第二章12
※残酷表現があります
追跡を始めて丸1日が経った。ヴァシルグは頑なに振り返ろうとしない。
フレデリカが追いかけてきていることは、わかっているはずだ。
そして振り切ることができないことも、わかっているはずだ。フレデリカは愉しかった。獲物を追いかけるのは、いつだって愉しい。本来なら追跡は“右”の役割なのだろうが、こんな愉しいこと、“右”だけに独占させるのは業腹だ。全く“右”は考えなしで愚かで馬鹿で、フレデリカは最近訝しみ始めている――本当にフレデリカに釣り合う、頼りになり命運を預けられる“右”など、いつか生まれてくるのだろうか?
アナカルディアの王宮に居を構えて以来、もうずいぶん長い間、アナカルシスの王を幾人も操り暴君に育て上げては、美味しく食べてきた。その行程は幾度繰り返しても愉しいけれど、これをいつまで続けるのだろう、と、思い始めていることも確かだ。新たな“右”は確かに何度も箱庭の中に送り込まれてきている。しかし皆、フレデリカのところに辿り着く前に斃れる。銀狼に狩られ、あるいは人々に追われ。もっと良く考えればいいのに。もっとうまく立ち回ればいいのに。“右”が排除されるたび、いつも思う。何やってるの、やる気あるの? いつまで待たせるつもりなの? そんなに力がないの? バカなの?
今回の“右”も期待外れだった。彼が今最優先すべきは“流れ星”の排除――次に、それを手土産にフレデリカの元へ来て、つがいの儀式を済ませ、それから共に手を携えて、アシュヴィティアのために尽力すること。それなのに“彼”は人間などの挑発を受けて立ち、足止めをくらい、ただの獣か何かのように狩られている。
だからもう、“右”に期待するのはやめよう、と思う。アシュヴィティアの“左翼”、淑黒のフレデリカたる者、座して“右”の来るのをただ待ちはすまい。狩りたければ自分で狩れば良かったのだ。だから狩りに行こう。あの“流れ星”は脅威になる。エルギン王子と共にいるという、ふたりの少女――それが“流れ星”の正体に違いない。
『ヴァシルグ』
馬を駆るヴァシルグに声をかける。ヴァシルグは答えない。
ルファ・ルダを出てから早一日。あまりの速度に付き従う兵は次々に脱落し、もはやヴァシルグに何とか追い縋っているのはたった三人しかいない。もうすぐ次の集落に着く。馬を取りかえて、ヴァシルグはまた走り出すのだろう。目的に向かって、一途に。
こういう男が、“右”であったら好いのに――そう思いながら、もう一度声をかける。
『ヴァシルグ。儂の言うことを聞かぬか。相手は空飛ぶ箒であろうが、今頃は、とっくにアナカルディアの近くにまで行っておるぞえ。どんなに馬を取りかえて飛ばしたとて、地を走っておる限り追いつけぬ。捕らえたくはないか。あと一歩のところで取り逃がしたルファルファの娘――』
ちらりと、ヴァシルグがこちらを見た。その視線の鋭さに、またぞくぞくする。
『ルファルファの娘を捕まえて、足でも切り落としてやるが良い。さすればもはや逃げられぬ。マーセラを侮り、偽者の神だと揶揄する者たちも、ルファルファの娘さえマーセラの懐に閉じ込めれば、もはやマーセラを誹りはすまいぞ。エルギン王子は殺せ。ふたりの娘を捕らえて楽しめ。目を抉り鼻を削ぎ耳を落として、思うさま悲鳴を浴びれば良い。何しろ“邪神”の使いじゃもの、どう扱うても良いはずじゃ。追いつきさえすればいくらでも――』
ヴァシルグも、訓練されたマーセラの兵たちも、誰一人としてフレデリカの甘言に耳を貸そうとはしなかった。マーセラにとっても、魔物は忌むべき存在だからだ。追い縋る兵の三人は、疲労にぼうっとしながらも、健気にヴァシルグの後を追う。
『我を張るな』
ざっ。茂みを飛んで、また追い縋る。
『ルファルファの娘を捕らえれば、そなたの栄誉を約束される。どんな富も思いのままじゃ――のう、お前たち。そんなに必死で走らんでも、儂の力を借りさえすれば、王子と神子に追いつかせてやれると言うておるのに。疲れたろう。ひもじかろう。儂の力を借りたことなど、誰にも言わねば良いことではないか――』
