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魔女の遍歴  作者: 天谷あきの
魔女の冒険
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第二章13

 ムーサは昨日の一件の余波で、ぎっくり腰で寝込んでいる。

 カーディスはそれをいいことに、昼日中――昼食の給仕も片付けも終えた召使いたちが休憩を取る時間に、昼寝がしたいと嘘をついて寝たふりをしてから、首尾良く天幕を抜け出して探検に出かけた。


 エルギン王子、カーディスの兄が、本当に亡くなったのか。

 それを知らないことには、何も出来ない。


 そういう思いがあったからか、足は自然に、ルファ・ルダの集落に向けて進んだ。

 昨夜の出来事で、頭がいっぱいだ。

 昨夜の体験は、本当に不思議だった。誰もいない場所をこつこつと歩き回った足音や、それに応じてひとつひとつ消えていった燭台、ふわりと動いた壁掛けの房、極めつけには最後に炸裂した稲光の渦。それらはもちろん不思議で怖ろしかったが、カーディスにとって一番不思議だったのは、ムーサが稲光に驚愕して這々の体で逃げ帰ったことだった。なぜムーサは、雷から逃げるような真似をしたのか。それこそ青天の霹靂と言えるほどに驚いて、他の恐怖なんか吹っ飛んでしまった程だった。


 いや、そもそも稲光がカーディスを、そしてムーサを襲うというのが不思議な話なのだ。


 稲妻はマーセラ教では神聖なものだ。闇を切り裂く金の光は、女神の槍と呼ばれる。闇の眷属を撃ち、女神に守られた土地を汚すものを討つ――なのに雷はなぜ、初めにカーディスを襲い、続いて地下神殿からムーサとカーディスを追い出すように働いたのだろう。カーディスは将来マーセラの大神官の座を得ると、ことあるごとに言われているし、ムーサに至ってはマーセラのために人生を捧げるとまで決めた、敬虔な信徒である。


 マーセラは何故、“敬虔な信徒”を追い払ったのだろう。ぎっくり腰にまでさせて。自分の身内なのに。そして“敬虔な信徒”であるムーサは、雷を恐れる必要などないはずなのに。



 この狩りの初めの頃にいた、あの雷の落ちた広場を突っ切り、焼け焦げた木を右に見ながら歩いた。ルファルファの人に見つかってはまずいのだろうが、しかし近づかなければ兄様の生死などつかめない。そのまま向かいの森に入ろうと、思った時だ。

 向こうから、あの人が歩いてくるのに気づいた。


 フェルド、と呼ばれていた、あの変な人。


 一瞬立ちすくんだときに、フェルドがこちらに気づいた。「あ」と口が開いたから、あちらもカーディスを覚えていたらしい。逃げ出そうと思わなかったのは、最後の言葉を覚えていたからだ。“見つかるなよ”と言った。水を零し練り粉を零したカーディスの失態を、自分の失態にしてくれたのも、イーシャットというらしいルファ・ルダの誰かに、カーディスが見つからないためだったのだろう。


「……よう」


 彼は今は、だいぶ元気そうだった。何故だろう、少し後ろめたそうな顔をしている。カーディスはとことことそちらへ行った。言葉遣いを指摘されたことを思い出し、どう話せばいいのだろうと考える。昨日一日教本をめくったから、少しはマシだと思うのだが。


「こんにちは、よいおてんきですね」


 教本のとおりに言ってみる。フェルドは驚いたようだった。「は?」


「へんですか。ええと、ええと、ほんじつはおひらがもよろしくて」

「あー……いやもう、悪かったって。八つ当たりしてごめん。普通に喋ってくれ」

「ふつうにしゃべっておりまする。おさんぽですか。どちらへ」

「ちょっと捜し物……あ、そうだ。腹減ってないか」


 そう言ってフェルドは、左手に持っていた籠を見せた。カーディスは吸い寄せられるようにその中を覗き込んだ。小ぶりな籠だが、中には美味しそうなものがぎっしり詰まっていた。まず木の実の焼き菓子。そしてクィナの実のパイ。器に入ったぷるぷる揺れる寒天はきっと、葡萄味だ。何て美味しそうなんだろう。ちょうどおやつ時……には少々早いものの、甘い物はいつでも大歓迎だ。


