかったけれど、レスティス様のご病気、治してくれるでしょう? ほらエルギン、ちゃんとお願いしなくちゃ」

「ちょっと待て」とフィガスタが行った。「マリアラ、っつーのはあんたか? 治せるってなんだ? レスティス妃は国中のどんな医師も見放したんだぜ」


 止める間もなく、ニーナが言った。


「マリアラは医師なの。それはもう、とてもすごい医師なのよ。大ケガをたちどころに治したの、本当よ? ……お母様の泉で、エルギンが祈った。その直後にあたしたち、ムーサに殺されかけたの。それを助けてくれたのがこの人たちなの。エルギンのお母様のことも、きっと助けてくれるわ」


 信じないだろうと、マリアラは思った。マヌエルを知らない時代の人たちにとって、大ケガをたちどころに治す存在など夢物語でしかないだろう。あまりニーナが言い張らないでくれるといいと、祈るような気持ちだった。今ここで何かを治して見せろと言われても困る。


「……」


 フィガスタは無言だった。何も言わず、ただじっと、底光りのする瞳でマリアラを見ていた。嘘だとも荒唐無稽だとも言わず、ただ黙って、じっと。

 マリアラは身じろぎをした。なんだろう、この視線。


 その時、扉が開いて、さっきの少年が戻ってきた。静まりかえった店の雰囲気を気にする様子もなく、軽い足取りでこちらへやって来る。

 細身で陽気で軽やかな雰囲気の少年だったが、もじゃもじゃの頭髪は確かにヴェガスタと似ている。


「兄ちゃん、伝えてきたよ」


 少年が声をかけ、フィガスタはようやく動いた。マリアラから視線を逸らして、ため息をひとつ。


「ああ、ご苦労だった。……フェリスタ、お前、ここで飯食ってけ」

「ん? いーの?」

「このクソ兄貴、手切れ金はちゃっかり受け取ってんだ。たんまり持ってるはずだ、少しでも減らしてやんな。俺は疲れた。あとは任した」

「任した? ってなに」

「その草原の面汚しがこれ以上草原に泥塗らねえように見張ってろ。俺は帰って寝る」


 言いながらフィガスタは立ち上がった。ここ座れ、と身をひいたとき、マリアラの飲みかけだったコップをフィガスタの左手が引っかけた。コップが倒れ、「わ!」マリアラは思わず声を上げた。生ぬるくなった水がまともにマリアラの膝にこぼれ落ちる。


「……うあー」フィガスタが呻く。「悪ぃ……暗いもんだから……こりゃ失礼した。中はなんだ、水か?」

「いえいえ、気にしないで。大丈夫ですから」

「そうはいかねえよ」


 フィガスタは慣れた手つきでマリアラを立ち上がらせた。断る気も起きないくらい滑らかな自然な仕草だった。


「年頃のお嬢さんに恥かかせたままじゃ草原の名折れだ。ちょいとこっちに。すぐ乾かすから」

「乾かす」

「俺は【契約の民】だ」


 そう言ってフィガスタは、マリアラの前に右手を出して見せた。

 その手には、革でできた使い古された手袋がはまっていた。マリアラは驚いた。左手の方には、何もはめていないのに。


「風を持ってる。すぐ乾かせるから」


 契約の民ってなんだろう。風を持ってるって、どういう意味だろう。混乱しながらマリアラは、促されるままに店の奥へ行った。




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