第二章9
地下神殿には普段、滅多に来ない。
なのに最近は、ここに通ってばかりの気がする。イーシャットは持ち込んだ木箱に座り、ランダールとムーサが来るのを待っていた。
フェルドの立てた計画はとても単純で、それでいてとても効果的だと思えるものだった。あいつは本当に遙か遠くから来た人間らしいとイーシャットは思った。ここ近辺の人間だったなら、いやしくも王位継承権を持つ人間に対して、そんな計画思いつきもしないだろうからだ。
不安なのはランダールに計画を打ち明け、協力してもらう打診ができなかったことである。
地下神殿は、昨夜より明るい。儀式のために燭台がいっぱい立てられているからだ。しかしゆらゆら揺れる燭台の明かりは神殿の暗がりを際立たせ、雰囲気たっぷりというか、おどろおどろしいというか――本当になんつーこと思いつくのだ。イーシャットはほくそ笑んだ。時間も真夜中である。カーディス王子は八歳である。これならきっとうまくいく。――気の毒に。
永劫にも思える時間が過ぎ、ようやく、ランダールがやってきた。その後を、ムーサに抱えられるようにしてカーディス王子が降りてくる。王子はほとんど眠っている。うとうとしてはハッとして目をこする。イーシャットは、ちょっと前までのエルギン王子を思い出した。まだ背が低くて、ほっぺがぷっくりしていて、そりゃあ可愛らしかった。カーディス王子は王妃に似ていて、エルギン王子はどちらかといえば父親似なので、二人の王子はあまり似てないと思っていた。でもカーディス王子にはやはり、エルギン王子の面影がある。
あんな小さな子供に、これからちょいと酷いことをしなければならない。
しかし、いやいやムーサにエルギン様が殺されかけたのもあれくらいの頃じゃないかと思い直して、イーシャットは立ち上がった。後ろを気にしていたランダールと、カーディス王子に気を配っていたムーサは、壁際に座っていたイーシャットに今まで気づかなかったらしい。ぎょっとして、それでカーディス王子が目を覚ました。
イーシャットはランダールを見据えた。ムーサが憎々しげに言った。
「これはこれはイーシャット、この死に損ないめ。こんなところで何をしている?」
「それはこっちの台詞だ。……エルヴェントラ=ル・ランダール=ルファ・ルダ、エルギン様をこれまで匿ってくれたことには感謝している。……だがこれはいったい、どういうことだ?」
立ち上がると踵が座っていた木箱を蹴った。ごとん。うつろな音が地下神殿に響く。
「そなたの出る幕ではない。引っ込んでおれ」
「……ヴァシルグがエルギン様を殺したなんて、俺は信じない」
カーディス王子が息を呑んだ。何か言おうとしたが、ムーサがぎゅっとその手を握って黙らせた。ムーサの口元に酷薄な笑みが浮かぶ。
「聞き捨てならぬな。ヴァシルグがエルギン王子殿下を手にかけたりするものか。ただ、森の中で亡骸を見つけたと報告を受けたから知らせたまでだ。葬儀に向け、亡骸はアナカルディアへ丁重にお送りしておる」
「もともとこの狩りは、エルギン様がルファ・ルダの統治権を得るためのものだった。そこをごり押ししてカーディス王子殿下と競う形にさせられ、さらには邪魔だからと矢で撃たれ剣で斬られた、とか。……それが本当なら、さぞ無念でいらっしゃるだろうな」
カーディス王子は立ち尽くしている。イーシャットはできる限り恨めしげに王子を見つめた。
「ほほう」ムーサがニヤリと笑う。「仇でも討つつもりか? カーディス様に指一本触れてみろ、ルファ・ルダの住民がどのような目に遭わされると思う」
「遭わされるんじゃねえだろ。遭わすんだろ、あんたが。カーディス王子殿下にマーセラ神殿を背負わせ、さらにはこの国を背負わせるために、どれほどの血を流すつもりだ! エルギン様に――」
イーシャットはどさりと木箱に腰を下ろした。両手で頭を抱える。
「……エルギン様が本当に亡くなられているなら俺も生きちゃいられねえよ、ムーサ。あんたはきっと、死ぬまで理解しないんだろうな。あんたがどれほどの血を流し、どれほどの恨みを浴びてきたのか……」
「儂はマーセラの白き腕の中に平穏をもたらすために尽力しておる敬虔なる信徒じゃ。恨みなど、浴びるものか」
「ランダール」イーシャットは呻いた。「……恨むぜほんと。この国を得られなければエルギン様は、例え生き延びておられたとしてももうお終いだ。ルファルファってのは残酷な女神だな。闇に蠢く死霊を慰める神だとか聞くが、ムーサの言うとおり、死霊を操り生に仇なす邪神だと、信じられそうな気がしてきたぜ……!」
がん、と踵で木箱を蹴る。ごとん。木箱が音を響かせる。
と。
こつん。
足音が響いた。北側の中央部分――祭壇のあるあたり。ルファルファ神のご神体に見立てた金髪のひと房が置かれている辺りだ。
続いて。
ふっ。
蝋燭のひとつが、揺らめいて消えた。祭壇の上に置かれている燭台のひとつ。
カーディス王子が息を呑んだ。ゆらり、隣の蝋燭が揺れ、また消えた。こつん、こつん。足音が響き、北側の壁に掛けられた複雑な意匠の壁掛けの房が、ざわめいた。北に置かれた燭台の炎が揺らめき、ざあっと風が吹いて炎を消した。くすくす、くすくす。誰かが声を潜めて笑うような音が響き、壁掛けの房の左端が揺れ、その辺りの燭台が消える。
