第二章4
その日の夕刻。
一日忙しく働いていたイーシャットは、ようやく、フェルドの様子を見に行く機会を得た。
衣類を変え、集落の人々に混じると、フェルドはもうルファ・ルダの住民と見分けが付かなかった。
内面こそ得体が知れないが、この辺り出身の人間が持つ特徴にことごとく合致する外見をしていて、それはありがたかった。マーシャを始めとするルファ・ルダの住民たちは、すぐにフェルドを受け入れた。――内心はどうあれ、表面上は。もし角やら尻尾やら生えていたりしたら、こうはいかなかっただろう。
時期も良かったのかも知れない。昨日までとは違い、今、ルファ・ルダに駐屯している王家の兵やマーセラの神官兵たちが、魔物の襲撃を受けているからだ。
魔物は昼間は森に潜んでおり、夜になると姿を見せる。たった一頭ではあるが、その攻撃力は凄まじい。百戦錬磨の第一将軍はその恐ろしさをすぐに把握し、守りを固める方に注力した。今は膠着状態である。
そのお陰で、ルファ・ルダは、この狩りが始まって以来と言うほど平穏な時間を過ごしていた。マーセラの神官兵から無茶な要求をされたり嫌がらせをされたりする頻度が格段に減ったからだ。先日までは“獣と間違えた”という言い訳を掲げてこちらに矢を射かけてくるような兵士も少なくなかったから、マーセラ神官兵が狩りと魔物にかかりきりという現状はありがたく、ルファ・ルダ住民の表情も明るい。
フェルドはその和やかな雰囲気の中、狩りの獲物の内臓を出し皮を剥ぎ塩漬けにする、老人たちの間に交じって働いていた。ルファ・ルダの若者はみんなエルギン王子のために狩りに出ているのだが、フェルドに弓矢を渡す許可はランダールが出さなかった。まだ体調不良は残るようだが、次から次へと運び込まれる塩を運んだり下処理の済んだ獣の肉を樽に詰め込んだりその樽を移動させたりと、意外に重宝がられているようだ。
しかしイーシャットはフェルドを見つけた時、しかめっ面になっていた。しょうがないことだが、獣の血と脂の匂いがけっこうキツい。
「フェルド。ランダールが戻った」
声をかけると塩の壺をちょうど下ろしたフェルドが顔を上げ、周囲の老人から笑い声が上がった。口々に野次が飛んだ。
「残念だったなーにーちゃん、もうちょっとってとこだったのによ」
「とっとと運んじまわねーからだ、若いくせにへろへろしやがって、不甲斐ねえな」
「若様の用事が済んだら戻って来いよ、仕事は山ほどあるんだからな」
「へーい」
フェルドの返答も気安く、思っていた以上になじんでいる。イーシャットは並んで歩き出しながら訊ねた。
「何がもうちょっとだったんだ?」
「塩全部運んだら、毛皮の剥ぎ方教えてくれるって約束だったんだ」
「……知りてえの?」
イーシャット自身、アナカルディアの城下町育ちで、獣の毛皮など剥いだことがない。肉は買うか供されるかである。ルファ・ルダに移り住んでからも、王子の側近という立場だから、望まない限り毛皮を剥ぐことなど求められなかった。正直言って、やらずに済む立場がありがたいと思ってきた。
しかしフェルドは違うらしかった。真面目に頷いた。
「いつか野外で飢えたらさ、必要な技能だろ」
「いつか野外で飢える予定でもあんのか」
「飢える予定はないけど、野外に出る日は来るかも知れない」
「ひとりでか?」
「ランダールはどこに行ってたんだ?」
訊ねられ、そうそう今は無駄口を叩いてる場合じゃなかった、と思い直した。もう日暮れが近い。そろそろ夕餉の匂いが漂い出す頃合いだ。老人たちの作業場を抜け、血と脂の匂いから離れてホッとする。
「やつはこの国の代表だからな。忙しいんだよ、国王陛下の側近との打ち合わせとか、なんだかんだで」
「俺の荷物、返してくれる気になったかな」
「うーん……どーかな」
