第三章5
ラセミスタの笑顔を見ているうちに、やっとのことで、体のこわばりがほぐれてきた。
マリアラはラセミスタから渡された筒を握りしめた。筒は小さくて冷たいけれど、ずしりとしていて、頼れる重みを手に伝えてくる。
「……急ごっか」
ラセミスタは照れたように言い、足を速めた。見ると、ヴェガスタはまたもやニーナを肩に乗せていた。人通りが多くなっているからだろうか。エルギンの左腕をがっちりと捕らえていて、見ようによっては連行しているように見えなくもない。
――なぜ僕たちを助けてくれたのでしょうか。
エルギンは不思議がっていた。何らかの裏があるのでは、と、警戒していたということだろうか。アンヌ王妃と言う人の家来(?)だとエルギンは言ったが、そもそもマリアラは、アンヌ王妃という人が誰でどういう人なのかも、ほとんど知らない。
――エルギンは、アンヌ王妃に殺されそうになったのよ……
――アンヌ様の差し金だったのか、本当のところはわかっていないんだよ……
ヴェガスタは、四人をヴァシルグから助けてくれた。それは間違いない事実だ。
しかし、それじゃあとすっかり安心してしまうには、情報が足りなさすぎるような気がする。少なくともヴェガスタがニーナとエルギンを“逃がす”気がないのは、ここから見ると良くわかる。
現代のエスメラルダに住んでいる人は、他国から見ると“平和ボケ”している、という、批判記事を読んだことがある。安全への意識が緩すぎるとか、自衛の手段を持たなすぎるとか。エスメラルダ国内ではそれでよくても、外国へ出たらきちんと警戒しなければいけない、とか。
そうだ。脅威は、ヴァシルグのようなわかりやすい殺意だけではないはずだ。
平和ボケしている場合ではない。きちんと気を引き締めていかないと。
マリアラは自分に言い聞かせながら、ヴェガスタたちの後を追った。
ヴェガスタが角を曲がった。そこは目抜き通りと呼べるような、広々とした大通りだった。人通りも一段と多くなった。暗さは相変わらずで、ヴェガスタの背中を見失ってしまわないかと気が気ではない。「あっ」斜め前で、ラセミスタが軽い声を上げた。「気ぃつけろ!」罵声が飛んだ。「ごめんなさいごめんなさい」あわあわ謝るラセミスタの声。気がつくと小柄な彼女の姿は人に紛れてどんどん後ろに流されていく。
さっきから思っていたが、ラセミスタはどうやら、人混みを歩くのに慣れていない。思い至ってみれば、当然なのだろう。マリアラだってこんなに暗い中、大勢の人を縫って歩くなんて、お祭りの夜くらいにしかやったことがない。ラセミスタは生まれて初めてかもしれない。マリアラは慌てて後ろに戻り、流されていくラセミスタの手を探し当てて掴まえた。
「ひえっ!?」
「ラセミスタさん、こっちだよ」
ラセミスタの手は、びっくりするほど冷たかった。魔法道具を撃つのにたくさん魔力が要った、と言っていたから、それでかもしれない。ぐっと引くと、ラセミスタの顔が見えた。彼女はマリアラを見て、心底ホッとした表情を見せた。
「ちょっと我慢していてね。手を放すと、はぐれちゃいそうだから」
断ってマリアラはラセミスタの手を握ったまま、再びヴェガスタの背を探して歩き出した。冬まっただ中の【魔女ビル】医局受付ホールだってこんなに混んではいないだろう、と思うほどの雑踏だった。人々は皆好き勝手に思い思いの方向に流れていくように思えるのに、ぶつかったりしないのはなぜだろう? 恐らく、この町、この道特有の不文律があるのに違いない。
ラセミスタを庇いながら必死で人混みをくぐり抜けていくと、出し抜けに、ニーナを担いでエルギンを掴まえているヴェガスタの、巨大な背中が目に飛び込んできた。
そこに、少し開けた空間ができていた。
ヴェガスタはそこに、仁王立ちになっていた。
そこはある一軒の店の前だった。軒先に篝火が焚かれていて、周囲に比べてだいぶ明るい。
ニーナとエルギンは対照的だった。ヴェガスタのもじゃもじゃの頭にかじりついたニーナは、びっくりしたような、しかし面白がるような、キラキラした表情を浮かべていた。エルギンはといえば、どう見ても引いていた。どん引き、というやつではないだろうか。
ふたりの視線を集めているのは、外れかけた扉。
扉に手をかけているのはもちろんヴェガスタ。
そしてその扉に引きずられるような形で縋り付いているのは、でっぷり太った料理人らしき男。
「……俺に飯は出せねえってのか。ああん?」