こつん。こつん。
足音は東の壁に近づいた。燭台がざわめき、揺らいで消える。
「だ、誰っ!?」
カーディス王子が甲高い声で叫び、イーシャットは囁いた。
「ああ、エルギン様は慈悲深い主だ。俺を哀れんで――様子を見に来てくださったのかなあ」
「――そう言えば、こういう話があります」
ランダールが言った。
イーシャットはムーサの手前、目配せさえ出来なかったが、ランダールはどうやら、何が起こっているのか――そして何を目的とした茶番なのか、悟ったらしいのだった。そして喜んでそれに乗った。よく似た主従だと、また思った。
地下で足音を担当しているのはゲルトである。ゲルトが、あのゲルトがだ、意外にもとても乗り気だった。ノリノリ、と言っても差し支えないほどだった。そしてランダールも同様だったということだ、もちろん、エルギン王子の領主就任に横やりを入れてきた形のカーディス王子に、ランダールも複雑な思いを抱えていたに違いない。王子の身内であり王子の事情をよく知るイーシャットからすれば、カーディス王子が望んだ横やりではないだろうとわかっているものの、ランダールにはそんなこと知ったことではない。
こつん、こつん、こつん。
地下二階の宝物庫で床を剣で突き、亡霊の足音を担当しているゲルトは、足音をゆっくりと、しかし着実に、カーディス王子に近づけて行っている。イーシャットの座っている木箱は、外が見えるようわざと荒い木組みにしてあって、その中でフェルドが――どうやっているのかはわからないが――足音のする辺りの燭台を、ひとつひとつ消している。ゆらゆらと燭台が揺らめき、ふっと消える。姿の見えない亡霊が、足音だけを響かせて、燭台を吹き消している――カーディス王子は悲鳴を上げた。
「やだ……嫌だ、嫌だああああっ」
「殿下!」
ムーサがカーディス王子を抱き締める。ランダールは囁いた。
「ルファルファ神は、死者を哀れむ女神です。亡くなった魂はそのまま放っておけば、白き腕の外に漂い出、毒に蝕まれ、正の世界を脅かす魔物になりかねない。だから……恨みを含み憎悪を抱いた霊は、白き腕の外に出す前に、慰めるというのです。恨みを晴らせてやろうと。憎悪を……なくなりはしないまでもせめて、軽くしてやろうとして、心残りを与えた相手に、返礼を――」
こつん、こつん。
風に応じて、隣の蝋燭が揺れて消える。ひとつ――また、ひとつ。姿の見えない何かは、着実にカーディス王子に向かって歩いてくる。カーディス王子は暴れてもがいた。ムーサの腕から抜け出して、泣いた。
「嫌だあ! 嫌だ! 嫌だあああ!」
「殿下!」
「兄様、兄様! 亡くなられたなんて! 死んだなんて……! ひどい、ひどい、なんでそんなことが……! 私は兄様ともっと、遊びたかったのに……!」
あれ。
イーシャットは一瞬演技を忘れた。
今なんか、この王子、変なこと言わなかったか。
ムーサは舌打ちをした。ランダールに向けて居丈高に叫んだ。
「とにかく小石はどうした! エルヴェントラの小石をっ、我が殿下に継がせぬか……!」
「ムーサ!!!」
カーディス王子が金切り声を上げた。涙目で、鼻水も出ていたが、カーディス王子は泣きじゃくりながらムーサに殴りかかった。
「兄様を殺したのか! 兄様を殺したのか!? ヴァシルグがっ、兄様をっ、私の兄上を殺したというのは本当なのか!?」
「殿下!」
「エルヴェントラの小石などいらぬ! 私はそもそもこの国のっ、統治権など欲しくはない! 兄様の邪魔などしとうはなかった! 私の質問に答えろ! 兄様が死んだというのは本当なのか!? ……兄様……!」
「殿下!!」
ぱちん、鋭い音が鳴った。カーディス王子の頬を、ムーサが張ったのだ。
「何を甘っちょろいことを言われますか! 殿下はこの国の王位を継ぐお方! 肉親の情などという愚かなものに囚われては、母上が泣きまするぞ! 兄であろうと踏み越えて行かねば――」
地下神殿の半周の燭台は既に消え、辺りは暗い。
フェルドは、“光がないと蝋燭を消せない”と言っていた。消せるのは半周くらいまでだと。何とかしてこのくそじじいを追い出さねば、とイーシャットが思った、その時。
そこに、ずう――と、何かが立ち上った。
何も見えないのに。でも確かに何かがそこにあるのをイーシャットは感じた。ムーサの背後に、何か……何だろう、空気の、固まりのようなものが、ムーサにのし掛かるように立ち上がった。そこだけ明らかに空気の密度が違った。圧し潰されそうな重圧。
「!」
ムーサが息を呑んだ。燭台が続けざまに消え、漆黒の暗闇の中、低い、低い、囁き声が聞こえた。
『……失せろ』
呪詛をも含むような、重く静かな声だった。間違いなくフェルドの声で、間違いなく、怒っていた。イーシャットも、ランダールでさえぎょっとした。ムーサは泡を食い、カーディスを抱え上げた。まろぶような勢いで地上への階段を駆け上がり、外へ飛び出した。しかしすぐに駆け戻ってきて、嗄れた震える声が怒鳴った。
「ら、ランダール! エルヴェントラの小石を寄越せ――!」
――まだ諦めねえのかよ!