実際ランダールは、フェルドへの警戒を解いていない。何しろ未だに食事を出してやれ、とマーシャに伝えていないのだ。フェルドに出された食事は朝食の粥と昼食の練り粉・干し肉・水のみであり、それらは全てイーシャットが手配したものだ。国民に混じって話したり働いたりするのは許しているが、やはりランダールはフェルドを懐に入れる気はないのだろう。
ゲルトから指示された建物は、ランダールの自宅である。こぢんまりした建物だ。ランダールは立場としてはこの国の国王に当たるのだが、この小さく質素な建物に、妹とふたりで住んでいる。世が世なら、アナカルシス国王のように、豪奢な建物に住んで大勢の召使いにかしずかれていたはずだが――実際には、身の回りの世話をするのもマーシャだけだ。
そんな小さな家の小さな部屋には、大きな執務机と小さな寝台がぎゅうぎゅうに詰め込まれている。かろうじて空いている場所に椅子がみっつ。マスタードラが既に来ていて、その巨躯を居心地悪そうに縮めてひとつの椅子に座っていて、ランダールは執務机について眉間に皺を寄せており、ゲルトはいつもどおりの無表情でランダールの後ろに控えている。空いている椅子はふたつ。イーシャットとフェルドが入って行くと、ランダールはそっけない口調で言った。
「座ってくれ。待たせて申し訳なかった。――ニーナもエルギン王子も未だ、捕らえられたという情報は入っていない。フェルド、そなたに箒を返したら、彼らの居場所がわかると申したな」
そなたと来たか。イーシャットは内心ニヤリと笑った。
ゲルトの前では、ランダールは少々格式張るところがある。“相応しい当主”であろうとしているからかもしれない。
「箒だけじゃない。袋も必要だ」
フェルドが答え、ランダールは頷いた。
「袋の中の、何が必要だ?」
フェルドは悔しそうな顔をした。ため息をひとつ。
「魔力の結晶がいるんだ」
「魔力の結晶――結晶? 宝石のようなものか」
「リルア石のことでは?」
ゲルトが低い声で囁き、ランダールはフェルドを見た。
「リルア石を知っているか? こういうものだ」
言って執務机の抽斗から親指の先くらいの、透き通った結晶を取り出した。
イーシャットは目を見張った。初めて見た。
高級品である。何でも、“契約の民”がその身に契約の証を刻むために使われるものだという。あれくらいの大きさのリルア石――恐らく、ひと月ほどは贅沢三昧で暮らせる額だろう。
しかしフェルドは、その高価さに感銘を受ける様子もない。
「それだ。……リルア石?」
「そう、我々はリルア石と呼ぶ。この大きさで足りるか」
「充分だ」
交わされる会話を聞きながら、イーシャットは、てことはフェルドの持ってたあの袋の中にはリルア石も入ってんのかあ、と場違いなことを考えていた。あの袋の中身はイーシャットも見せてもらったが、ごく小さな袋や入れ物がたくさん入っていて、何が何だかわからなかった。あんな小さなものをどうやって使うのだろう。ルファ・ルダの学問所の学者たちが今研究中だそうだが――誰が見ても、宝の山らしいということは明らかだった。学者たちはきっと今頃、よだれを垂らしているに違いない。
フェルドが手を出したが、ランダールは手を挙げてそれを止めた。ゲルトが手のひらに小さな箒を載せてランダールに差し出した。その箒を受け取って、ランダールは言う。
「使い方を説明しろ。私がやる」
「………………」
フェルドは長々とランダールを見た。眉間に皺が寄っている。
けれどすぐに諦めたように言った。
「箒を元の大きさに戻さなきゃダメだ」
「元の大きさに戻す。どうやって?」
「んー……握って、魔力を込める。元に戻れって、念じる……?」
「念じればいいのか」
「いや今まであんま考えたことなかった。どう説明すればいいのか、」
ぽん!