ヴェガスタは地響きのするような声で言い、マリアラは一気に状況を理解した。あああ、と思う。
「……あんたの来る店じゃねえだろうが!」
料理人(仮称)は泣き出しそうな声で喚き、
「飯くらい好きなとこで食わせろや! 金ならあるって言ってんだろうが! 今日はこの店の気分なんだよ悪いってのかアァん!?」
マリアラは深い諦念を感じた。ああこれは、あれなやつだ。果てしなく、あれなやつだ。
治安が良いことで有名な現代のエスメラルダにも、もちろん裏社会はあるそうだ。犯罪者を追い詰める保護局警備隊の活躍を描いたドラマはいつも人気があるし、フェルドもそう言うジャンルのドキュメンタリー本や雑誌を、休憩時間などによく読んでいる。先日会ったジルグ=ガストンを知ったのも、そういう本を読んだかららしい。そういった本や雑誌によると、エスメラルダの町中にある賭場では人身売買が未だに営なまれているらしいし、裏稼業のための店では、夜な夜な黒服の男たちが集い、紫煙をくゆらせながら悪い相談をするのだそうだ。
そういうところに集まるような人たちは、もしかしてこういう感じなのだろうか。黒服とサングラスに身を固め、目のわきに向こう傷のあるような人々。
マリアラが遠い目をしていると、ヴェガスタがニーナを下ろした。エルギンの腕を放して、ヴェガスタは扉を放り捨てた。がたあん! 耳を覆いたいような音を立てて倒れた扉には目もくれず、投げ出される形で倒れた料理人(仮称)に屈み込み、ヴェガスタが凄む。
「いいんだぜェ……? 明日っから開店する度に犬の死骸でも投げ込まれるようになってもよォ……草原の民がこの町にどんくらい住んでんのかちゃんと知ってんだろうなあ……? そうそう、お前には確か小せえ娘がいたっけな。十歳だっつったか、んん? 嫁入りまであと何年だ? かーわいーだろうなあお前のむす」
「わかった! わかりましたああ! いらっしゃいませええ!」
料理人(仮称)が泣き声を上げた。ヴェガスタは意気揚々と起き直り、どん引きし続けていたエルギンの腕を、元どおりしっかり捕まえた。こちらを振り返り、ニヤリとわらう。
「姉ちゃんら、行くぞ。ここの料理はうめえんだぜ」
ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
マリアラとラセミスタは小さくなって、そそくさとその空間を通り抜けて店の中に足を踏み入れた。“平和ボケ”したひ弱な現代人の感覚は、何とか麻痺させるしかない。
*
店内に入ると、煙草の匂いがむせかえるほどに濃かった。この時代には副流煙だの煙草の害だのと言った知識はまだないのだろう。煙い。
しかし、店の中は外よりは若干明るかった。店内で使われているのは篝火ではなく、ランプだ。かなり高級な店らしかった。町娘の格好をしたラセミスタたちよりも、この時代に生きているはずのヴェガスタの方が明らかに浮いている。店はほとんど満員で、座っている人たちも皆一様に身なりが整っていた。ぼろきれを身につけているのはヴェガスタだけだ。客たちは静まりかえっていた。ヴェガスタの風体が異様だからだろうか、それとも、さっきのあの気の毒な料理人(仮称)が口走ったように、“あんたが来る店じゃない”からだろうか。
しかしヴェガスタはそんな静まりかえった空気などものともせずに二人の子供を引っ張ってずかずか歩いていって、一人だけ座っていた四人掛けのテーブルまで来ると、何も言わずにその一人を見た。見て、見て、見た。何も言わない――だがその迫力は、傍から見ているラセミスタにさえ重いほどだった。無言の圧力に耐えかねて、睨まれた男はビールのジョッキだけもってそそくさと移動した。テーブルには彼の食べていた皿がまだ乗っているというのにヴェガスタは満足そうだった。ものでも扱うようなぞんざいな動きでエルギンとニーナを一人ずつ椅子の上に放り投げ、自分はその間にどすんと腰をかけた。
「飯だ!」
店の奥に向けて大声で怒鳴る。
「急いでもってこい! じゃんっじゃん持ってくるんだ! 俺の客人を待たすんじゃねえぞ!」
この店にも、かなり有能な従業員が揃っているらしい。わらわらと奥から出てきた従業員たちはあっという間にテーブルを片付け、マリアラとラセミスタが座れるよう椅子を増やしてくれた。さっき追い払われた気の毒な男の人の前にも、新たなビールのジョッキとおつまみの皿が運ばれている。ヴェガスタはエルギンの座る椅子の背もたれに丸太のような左腕を回してふんぞり返り、彼らの働きぶりを満足げに眺めている。
