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魔女の遍歴  作者: 天谷あきの
魔女の冒険
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第三章4

「……今更だけど、エルギン。王宮に向かわないで、直接スメルダさんのお宅に行くというのは、ダメなの?」


 ずかずか歩くヴェガスタと、その肩の上にちょこんと乗ったニーナを見ながら、マリアラがエルギンに訊ねた。

 ラセミスタも、それは確かに一理ある、と思った。ヴェガスタの言葉を聞いた今では、あの乗り物に乗ってエルギンの母のいる塔に向かうというのは現実的ではないような気がする。確かに、あそこは王宮である。考えてみたら、この国で一番厳重な警備がしかれているはずの場所ではないか。いかに千年前だとは言え、片手弓のような武器もあるし、火薬が使われていないという保証なんてどこにもないのだ。空を飛んで近づいたら絶対に攻撃されるし、エルギンのお母さんに会う前に撃墜されては元も子もない。門も通れない――戸籍も通行証もない――秘密の通路なんて知る由もない、それならば、ヴァシルグの待ちかまえる王宮をわざわざ目指すよりは、最終的な目的地である、スメルダという偉い貴族の領地を目指した方がいいような気がする。


 エルギンはなにやら考え込んでいたようだが、マリアラの声に顔を上げ、そっと首を振った。


「僕は祖父と面識がありません」

「そうなの?」

「幼い頃には会ったと思いますが。戸籍も、身分を証明するようなものも、持ち出せませんでした。祖父が僕を見てわかるとは思えないですし、そもそも祖父の所までたどり着けるとも思えません。王子の身分を騙って財産をせびりに来たと思われて投獄される事態は避けたい」

「……そっか……」

「こうなった以上、ヴェガスタの手を借りるのが一番のような気がしますが……ヴェガスタの本心がわからないのが不気味で。僕もイーシャットもずっとルファ・ルダにいたので、最近のアナカルディアのことは何もわからないんです。あれほどアンヌ様に重用されていたヴェガスタが、なぜあんな風体で……」


 そう言って、エルギンは黙ってしまった。マリアラも口をつぐんだ。その横顔が白い。

 ラセミスタも黙って、ヴェガスタの大きな背中を見つめる。


 彼が四人をどうするつもりでヴァシルグから助けたのかは不明だったが、未だに“草原の民の王”ではなく“通りすがりの山賊”という設定を押し通すつもりだ、というのは確かだった。


 ここは既にアナカルディアの城下町の通りだった。辺りは王都の繁華街だというのに暗く、ラセミスタの服装の異様さに奇異の目を向けてくる人はほとんどいなかった。その点はありがたい。


 しかし、寒い。ラセミスタは身震いをした。

 あの魔法道具を撃ってから、底冷えがするほどの寒さが続いている。衝撃だった。自分の設計した対魔物用魔法道具が、これほどに魔力を食う、ということが。


 数値では把握していた。ラセミスタは孵化していない人間としてはかなり魔力が強い方だ。いつか必ず孵化を迎えるから、それを予防しリズエルとしての才能を伸ばせるようにと、特例で孵化を抑える処置をなされたほどだ。その豊富な魔力量をもってしても、ただの人間に過ぎないラセミスタには、あの魔法道具を撃てるのは五回が限度だと、ちゃんとわかっていたけれど――


 魔力の急激な消費が身体にもたらす影響についても、把握していたはずだ。体温の低下、頭痛、目眩、吐き気に倦怠感。今回はまだそこまでの症状は出ていないが、それにしてもこの気だるさはどうしたことだ。頭の中がしびれるようなかすかな眠気――そして、この寒気。


