第二章 仮魔女と山火事(2)
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慌てふためくリンとは対象的に、マリアラは落ち着いていた。火事の方へは向かわず、ミフはふたりを乗せてすうっと麓の方へ向けて空を滑った。リンはマリアラをせっついた。
「マリアラ! あっち、早く消さなくちゃ……!」
「ちょっと待って」
声は固いが、やはり落ち着いている。この一年の間に仮魔女としてさまざまな研修を受けたはずだから、その経験のお陰かもしれない。リンはマリアラと火事の方とを交互にあわあわ見ていたが、マリアラはハウスの方向へ飛びながら無線機を取り出した。
ぴぴぴ、と操作して、耳に当てる。
沈黙。
「……あれ」
呟き、別の番号を押した。ぴぴぴぴ、と音がして、また耳に当てる。
「……あれ?」
「ど、どしたの」
「無線機が……壊れたかな? つながらない、というか、音が……」
「あ、あたしが借りてるの使って」
リンは急いでポケットを探り、マリアラに無線機を差し出した。無線機の技術の歴史はまだまだ浅く、よく故障する、と、話には聞いていた。でも、これはちゃんと使えるはずだ。だってさっき、あの赤い髪の人が使ったばかりだし。
「ありがと。でも大丈夫、ハウスからかけるから」
ミフが下降を始めた。さっき建てたハウスに着いたのだ。ハウスの前に作ったあの平らな床に降り立ち、マリアラはまずハウスの扉を開けた。柔らかな光があふれ出て、リンはわけもなくほっとした。
「入って、リン、寒いから」
マリアラは落ち着いた声で言い、リンを先に通してくれた。扉を閉めて、靴を脱いで、柔らかな床に上がって、マリアラはまっすぐに壁につけられた小さなスクリーンの方へ行く。
「座ってて」
マリアラは言いつつ、スクリーンを操作した。
リンはもじもじした。座って、と言われても、到底そうする気にはなれなかった。ハウスの中に入るのは初めてで、普段なら喜々としてあちらこちらを覗いて回ったはずなのに、西の方のあの炎を思うとそれどころではない。
しばらく経った。通信はつながらなかった。
「……何で」
マリアラが小さな声で呻き、リンは急いでそちらへ行った。
スクリーンには、何も映っていなかった。起動していないらしい。マリアラはスクリーンを何度か指で圧し、初めて、顔を歪めた。リンは急いで、さっきの通信機を差し出した。
「これ使って! これなら大丈夫、だから……!」
「ありがと……」
マリアラは今度は受け取った。ぴっ、ぴっ、ぴっ、数字を一つずつ確かめるように押していく。画面に表示された番号を二度確かめ、よし、と呟いてから、通話ボタンを押す。
静寂。
「……なんで……!?」
リンはマリアラの手に飛びついて無線機を取り戻した。呼び出し音さえ聞こえないなんて変だ。相手が出ないのではなく、通信そのものができてない、ということに、ならないだろうか。
「なんか、障害かな!? 火事、とか、でっ、」
「それならアナウンスが流れるはずだよ」
「でもさっきまでっ、さっきは使えたんだよ!?」
「いつ使ったの、リン」
マリアラがリンを見ていた。
その視線の真剣さに、リンは気圧された。
「……さっ、き……」
「さっき?」
「マリアラがハウスの場所、探しに行ったあと……迷子を見つけて、それで、貸してあげたの、ちゃんと使えたんだよ」
「赤い髪の人?」
「えっ」
リンは息を飲んだ。マリアラの視線に、押されるように、頷いた。
「そ……」
「わかった」
マリアラの頬は青ざめていた。睫が長い、と、リンは唐突に気づいた。
今まで、マリアラを綺麗な子だと思ったことはなかった。どちらかというと地味な顔立ちで、お化粧やおしゃれにもあまり興味をもつ様子のない、おとなしい優等生、という印象でいた。
でも、その時初めて、リンはマリアラを綺麗だと思った。
覚悟を決めた、顔だった。
マリアラはリンの二の腕に手をかけて、正面から覗き込んだ。灰色の瞳がリンを射貫く。
「リン、お願いがあるの。今すぐ、ミフと一緒に雪山詰め所に行って、山火事を通報して」
「通報……」
「山火事は放っておけないよ。あの火事がこっちに来たら――ここから少し下ったところに温泉があるの、知ってるでしょう? 観光地だもの、人がたくさん泊まってるはず。あっちに燃え広がったら大変だもの」
「う……うん」リンは唾を飲み込んだ。「マリアラは……?」
「わたしは類焼に備える」
「ひとりで?」
リンの不安に気づいたのか、マリアラは微笑んだ。
「大丈夫だよ。これでも一応、孵化したんだから」
「でももう、日が暮れてるよ!」