 よだれを垂らさないように気をつけながらカーディスは一応訊ねた。


「おにいさまのめしあがるものではないのですか」

「おにいさまって」


 変なのか。「……おとこさま?」


「……フェルドでいーから」

「フェルドさまのおやつなのではないのですか」

「さまもいらないから。いや、腹一杯なんだよ。外で食べろって持たされたんだけど、食えそうもなくてさ。一口も食べてないとやっぱ、悪いだろ」

「それはそうです。料理人は食べてもらえないとおなげきになりますね」

「そうでしょう。どうぞめしあがれ」

「わーい!」


 カーディスは大喜びで籠を受け取った。手近な切り株の上に腰掛けて、まずはクィナの実のパイに手を伸ばした。クィナは固い皮に守られた、見た目は無骨な果物だが、ペリペリと皮を剥くと中から汁気たっぷりの赤い果肉が覗く、カーディスの大好物である。甘酸っぱくてみずみずしくて、生でも充分美味しいのだが、それを蜂蜜と黒砂糖でぐつぐつ煮ると、甘酸っぱさが更に引き立つ。うっとりする美味しさだ。皮もサクサクで、この料理人の腕にカーディスは感嘆した。どこの誰だか知らないが、さぞや名のある料理人に違いない。うちに来てくれればいいのだが。


「おいしい!」

「そっか」

「フェルドもたべぬか……めしあがらぬか! な!」

「いやほんと腹一杯なんだ……腹ごなしに散歩してたとこでさ。これ以上食うと破裂するわ」

「それはいちだいじですな! うまい!」

「よかったなー」

「こんなうまいものをごちそうになっては王子……じゃなくて男がすたりまする! いざ恩返しを!」

「いーんです」やけにきっぱりとフェルドは言った。「食べていただかないと困るんです。美味いもの食べて、その、……色々忘れ……は、しないだろうけど、なんつーか」


 何言ってるんだろう。


「……人助けだと思って食べて」

「ひとだすけ?」

「それからさ」フェルドは囁くような声で言った。「エルギン王子は生きてるらしい。元気でぴんぴんしてるらしい。だからその、」


 カーディスはクィナの実の甘煮でべとべとの顔をフェルドに向けた。


「……ほんと?」

「ほんとほんと」

「げんき?」

「げんきげんき」

「そうですか」カーディスは籠に視線を戻した。「……そうでしたか。兄様が」


 じわわん、と、胸に温かな何かが湧いた。カーディスは頬を拭おうとし、その前にフェルドが拭布を出した。どこからともなく湧いた水で濡らして、ぎゅっと絞って、「ほら」と渡してくれた。


「ジャムですげー顔になってるぞ」

「……」


 ごしごし拭って顔を綺麗にし、カーディスはフェルドを見上げて笑った。


「ありがとう、フェルド」


 フェルドは少しホッとしたように微笑んだ。「いえいえ」


「しかしなぜ私が兄様の心配をしているとわかったのです? 召使いも侍従たちも誰も知らないことなのに」


 フェルドはさっと目を逸らした。「……それは昨日、ほら、その、……エルギン王子の幽霊騒ぎがあって。そそそそっちにまで噂が行ってたら、心配してるかな? と、思って」

「ふうん。幽霊騒ぎがあったのですか」


 昨日の騒動は、ルファ・ルダでも噂になっていたのか、とカーディスは思う。


「そうそう。だってほら、やっぱりエルギン王子はお前のお兄さんだもんな。幽霊騒ぎといっても、根も葉もない……悪質な、噂、みたいなものだったんだ。だからその、嘘だったんだよ、だからさ」


「そうですか、よかった。兄様はかっこいいんです。ルファ・ルダの方なら知っていますよね。僕より三つ年上で、とても賢いんだそうです。一度一緒に遊んだことがある。とても面白かった。川で遊んだんです。兄様は、葉っぱで船を作ってくれた。もっと遊びたかったのに、ムーサがもう、会ってはダメだと言いました」