 データでわかっていることと、実際に体験することは、こんなにも違うのか。


 痛感する。なにがリズエルだ、と思う。あたしは今まで、たくさんの魔法道具を作りながら、なんて無責任だったのだろう。なんて、なんて、身勝手な開発を続けていたのだろう。動力が外部から得られる道具ならまだしも、人の体内から生み出される動力を必要とする魔法道具の開発において、魔力消費と人体の影響についてきちんとした理解を得ておくことは、開発者の義務だったのに。机の上のデータだけでわかった気になって。誠実じゃなかった。思い上がっていた。こんなに気分が悪く心も暗くなる症状が出るなんて、ちっとも理解していなかったのだ。魔力の節約は、ぎりぎりまで消費魔力を減らすことを競うような、ゲーム感覚で取り組むべきテーマじゃなかった。もっと切実で差し迫った、現実だったのだ。


 その時。


「邪魔するぜ!」


 ヴェガスタが出し抜けに言い、一軒の家――固く戸が閉まっている――を蹴り開けた。

 があん! 派手な音を立てて扉が開いた。

 中からは明かりが漏れていたが、既に店じまいが済んだことは明らかだった。店主が慌てふためいて走り出てきた。どうやら食事中だったらしい。


「な、なん――なんだあんたあ!?」

「娘二人分と、子供二人分の服を買いてえ。フツーの街娘と街の子供が着るようなやつだ」

「もう店じまい……ひいっ」


 店主がなにをどうされたのかは、ラセミスタからは暗すぎて、それからヴェガスタの巨躯に隠れて見えなかった。店主がひきつった声を上げ、ヴェガスタがぐっと店主に顔を近づけた。


「――」


 何を言ったかも聞こえない。内緒話はしばらく続いた。時折店主が「えっ」とか「ひっ!?」とか「そんな!!」とか、声を上げたのは聞こえた。

 しかし店主はやがて、商売人らしいしたたかさを取り戻した。


「……仕方ねえですね。少々高くつきますよ」

「選んでやってくれ」


 ヴェガスタは言いおいて身を引いた。その向こうから店主が出てきた。

 草原の民だというヴェガスタよりもずっと、その店主は普通だった。

 もし彼にスーツを着せてアタッシュケースを持たせたら、【魔女ビル】を歩いている元老院議員やその秘書たちと、何ら変わらない外見をしていた。本当に、ごく普通のおじさんだ。そのことにラセミスタは、少々衝撃を受けた。


「娘さんがおふたりと、男のお子さん――と言ってももう結構大きく……」


 そう言って店主は一瞬目を閉じた。拳を握って、自分の胸をひとつ、叩くような仕草をした。


「大きくなられましたな。それから、か、かか可愛らしいお嬢さんおひとり、しめて四人分、と。街娘が着るような――流行りの装飾なんかは。今は裾にこう、優雅な襞をたっぷり持たせたのが裕福な人の間なんかでは喜ばれるようです、偉い方の前に出るにも――あと帽子とか」

「そう言うのはない方がいいんじゃねえかな。こっちの嬢ちゃん見てみな」


 そう言ってヴェガスタは出し抜けに、ラセミスタの背をぐっと押した。


「ひゃっ!?」

「ただでさえ目立つだろ。な」

「ははあ、これはこれは……」


 店主がしげしげとラセミスタを見、ラセミスタはもじもじした。ラセミスタは幼い頃からとても可愛い子供だと言われてきた。クラスの女の子たちがラセミスタを攻撃したのは、どうやらそういう意味もあったらしい。それから、初めての女性リズエルが容姿で選ばれた、と匂わせる記事を書かれたこともあったので、ラセミスタにとっては却ってコンプレックスである。


 店主は頷いた。


「承りました。しかしこれから……あんまり失礼になるような格好というのもまずいんじゃありませんか」

「そう言うのは気にしねえから、あの娘っ子は」

「気にしねえのはあなたでしょう」店主は呆れたようだった。「それに先様がお気になさらねえでも、ご本人様たちがお気になさるでしょうに」

「そういうもんかね」

「そういうもんです。いいです、わかりました。お代に糸目をつけないとおっしゃったんですから、二着ずつお買い上げいただきましょう。ル……ええその、そちらの、かか可愛らしいお嬢さんは、街歩き用はそのお召し物で問題ありませんでしょうから……」


