第二章6
ラセミスタが作った乗り物の乗り心地は、とても良かった。
三方がむき出しなのに、風は穏やかで、殆ど揺れなかった。こんな形状で風にも揺れにも翻弄されないのは、ハウスの壁に組み込まれた緩衝装置と、空調設備のお陰なのだとラセミスタは説明した。もちろんこれはハウス用に作られたものだからこういった用途は想定されていなかったが、前方のパネルを外して空調設備機能をむき出しにして少々手を加えてミフの手も借りて調整して空気の層が流線型になるように乗り物の周りを廻らせているために安定した飛行を維持することが出来――云々。
魔法道具に関することなら、彼女の口は軽くなる。今彼女はエルギンに対して、問われるままに嬉々として、この乗り物と箒の仕組みについて解説している。
それを聞くとも無しに聞きながら、マリアラは未だ深く眠ったままのニーナの背の上に左手を置いていた。エルギンの語った、この子の追われる理由――そしてヴァシルグにこの子を奪われてはならない理由について、思いを馳せる。
エルギンは自分を王子であり、それもアナカルシス王国の正当な王位継承者である、と名乗った。
そんな彼が、それでも自分より優先しなければならないと主張する、この子は、ルファルファという有力な女神の神子なのだというのである。その話が、マリアラには少なからぬ衝撃だった。
何しろその女神ルファルファは、創世の女神であり、〈毒〉に蝕まれたこの世界を憂い、彼女の美しく白き腕の中に、世界を抱き込んで守っている、というのだ。どこかで聞いた話ではないか。
そうだ。
“現代”――マリアラやラセミスタがつい昨日までいたところでは、世界を抱き込んで〈毒〉から守っているのはマーセラと呼ばれる光の女神だ。多神教だが、主神である。
そしてさっき、ニーナとエルギンを追いかけてきていた兵士たちは、“マーセラの神官兵”だとエルギンは言った。
――けれど、ルファルファは完全に滅ぼされたわけではありません。この国の大勢の国民は、未だに彼女を慕っている。
――その愛娘、ニーナがこの世にいる限り、ルファルファを信奉し頼りにする国民は多いことでしょう。
マーセラは、ルファルファへの信仰を弱め、自らの正当性を確固たるものにするために、ニーナを奪おうとしているのだとエルギンは説明した。昨日の午後、散歩に出かけたふたりは、ヴァシルグとその配下に襲われた。エルギンは大ケガを負い、ニーナはエルギンを引きずって逃げた。良く逃げ出せたものだと思う。こんな小さな体で、自分より大きな少年を担いで逃げるなんて。
――散歩に誘ったのは僕だから。
――僕はニーナを、絶対に無事に帰さなければなりません。
マリアラは身震いをした。ラセミスタの手腕のお陰で全く寒くはないものの、この現状が、怖ろしくてたまらなかった。全く別の世界に来てしまったのだとしたら、また少し違っただろう。
でも、そうじゃないらしい。
ここは、マーセラ教が現在のような確固たる地位を確立する前、らしいのだ。
そしてこの子たちは、マーセラ教と対立する立場にいる――らしい。
「……」
マリアラの手のひらの下でニーナが身じろぎをした。目を開けた。その表情があまり良く見えないことで、マリアラは、周囲が既に夜にさしかかっているのに気づいた。ニーナは瞬きをし、はっとしたように体を起こした。エルギンが気づいて明るい声を上げる。
「ニーナ!」
「……エルギン」
ニーナの声は掠れている。マリアラは急いで水を汲んで彼女の目の前に差し出した。
「大丈夫? 体調はどう?」
助け起こして飲ませると、ニーナは始めゆっくりと――次いで、マリアラの手からコップを奪い取るほどの勢いで飲んだ。飲んで、飲んで、飲み干して、続いて差し出した次のコップの中身も全て飲んで、ようやく彼女は、長い長い吐息をもらした。
「はああああ……あああ」
「ニーナ、大丈夫?」
「エルギン」
彼女の声に張りが戻った。目を開き生き生きとした表情をその顔に取り戻したニーナは、見る人全ての視線を釘付けにするのでは、と思うほどの美少女だった。柔らかな茶色の髪はふわふわで、光をそのまま集めて濃く色づけしたような質感だった――様々な騒動によって今はかなりほつれているけれど。大きくぱっちりとした瞳もふっくらとした頬も、まだあどけなさを残しているが、あと数年もしたら『絶世の』と謳われるほどの美女になることは、既に疑いようもなかった。