 だいぶ言葉もこなれてきた気がする。カーディスがそう言って次は焼き菓子に手を伸ばすと、フェルドが少し怒ったような声で言った。


「ムーサってさ。いったいなんなんだ」

「はむ?」


 焼き菓子をちょうど頬ばったところだったので変な音が出た。


「お前王子なんだろ。偉いんだろ、たぶん。なのに何であんな奴に、色々、勝手に、引きずり回されなきゃいけないんだよ」


 カーディスはしばらく考えていた。返事が出来なかったのは、焼き菓子が口いっぱいに入っていたからだけではなかった。

 その意見――ムーサに対する抗議や悪口を、面と向かって聞いたのは、たぶん初めての経験だったのだ。

 カーディスが今までムーサに対して抱いていた様々な感情を、的確に示す言葉を聞いて、カーディスは驚いていた。おののいた、と言ってもいいほどだった。


 『色々勝手に』

 『引きずり回される』


 ああ、と思う。そう、まさに、ムーサは勝手で、カーディスの意思も意見も聞かずに色々引きずり回していたのだ。今の今まで、その事実を把握していなかった。


「……あんな、やつ」

「そう、あんなやつ、だよ。いや俺は、あいつに殺されかけたから余計にそう思うのかも知れないけど。王子なんだから、命令とかできるんじゃないのか。兄様と遊ばせろって、命令してみてもいいんじゃないのか」

「ムーサは、間違っているのですか?」


 カーディスの周りの人間は、いつもムーサが正しいと言った。以前の教師も、積極的に追従することはなくても、ムーサについての批判的な意見を口にしたことはない。ムーサの言うことはいつも正しく、間違うことはない、というのが常識だった。ムーサがあの先生を追い出したときも、残念ではあったが、仕方がないと思った。だってムーサはいつも正しい。召使いも侍従も、カーディスの傍にいる人間はみんな、ムーサ様のお言いつけに背くわけにはいけません、と言った。カーディスが何かをしたいと言ったなら、ムーサの判断を待たなければならなかった。王である父も、王妃である母も、ムーサをカーディスから遠ざけようとはしなかった。


「そりゃ人間だから、間違うこともある。だっておかしいだろ。兄がいて、お前はその兄と遊びたいのに、遊んじゃダメなんてさ。エルギン王子のことを心配するのだって悪いことじゃないのに」

「ムーサも……間違うのですか」


 その驚愕を消化しようと繰り返す。ムーサも間違うことがある。なぜならムーサも人間だから。つまり人間は間違うものなのか――大人でも?


 カーディスの言葉をどう捉えたのか、フェルドは座り直して太陽を探した。方角を確かめて、左手の方を指した。


「あっち見てみな。あの広場の先には何がある?」

「僕が寝泊まりしてる天幕があります」

「その向こうの森の、ずっとずっと先には?」

「僕たちの国があります。アナカルシス」

「その、アナカルシスの向こうは?」

「海を挟んで、キファサ、という国があると聞いてます」

「更にその先には?」

「キファサの向こうは海です。果てしなく続く海」

 フェルドは頷いた。「その海の向こうは?」

「……光の女神が体を休める家が、あります」

「じゃあ、その家の向こうは?」

「……」

「教えてやろうか。俺の知っている『真実』では、その、キファサ? だっけ? でかい大陸の先の、海の向こうにあるのは、光の女神の家じゃない。別の大陸があるんだ。俺にそれを教えてくれた人は、ガルシア、と呼んでいた。大きな大陸らしい。そこにも、この大地の上と同じように、植物が生えていて、生き物が住んでいる。マティスとかラテとかって、見たこともないような動物がいて、馬の代わりにそれに乗るんだ。川が流れてて魚も住んでて、もちろん人間もいる。言葉は全然違うけど、飯が美味くて、文明が発達した国なんだってさ」


 カーディスは目を見開いていた。「本当に?」


「俺はそう習った。……更に、ガルシア大陸の向こうには、またしても海が広がっていて」

「また!?」

「そこをどこまでもどこまでも進んでいくと、どこへ行くと思う?」

「ど、どこですか?」

「ここだよ。一周して、戻って来る」


 からかうような軽い口調で、フェルドは言った。


「――俺たちの住んでいるこの大地は丸いんだよ。あんまりにも大きすぎるから、平らに見えるだけで」

「嘘だ!」

「信じられない?」

「信じられません。だって、丸かったら、反対側にいる人は落っこちちゃうじゃないですか」

「うん。俺もそう思った。初めはね。でも、落ちないんだ。だって反対側に住んでいる人たちから見れば、俺たちの方が下になるんだから。俺たちが大地の上に乗っていられるんだから、反対側の人たちだって乗っていられるはずだ」