「炎があれば、辺りは明るいもの」
皮肉だねと、マリアラは笑って見せた。
大丈夫らしいと、リンはなんだかほっとした。マリアラの笑顔を見て、事態はそれほど深刻ではないのだと思った。マリアラはもう、仮とは言え魔女になったのだ。光さえあれば水も呼べるし風も操れる。昨日雪が降ったばかりだから、山肌や大気中に残る水だって多いだろう。炎に焼かれる心配はない。
「通報したら、そのままそこにいてね」
先に立ってハウスの扉へ向かいながらマリアラはてきぱきと事務的な口調で続けた。
「レポートの続きを書かなくちゃ」
「あ……あ、そうだった」
リンは微笑んだ。山火事という大きな出来事で分断されていたようだった時間が、実際にはちゃんとつながっていたことを思い出したような感じだった。先程の没頭を思い出すと、体がむずむずしてきた。早く続きを書きたい、という衝動に突き動かされていたときの記憶。いろんなアイデアや文章がリンの中で出口を求めてせめぎ合っていた。
早く書かなくちゃ、みんな逃げていってしまう。
マリアラが靴を履いているので、リンも急いで履いた。
「書き上がったら、わたしにも見せて――」
言いながらマリアラは扉を開いて。
そのまま、ばん、と閉めた。
「マリアラ?」
リンは驚いたが、マリアラはリンを振り返って、有無を言わせずその場からハウスの中へ押し戻した。土足だ、とうろたえながら、マリアラの頭越しに、扉のはめ殺しの小さな窓から、一瞬だけ外が見えた。
そこに、赤い髪の男が微笑みを浮かべて立っていた。
「……さっきの!」
「リン、聞いて」
リンを急き立ててハウスの北側へつれて行きながらマリアラが言う。
「わたしもさっき、迷子になった赤い髪の男の人に無線機を貸した」
「……えっ」
「ちゃんと通じて、相手の人が怒ってるのが聞こえてた。でも今は、無線機が使えない。わたしのも、リンのも。山火事もきっと、何か関係があるよ」
話しながらマリアラは北側の扉を開こうとした。
でも寸前で、手を引っ込めた。
ノックの音が、目の前の扉を震わせたからだ。
こん、こん、こん。
「……!」
こちらの扉にははめ殺しの窓がついておらず、外の様子は分からない。ふたりは後ずさった。この扉の外にいるのは誰だろう。いったい、何をしようというのだろう。
ノックだけで、声は聞こえなかった。今や辺りは静まり返っていて、不気味だった。マリアラの首もとから突然ミフがひとりでに外れて元の大きさに戻った。マリアラはミフにまたがって、身振りで、リンに後ろに乗れと言った。
こん、こん、こん。
またノックの音が響いて、リンは悲鳴を飲み下した。今度のノックは、また南側の、はめ殺しの窓がある扉から聞こえた。移動しているのか、こんな短時間に? それとも仲間がいるのだろうか?
何のために?
「開ーけーて」
子供じみたからかいの声が南側から聞こえる。間違いなく、さっきの呑気な登山客の声だった。
マリアラとリンを乗せたミフはふわりと宙に浮いた。頭上に、四角い大きな天窓が見える。強化ガラスはとてもよく磨かれていて、その向こうの木々の梢が見えた。
リンはぞっとした。梢がよく見える。赤い光に照らされて。
山火事が、迫っているのだ。
ミフが天井に近づき、マリアラが天窓の留め金に手をかけた。がちり、窓が外れて、冷たい夜気がさっと流れ込んだ。
「ありがとー」
明るい声が聞こえて、リンは今度こそ悲鳴を上げた。
扉の外にいたはずの赤い髪の男が、屋根の上でにこにこ笑っていた。
「!」
閉めようとした透き間に、がん、と足が飛び込んで来た。マリアラの頬をスニーカーがかすめた。ほとんど同時に差し入れられた手がマリアラの横髪を散らした。逆さまになった赤い髪の男の顔は、相変わらずにこにこ笑っている。
「可愛こちゃんたち、一緒に遊ぼーよ」
「リン、しっかり掴まってて……!」
マリアラはうめき声で囁き、ミフがすうっと下に降りた。リンは、逆さまになったままの男の顔が、にいっ、と嗤うのを見た。下に垂れた赤い髪が逆立っているように見え、まるで鬣のようだと思う。
こん、こん、こん。
またノックが鳴った。リンはまた、声を上げずにはいられなかった。マリアラが向かった北側の扉が、ふたりの目の前で鳴ったのだ。ミフの柄を握るマリアラの手が真っ白になっているのがちらりと見えた。
頭上を見るとそこにはもう誰もいなかった。
なんという素早さだろうとリンは思う。
マリアラがミフの柄を返して、南側に向かう。激突しそうな速度だった。絶対にこちらの方が速いはずだ。そうでなきゃ物理法則的におかしい。
はずなのに。
――ばん!