ムーサが覗く穴の、皺深い顔の、目の前で。
ばちっ。
稲光が、光った。そして。
ごおっ――
突如巻き起こった暴風が、部屋の中で荒れ狂った。
地下神殿に満ちる漆黒の闇を、すさまじい音を立てて、光の筋が切り裂いた。うねうねと暴れ回る光の筋は悶え苦しむ蛇に見えた。あまりの轟音に全ての音がかき消される。
覗き込んでいたムーサが、今度こそ、泡を食って逃げていった。
イーシャットは立ち上がった。前髪の間で細かい静電気が踊り回るのを見た。
彼の真下にあった木箱から、フェルドが出てきて立ち上がった。バチバチと炸裂する光の玉に照らされて、フェルドの前髪にも静電気が踊り回っているのが見えた。フェルドが目を見開いている。光の玉の中心――そちらに視線を移したイーシャットは、そこに、知らない人間がいるのを見て驚愕した。
「……!」
稲光が激しくなり、フェルドが目を庇うように腕を上げて叫んだのが耳に引っかかった。らら、と言ったようだ。女性にはあり得ないほどの短さに切られた髪をもつ、小柄な美しい女性が、フェルドに向けて左手を差し伸べていた。その隣にいるのは壮年の男。白髪交じりの、どことなくくたびれた男の頬に、刻まれた皺までよく見えた。
『フェルド……!』
女性が叫ぶ。あちらの世界は、稲光を浴びて輝いていた。あそこはどこだろう? 今まで一度も見たことのない部屋だ。磨き込まれた食卓、透明な板がはめ込まれた窓、ぎっしりと並べられた本――
フェルドの故郷だ。
イーシャットは悟った。
あそこは、箒が空を飛び紋章なしで水や風や光を操る人間がいて酷いケガを跡形もなく治す医師がいる、雲の上の国だ。
ごうごうと叩きつけてくる風と、むき出しの皮膚をちくちくと刺激する静電気を浴びながら、イーシャットは再びフェルドを見た。
彼は呆然と佇んでいた。らら、と、その口がまた動いたのが見えた。
帰るのか、とイーシャットは思った。
帰るのか、お前。
ルファ・ルダをムーサの手から守った。この稲光はさすがのムーサの肝をも冷やし、カーディス王子にこの国を秘密裏に継がせるのを諦めて遁走した。――だから。
だから帰るのか。
用が済んだから。
帰り道が開いたのかよ、おい。
『フェルド! 無事なの……!?』
フェルドは不慮の事故でこちらに来たと言った。どうにかして帰り道を探さなければならないと。
今までイーシャットは、それを本気で、考えていなかった。
しかし、いなくなったエルギン王子を、イーシャットとマスタードラが、死にもの狂いで探したように。空飛ぶ箒などという得体の知れないものに乗って、マスタードラがエルギン王子のところに駆けつけていったように。
いなくなったフェルドと仲間の少女ふたりを、あちらでも、死にもの狂いで探していたのだ。
らら、と呼ばれた女性はフェルドの姉だろうか。大人の女性だ。髪型は不思議だが、とてもよく似合っている。たぶん美しい女性なのだろうと思うが、今、彼女は目の下に隈を作っていて、フェルドたちを探してずいぶん憔悴している様子がわかる。心配していたのだろう。それはそうだとイーシャットは思った。エルギン様が唐突にいなくなったとき、俺がどんなに心配したか。
そうか。
お前にも、故郷と、家族が、あったのか。――本当に。
『早く来なさい! 何してるの――』
『フェルド』
そう言ったのは、壮年の男だ。
彼らの声がはっきり聞こえるのが不思議だった。稲光の渦は部屋中に満ち、耳を聾するほどの轟音も満ちているのに。
壮年の男が、手をのばした。稲光が激しくなった。手をのばせば男の手に届く、それくらいしか離れていない場所にフェルドの故郷がある。『早く』『早く!』『長くは持たないんだ!』彼らの声が口々にフェルドを急き立て、フェルドは、彼を引きずり込もうするような風の流れに耐えるように両足を踏みしめた。ぎりっと歯を食いしばったのが聞こえた。
「ごめん!」
とフェルドは叫んだ。
「まだダメだ! ……ひとりで戻るわけにはいかない!」