ニーナはエルギンを見て、ぱあっと表情を明るくした。次の彼女の行動は劇的だった。倒れた姿勢からいきなり跳ね起き、わーい、とばかりにエルギンに飛びついて勢い余って押し倒した。乗り物が大きくぐらりと揺れ、マリアラとラセミスタは同時に悲鳴を上げた。
「落ちるー!」
「エルギン、エルギンエルギンエルギン! 死ななかったのね、よかっ――」
がくがくと揺れる乗り物をものともせず彼女は我に返った。がばっと起き上がりエルギンを引き起こしその背側に回り込み、マリアラとラセミスタは再び同時に悲鳴を上げた。
「おち、おち、落ちるって……!」
「エルギン、ケガは!? ケガはどこ行ったの!?」
「ミフ! ミフ! 着陸して! まずはともかく下ろしてええええ」
ミフは既に着陸態勢に入っていた。眼下に川が見えており、その水面に向かって降下していく。バランスを失った乗り物はがくんがくんと揺れながらも斜めに降下していき、ラセミスタは蒼白で乗り物にしがみつき、マリアラは急いでニーナを掴まえた。これ以上暴れないように、しっかりと腕の中に抱き込む。
「ちょっとお願い! 今だけ落ち着いて! お願い――」
ざっぱああああん、と、飛沫を上げて、乗り物は川に墜落した。
川に落ちた巾着袋が見つかったと聞いて、ラセミスタは心の底からホッとした。巾着袋の中に入っている様々な道具がなかったら、もうこの事態を乗り切れるとは思えない。
マリアラはミフが拾ってきてくれた巾着袋の中から光珠を取り出して点け、エルギンとニーナを乾かし、それからラセミスタを乾かしてくれた。最後に自分を乾かしてから、彼女は早速というように、食事の支度を始めた。大きな鍋を取り出して、大きな缶詰をぱかんと開けた。中身を鍋に入れ、適量の水を加えた。色と匂いから推測するに、今日のメニューは恐らく、鶏肉のトマト煮込みだ。ラセミスタは嬉しくなった。めまぐるしい事態の変遷ですっかり忘れていたが、気づいてみれば丸1日以上、何も食べていない。乗り物の修理は後回しにして、マリアラの方ににじり寄る。
柔らかな光球の明かりに照らされているからだろうか。マリアラの頬が白い。
「……あのねニーナ。マリアラとラセミスタが、僕たちを助けてくれたんだ」
エルギンがそう言うと、ミフがぴょんと跳ねた。
『あたしあたし! あたしも忘れないで!』
「あ、ごめんなさい。マリアラとラセミスタと、それからミフ」
『そーなのあたしも頑張ったの! どーぞよろしくねー!』
ニーナは目を丸くしている。しかしぴょこぴょこ飛び回るミフを見ているうちに、その唇が綻んだ。
「……ミフ?」
『そう! ミフ!』
「よろしくね、ミフ。ええと、それから、マリアラ……と、ラセミスタ?」
マリアラが頷くとニーナも頷いた。それから彼女は、居住まいを正した。
次いでニーナはすっと立ち上がると、優美に膝を軽く曲げ、同時に左手を、ひらひらと動かして見せた。何かの模様を指先で描いたかのような動きだった。
「ご尽力に感謝いたします、マリアラ――ラセミスタ、それからミフ。私はエルカテルミナ=ラ・ニーナ=ルファ・ルダ。ルファルファの【最初の娘】の感謝をお受けください」
ラセミスタは思わずマリアラと顔を見合わせた。
「あ、……お、恐れ入り、ます」
ふたりはへどもどした。ラセミスタはもちろんのこと、普通の学校生活を送ってきたマリアラも、こういう時の返礼の作法など知らないらしい。それはラセミスタに軽い驚きと、それからかすかな嬉しさをもたらした。ラセミスタはずっと、自分は普通の少女らしい振る舞いを知らない出来損ないの異端だと思ってきたが、ここに来たら普通の少女だろうとそうでなかろうと異端なのだ。
ニーナは、ふたりの様子を軽蔑しなかった。まるできちんとした返礼を受けたかのような微笑みを浮かべて頷き、それから――破顔した。ぱっと花が綻んで、きらきらと周囲に光を振りまいたかのような笑顔だった。今の崇高さが嘘のような気安さだ。出し抜けにしゃがみこみ、ラセミスタの膝に手をかけて覗き込んできた。
「ねえふたりは、お母様のお使いなの?」
「は?」
目を丸くしたラセミスタに、エルギンが助け船を出してくれた。