マリアラが手をかけた扉の、はめ殺しの窓いっぱいに、赤い髪の男の顔がへばりついた。血のように赤い瞳が、愉悦を含んでマリアラとリンを覗き込んだ。
「遊ぼうよおおおぉ……」
リンは思わず、マリアラの背に顔を伏せた。
でも、マリアラはまだ諦めていなかった。「くっ」マリアラの喉が鳴った。また天井に向かった。ミフは矢のように飛んだ。でも天窓は二人が一気に飛び出すには少し小さかった。リンの背が引っかかり、一瞬動きが止まった時にはもう、赤い髪の男が屋根の上に飛び乗っていた。
目を疑った。まるで何かの魔法道具で、一気につり上げられたかのような動きだった。
「つっかまえた」
赤い髪の男が囁いた。ゆらり、その姿が揺らいだときにはもう、男は目の前にいた。腕が伸びてきた。指がとても長い。彼はまるで愛おしむかのような微笑みを浮かべて、マリアラの頬をそっと撫でた。さっき男の足がかすめたところが赤くなっている。
「あなたは……狩人なの?」
マリアラが震える声で訊ね、男は笑った。
「そうだよ」
「狩人……!?」
リンはギョッとした。狩人。
ありえない。ここは、エスメラルダなのに。
「残念だったねえ」優しい声が労るように言った。「一年間、一生懸命勉強したんだよね。この試験に受かったら、晴れて、左巻きのラクエルとして、仕事を始められるはずだったんだよねえ、マリアラ=ラクエル・マヌエルに、ね?」
いつの間にかマリアラの目の前に、ナイフがあった。
赤い髪の男は愛おしげに笑いながら左手にマリアラの髪の一房を、右手にナイフを、握り、弄んだ。キラキラと光るナイフ。ぎざぎざの歯の、刃渡り十五センチはあろうかという、紛う事なき武器だった。
「ねえ、どんな気持ち?」
赤い髪の男は嬉しげに笑う。
「一年間の努力が全部無駄になるって、ねえ、どんな気持ち?」
「……どんな」
「左巻きの魔女ってさあ、人の治療をできるんだよね。どんな気持ちかなあ? どうするのが一番楽しいと思う? ああそうだ」
赤い瞳が、リンに移った。
「守るべき人間が目の前で切り裂かれるのを見たらさあ――左巻きの魔女って、どういう気持ちになると思う……?」
「わかりたくないです」
冷静な声が囁いた。
ぽん!
聞き慣れた可愛らしい音が響いた。赤い髪の男の注意がリンに逸れた一瞬に、マリアラの右手が屋根に触れていた。屋根が縮み、赤い髪の男の足場そのものが消え失せた。同時にミフが大きく後ろに動いた。とっさに伸ばした男の右手が空を切り、目を見開いて落ちていく。その左手はまだマリアラの髪を握っていた。マリアラは投げ出されたナイフを掴もうとしたが、その手が空振りした。男の体重にまともに引っ張られたマリアラが落ちかけ、リンはミフとマリアラに必死にしがみつきながら叫んだ。
「マリアラ、風とか……!」
マリアラは魔女だ。その気になりさえすれば、風で男をずたずたに裂いてやることだってできるはず――
ところが、生じたのは炎だった。
男に握られた髪が突如炎をあげた。驚きに顔を歪めた男が落ち、ミフが舞い上がった。
次の瞬間、赤い森の中に飛び出した。さっと冷たい風が吹き付け、視界が開ける。
リンは、その景色にぞっとした。
あの男からなんとか逃げ出したというのに、解放感などまるでなかった。
正面が、真っ赤だった。煙の匂い。強い風が吹いて、一瞬ミフが大きく揺れた。吸い込まれそうだとリンは思った。