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魔女の遍歴  作者: 天谷あきの
魔女の冒険
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第二章8

 フェルドに宛がわれた家は、ランダールの家の、通りを挟んだすぐ隣にある。

 ルファ・ルダの慣例では、これはかなりの好待遇を意味する。料理をするのもマーシャであるから、賓客扱いと言って差し支えない。

 フェルドの捜し物は結局見つからなかったが、イーシャットは上機嫌だった。マーシャがイーシャットにも食事を用意してくれると確約してくれたからだ。賓客扱いなのはフェルドだけだが、そのお相伴にあずかれるのは悪くない。


 ところが。


「……変だな」


 思わず声が漏れた。フェルドが泊まるはずの家に、明かりが灯っていない。見れば、ランダールの家にも明かりがない。集落はどことなくざわついているが、既に家路を急ぐ時間を過ぎているから、人通りもほとんどなかった。夕餉の支度を調えるのに、マーシャが数人の女たちを指揮して、厨房と家を行ったり来たりしているだろう――無意識にそう思っていたから、その違和感が際立つ。


 程なく小さな家に辿り着いた。この家は“賓客”が泊まるための家だから、厠と風呂以外には、小さな部屋がひとつあるきりだ。寝台はふたつあるから、今日はイーシャットもここに泊めてもらおうと思っていたところだった。扉を叩こうと手を挙げたとき、後ろから、囁くような声が聞こえた。


「戻ったか」

「ゲルト」


 ふたりが戻るのを、そこで待っていたらしい。暗がりの中にゲルトが佇んでいた。日が暮れたばかりで、まだ月のどちらも昇っていないから、辺りは殆ど漆黒の闇だ。何でこんな場所で。何で明かりを点けずに。訊ねようとしたイーシャットを、ゲルトの声が遮った。


「フェルド。ちょっと話を聞きたい。少しでいい、一緒に来てくれないか」

「……ゲルト?」


 訊ねると足音がした。ゲルトが遠ざかっていこうとしている。イーシャットはもう一度声をかけた。


「ゲルト、何が」

「……あなたは先に入って待っていろ。心配するな。少し話を聞くだけだから。フェルド、頼む」

「わかりました」


 フェルドが応じ、ゲルトの後に続いていく。イーシャットはずっと挙げたままだった手を下ろし、とりあえず足音を消そうと靴を脱いだ。

 イーシャットはエルギン王子の身内である。諜報担当である。

 こういうときに黙って内緒話を見過ごせる諜報担当など、この世のどこを捜してもいないだろう。



    *



 ゲルトとしても、イーシャットがついてきていることなど百も承知のはずだ。

 本気でイーシャットに聞かせないつもりなら、それ相応の対応を取ったはずだが、そんな気はないようだった。ゲルトは殆ど真っ暗闇の中を歩いていった。植え込みの陰までやって来て、動きを止めた。


「聞きたい話って――」

「箒がないとあちらの状況がわからないのか」


 訊ねかけたフェルドの言葉を遮るようにゲルトが言った。イーシャットはそれを聞いて、ゲルトはあまり余裕がないらしいと思った。珍しい――とても珍しいことだ。不安が胸に忍び寄ってきた。何かよっぽどのことが起こったらしい。


「他に、何か、……あちらの状況がわかる手段はないのか」

「ありません。何があったんですか?」


 フェルドの返答にゲルトは逡巡した。

 しかし、すぐに、静かな抑えた声が言った。


「つい先程、ムーサの使いがランダール様のところへ来た。ニーナ様を捕らえたと」


 イーシャットは愕然とした。何だって?

 今なんて言った?


「――マリアラとラスは」

「ふたりの少女も捕らえられたそうだ。エルギン王子については――」

「……」

「亡くなられたらしい」

「!」


 思わず気配を消すのを忘れた。がさっと茂みが音を立て、フェルドがびくりとした。ゲルトが静かな声で言う。


「ニーナ様を盾にされては我々になすすべはない。ムーサは、ニーナ様を捕らえ、アナカルディアのマーセラ大神殿へ護送していると言った。あちらの要求はこうだ。ルファ・ルダはマス・ルダと名を変え、ルファルファの民はすべからく、マーセラの民となるようにと。……ランダール様は今、ムーサのところへ行かれている。エルヴェントラの座をカーディス王子に譲る、ための、儀式を執り行わなければならない、その準備のためにだ。儀式自体は真夜中に、地下神殿で行われる。私はエルヴェントラの証を取りに来た。その途中で……その……本当にもう、取る手はほかにないのかと」


 ルファ・ルダはルファルファ神への信仰を捨て、マーセラ教徒に改宗する。

 ルファ・ルダのエルヴェントラの座は、ランダールからカーディス王子へ。

 そうすると、と、イーシャットは思った。


 ――エルギン様はここも追い出されるのか?


「……信じんのかよ!!!」


 悲鳴のような声がして、イーシャットは、すぐにその声が自分のものであると悟った。辺りは本当に真っ暗で、ゲルトの顔は全然見えない。


「信じ……しんっ、信じんのかよ!? あんたらが!? あんたらずっとっ、俺なんかよりずっと、ずっと腹黒くてっ冷静沈着で! 大人だったくせに! ムーサなんかの言うこと真に受けて、この土地を、ルファ・ルダをっ、エルギン様じゃなくてカーディス王子になんて、……本気で!?」

