第三章3
ヴァシルグはかすかな笑みを浮かべながら、殊更にゆっくりと、彼らの前に立った。
やはりひょうたん湖の畔で見た、あの男に間違いなかった。背の高い、有能そうな男だ。痩せ型ではあるが、みっちりと中身が詰まっている感じがする。マリアラは巾着袋の中から武器を取り出すのはラセミスタに任せて、川の水をいつでも呼べるように意識を研ぎ澄ませた。
ヴァシルグがどうやって追いついたのか、わからないのが不吉だった。何か得体の知れない手段で追いつかれてしまったのだとしたら、このまま逃げても意味がない、気がする。ここが“過去”だから、侮ってしまった感は否めない。一番速い乗り物は馬だろうと思い込んで、対策を怠っていたかも知れない。
日暮れまであと少しだ。もう少しだけ時間を稼ぐことができたら、あの乗り物でアナカルディアの上空を飛んで、そのまま王宮に飛び込んでも、まあまあ騒ぎにならない時間になる。
「……ここにどうやって来たんですか」
訊ねてみるとヴァシルグは、口元を綻ばせた。薄い唇の隙間から白い歯が覗いたが、返事はなかった。
エルギンが、囁いた。
「馬に乗ってきました。もう、死んでいる馬」
「……死ん、で……?」
「何か黒くて小さなものが馬を操っていたらしいです。ニーナが追い払ったら、馬は倒れて死にました」
死んだ馬に乗って追いつくなんて、なんだか怪談じみている。
しかしヴァシルグの笑みは、ひょうたん湖の畔で見た時より凄惨で、不思議に信憑性があった。少なくとも、生きた馬に乗って追いついたと言われるよりは真実味がある。
ヴァシルグが剣を構え、そして言った。
「娘がふたり。そなたらは“流れ星”か?」
――流れ星?
マリアラには意味が分からなかった。謎かけだろうか? この時代でよく使われる言い回しだろうか? しかしラセミスタはすぐに理解した。「違います」しっかりとした受け答えだ。
彼女は巾着袋から取り出した筒のようなものを右手にはめていた。ヴァシルグに向けて、宣言した。
「それ以上近づくと撃ちます。対魔物用魔法道具の威力を食らいたくなかったら、回れ右して帰りなさいっ!」
「ほほう――」ヴァシルグはニタリと嗤った。「大きな口を叩くではないか、小娘。見ればなかなか小綺麗な顔立ちをしている。生皮剥いだ内側も変わらずに綺麗かどうか、確かめるのが楽しみだな」
マリアラはぞっとし、ラセミスタは震え上がった。
「変態の台詞だよそれ!」
「それとも剥製にするかな。血抜きし丸洗いして内臓を抜き、代わりに樟脳を詰めると言うが、うまくできるかやってみようか。いらぬ内臓はそうだな、ぶつ切りにして粉をまぶしてこんがりと揚げてやろうか、小娘」
「どうしよう、ガチな人だ……!」
「もうひとりの方はどうするか。飾って楽しいほどの見目でもなし、逃げられぬように足を落として――そうそう、いろいろと聞き出さねばならんのだった。エルギン王太子が今元気でぴんぴんしておる理由について――確かに殺したはずだ。私がこの手で撃った。手応えもあった。なのに」
いきなりだった。表情も変えず声も変わらない、なのに目だけがぐるんとひっくり返ったような気がした。
「――私の仕事を無為にしたのはどちらだ」
――!!!