 なんだそれ。カーディスは頭の中がぐるぐる渦巻くのを感じた。

 なんだそれ。なんだそれ。なんだそれ。


 フェルドはカーディスをのぞき込み、人の悪い口調で言った。


「……というのが、俺の知っている『真実』。さあどうする?」

「ど、どうする?」

「自分で確かめてみるまで、大地が本当に平らなのか、それとも丸いのかなんて、本当のところはわからない。俺が『丸い』と言ったからって、すぐに信じられるわけじゃない。だろ? 俺だってガルシア大陸に行ったことがあるわけじゃない。だから本当にあるかどうかなんてわからない。誰かがそう言ってるから、そうなんだろうなって思うだけ。もしかしたら、みんなが寄ってたかって俺を騙してるのかも知れない。

 だから、いつか行ってみようと思ってる。自分の目で見れば、世界の裏側の人たちが大地にちゃんと足を着けて生活してるってわかるし、自分でぐるっと回って戻って来てみれば、本当に大地は丸かったんだなってわかる。――つーかここ、すげーよな! 【壁】がないんだ! アナカルディアまでまっすぐ箒で飛んでけるんだ! ここにいる間に世界一周とか出来たらいーんだけど、やっぱ無理かなあ……!」


 いやいや、ちょっと待って。何言ってるかさっぱりわからない。

 フェルドの言うことは突拍子もなさ過ぎる、と、カーディスは思った。

 でも彼は、嘘をついているようには見えなかった。からかうような人の悪い口調ではあったが、視線はあくまで真面目だった。

 この視線には覚えがあった。

 前の先生が、『どうなのでしょうね。私は見たことがありませんが、あるのかもしれません』と言ったときと同じだった。


「……雷が」カーディスは粛然とした気持ちになった。「ムーサを追い払ったのです」

「ん?」

「フェルド。あなたは僕に雷を落とそうとしたのですか?」


 訊ねるとフェルドは座り直した。空気が変わった。

 この空気にも覚えがあるとカーディスは思った。

 ややしてフェルドもどことなく厳粛な口調で言った。


「してないよ。お前の傍に雷が落ちた――俺も一緒にそこに落ちたそうだけど、覚えてない。あの雷は、誰かが落としたものじゃない。お前を殺そうとしたわけじゃないよ。ただの偶然だったんだ」

「そうですか。……ムーサの言うことは、いろいろと、いろんなところが、食い違っていると思うんです。そもそも、ムーサは、いつも、マーセラの教義を僕に教えます。白い腕の外にはどんな怖ろしい魔物がいるかとか、そういう話です。その中に雷の話もありました。女神の白い指先から放たれる雷は、闇に潜む魔物を撃ち、マーセラの白い腕を汚そうとする者を討つものだと、以前聞いたことがあるんです」


「ふうん」


「……なのにムーサは僕の傍に雷が落ちた時、ルファルファのしかくだと。しかく、というのは、殺そうとする人、という意味で良いんですよね」

「刺客か。そうだよ」

「ずっと、なんだか変だと思っていました。でも何が変なのか、よくわからなかったんです。でも、昨日の真夜中、やっぱり変だと思いました。ムーサは……雷から逃げたんです。死にもの狂いで、まるで……まるで」


 カーディスは言葉を探し、フェルドは黙って待っていた。

 ややしてカーディスは言った。


「ムーサはいつも、マーセラが儂を守ってくださる、殿下もけいけんなしんとになり、マーセラの白き腕に相応しい存在になりなされ、と言う。なのに昨日のムーサは、雷を恐れました。白い腕を汚そうとしたことがばれて、雷に襲われそうになった、罪人のように」


「……」


「……ムーサは僕に、嘘をついていたのですか? ずっと?」


 そう思うことは、カーディスに、底冷えのするような恐怖と哀しみを与えた。

 硬い大地だと思っていた地面が、実は脆く危うい石塊の集まりだったと、初めて気づいたような。


 フェルドはしばらく考えていたが、ややして、低い声で言った。


「嘘だったのかも知れないし、嘘じゃなかったのかも知れない。そんなこと、気にしたって仕方がないよ」


「……どうして……?」


「正解なんて得られないからだよ。人には立場と主観というものがある。ムーサに聞いたって、心の底ではどう思っていたとしても、『わしは敬虔な信徒じゃ!』って言うに決まってる。だから、ムーサが本当はどう思ってるのかなんて、お前が気にしたって仕方がないんだ。肝心なのは、お前がどう思うかだ。ムーサは、雷はマーセラの指先から出るものだって言った。ムーサにはそれが真実なのかも知れない。でもさ、ルファ・ルダの人に聞いてみな。きっと、雷はルファルファの指先から出るんだって言うぜ。ルファ・ルダにとっては、それが真実なんだ」


