第三章2
それからマリアラとラセミスタは巾着袋の中身を吟味して、できるだけ目立たない服装を考えることにした。
この世界、あまりカラフルなものはこの上なく目立ってしまう。ニーナは裾のふんわりと広がったワンピースを身につけていた。それらを踏まえて考えてみると、巾着袋の中に入っていたもので一番近いのはパジャマの上、である。これなら生成りだし綿だし、裾に布を足してふくらはぎまで伸ばせば、ワンピースのようになる。靴も脱いで裸足になれば、今よりは目立たなくなるはずだ。
「とにかく裾を足さないと。二枚目の胴の部分をこう、ぐるっと切って、足して縫おう」
提案するとラセミスタは表情を引き締めた。
それから、悲壮な顔で頷いた。
「誠心誠意……!」
「!?」
「縫わせていただきます! 全身全霊! 粉骨砕身! 針、大丈夫! 怖くない! 一人でに動いて刺さったりしない!」
何を言ってるんだろう。
「お裁縫、苦手なの?」
「お裁縫は好きだよ? 針がダメなの」
「針を使わないお裁縫って……?」
「ミシンで縫うとかは平気なんだ。わかりやすいからね」
何が?
「でも針ってさ、なんか、あれだよね。道具としてあまりに完成されすぎててシンプルで美しくて、改良の余地もないし、なんかこう、孤高っていうか。畏怖を感じるよ。何か宿っててもおかしくないなって思うよ。大昔からきちんと研がれて使われてる針なんて怖ろしすぎて触れないよ絶対何か……宿ってる何かを怒らせるような粗相するもんあたし……だから刺さるんだよ……」
どこまで本気でどこまで冗談なのかがわからず、マリアラはラセミスタの表情を確かめた。大まじめな顔をしている。それでも決死の覚悟を固めて裁縫道具に手を伸ばそうとするので、マリアラは微笑んだ。
「じゃあわたしが縫うよ。ラセミスタさん、こっちのシャツの、腋の下をぐるっと切ってくれる?」
「ひ、ひとりで立ち向かわせるわけにはいかないよ!」
「大丈夫だよ」マリアラはとうとう笑い出した。「わたしは針にはそれほど嫌われてないみたいだから。でもね、ハンダごては怖いよ。一度やったことあるけど、あれはわたしには無理。金属が溶けるほどの熱、って、思うだけでなんか」
「ハンダ付けは浪漫だよ! 熱を扱ってハンダを溶かす、くっつく、わかりやすい! 正義! でもさ……針に宿ってるのは何か、得体の知れないものじゃない……?」
今まで針にどんな目に遭わされてきたのだろうか。面白がってはいけないだろうが、でも面白い。微笑ましい。
ラセミスタの後ろに回って一番小さいサイズのパジャマの上を彼女の背に当てた。ニーナの着ているワンピースはどうやら麻で作られているらしく、材質も見た目も全然違う。遠目にはわからなくても、近くで見たらやはり異様だろうか。
しかし他に取る手はない。
ラセミスタは、針の話が恥ずかしかったのか、フォローしようとしたのか、それともこの和やかな空気を存続させようとしてくれたのか、一生懸命な口調で言葉を継いだ。
「せっ、先端恐怖症とか、そう言うんじゃないんだけどね。と言うか、むしろ嫌いじゃないの。敬っているの、針を。敬して、遠ざけてるんですよ」
「うんうん、わかってるよ」
「フェルドとは違うからね、あたしは。あたしは怖いわけじゃないからね。フェルドは蜂がダメなんだけど」
「え? そうなの?」
「そうなんだよ、空島で……その、エスメラルダに空島ってあるでしょ? あそこには、あたしの師匠が住んでるの。高山植物を育てててね、あの島の上は天国みたいに素敵なところなんだよ」
先月までラセミスタがいつも通っていた場所だ。ラセミスタの前に戻って、針と糸を取り出しながら、マリアラは頷いた。
「ふうん、そうなんだ。素敵なところなんだろうね」
「そうそう、そうなの。高度が高度だから、蜂は自力では上に上がれないの。で、受粉のためにって、グレゴリーが下界で買ったミツバチを持って上がったの」