「はははいぃっ!」ラセミスタがびしっと手を挙げた。「あたしです! あたしが治しました!」
「え、ラセミスタさ――痛ぁっ!?」
出し抜けにラセミスタに足を踏まれた。びりびりとしびれる痛みに息を飲んでしまう。
「ああっごごごめんやりすぎた、痛かった!?」
「そうかそうか、そなたの方か」
くくく――
ヴァシルグの笑みの色が違う。痛さに滲んだ視界の中で、ヴァシルグだけがくっきりと見える。
「よしよし。剥製にする前に喉がつぶれるまで叫ばせてやろうな」
「断じてお断りです!」
どん。
ラセミスタの右手の筒が、光を噴いた。
光は尾を引きながらヴァシルグに向け、一直線に襲いかかった。ヴァシルグの姿が一瞬消え、揺らいでまた、現れた。どしっ、ヴァシルグが地を蹴った音が遅れて大地を揺るがせ、ラセミスタがもう一度撃った。どん――ヴァシルグが剣を一閃。光の弾が逸れて斜め下に着弾する。ヴァシルグがラセミスタに迫り、ラセミスタが引きつった声を上げた。
「ひ――」
横からエルギンがヴァシルグに斬りかかった。ヴァシルグはほとんど意にも介さずにその剣を弾きエルギンの腹に膝蹴りを入れた。
「エルギン!」
マリアラは水を解き放った。一抱えほどの水球が続けざまにヴァシルグに襲いかかる。
着弾の寸前に、覚悟を決めた。
人を傷つける覚悟。
命を奪うかも知れない覚悟を。
凍って。
マリアラの願いに応じて水球は、ヴァシルグにぶつかる寸前に凍った。ヴァシルグが大きく下がり、一瞬前までいたその場所に氷の弾が撃ち込まれる。ばしゃん、シャーベット状の水球が破裂した。
遅い。
もう一度。
マリアラは川から再び水を呼んだ。地を這うように水がざあっと押し寄せる。マリアラの稼いだ時間は一瞬だったが、その間にラセミスタが体勢を立て直した。エルギンもよろめきながら立ち上がる。
と。
「動くな」
ヴァシルグの低い声が言った。
いつの間にか、片手弓を持っていた。
エルギンがひゅっと息をのんだ。たぶん、エルギンの背に突き立てられた矢を撃ったものなのだろう。ぎらぎら輝く矢の先が、こちらを向いている。
「エルギン、下がって」
声をかけるとエルギンは、ふるふると首を振った。痛みと恐怖で引きつった横顔。
「この事態を招いたのは僕ですから」
「人の上に立つ者は」ヴァシルグが穏やかな声で言った。「人を盾にし、その後ろで見ているものです、王太子殿下。誰かに戦わせ守らせ血を流させる、その代わりに、それらの痛みや苦しみを理解し引き受け、全てにおいて責任を持つのが役割だ。あなたは甘い。そして幼い。更に考え無しで愚かで貪欲で、全てのものを諦められずに自らを危険にさらす。
ああ、あなたの側近が気の毒だ。それは私があなたを殺すからではない。あなたが上に立つ者の器量を持たぬからだ。――王家に生まれた者のそれは害悪だと、ご理解なされよ!」
ばしゅっ、と、弓が鳴った。
マリアラはとっさに水を集めエルギンの前に壁を作った。水の壁は凍りながら矢を飲み込み、突き抜ける前になんとか絡め取った。が、出し抜けにその壁が崩れた。矢を追撃する形で迫ったヴァシルグが、水の壁を切り裂いた。
「あ――」
立ちすくんだエルギンの目の前にヴァシルグが出現し、ラセミスタは砲を撃とうとして、エルギンの体が邪魔で撃てなかった。ヴァシルグが剣を振り下ろした。重いその剣を受け止めきれず、エルギンの小さな体が弾かれるように後ろに飛んでマリアラの上に倒れ込んだ。
ヴァシルグが跳んだ。
ラセミスタの目の前に。
どん。
ラセミスタが撃った弾は斜めに逸れて行った。ヴァシルグが愉悦の笑みを浮かべて剣を振りかぶる。
マリアラは悲鳴を上げた。
彼女の脳を目駆けて、ヴァシルグの剣が襲いかかる。
「ラセミスタさん――!」
「動くな」
低い声が、ヴァシルグの動きを止めた。
マリアラは急いで立ち上がった。ヴァシルグの剣は、尻餅をついたラセミスタの頭上で、止まっていた。木々の向こうから、蓬髪の巨大な男が現れていた。
山賊の親分だ、と、マリアラは思った。
さっきざぶざぶと川を歩いてきたあの地獄耳の大柄な男が、斧を構えている。
ただの山賊じゃなかった。斧を構えるその体勢には一分の隙もなく、マリアラの目から見ても、怖ろしい程の殺気を放っている。ヴァシルグが無視することができないほどの、威圧感。