「……」


「お前はどう思う。どっちだと、思う?」


「……ぼ、く……?」


「どっちの言うことが正しいと思う? それは、誰も教えちゃくれないことなんだ。誰かの言葉の中からは、“真実”じゃなくて、“その誰かが真実だと信じていること”しか得られないんだ。さっき話した、大地が丸いって話も同じだ。お前の国では、みんなが大地が平らで、海の向こうには光の女神の家があるって言う――それはきっと、お前のまわりのみんなが、真実だって思ってることなんだ。そう信じてるってだけだ。俺の国ではみんな違うことを信じてる。

 だから、誰かの語ったことを自分の真実だと、思い込まない方がいい。色んな人から話を聞いて、材料を集め、自分で考えて、自分なりの真実を、見つけていくしかないんだ」


 カーディスは、今の言葉の意味を、黙ってじっと考えていた。

 大地が平らだというのは真実だと思っていた。でも、フェルドはそうじゃないという。それなら。

 ルファルファというのは、どういう神様なのだろう――?

 初めてそう思った。今までは、邪神だと思っていた。闇を司り魔物を従える、呪いと憎しみからマーセラの白い腕を汚し中の世界を平らげようとする、絶望の象徴。それを奉じるルファ・ルダの人たちも、世界を滅ぼそうと考える怖ろしい人たちなのだと――そう、そうだ。ムーサがそう言うから、そうだと思っていた。


 でも、それにしてはおかしい。ルファ・ルダに住む人、イーシャットもフェルドも、普通の人らしい……少なくとも魔物ではないらしい。ルファ・ルダの料理人が作った菓子はほっぺが落ちるほど美味しい。ルファ・ルダの森の中は光に満ちている。第一兄様が、あの兄様が、三年間もここに住んで元気いっぱいでいる。ルファルファの指先からも雷が出ると言う人がいて、ムーサは雷に追い払われて逃げた。


 ムーサにとって、“ルファルファは邪神”なのかもしれない。ムーサが内心どう思っていようと、ムーサの立場では、カーディスにそう教えるしかない。


 ――でも。

 カーディスにとっては、どうだろう。

 自分は、どう思うのだろう。


「……よく考えてみます」


 最後に呟くと、フェルドは頷いた。「それがいいよ」


 考えろ、と、カーディスは思った。考えろ、考えろ。

 フェルドの言ったことは、カーディスの胸に、絶望に似た何かをもたらし、棘のように刺さった。

 きっとこの棘は大人になっても、いや死ぬまでずっと、抜けないだろうと、カーディスは予感した。


 でもこの棘のもたらす痛みはきっと、呪いではない。――そんな気もする。




 話が途絶え、カーディスは菓子の残りにも手をつけられず、黙ってじっと考えていた。フェルドも黙っていた。うららかな夏の昼下がり。木々に囲まれて木漏れ日を浴びている。小鳥のさえずりが聞こえる。平和で静かで、何事にも代えがたい午後だった。相談すればきっと親身になってくれるとわかっている大人が、すぐ隣にいる。その人は、カーディスが相談する気になるまで、あれこれ口出しをせずに放っておいてくれる。家庭教師が追放されて以来、ずっと切望し続けていたひとときだった。


 その静寂を破ったのは、フェルドでもカーディスでもなかった。


 小鳥のさえずりが、止まったことだった。


 フェルドが顔を上げ、カーディスも座り直した。なんだか、寒い。肌がぴりぴりする。

 先程まであれほど穏やかな居心地の良い空気だったのに。

 今は居たたまれないほどの、ぴりぴりと刺すほどの――無音だ。


「カーディス」フェルドが初めて、カーディスの名を呼んだ。「走れるか」

「これは……何ですか?」

「わかんね。でも覚えがある。前に――」

『……おかしいな』


 新たな声が聞こえた。

 北側。ふたりが今まで座っていた背後の、木々の隙間。

 そこにいつの間にか、漆黒の獣が座っていた。

 巨大な狼だった。口の隙間から覗く牙まで黒い。

 カーディスは後退った。魔物だ。

 炯々と光る瞳は、様々な色が複雑に、大理石のように渦を巻いている。

 魔物はじっとフェルドを見ながら、口を開いた。


『こんなに異様なのに、あの“流れ星”とは違うようだ。――お前は何者だ?』

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