 言いながら店主は左の指先をうねうねと動かした。まるで祈りの印を空に切るような仕草。

 店主は先ほどからずっと、ニーナに目を向けなかった。ニーナの服をちらりと見たときも、急いで視線を外した。まともに見たら目がつぶれるとでも、思っているかのように。


「先様にお目にかかる時用の、あと靴を。殿……坊ちゃまの方は街歩き用のを一着で。それで娘さんお二人には、お体にあった大きさのものをひとつずつ。おーい」


 店主は振り返って奥に向かって呼びかけた。

 そこには五つの頭が覗いていた。みんな若い少女のようだった。彼女たちは一瞬さっと引っ込んだが、店主が続けた声にまた頭を出した。


「お客様だ。粗相のないように。みんなきびきび働きな!」

「はいっ」


 明るい返事と共に少女たちがわらわらと出てきて、ラセミスタは思わず後ずさった。みんな同じ年頃の、みんな明るい顔をした少女たちだ。想像していたよりずっと身綺麗だ。店主がてきぱきと指示を出し、ラセミスタとマリアラ、ニーナとエルギンは、あれよあれよと言う間に店の奥に連行された。


 みんな食事中だったようだ。おいしそうなにおいが残っている。しかし既に食器や食べ物はきれいさっぱり片づけられていた。どうやらそこは、採寸所、兼、作業所らしい。


 奥にはしわしわの老婆が待ちかまえていた。店主が老婆に何事かを耳打ちし、急ぎ足で奥に向かった。老婆が手招きし、ラセミスタが一番にそこに連れて行かれた。老婆は目尻を下げて丁寧な会釈をしてから、ラセミスタを上から下までしげしげと見た。うん、と頷く。と、控えていた少女が丁重な手つきでラセミスタの体をくるりと回した。背中側をまたしげしげと見られ、うん、と頷く。


「右下の左から七番目、右上の左から五、それか八。選んでいただきなさい」

「畏まりました」


 少女が明るく返事をして、ラセミスタを次にカーテンで仕切られた向こう側に連れて行った。もうひとりの少女がすぐさま三着の服を持ってきた。ニーナが着ているものによく似たワンピース、それからもう二着は、ドレスと呼ぶべきものだ。自分一人で着られるが、裾にふんだんにドレープが入れられている。エレガントである。色合いは濃い群青色、それから深い緑色。どちらもとても趣味がいい。


 ラセミスタは困惑した。ここは本当に過去なのだろうか?


 確かに街は暗い。でも意外に清潔だった。【暗黒期】の前だと言うから少々覚悟していたのだが、少なくとも汚物が窓から捨てられていたような時代ではないらしい。街の人々もみんな入浴の習慣があるようだし、店の中は清潔できちんとしていて、食べこぼしなども見られないし、夏の盛りのようなのに埃っぽくもぜんぜんない。極めつけにはこの服。ドレスは別としても、もう一着の方も決して、ヴェガスタの着ているようなぼろ布ではないのだ。“街娘が着るような”という注文で出されたのがこれなら、この時代の生活水準はかなり高い。ひょうたん湖の辺りで襲ってきた兵士たちの制服は、大量生産のために粗が目立ったのかも知れない。


 もしかして、この時代にも既に魔法道具があるのだろうか。

 お湯を沸かすために大量の木材を消費しなければならない時代は、既に終わっているのか。


 もちろん明るい日の光の下で見たら、ミシンで作ったものに比べれば粗があるのかも知れないけれど。


「青と緑、どちらがお好みですか?」


 少女に明るい口調で聞かれ、ラセミスタは思わず素っ頓狂な声を上げた。「ひえっ!?」


「お気に召しませんか? 別のお色がよろしければ、承りますが――」

「え、い、いえいえいえ! どっ、どっ、どちらが……その、その、その」


 その時、マリアラの言葉がぽつんと浮かんだ。


 ――仲良くならなくても構わないよ。


 思い出した瞬間に、すうっと重しが取れた気がした。そうだ、そうだった。この人は同い年くらいの少女だけれど、仲良くなれなくても構わないのだった。だって初対面だし服屋さんだ。服を選び終えてこの店を出たら、二度と会わない人なのだ。