「これはこれは」
動きを止めたまま、ヴァシルグが相変わらず穏やかな声で言った。
「こんなところで何をしている。尻尾を巻いて草原に帰ったんじゃなかったのか、ヴェガスタ」
「人違いだ。俺ぁこの辺りを根城にしてる山賊の、親分様だぜ。すげえだろ」
「山賊ならせめて山に出ろ」
「剣を下ろせ」有無を言わせぬ口調だった。「俺様の縄張りで小せえの殺すんじゃねえ。その子に剣を振り下ろした瞬間に、この斧がお前の肩に刺さるぞ。次は首だ。どこのどなたか存じ上げねえが、名のある神官兵が、山賊ごときの斧に斃れていいのか」
マリアラはラセミスタに駆け寄った。ヴァシルグは舌打ちをしたが、動かなかった。ラセミスタの脇の下に手を入れて、ほとんど引きずるようにしてヴァシルグの前から退かせる。引きずられながら、あああ、とラセミスタが呻いた。
「こ……怖かったああぁ……」
「ごめん、ごめんね、ラセミスタさん」
口から零れ出たのは情けない謝罪の声だった。剣の届く範囲からラセミスタとマリアラが出ると、ヴァシルグは剣を収めた。忌々しそうにもう一度舌打ちをして、“山賊”に向き直った。
「もう用済みだと、王妃に言われたはずだ。未だアナカルディアに残って、何をしている」
「用済みだあ? 誰の話をしてるんだか知らねえが、人違いだっつってんだろ」
「草原に戻って馬糞でも拾ってろ。こやつらを匿えばそなたも追われるぞ」
「俺はただの通りすがりの山賊だっつうの。誰かを匿うだなんだのって、そんな面倒なことするもんか」
「……もう諦めるのですな」
その言葉は、まだ座り込んだままのエルギンに、向けたものらしかった。
踵を返しながら、酷薄な声で囁いた。
「マーセラ兵がアナカルディアであなたを追う。明日の明け方までにはご自分の無力さに打ち拉がれ、ご自分の愚かさを呪いながら死ぬことになるでしょう」
予言めいた言葉を残して、ヴァシルグは歩み去った。
森の中に静寂が落ちた。
ラセミスタが長々と息をついた。マリアラもだ。
エルギンは息をつかなかった。辺りは既に薄暗く、夜のとばりがようやく降りようとしていた。その闇の中、ヴァシルグが消えた方を見つめたまま――この国の正当な王位の継承権を持つ少年は、まるでただの幼い子供のように、ただただ無言だった。
マリアラも何も言えなかった。未だラセミスタの後ろからしがみつくような格好のまま、足から力が抜けてそこに座り込んだ。さっき、ヴァシルグを攻撃する意思を固めたはずだった――水の塊を投げつけ、着弾の寸前に凍らせるよう意思を伝えた。しかし地面に落ちた水の弾は凍りきっていなかった。ぐずぐずのシャーベット状だった。手加減などしたつもりはないし、あれがヴァシルグにぶつかりその結果彼が半身不随やもっと酷いことになったって、構うものかという気持ちで魔力を使ったのに。矢を射られたときも、あの壁が完全に凍っていたら、さすがのヴァシルグの剣も砕けなかったはずなのに。
――わたしは弱いのだ。
痛感せずにはいられなかった。
フェルドと同じ働きができるなどとうぬぼれていたわけでは断じてないが、もう少し、ちゃんとやれるはずだったのに。魔力の絶対量が足りないのだろうか。それとも、覚悟が足りなかったのだろうか。
ラセミスタが助かったのは“山賊”のお陰だ。あの人が割って入ってくれなかったら――
「ほんでー」
“山賊”が場違いなほどに暢気な声を上げた。その頃には既に、彼の顔が見えないほど暗くなっていた。ミフがニーナを乗せたままふわふわと降りてきた。その光景が見えなかったか、それとも見えないふりをしたのかはわからないが、“山賊”は明るい声で言った。
「この布は嬢ちゃんたちの持ち物だ、なあ?」
言いながら彼は、地面に落としていた布の固まりを持ち上げて見せた、ようだった。
目を凝らすと、どうやら、先ほどマリアラがワンピースにしようと縫い合わせ、“山賊”との邂逅に驚愕して落としてきたものらしい。
男はそれを広げ、しげしげと眺めて見せながら、引き続き明るい声で言った。
「こんな上等な布、俺ぁ初めて見たわ。取引しねえか、んん? これと同じもんがあればいくらでも買いてえんだが、商売する気あるか?」
――商売?