「うん」
「でもね、一週間位したらミツバチが皆いなくなっちゃうの。グレゴリーは何度か試してみて、この高度ではミツバチは生存できないんだなしょうがないって、思っていたんだけど……実はフェルドが荷運びのたびに暴風吹かせて空島から追い払ってたらしいってわかって」
「まさかー」
「本当なんだよ! いやフェルドにちゃんと確認したわけじゃないけど! でもあの人蜂大っ嫌いなんだよ、怖いんじゃなくて嫌いなだけだって言い張るんだけど」
「ふふふ」
マリアラはラセミスタが切り取った筒状の布を、パジャマの裾にぐるっと縫い付けながら、とても楽しい気持ちでその話を聞いていた。ラセミスタは未だに少々ぎこちなさこそ残るものの、一生懸命、場を和やかに保とうとしてくれている。挨拶だけでいい、と言ったのに、彼女は既にそれを飛び越えて、遙かに先の段階にまで踏み込んでいる。そのことに、気づいているだろうか。気づいたらまた殻に閉じこもってしまうかも知れないから、ずっと気づかないまま、慣れてくれるといいと思う。
フェルドは今頃どこにいるだろう。どうしているだろう。
フィが起きたのだから、ミフ――つまりマリアラとラセミスタが、どこにいるかくらいはもう把握しているはずだ。
『あー』胸元で大人しくしていたミフが、マリアラの考えを感じ取って声を上げた。『フィ、動き出してる。こっちに向かってるみたいだよ』
「え!」
マリアラはラセミスタと顔を見合わせた。
ミフはのそのそと首元から出てきて、元の大きさに戻り、地面に地図を浮かび上がらせてくれた。
『結構な速さで進んでる』
「ほんとだ……」
フィを示すらしい光点は、点滅している。動いていることを表しているのだそうだ。ひょうたん湖の畔を離れ、アナカルシス国内を緩やかに、しかし着実に進んでいるのが見える。
「良かった……」
ラセミスタがしみじみと呟き、マリアラも頷いた。
「ほんと、良かったあ……」
「この分では、明日の明け方には合流できそうだね。エルギンとニーナを、スメルダさん家に送っていくのは、一緒に行けそう」
「合流できたら、安心だね」
「フェルドは非常時には、本当に頼りになるからね。ま、蜂がいなければだけどねー」
ラセミスタは悪戯っぽく言い、マリアラは、本当だろうか、と思った。フェルドに怖いものがあるなんて、あんまり考えてみたことがなかった。
ざぶ。
水音が聞こえた。
マリアラは思わず腰を浮かせた。川の上流――つまり王宮のある方角から、何かが来る。ざぶ、ざぶ、ざぶ。どうやら足音だ。針を針刺しに戻し、縫いかけのワンピース(以前の何か)を針刺しごとくるくる丸めたとき、その人が姿を見せた。
蓬髪。
真っ先に目に入ったのはそれだ。次に目に入ったのは、とても厳つい――有り体に言えばとても怖ろしい、顔立ちだった。ふさふさとした眉に、もじゃもじゃの髭。ほとんど顔中が毛だらけで、覗いているのは目と頬くらいのものだ。
顔がほとんど見えないので年齢はよくわからなかったが、とても大柄な男であることは間違いなかった。彼も生成りの、衣類――というより布きれを紐で適当に縛ったような服装をしていた。はだけた胸からも、もじゃもじゃの胸毛が見えている。
「さささ、山賊……?」
ラセミスタが掠れた声で言い、マリアラは、端的だと思った。
全くその人は、ひと言で言えば“山賊の親分”のような人だった。
「ああ~?」
割れ鐘のような声がした。二人は縮み上がった。
炯々とした瞳が、こちらを睨んだ。
「今なんつった、おい」
「あ、あ、あの……」
「俺が山賊だってえ?」
まだ結構距離があるのに、あの小さな声が聞こえていたようだ。地獄耳にしても性能が良すぎではないだろうか。
男はざんぶと陸に上がった。足は裸足で、すね毛まで濃かった。左手に持っていたもの――斧、を、前に回して、男は凄んだ。