「あの。ニーナは“ルファルファの愛娘”なので、ニーナが呼ぶ『お母様』というのはルファルファ神のことです。この場合、あなた方はルファルファ神の使者なのか、という意味ですね。つまり天使なのかと」
「あ、ああ、そう……って、ええっ!? 違います! あたしたちただの、通りすがりの一般人です!」
「さっきも言いましたが、あんなケガを跡形もなく治せて空を飛べる乗り物を作れるような人たちは、一般人とは言わないと思うんですね」
「うん、あたしもそう思う。それに……美味しそう」
ニーナはそう言い、ひくひくと鼻を動かした。
さっきマリアラが作りかけていたのは、やはり鶏肉のトマト煮込みだった。乾いたとは言え水に濡れたから、温かいものがいいと思ったのだろう。鍋は今の話の間に温まり、くつくつと軽やかな音を立て、いい匂いを辺りに振りまいている。マリアラはニーナの様子を見て、話より先に夕食を仕上げるべきだと思ったらしく、鍋に向き直った。
缶詰を温めただけで完成かと思いきや、マリアラはそこにボイルしてパウチされたじゃがいもを加えた。揚げ茄子も入れた。とろりとしたトマトスープの中で、茄子とジャガイモが温まっていく。その間にマリアラはフライパンで厚切りのベーコンを炒め、目玉焼きまで焼いた。パンを切り分けてバターを塗り、ベーコンと目玉焼きを載せる。
ラセミスタもニーナも、エルギンまでもがにじり寄り、マリアラの手元を凝視している。そう言えばこの子たちも、丸一日以上何も食べていないのだ。
きゅうう、と腹の虫が鳴った。
トマトの匂い。ベーコンの匂い。じゅうじゅう音を立てる脂が、パンに染みこむかすかな音。
「お待たせ。どうぞ召し上がれ」
マリアラの言葉が聞こえるやいなや、三人は一斉に手を出した。魔女の巾着袋に入っているパンは、焼き上がったものを瞬間冷凍して美味しさを閉じ込めてあるから、魔女が処理すれば焼きたてパンの風味が楽しめる。口いっぱいにほおばるとパンのもっちりした柔らかさとベーコンのしょっぱさと玉子の黄身のまろやかさが一気に襲いかかってきた。
「ううう~~~」
ニーナがパンにかじりつきながら唸っている。エルギンは無言だ。ただひたすら無言だった。マリアラはと見れば、台の上に置いたお椀に右手に持ったお玉でトマト煮込みをよそいながら、左手で自分のパンをほおばっていた。厚切りベーコンがぺろんと垂れたのを、口だけではふはふ食べたのを見て、マリアラも空腹だったのだとラセミスタは思った。マリアラはがぶ、とパンを食べて、目玉焼きをまたはふはふ食べる。トマト煮込みをよそう間も待てず、ラセミスタの想像していた“普通の女の子”がやりそうもない食べ方。
ラセミスタは三分の一ほど残った自分のパンを見、自分の鼻の先に目玉焼きの黄身がついているのを見た。空腹が過ぎて、礼儀作法になど構っていられなかったのは、ラセミスタも同じだ。
“普通の女の子”でも、お腹がすきすぎたらああいう食べ方をするのか。
さっきニーナに礼を言われたときの様子と言い、今の食べ方と言い――非常事態になったら、意外に同じなの、かも?
パンとベーコンと目玉焼きが消えると、次はトマト煮込みに移った。鶏肉がほろほろと柔らかくて、ほっくりしたジャガイモととろんとした揚げ茄子の食感が楽しい。ようやく少し味わう余裕が出てきた。マリアラが今度は籠いっぱいに丸パンを出してくれて、おのおのそれをちぎってトマト煮込みにつけて食べる。
「美味しい……」
思わず呻くと、マリアラが頷いた。
「美味しいねえ」
「ほんと美味しい」
「ほんと、美味しいねえ」
「……美味しいなあ……」
「美味しいねえ……」
しみじみ頷き合っているとエルギンとニーナが笑った。マリアラも笑い出し、ラセミスタも笑い出した。
パンと煮込みがなくなると、次に出てきたのはブラウニー、それから野菜代わりの果物だ。
ラセミスタは色めき立った。リズエルの特権で、魔女の巾着袋に入れられる甘い食べ物は全て味見をしたが、その中でもブラウニーは、ラセミスタが特に気に入った一品だった。野外で食べられることを想定して、ちまたで流行の味より少し甘めに作られている。ずっしりとした甘さと香ばしいくるみの食感。クィナの実とキウイ、パイナップルとグレープフルーツ、それからいちご。最後に熱いお茶をもらって、幸せなため息が漏れる。
――生きてて良かったなあ。
しみじみと、そんなことを思った。