その単語のあまりの場違いさと男の声の陽気さに、ようやく、現実が戻ってくる。マリアラは身震いをした。ラセミスタが生きていることが信じられない。でも、ここであまり途方に暮れているわけにもいかない。
ラセミスタがよろよろと立った。マリアラも釣られるように立ち上がった。暗闇の中に、“山賊”の持つ斧の切っ先がキラキラと光っている。
「す、すみません。助けていただいて、ありがとう、ございます。でもわたしたち、今すぐ、行かなければならないところがあるんです。あの、あの、助けていただいたお礼に、その布で良かったら……つ、作りかけですけれども、差し上げますから」
「もう日が暮れた」とラセミスタがエルギンとニーナに囁いた。「急いで行こう。あの男より早く入った方がいいよ」
「それはやめとけ」
そう言った声は、ギョッとするほど近かった。
ヴェガスタ、と呼ばれていた“山賊”は、ほとんど足音もさせないままに、すぐ近くまで来ていた。出し抜けに腕が伸びてきて、「きゃっ」ニーナの声が上がった。小さなニーナの体を捕まえて、“山賊”が言う。
「小せえのがたったの四人で、どこ行こうってんだ、ええ? なんだかよくわかんねえが、ずいぶんややこしい事態になってるみてえじゃねえか」
「その子を放してくださいませんか」エルギンが落ち着いた声で言った。「先を急ぎますので――」
「王宮に行こうってんなら、やめた方がいい。小せえのが四人ぽっちで、どこ通って行こうってんだ? 門を通れると思ってんのか? 通行証か戸籍、全員分のがいるんだぜ? さっきのヴァシルグって男はな、マーセラ神官兵の元締めみてえな奴だ。門を通ってみろ、すぐあいつの息のかかった人間が駆けつけてくらぁ」
「も、門は、通りませんから」
「じゃあどこ通んだよ。隠し通路でも知ってるってんなら別だが――まさか空飛ぼうってんじゃねえだろな?」“山賊”が、ニーナがまだ抱えたままのミフをしげしげと見た。「さっき飛んでたように見えたが、こんな小さな乗り物に四人は無理そうだが……まあ飛べるにしても、やめとけって。王宮の警備を甘く見んな。おかしな乗り物に乗って塔に近づく不審者を見たらよ、マーセラ兵じゃなくても撃墜するわ」
確かに、と、マリアラは一瞬思った。
けれど他に取る手がないこともわかっている。こうしている間にもヴァシルグが刻一刻と自分の持ち場に近づいて行っている、そう思うと焦りを感じる。けれどヴェガスタはニーナを放してくれそうもない。
「暗いから、見えないんじゃないかと思うんです」
「王宮にはな、今、怖え女がいるんだよ」
怖い、と言いながら、ヴェガスタの声がひどく柔らかくなったのにマリアラは気づいた。
「おっかねえ――それはそれは、おっかねえ女さ。あの女を守るためになら、マーセラ兵だってアナカルディアの街兵だって、喜んで命を投げ出すような女なんだ。あの女が、王妃宮じゃなくて、王宮にいる。街兵もマーセラ兵も、万一にもあの女に危険が及ばねえようにって、神経尖らしてる。箒にしがみついた子供が四人――そんなのがふらふら飛びながら近づいてくるんだぜ。気づかねえわけねえだろ。お前等の年頃にゃあ、周りの大人は全部能なしにみえるのかもしんねえがな、そう侮るもんじゃねえよ」
「でも、でも、他に取る手が……」