「よくわかってるじゃねえか。俺ぁ山賊だ。姉ちゃんら、どっかに売り飛ばされてえか? ああん?」
「ごっ、ごめんなさいいいいい!」
作りかけのワンピース(以前のもの)を放り出して、マリアラとラセミスタは死にもの狂いで逃げ出した。かっかっかっ、と、後ろで男が楽しそうに笑ったのは、二人の耳には入らなかった。
*
“お母様”は、真摯な祈りを捧げた者の、願いを叶える神だと言われている。
狩りが始まって二日目のあの昼下がり。あの日まで、ニーナの毎日は平穏で、それが少々後ろめたかった。本来なら、ニーナは巡幸を続けているはずだった――もちろん今はルファルファの娘としての活動は違法であり、大っぴらにではなかったが。アナカルシス大陸の人の住む場所から魔物や歪みを払い、また一年、人が住めるよう浄化の儀式を行うのは、ニーナの唯一にして大切な、仕事だった。
それを途中で放り出さなければならなかった。たぶん後処理が本当に大変だったと思うが、それは全て兄様とゲルトが引き受けた。ニーナは誰からも責められず、誰にも謝らなかった。たぶん巡幸を迎えられなかった人たちは、これから一年、魔物や歪みに怯える不安な日々を過ごすことになるだろうに。
アナカルシスの王とマーセラ神官長ムーサがルファ・ルダにくる。ニーナや兄様の不在がバレてはまずい。巡幸を未だに続けていることが公になれば、今度こそルファ・ルダは滅ぼされる。
そういう理由で戻って来たのに、戻って来たらもう、ニーナには何もすることがなかった。大人たちは皆忙しく、子供たちもその手伝いや子守で大忙し。マーシャはてきぱきといつもの何倍もの量の料理を作り、イーシャットは張り切ってちょうほうかつどうにいそしみ、マスタードラは――いつもどおりだったが、とにかくニーナは、自分ひとりが何もせずに、ただそこでのんびりしていなさい、と言われるのが後ろめたく、淋しかった。
そこへエルギンがやってきた。狩りの合間を縫って、こっそりと。
エルギンはニーナを家の外に連れ出し、真剣な口調で頼んだ。
“教えて欲しいんだ。ルファルファに祈りを捧げたい。正式なやり方を教えて欲しい。泉に僕を、連れて行ってくれないか”
エルギンのお母様がお病気で、明日をも知れぬ状態だ――
その噂を知っていたニーナは、すぐにピンときた。エルギンは、お母様の快復をルファルファに祈りたいのだと。
そんな真摯な願いを、むげに断ることなどできるわけがない。何よりニーナはエルギンが大好きだった。エルギンのためなら何でもしてあげたかった。ほのかなその思いを何と呼ぶのか、ニーナはまだ知らなかったけれど。
いいよ。一緒に行こう。
ニーナはエルギンを連れて、ルファルファの泉へ向かった。エルギンが祈りを捧げるのに、それほどの時間はかからなかった。ニーナが家から離れたのはほんの四半刻に過ぎない。
まさかそんな短い時間に、マーセラの兵に襲われるなんて――
ぱしゃ。
水を手のひらですくい、空中に投げると、光を浴びてキラキラと光った。川の水が冷たくて、いい気持ちだ。水はとても澄んでいる。そして口に含めば、びっくりするくらい美味しい。この川はアナカルディアの王宮地下から流れ出ているのだとエルギンがさっき教えてくれた。王宮地下には人魚がいて、この水は人魚の聖域から生まれ出た水なのだと。だからとても美味しいし、この川で獲れた魚は格が違うのだと。
そのエルギンは、少しだけ離れた場所で素振りをしていた。マーセラの兵に殺されかけたとき、愛用の剣は落としてしまった。今振っているのは、その後に、マーセラの兵が落としたものを失敬してきた、そうだ。エルギンの体格には少々大きすぎるが、空を切る音も鋭くて、なかなか堂に入っている。マスタードラは、エルギン様はひととおりの護身術を身につければそれで充分なのだと――つまり今のところ才能が見当たらなくても気にしないでいいのだと、言うけれど、ニーナの目にはエルギンが剣を振る姿は充分頼もしく見える。