「別に手入れじゃなさそうだな……」
「つーか出てったんじゃなかったのかよ……」
ラセミスタの背後で、ひそひそと囁きかわす声がする。ラセミスタが視線をやると彼らは目をそらして黙った。どうやらヴェガスタに、あまりいい感情を持っていないようだ。
「姉ちゃんら、座んな」
低い声で促され、ラセミスタはとりあえず頷いた。
エルギンは“どん引き”でありマリアラもかなり引き気味であったが、ラセミスタはそこまでではなく、なんだか面白くなってきていた。この時代の人は皆“これが終われば二度と会わない”人だから、ラセミスタにはもはや恐れる対象ではなくなっていた。無理に仲良くならなくていい――マリアラが教えてくれたその単純な事実が、全てにおいてラセミスタに力を与えてくれる。仲良くならなければ、嫌われないで済む。幻滅されなくてもいいし、嘲笑される心配も、しなくていいのだ。
マリアラがゆっくりと椅子に座り、ラセミスタも座った。煙草の匂いにも少しずつ慣れてきて、美味しそうな匂いがわかるようになってきている。
ランプがあるとは言え人の顔を識別できるほどの明るさではないからか、それともエルギンがこの町を出てから三年経っていると言うタイムラグのせいか、周囲の人々の中でエルギンの正体に気づく人はいなさそうだ。ヴェガスタは身を乗り出してラセミスタとマリアラに訊ねた。
「何にする? こいつらはもちろん、あんたらにも酒はまだちっと早いみてえだが、なに、ここは飯も旨いんだぜ。俺の奢りだ、心配すんな、金はいくらでもあるんだ」
じゃりん。
さっきも見せた革袋がまた出てきた。相変わらず重そうだった。これが、財布の代わりなのだろう。
と、マリアラが慎重な口調で訊ねた。
「山賊って……儲かるんですね」
「……」
ヴェガスタは一瞬目を丸くしてマリアラを見、それから、ぶはっ、と吹き出した。
「そーだ! そーそーそー、そーなんだわねーちゃんおっもしれえなー!」
何が。
ラセミスタとマリアラは顔を見合わせた。何が面白かったのか、さっぱりわからない。
ヴェガスタはまだ笑いながら、懐を探ってさっきのワンピース(になるはずだったもの)を取り出した。ころんと針刺しが転げ出て、それをずいっとこちらの前に出してみせる。
「こいつはいらねえ。だがこの布は欲しい。やっと商談だ。あるだけ全部俺に売れ。他にも何枚か持ってんな? 嘘つくんじゃねえぞ? いいか、さっき買った服全部とここの飯代で、これ一枚分だ」
ラセミスタとマリアラはまた顔を見合わせた。服六枚と四人分の食事が、あのぼろぼろの布一枚分?
「た、高すぎないですか」
「おいおい。こんなべらぼうな手触りの布、安売りすんじゃねえよ。何枚持ってる? 誰が作った? どうやって作るんだ?」
「それはその、わたしも作り方は知らないです」
「隠すとためになんねえぞ。針持ってたじゃねえか」
話している内にビール(たぶん)が運ばれてきた。他の四人の前に置かれた木のコップはどうやら水らしい。ヴェガスタはためらいなくビールをぐいっと飲み、ニーナが自分のコップに口を付けた。マリアラはヴェガスタの髭に付いた泡の辺りに向けて言った。
「あなたはそのお酒を飲みますが、自分で作れるんですか?」
「ああ? ……んー」
「お金もたくさん持っているけれど、その硬貨の、作り方を知っていますか?」
「ん、んー」
「わたしたちも同じです。あの布は持っていますが、作り方は知りません。ええと、あの布は、服の形になっていて、五枚くらいはあります。同じくらいの大きさのものが二枚と、もっと大きなものが三枚、だったかな。今ここでは出せませんが」
交渉が始まった。ラセミスタは全部マリアラに任せて、黙って成り行きを見ていた。巾着袋の中にはもっとたくさん入っているはずだ。【毒の世界】に落ちる人はほとんどの場合数人だけれど、二十人分の救助物資を携帯することが義務づけられている。一度に全部差し出すよりも、交渉のカードを残しておこうとしているのだろう。一枚でこれほど破格の値段をつけたのだから、五枚だって、充分な額の現金を集めることができるはずだ。
木のコップに口を付けると、それはただの水ではなく、爽やかなレナンの風味がした。味を感じるほどではないが、香りだけでも十分美味しい。ずっと喉が渇いていたらしい、ということに今さら気づいて、ラセミスタはそれを一気に飲み干した。とても美味しい。
「んんー」
ヴェガスタはしばらく考え、うん、と頷いた。