「だからよう、どうしても無事に王宮に入り込みてえってんなら、俺様が手を貸してやらねえでもねえぜ」
言いながら男は胸元? から取り出した何かの袋らしきものを、じゃりじゃりと振って見せた。
「だからまず、商談だ。俺ぁ結構な、金持ってんだ。見たとここれ、縫いかけじゃねえか。全部俺に売れ。俺ぁこの上等な布を全部開いて反物にしてな、贈りてえいい娘がいるんだ」
なぜにそうなる、と、マリアラは思った。
あんなぼろぼろの布を買いたいなんて、口実にしてもおかしすぎる。当然下心があるのだろうが、その下心が何なのかわからない。
「草原の民、ヴェガスタ」
出し抜けにエルギンが言った。
ずっと無言だった少年は、悲壮な声で囁いた。
「なぜ僕を――僕たちを、助けてくれたのですか?」
「だから俺はぁ、草原の民でもヴェガスタでもねえって言ってるだろうが。ただの通りすがりの山賊だ」
どうやらヴェガスタという名らしい蓬髪の山賊のような男は、がしがしと頭を掻いた。
「とにかくこう暗くっちゃ商談もできねえよ。飯でも食いながら、この上等な布にまつわる小話かなんか、聞かせてもらおうか。逃げられると思うなよ、んん? こんなべらぼうな手触りの布、俺は生まれて初めて触った。やーらかくってすべすべで、俺のいい娘もきっと、これなら気に入るはずだ」
さあ来な。
言いながらヴェガスタは先に立って歩き出した。ニーナをひょい、と肩に乗せ、ずかずかと歩いていく。
一番始めに立ったのは、ラセミスタだった。彼女はよっこらしょ、と立ち上がり、マリアラを振り返った。
「……行こうよ。あの布がお金になるなんてちょっと信じられないけど、でも本当に買ってもらえたら、この時代の貨幣が手に入るってことじゃない? あたしたち今は、“一文無し”だもん。これから何が起こるかわからないし、先立つものは必要だよ」
「あの人は」エルギンが囁いた。「草原の民です。ヴェガスタという――僕の記憶が正しければ、確か、草原の民の現在の、長です」
マリアラはエルギンを振り返った。「おさ?」
「……草原の民、という、北方に住む……蛮……その、一族がいるんです。馬の扱いに長けた、とても誇り高い人々です。その民たちの、一番偉い……ええと、王、と言うか」
「王」
「王様です。指導者です。草原の民がアナカルシスに臣従するようになってまだ日は浅いですが」
「……王?」
マリアラは茫然とした。王様? あの人が?
――こんなところで何をしている。
ヴァシルグの言った言葉を思い出し、全くだ、と思った。
王様がこんなところで斧を担いで、いったい何をしていたのだろう?
「……草原の民が臣従しているのはアナカルシス国王ではありません」
静かな、何かを抑えるような声で、エルギンは言った。
「アナカルシス国王の正妃。アンヌ=イェーラ・アナカルシス王妃陛下が、彼らの主です。なぜ彼は、僕たちを――助けて、くれたのでしょうか」
さっきのラセミスタのかすかな呟きを聞き取ったヴェガスタの地獄耳に、今の会話が聞こえていないはずがない。
しかしヴェガスタは何も言わなかった。周囲は既にとっぷりと暮れ、マリアラの目にはもはやもう、ヴェガスタはもちろん、すぐ傍にいるラセミスタさえ、シルエットにしか見えなかった。