「失せろ!」たまりかねたように兵が叫ぶ。「魔物になど……魔物になど! 退け、魔物め! 誑かすな! 惑わすな! 我々マーセラ神官兵は、絶対に、絶対に! 魔物の力など……! ムーサ様のお教えを……!」
と。
ヴァシルグが手綱を引き絞った。
馬がいななき竿立ちになり、追い縋っていた三人の兵が驚き慌てながらヴァシルグを避け、先へ行きすぎる。と、ぎゃッ! 悲鳴が上がった。血しぶき。いななき。ひとりが馬から転げ落ち、身軽になった馬が走り去る。
転げ落ちた兵は既にこときれていた。
喉元からまだ噴水のように血を噴き出して、驚愕に見開かれた目はもはや瞬きをしない。
「……ヴァシルグ様!?」
ヴァシルグが馬の尻を再び蹴った。馬が飛び出し、行きすぎて馬を止めたばかりの二人へ迫る。フレデリカはぞくぞくした。ヴァシルグの剣は血で、部下の血で、真っ赤に染め上げられていた。その剣を振りかぶり、ヴァシルグが残ったふたりの部下に迫る。
『わあお』
フレデリカが喜びの声を上げたとき、ふたりの部下が続けざまに斬られた。一人は袈裟がけに、もう一人は横薙ぎに。驚いて走り去る馬の背から、二人の部下が落ちる。一人は落馬と同時に絶命し、もう一人は引きずられ、断末魔の呻きが遠ざかっていく。
「……どうやって追いつくのだ」
ヴァシルグが、引きずられ遠ざかっていく部下を見送りながら言った。フレデリカはくすくすと嗤う。
『ようやく話を聞く気になったか』
「なかなか振り切れなかった。他の兵のように早いうちに脱落すれば死なずに済んだものを」
『ふふふ。賢い男は好きじゃ。エルギン王子を殺し、エルカテルミナを捕らえれば、ムーサはそなたに望みのままの褒美をくれるであろうのう』
「ムーサか」
ふん。ヴァシルグは鼻で嗤った。
フレデリカはちょっと驚いた。それは喜びを伴った驚きだった。忠誠と信心の故にムーサの意のままに動いているのかと思っていたが、見くびりすぎていたらしい。
「エルカテルミナが手に入れば」ヴァシルグは微笑んだ。「神官長の座は私がいただく」
『ふふふ』
「無駄口を叩いてる暇はない。どうやって追いつくのだ」
『よしよし。その馬を貸しや』
ぞくぞくしながらフレデリカは、ヴァシルグが乗った馬に飛びかかった。悲鳴とともに馬が竿立ちになった。振り立てる頭を捕らえ、耳の中に潜り込む。ずち――鈍い音と共に耳を通って、様々な器官を食い破り頭蓋へ。毒を解き放つと一瞬で馬は絶命した。
ずるり、外へ出て来ると、地面に横倒しになった馬から、ヴァシルグが身軽に降り立ったところだった。彼は顔色も変えておらず、フレデリカにはそれも望ましかった。フレデリカは体に付いた液体を振り払い、舐めとり、それからおもむろに馬の後頭部にへばりついた。
ここにいるフレデリカは、王宮にいるフレデリカの本体から分かれた分身である。本体に比べれば出来ることは制限される。ここにいるのが本体だったなら、ヴァシルグを背に乗せてアナカルディアまで、1日足らずで辿り着くことも可能だろう。けれど今は馬の体を借りるしかなく、それが少々歯がゆくはある。
が、分身といえど馬の体を借りれば、休むことも限界も考えずに走ることが出来る。馬の体が現状をとどめている限り最速で走り続ければ、箒に追いつくことだとてきっと簡単だ。
王宮に彼らが辿り着く前に、ケリをつけたい。王宮であまり大っぴらに動き回っては、フレデリカの本体に支障が出る。何しろ王宮にはアンヌ王妃がいる。エリオット=アナカルシスの逆鱗であり正妃であるあの女は、どうも油断がならない。
追いついたら――
馬の背にヴァシルグを乗せ、疾走を始めながら、フレデリカは思った。
“流れ星”であるふたりの少女をヴァシルグが“処理”するときは、絶対に傍にいよう。少女の恐怖と屈辱と絶望は格別の味がするのだ。ヴァシルグならば極上の感情を引き出すことができるはずだ。その傍でフレデリカは、美味しい感情をたっぷりと味わうことが出来る。
好い男を見つけた。フレデリカは愉しかった。
“流れ星”を味わうのが、今から楽しみでならなかった。できるだけ長持ちさせるための方法を考えながら、フレデリカは森を駆けていった。