「ねえエルギン。魚を捕まえるのってどうやるの?」
訊ねるとエルギンは素振りをやめた。肩で汗を拭いて、ふうう、と息をつく。
「……道具もなしじゃちょっと……」
「イーシャットなら知ってそうよ。思い出して。前に何か聞いた覚えない? その辺の蔓を細く縒って、枝に縛ってみるとか」
「……道具もなしじゃちょっと……」
繰り返してエルギンは言い、剣を鞘に収めた。ニーナは彼に向き直る。
「この川のお魚はとっても美味しいって言ったじゃない? マリアラとラセミスタに、食べさせてあげたいの。だってこのままじゃ、恩がたまる一方よ。マーシャのご飯まで、まだしばらくかかりそうだし……あんなケガを治せる腕の持ち主なんだから、エルギンのお母様だってきっと、治せるだろうし……」
「……」
「すごいわね。お母様が願いを叶える女神だって、ずっと聞いてはいたけど、実際に奇跡が起こるとびっくりだわ」
ニーナは再び川の方に視線を移していたので、エルギンの表情は見なかった。エルギンがその時どんな表情を浮かべたか、どんな、昏い、陰のようなものを、その瞳に宿したかも。
だからニーナは、エルギンの、次の声を聞いて驚いた。
「……僕は……」
酷く重い声だった。本当にエルギンの声だろうかと、思うほど。
振り返るとエルギンは、俯いていた。ニーナの視線を無意識に避けるように後ろを向き、再び剣を抜いた。びゅっ、刃が鋭く空を切った。もう一度。もう一度。もう一度。
――今何か、おかしなことを言っただろうか?
エルギンの背中が紛れもなくニーナを拒絶しているので、ニーナは戸惑った。何か、不快にさせるようなことを言ったかしら? エルギンは泉にお母様の快復を祈り、それに応じるように、マリアラという凄腕の医師が、どこからともなく現れた。つまりルファルファはエルギンの願いを叶えてくれるつもりがあるということで――良かったね、と、ニーナとしては喜びを述べたつもりだったのだが。
レスティス妃は、どんな方なのだろう。
しょんぼりと川に向き直りながら、ニーナは考えた。
アンヌ王妃の噂はルファ・ルダにいても良く聞くが、エルギンのお母様、レスティス=スメルダという女性については、あまり聞いたことがなかった。スメルダという、アナカルシスだか外国だかの偉い人の娘らしい、という程度のことしか。いや、そう言えば一度、マーシャの厨房で、誰かが話していたことがある。とても綺麗な人なのですって、と、その人は言っていた。それはそれは美しい方で、アナカルシス国王は国庫を傾けかねないほどのお金を彼女のためにつぎ込んだのですって――その時ニーナの立ち聞きに気づいたマーシャが、おやめ、と鋭く言ったので、話はそれで途切れてしまった。
つまり。
マーシャはニーナに、レスティス妃の噂話を、聞かせたくなかったのだ。王が国庫を傾けかねないほどのお金をつぎ込んだから? それがどういうことを意味するのかわからないが、あの女性の話し方やマーシャの叱責を見ると、あまりいい噂ではなかったようだ。
ど……
ずっと静かに流れていた川の水面に、さざ波が立った。
ど……
ニーナは目を丸くしてそれを見た。見間違いかと思ったが、またさざ波が立ったのだ。湖ではなく、川なのに。流れている水面なのに。ど……地面が揺れ、またさざ波が立った。さっきより大きくなったようだ。ど……ど……ど…ど…ど、ど。地面が揺れる度にさざ波が立ち、ついに飛沫になった。ぴちゃん。ぽしょん。地面の揺れと同時に水面が不安そうな音を立てる。
「エルギン、何か来るわ」
そう言うとエルギンが素振りをやめた。ニーナはざわめく胸をぎゅっと握った。
「何が来るって?」
「わからない。でも何か怖ろしいものよ、不吉な――走って、エルギン! マリアラとラセミスタのところへ!」