「イーシャット、声を鎮めてくれ。……信じざるを得ない。ムーサはエルギン王子殿下の上着を持ってきた。血まみれだった。あの出血では、今頃生きてはいないだろう」

「見せろ!」


 イーシャットはその場にまろび出た。手をめちゃくちゃに振り回し、掴んだ誰かの上着を力任せに引いた。


「見せろ! 見せろよ! ぜってえ信じねえぞ俺は! エルギン様が、あの方が、俺を置いて……っ」


 イーシャットが掴んでいる上着はゲルトのものだった。彼は何も言わず、持っていた何かをイーシャットに押しつけた。ぷん、と血の香りが鼻をついた。その布きれは、既に乾いていた。ごわごわと硬い。

 真っ暗で何も見えない。こんなんで、こんなものが、エルギン様の上着だなんてどうやって確かめろって言うんだ。

 イーシャットがそのごわごわの布きれを抱き締めて喚こうとしたとき、ぽっ、と明かりがついた。


 フェルドの手のひらの上に、光が浮いている。


「……何だそれは」

「光ですよ。ないと見えないから」

「…………………………それは、そうだが」


 ゲルトが呻く間に、イーシャットはそのごわごわの布きれを広げていた。確かに、エルギン王子のものだった。大きさと言い縫製と言い、間違いない。

 血まみれだった。

 背中に、矢の痕がふたつ。矢傷の跡の隙間を、斜めに、まっすぐに、鋭利な切り傷が走っていて、殆どぼろきれだ。

 この上着に染みこんだ血が、全てエルギン王子のものなら――


 そんな。

 エルギン様が。

 エルギン様が。

 エルギン様が。


「……ちょっと見せてくれ」


 フェルドが言い、イーシャットの手から、その上着を取り上げた。イーシャットは反射的に握りしめようとし、指先に力が入らないのに気づいた。エルギン様が死んだ、と思っていた。エルギン様が死んだ。亡くなられた。俺を置いて。マスタードラも置いて。死にかけておられる母親のレスティス様より先に、逝かれるなんて――


「……そんなのありかよ。ねえだろ」

「そうだな。ないと思う」


 フェルドがそう言い、ゲルトが、訊ねた。


「ない、とは?」

「この上着の持ち主は、たぶん死んでないと思う。……この切り口だけど」


 そう言ってフェルドは地面の上にその上着を広げた。背側の、左肩から右脇腹にかけて、殆ど切り裂かれている。


「これは剣じゃない、鋏で切った跡だ。ほら、こっからここまでまっすぐで、ここで一度入れ直して、またここからまっすぐ」


 確かに、と、思った。よく見ればこの切り口はまっすぐではなく、途中で何カ所か、微妙にずれている。剣で袈裟懸けに切ったのだとしたら、こんな切り口にはならないだろう。


「この上着の持ち主が大ケガしたのは間違いない。で、それを治療するために、上着だけを鋏で切った。切ったのはマリアラだ。……マリアラが巾着袋を持ってたかどうかまではわからないけど……ああいや、鋏を持ってるんだから、きっと巾着袋も持ってたんだと思う。持ってたら今頃王子は元気満々だろうし、持ってなかったらまあ、貧血ではあるかな。水飲んで二、三日寝れば治る」


「……このケガでか?」


「すごく運が良かったんだ。見つけたのが俺だったら王子は死んでた。マリアラは……ええと、医師なので」

「そんなべらぼうな腕を持つ医師がいてたまるか」

「箒が空を飛ぶところを見たじゃないか。話に聞いただけだったら、そんなべらぼうな箒があってたまるかって、言ってたんじゃないですか」

「……死んでねえの?」


 ひっく、喉が鳴った。イーシャットが訊ねると、フェルドは頷いた。


「マリアラが見つける前に死んでたら別だけど、死んでたらわざわざこうやって鋏で切らないと思うんだ。衣類を鋏で切るのは、左巻きはよくやるんだ。いちいち脱がすよりずっと時間短縮になるだろ。だからきっと生きてるよ」

「こんな出血でか?」


 ゲルトは未だに半信半疑だ。だがフェルドは頷いた。


「俺の国には、マリアラみたいな医師が結構大勢いる。俺もこないだ空から落ちてケガしたけど、マリアラに治してもらった。もう傷は跡形もない。……だとしたら、ニーナってお姫様と、マリアラとラスが、捕まったってのも嘘じゃないのかな」

「だが万一と言うことがある。もし万一、ムーサの申し出を突っぱねて、ニーナ様が害されるようなことになれば……」


 イーシャットは、ぐいっと腕で頬を拭った。


「ニーナ様のところへは、マスタードラが向かってる。あいつさえたどり着けば、危険なことなんか起こりようがねえ。エルギン様が生きてるなら、改宗なんてする必要ないだろ。カーディス王子にこの国を譲るなんてことをしてみなよ、あんたら全員、長い長い時間をかけて、じわじわなぶり殺しにされる。その点はもうずっと前に、確認済みだったはずだ」


 フェルドがそれを受けた。「あっちが嘘を付いたんだ。こっちも嘘を付いていいと思う。さっき何かをムーサって奴に渡すって言いましたか? 渡したフリとか、できないんですか」


「……それはちょっと難しいな。エルギン王子に統治権が移ったとしても……マーセラを完全に怒らせるのは得策じゃない」


 確かにと、イーシャットも思った。ルファ・ルダは由緒正しき格調高き古い国で、大勢の民からの信頼を集めているが、武力はあまり持たない。アナカルシス王家に真っ向から反抗できるほどの力はないのだ。

 すると、フェルドが言った。


「あっちから辞退させるように仕向ければいい」

「そんなこと、どうやって」

「……さっき、カーディス王子に何かを渡す儀式をするって言いましたね。地下神殿? 地下にあるんですよね? カーディスってのはまだ幼い子供だし」

「……そうだが」


 フェルドは声を潜め、囁いた。


「いい考えがある。王子には気の毒だけど……あっちから辞退させるには、これしかないと思う」

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