「どこで出せる?」
「このお店を出たら。わたしたち、その、行かなければならないところがあるんです。商談が済んだらおいとましますから、その時に」
ヴェガスタは声を低めた。「王宮に入るつもりなんだな? よしよし。送って行ってやる」
マリアラは一瞬言葉を切った。
すぐにまた継ぐ。
「……それには及びません」
「そうはいかねえ。こんな手触りの布を持った嬢ちゃんたちだ、そりゃあ、色んな輩に目ェつけられんのも納得だ。さっき、襲われそうになってたじゃねえか。子供が四人でふらふらしてちゃ物騒だ。俺様が送ってってやるよ」
確かに他に取る手はなさそうだ。王宮に飛んでいくことができず、エルギンの祖父の家にまっすぐ向かうこともできないなら、誰かに連れて行ってもらうしかないし、ヴェガスタがいなくなったらすぐにヴァシルグが襲ってくるのではないかと思うと気が気ではない。
しかしマリアラはすぐには頷かなかった。
「ご親切なお申し出ですけど、山賊って、いつもそうやって獲物を捕まえるのでは――」
ラセミスタはギョッとした。案の定、ヴェガスタが凄んだ。
「ああ!?」
「いっ、ぱん、ろん、です」マリアラは咳払いした。「あなたがそうすると言ってるわけじゃないですよ。でもあなたは、山賊なんですよね? そう、そう、言いましたよね? 知らない男の人についていってはいけませんって、子供の頃から言い聞かされてる、ん、です」
マリアラが緊張しているのが、痛いほどに伝わってくる。
彼女は必死だった。平静な顔を保ったまま、必死で立ち向かおうとしていた。ラセミスタは気を引き締めた。そうだった。暢気に水など飲んでいる場合ではないのだ。エルギンとニーナは命を狙われている。ヴァシルグ以外にも、そういう人間がいるかもしれない。ヴェガスタが味方だなんて保証はどこにもないのだ。
「……山賊は信用ならねえと?」
「普通、山賊は、信用しないと思います、が。わたしがその、警戒しすぎだなんて思わないで欲しいんです。一般論として、普通、山賊は、信用ならない人種です。そうでしょう? ……自分で山賊だと名乗る人に、はいはいって付いていく人間は、あんまりいないと思います」
「んんー……」
ヴェガスタは顎に手を当てて思案した。この人が、本当は山賊などではないことはわかりきっている。マリアラは言外に、山賊なんて嘘はもうやめてほしい、そうじゃないと信用できない、と言っているわけだ。
ヴェガスタにもそれがわかったらしい。髭を撫でながらしばらく考えている。その間に次々に料理が運ばれてきた。スパゲッティらしいもの、魚の唐揚げらしいもの、パイのようなもの、サラダらしいもの。ヴェガスタは思案しながらも取り皿にどんどん盛り分けて、子供たちの前に、だん、だん、と置いた。それからラセミスタに、最後にマリアラの前に置く。
「……まあ食え。腹減ってんだろ」
「……」
ニーナが手を出そうとし、エルギンがさっと手を上げた。待って、と身振りで言われてニーナが止まった。ヴェガスタはエルギンを見、はああああ、とため息を漏らす。
「んんん……いいかい、お坊ちゃんよ。この店で俺は、名乗るわけにゃいかねえんだよ。この店はな、その、色々と……噂があってだなあ……俺が名乗っちまうとだな、俺は、この店を取り締まらなきゃいけねえ立場なわけよ。わかるか」
「反マーセラ思想の方々の集まりやすい店なんですね」
「はっきり言うんじゃねえよ」ヴェガスタは声を潜めた。「まあそのう、とあるどっかの神官兵が大挙して押し寄せ、この店を包囲してだ、誰かをとっ捕まえようとしたとするわ。そしたらこの店の従業員とか客たちとかは、神官兵に大っぴらに立ち向かうことはなくてもだ、その誰かを裏口から逃がすくれえのことは……するんじゃねえかな、と、期待できる店だ。だからこの店の飯も絶対に大丈夫だ。店主はバカじゃねえからな」
それなら、食べても大丈夫かも知れない。
ラセミスタはそう思った。エルギンもそう思ったらしい。育ち盛りの少年の胃袋が、このご馳走を前にして悲鳴を上げているのが傍から見てもわかる。じゃあ――とエルギンが口を開きかけた。
その時だった。
「なんだあんたあああ!? おいこらあっ、もう勘弁してくれえ!」
さっきの気の毒な料理人(推定)の声が、直されたばかりの扉の向こうで上がり――
めき。
再び扉が破壊された。ラセミスタは思わずぞっとしたが、戸口から入ってきたのはヴァシルグではなかった。
すらりと背の高い、やせ形の男だった。