 大丈夫。仲良くならなくていいのだから、拒絶される心配もない。――何も、怖くない。


「……どっ、ちが、……似合うと、思いますか?」


 訊ねると少女は、いかにもプロらしく、頷いた。


「さようでございますね、どちらもお似合いかと思いますが、特にこの濃い青。お客様の髪の色に、とてもよく映えると思います。縫製もしっかりしていますし、着心地も悪くないかと思いますけれど」

「そ、そうですか。じゃあこれにしてください」

「畏まりました」言って彼女は、いたずらっぽく笑った。「……それあたしが縫ったんです。選んでいただいて、嬉しいですわ」





 全ての買い物は拍子抜けするほど簡単に終わった。街娘の服に着替えさせてもらい、編み上げの靴も選んでもらったから、外に出てきたマリアラを見て、ラセミスタは一瞬、服屋の娘が見送りに出てきたのかと思ったほどだ。二つのお下げを結い直されたマリアラは、すっかりこの時代になじんでいる。

 この時代の服屋を見学したのだ、きっと大喜びだろうと思っていたのに、出てきた彼女の表情は未だに暗い。どうしたのだろう。


「ありがとうございました! またどうぞ!」


 店主と五人の娘に見送られ、一行は夜の街に出た。そこかしこから、いい匂いが漂ってきている。


「じゃー次は飯だな飯ー」


 ヴェガスタは上機嫌だ。酔客の増え始めた街を、大股でのしのしと歩いていく。道路は石畳だ。轍の跡がついている。轍の跡だ、と、ラセミスタは思った。馬車があるのだ。


「……あの」


 声をかけるとマリアラは、はっとしたようにこちらを見た。「え、ごめん、……聞いてなかった」


「ああ違うの、今初めて話しかけたの。あの……すごいね、この街。ほら見て、王宮が見える。地面に轍の跡があるの。つまり馬車があるし、服とかは手縫いだけど、結構清潔だし、みんな頻繁にお風呂に入ってる……お湯沸かす魔法道具が既にあって、一般家庭に備え付けられてるって、ことじゃない? でもそれなら、町中に光珠設置してても良さそうなものだけど、そっちが発展しなかったのはなんでだろ。そうそう、それにトイレも。大昔は窓から投げ捨ててたから町中臭かったって何かで読んだ記憶があるんだけど、トイレってどうなってるんだろ」


 マリアラは穏やかな声で答えた。


「窓から投げ捨ててたのはアナカルシス文化圏の歴史じゃないと思うよ。アナカルシス文化圏にはね、水洗トイレには二千年以上の歴史があるんだよ。衛生観念の発達はね、地域によって差があるんだけど……海沿いの方が発展が早いの。エスメラルダでは水洗トイレと下水処理設備はごく早い段階で確立しただろうって言われてる。アナカルディアは海から遠い分、もう少し遅れたかも知れない」


「海に近い方が……? 汚物をその、海に流せたから、ってこと?」

「ううん、違う。……ああ、でもそれも正解なのかも。汚物がそのまま海に流れ込むのを人魚が嫌ったの、だから」


 ラセミスタは思わず声を上げた。「ああ!」


「人魚の住処に近ければ近いほど、衛生観念の発達も早いの。赤ちゃんを産湯に入れたのも、産後に全部きちんと、赤ちゃんだけじゃなくてお母さんの方も全部綺麗にするとかも、同じくらい早く浸透した。特に衛生観念は、レイキア大陸に比べたら目を見張るほど速かった。水は漉してきれいにして飲まなきゃいけないとか、動物の肉と川魚は加熱した方がいいとか、腐ったものを食べてはいけないとか……少なくともアナカルシス文化圏は人魚の影響を色濃く受けてるの。このあたりには、人間の黎明期に、まるで赤ちゃんを導くように、いろいろと教えてくれた人魚がいたんだと思う」