出し抜けに明るい音が響いてフェルドが言葉を切った。ランダールは目を見開いていた。その手のひらの上に、今は、大きな箒が載っていたのだ。
さっきまで小指くらいの大きさしかなかった箒が、形や色はそのままに、大きさだけを変えていた。急に重くなったのか取り落としそうになりながら、ランダールが呻く。
「……あの袋の中身も全て、こうやれば使えるのか?」
「……あんま勝手に使わないでくれる?」
「そなたの言い分は考慮しよう」絶対考慮しないだろう声音でランダールは言う。「それで? 箒は元に戻った、その後は?」
「持ち手のところに、親指の腹くらいの大きさの、窓が開く場所があるんだ。スライド……こう、滑らせるようにすると開く」
イーシャットはまじまじとその箒を見ていた。
普通の箒よりはだいぶ大きかった。人を乗せて飛ぶのだから当然なのだろう。その穂は竹箒に比べ格段に大きく、ふんわりとし、いかにも乗り心地が良さそうな質感だった。恐らく床を掃いたことなど一度もないはずだ。
ランダールが柄のあちこちを触り、ようやくその窓を探り当てた。複雑な――怪奇なほどに入り組んだ内部が露出し、ランダールが目を見張る。
「……あいたぞ」
「そこに魔力の……えー、りるあ石? を、嵌めて、蓋を閉める」
ぱちん。
ランダールが言われたとおりに蓋を閉めた瞬間、フェルドが言った。
「フェルディナント=ラクエル・マヌエルが命じる。フィ=ミルン、起きろ」
『声紋パスワード認証。起動します。――おっはよー!!!』
「!!!???」
ランダールが仰け反りゲルトがランダールの前にその身を滑り込ませマスタードラが剣を抜きかけイーシャットがぽかんと口を開けたとき、フェルドが言った。
「フィ、止まれ。今は非常事態だから。落ち着け」
『何フェルド何そのかっこ何! どしたどしたそれ何ー!?』
箒は結構騒々しい“性格”らしく、フェルドの制止にも関わらず、止まるのに十数秒ほどかかった。まるで尾を振る犬のようにフェルドの周りをぴゅんぴゅんぴゅんぴゅん飛び回っている。フェルドが何度か声をかけ、ようやく箒が“我に返り”、“状況を把握し”、その動きを止めたとき、ランダールが、自分を庇うように前に身を乗り出していたゲルトの肩を叩いた。
「ゲルト。……退いてくれ」
「ご無礼を……」
ゲルトはランダールの前から退いたものの、そのすぐ脇から動かなかった。ランダールはまじまじと箒を見ながら椅子に座り直し、ごほん、と咳払いをする。
「えー……まあ……なんだ……その……」
『なーなーフェルド、こいつ誰ー?』
「フィ、ちょっと今だけ黙っててくれ」
『まーフェルドがそう言うなら黙るけどさー、つーか何なのコレ? どういう状況? 俺けっこ寝てた? つーかフェルドその、』
「……フィ、ちょっとだけ黙ってて」
『りょうかーい』
箒がようやく黙った。箒の声はフェルドの声によく似ている。フェルドが子供の頃はきっとこういう声だっただろう、と、思わせるような。
「……箒が喋ったぞ」
ランダールがようやく言い、イーシャットは、あーこいつがこんなに取り乱したところ初めて見た、と思っていた。一分の隙もなかった前髪が乱れている。フェルドが応じる前に、箒がまた声を上げた。
『俺だけじゃないよ、空飛ぶ箒はみんな喋るよ、あ、ごめん黙ってるんだった俺すーぐ忘れちまうんだよね、こないだもさーミフの』
「フィ、営業用モードに移行」
『ひっでー! 覚えてろー! ……営業用モードに移行します。ぴー』
箒はそれでようやく、今度こそ、沈黙した。狭い部屋の中に静寂が落ち、ランダールがため息をつく。
「……ま、まあ……ニーナの無事を確認する前では箒がしゃ、しゃしゃ喋るなど些細なことだな、ゲルト」
「……御意」
「とにかく、もうひとつの箒はどこにいる。どこを飛んでる?」
「フィ」フェルドが言った。「ミフと連絡取って」
少しの沈黙があった。
すぐにまた賑やかな声を響かせるだろうとイーシャットは覚悟していたが、意外にも箒は黙っている。それから、先程とは打って変わって静かな口調で言った。
『距離が離れすぎています。連絡不能』
「距離が? 10000キロ以上離れてるってことか? そんな馬鹿な」
『通常なら音声通話が届く距離です。今は〈アスタ〉の中継アンテナが見つかりません。原因不明』
「あーそっか……くっそ。場所はわかるか」
『現在地より東南東の方角、距離およそ178.2km。地図を見ますか?』
「頼む。その机に投影」
『了解しました』
「窓閉めて」
とフェルドが言い、イーシャットは少し経ってから、それが自分に言われた言葉なのだと気づいた。慌てて寝台の上に身を乗り出して窓を閉める。マスタードラが扉を閉めると、部屋には暗闇が落ちる。――と、
ぽっ。
丸い明かりが、執務机の表面に浮かび上がった。
ランダールが腰を浮かせた。ゲルトが息を呑んだ。イーシャットも覗き込んで、「なんだこれ」と呻いた。
その丸い明かりは、今まで見たこともないほど鮮明で詳細な、地図だったのだ。