ど、ど、ど、振動は酷くなっている。川沿いの森の中を、何かが走ってくる。人魚の丹精した水がそれを警告しているのだ、そうとしか思えなかった。エルギンとニーナは走り出した。木立を抜けた。マリアラとラセミスタもあれに気づいたのか、ふたりはちょうどこちらに向けて走ってきているところだった。
ニーナは叫んだ。
「逃げて! 何か来る……!」
ど、ん。
決定的な音に、ニーナは振り返った。森の向こうに、馬が見えた。まだ遠い――かなり遠いが、エルギンにもその蹄の響きが聞こえたらしい。マリアラの首元からミフが飛び立って元の大きさに戻った。エルギンがニーナのを守るように前に出て剣を抜いた。ニーナはその馬から目を逸らさなかった。
異様な馬だった。
首が、変な方向に曲がっていた。瞳が零れそうになっていた。死んでる。まだ遠いが、それは既によく見えた。ぐらん、ぐらん、体のそちこちがおかしな風に傾ぎながら、馬は背にヴァシルグを乗せ、怖ろしい速度で走ってくる――
「ニーナ!」
マリアラの悲鳴。馬の背の上でヴァシルグが微笑んだ。抜き身の剣を掲げたその姿は、まるで死神だ。
でもヴァシルグよりもニーナの神経を逆なでするのは、その馬だ。
この世に在ってはならない、ものだ。
ニーナの胸の中でざわめく何かが、それを嫌悪した。そして憤った。馬が可哀想でならなかった、この世に生きる愛しい存在を、殺し取り憑き意のままに操り冒涜し辱めるなんて、絶対に赦せない。わたくしの愛し子に絶望と屈辱を与えるなど!
「……ニーナ」
エルギンがニーナを見ているのは感じたが、何も思わなかった。ニーナの髪が緩やかにうねり簡素な衣類の裾が翻っているのも意識しなかった。返しなさい、ニーナの中で何かが叫んでいる。返しなさい! その亡骸を! この〈世界〉に生きるものたちを害する権利はお前にはない!
――断罪せよ!
どう。
出し抜けに馬が倒れた。
巻き添えを食う前にヴァシルグが飛び降りた。ミ゛イィッ! 甲高い悲鳴を上げて黒い何かが飛んで逃げたのが目の隅に見えた。
馬の亡骸が立てた地響きが鎮まり、森に静けさが戻った。ごくり――誰かが固唾を飲んだ。
エルギンだった。
「……」
ヴァシルグも動かなかった。馬の亡骸の向こうからこちらを見るヴァシルグの目には、畏怖するような色が浮かんでいた。ニーナがそれに気づいたとき、誰かが後ろから走ってきた。出し抜けに細い腕がニーナを抱き締めた。
マリアラだった。
「持って」
彼女は冷たい筒のようなものをニーナの手のひらに押し当てた。反射的に握ったとき、ぐうん、と体が浮いた。
筒のようなものはミフの柄だった。
ミフが、ニーナだけをその柄にしがみつかせて、宙に浮いたのだ。
マリアラは地上に残り、ヴァシルグをしっかりと見た。ラセミスタがその隣で、巾着袋の中身をごそごそと探っている。エルギンが二人を守るように足を踏ん張り剣を構える。なんてこと、とニーナは思った。なんてことだ。
巡幸を続けられなかったのはニーナなのに、後始末に奔走したのは兄様とゲルトだった。
ヴァシルグに狙われているのはニーナなのに、ここでも、後始末を他の人に委ねるのか。
ニーナはミフに囁いた。
「ミフ、ミフ、下ろして……!」
『ダメだよ』ミフは少し不本意そうに言った。『あーゆーときのマリアラはほんと、頑固なんだからもう。困っちゃうよねえ』
「だって、そんな……!」
『あなたにだって任務はちゃんとあるよ。あの男がどうやって追いついたのか、わからないままじゃ気味が悪い。何か変わったことがあるはずだから、それをちゃんと見ておいて』
方便だ、と、ニーナは悟った。ニーナが足手まといだから、ミフは邪魔にならないようにニーナをここに退けているのだと。
でも、言われてみればそのとおりだ。あの馬――こときれたあの馬を操っていた“何か”は、退けただけで死んだわけではない。
あいつが戻ってきて、またヴァシルグに手を貸すようなことがあってはいけない。
ニーナはミフの上に乗ったまま、周囲に目を配った。