「へえええ……。今じゃ人魚は人間と関わらないし、ほとんど伝説みたいに思っていたけど、そっか、この時代はもっと人魚とかに近いのかもね。ふうん。衛生に関係するから、必要に迫られたから、お湯を沸かす魔法道具の作り方は教えてくれたけど、光源を確保する方は、人間の成長に任せたってことなのかなあ。衛生にはあんまり関係しないもんね」


 なんとかマリアラに元気を出して欲しくて始めた話だったのに、ラセミスタの方が面白くなってきた。魔法道具の基礎の基礎も、人魚からもたらされたという仮説がある。ラセミスタは今まで魔法道具の新作を作ることにばかり注力してきたけれど、魔法道具の発展の歴史について調べるのも、なかなか面白いかも知れない。新しい発見があるかもしれないし。


「長い歴史の中で、魔法道具は便利に複雑に発達しすぎて、なんか、あたし、基本がわかってないような気がしてたんだよね」


 思いつくままに、ラセミスタは話した。マリアラは黙って聞いている。エルギンとニーナはヴェガスタに、面倒だからはぐれんなよ、と手を取られて歩いていた。ラセミスタとマリアラは、その後を並んで歩いているという格好だ。がやがやと行き交う人たちの喧噪に紛れるように、ラセミスタは言葉を継いだ。


「人間が生きていくのに絶対に必要なものは何なのか――光は必須だと思っていたけど、少なくともなくても死なない。でもお湯を沸かす熱源は、なかったら細菌やウィルス、病気の蔓延を引き起こしかねない、だからこっちは必須。真冬に暖を取れなかったら死ぬかも知れないから、熱源は必須……ああでもこれは、お湯を沸かすもので代用できるか。他に……」


「!」


 出し抜けにマリアラが腕を伸ばしてラセミスタの肩を引き寄せた。


 引き寄せられたラセミスタが一瞬前までいた場所を、大柄な男が行きすぎていった。酒の匂いがぷんと鼻をつく。全く見えなかった。ぶつかったらかなり痛い思いをしただろう。

 ラセミスタはマリアラを見上げた。


「あ、ありがとう……」

「ここは暗いから」


 マリアラは呻くように言った。ラセミスタの肩にまだ回されている右手が、小刻みに動いた。

 ラセミスタは驚いた。震えてる。


「ど、どうしたの……?」

「暗すぎて、風も水も呼べない。あの人がマーセラ兵を呼ぶと言ったでしょう、だ、だから……」

「あの……?」

「ごめんなさい」震える右手が、そっと離れた。「さっきもあの人を、止められなかった。凍らせたはずなのに、凍らなかった。さっきあなたが、し、し、死んだかと、思って。怖かっ……」


 あの人――ヴァシルグの、ことだろうか?


 唐突にラセミスタは、マリアラの恐怖を理解した。

 ヴァシルグは去ったが、完全に排除されたわけではない。また戻って来て、夜明けまでには殺す、というようなことを、エルギンに言った。自分の真上に振り下ろされようとしたあの刃を止めたのはヴェガスタで、彼がもし現れなければ、自分は今頃ここにいなかった。


 もしあの振り下ろされた刃の下にいたのが、マリアラだったなら。

 夜がとても暗いこの時代に、ひとりで、たったひとりで、取り残されてしまったら。


「……リズエル的観点から申し上げますと」


 言うとマリアラがこちらを見た。「え?」


「魔力の流れには向きがある。普通の人間は体という殻の中にきちんとその魔力が収まってる。でもある時その殻が破れて魔力の渦が外に自由に出られるようになる。それを孵化と言い、魔力の渦を自由に身にまとうことができるようになった人間を、マヌエルとか魔女とか呼びます」


「……うん」


「その渦は人によって右向きに渦巻いたり左向きに渦巻いたり、あるいは右と左の混合だったりするんだけど……あのね、生きとし生けるものの体内には絶対に魔力がある、と言われているんだけど、つまり植物とか虫とかバクテリアとかも、量の大小はあるけどみんな魔力を持っているってことなんだけど、動物だけじゃなくて植物もそうなの。植物だけじゃなくて、海にも、空気中にも、大地の中にも、微量にある。でね、そういう魔力はおおむね、左巻きに流れようとする作用があるらしいんだ」


 マリアラの真面目な相づちが聞こえた。「そうなんだ」


「そうなんだよ。だから治療ができるのは左巻きだけなの。自然に沿って、促す、力だから。

 だから――自然に沿う、という左巻きの魔力を持って生まれた以上、あなたの力は、誰かを傷つける方には働かない。それはあなたが悪いからでも怠けているからでも力が弱いからでもない。ただそうである、というだけの話。努力や根性でどうにかなる話じゃないの」


「……」


「それは事実だから、しょうがない。そのために右巻きがいる。今はいない、だから、その代わりをするのはあたしの役目であって、あなたの役目じゃない」


「……」


「……でも正直なところ、あたしも怖かったよ」


 白状すると、マリアラは頷いたようだ。


「当然だよ」


「うん……でも殺されかけたのが怖かったのとは、ちょっと違う。なんか、そっちは現実味がないというか……あたしが怖かったのは、攻撃用の魔法道具を使ったことによって、あたしの体内の魔力が顕著に減った、ということ」


 ラセミスタはさっき使った筒を、ポケットから取り出した。元の大きさに戻して、握りしめる。


「……あたし人間にしては結構魔力が強い方なんだけど、やっぱり孵化してないから……魔力を閉じ込めている殻が、破れてないから、やっぱり魔女用の魔法道具を使うのは大変みたい。あたしの体内から出た魔力は殻を通り抜けるのに苦労して、大部分が魔法道具以外の部分で消費されちゃうんだよ。だから」


「そっか……」


「あなたの方が、この魔法道具を連射できる。だってこれは一ツ葉の左巻き用に設計された、対魔物用魔法道具だからね、ひと晩中でもお客さんを守れるように設計してあるからあなたの魔力なら三十回は撃てる。あたしね、フェルドの代わりにあなたを守らないとって思い込んで、ちょっとその、思い上がってたわけじゃないんだけど、自分ひとりでどうにかしなくちゃって、思ってた気がする。もともとこの巾着袋はあなたのだし、あなたが使うように設計されてるんだから……だから今度は、これを使って下さい。さっき思いつかなくてごめんなさい」


 言いながらラセミスタはそれをマリアラに渡した。うぅ、と、マリアラが呻いたのが聞こえた。

 ラセミスタは微笑んだ。ずっと寒くて重かった魔力の足りない体が、すうっと軽くなったような気がする。


「あたしはあたしにできることをするよ。巾着袋の中に入ってる対魔物用の魔法道具はこれだけじゃない。いっぱい入ってるの、その使い方もコツも安全性も組み合わせ方も、全部知ってる! 魔力量も把握してるから、あとどれくらい使ったら魔力補充薬を飲んだ方がいいかとかも、チェックするから! だから――」


 ニーナが言ったことはこれか。

 今さらラセミスタは思った。


 ――ひとりで考えてちゃダメよ。話し合って、いいところはうんって言ってダメなところはダメって言って、みんなで一緒に考えればいいのよ。


 確かにそうだ。自分ひとりだけでできることは少ない。対魔物用魔法道具はあと三回しか撃てない。三回撃ったら倒れてしまい、きっとヴァシルグに剥製にされてしまう。


 でも、ふたりだったら。

 ひとりじゃなくて、一緒に、協力し合えば、きっと。


「……だからあなたも、自分ひとりだけで、みんなを守らなくちゃって思わないで。一緒に……」


 ラセミスタは咳払いをした。

 ふたりなら、きっと、何でもできる。


「一緒に、あの部屋に帰ろう? それで、それで、挨拶から始めるんだもん、ね」

「……うん」


 マリアラは頷いた。薄暗がりの中でもそれが見えた。筒を胸に抱き締めるようにして、マリアラは照れたように笑った。


「一緒に帰ろう、ラセミスタさん」


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