第二章3
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ぴよぴよぴよぴよ。ぴよぴよぴよぴよ。
頭上で鳥が鳴いている。
寒かった。体が濡れているような気がする。ぶるりと身震いをしてカーディスは目を覚まし、そして、跳ね起きた。辺りが明るい。朝だ。
朝が来てしまった。
夜明けまでに帰って、寝たふりをする予定だったのに。
「!!」
走り出そうとして、つんのめった。すぐ傍に寝ていた誰かの足に蹴躓き、ひっくり返った。ごいん、頭をぶつけて呻く。痛い。
頭をさすりながら辺りを見回す。そこはどう見ても、昨日見た、あの粗末な物置小屋だった。戸口には戸板がなく、とてもみすぼらしい。振り返るとやはりそこに若い男が倒れている。
大丈夫だろうか。
まだ熱があるのだろうか。
そう思った時、ざくざく、と、足音が聞こえてきた。どうやら朝露が降りた森の中を誰かが歩いてくるようだ。カーディスは慌ててきょときょとと辺りを見回し、とりあえず、フェルドが凭れて眠っている藁山の向こうに回り込んだ。藁をかき分けてくぼみを作り、そこに体を滑り込ませた時、戸口に誰かが立った。
危ないところだった。どきどきしながらカーディスは思った。
あそこでフェルドの足に蹴躓かず飛び出していたら、鉢合わせするところだった。
「具合はどーだ?」
そう言ったのは、イーシャットの声だ。フェルドは今しがたの密やかな騒動のせいか、目を覚ましていたらしい。あー、と、掠れた声を上げた。
「昨日よりはマシ……かな」
「マーシャの粥だ。起きて食え。……おいおい、何だよこれ、零したのか?」
イーシャットが言い、カーディスははっとした。昨夜、暗がりで練り粉を練ろうとして粉や水をたくさん零してしまったのだった。
ばれる。つまみ出される。大騒ぎになる。
身をすくめたとき、フェルドが言った。
「悪い。暗くてよく見えなくて零した」
あれ?
「そっか。いや俺も灯りくらい置いてってやれば良かったよな。起き出せるとは思わなかったもんで。ほら」
イーシャットが近づいてきた。カーディスは身を潜めたが、イーシャットはこちらまでは来なかった。フェルドの前に座り込んだらしい。そして、粥の匂いが漂ってきた。カーディスは鼻をひくひくさせた。いい匂いだ。
フェルドが食べ始めたのだろう。かちかちと、陶器の触れ合う音が聞こえる。
ややして、イーシャットは穏やかな声で言った。
「昨日よりずっと良さそうじゃんか」
「……お陰様で。箒の行方はわかったのか?」
「いや……けど捕まってないのは確かだな。捕まってたらどんな形にせよ知らせが来るはずだから。頭痛は?」
「だいぶマシ。俺の箒を返す話は?」
「まあそれも昨日よりはマシ、だな。歩けるようなら移動して欲しいんだが、出来るか?」
「移動……どこに?」
「その服は目立つから、食ったらこっちに着替えろ。朝二番の鐘が鳴る頃、マーセラ神官兵の見張りが交替する。その時なら見つからずに集落に入り込める」
かちかちと鳴る陶器の音が止まった。「マーセラ?」
「そう、マーセラ神殿。この国――ルファ・ルダの敵だ」
ずきん、胸が痛んだ。
カーディスにとって、マーセラ神殿は近しい存在だ。神官長のムーサはカーディスのお目付役だし、視察にも頻繁に行く。将来、カーディスは、マーセラの“だいしんかん”の地位に就くことが決まっているそうだ。マーセラの一番偉い存在になる、ということらしい。
それをはっきり“敵”だといわれるとさすがに辛い。
かち。陶器の音が再び聞こえ始め、イーシャットのおだやかな声が言った。
「ひと晩考えたんだが……。俺はやっぱ、お前も、仲間だって言う謎の少女ふたりも、敵じゃないと思う。俺はお前のお陰で助かったし、俺の大事な王子もランダールの大事な姫も、お前の仲間のお陰で助かった。どんなに得体が知れなくてもさ、それは、忘れちゃいけない事実だ」
「……」
「ランダールもな、本当は、話が全然わからない奴じゃないんだ。今は非常時だから、カリカリしてる。それからお前が得体が知れなくて、懐に入れんのが不安なんだ。俺は守らなきゃいけないものがひとつしかないけど、ランダールはこの国全部に責任を負ってる立場だから……でも、お前が悪い奴じゃないってわかれば、おいおい慣れていくはずだ。そしてお前も」
「……俺も?」
「考えたんだけど、俺らにとってお前が得体が知れないってのと同じで、お前にとってもさ、俺らが得体が知れねえんじゃないかって、思ったんだよ。
お前には助けてもらったし、これからも箒の行方を捜すってことで協力してもらわなきゃなんねえ。お前の方も、箒と袋を取り返して、ふたりの少女を見つけ出さなきゃなんねえ。手を組めば簡単なのに、得体が知れなくて敬遠しあってるままじゃお互い不便だ。だから今のうちに説明をしておく。不思議だけどお前はどうやら今の状況を何にも知らないらしいから、話しておくよ。いいか? アナカルシスにはふたりの王子がいる。第一王位継承者、エルギン王子。第二王位継承者、カーディス王子だ」
カーディスは藁の裏で、自分のことが話されるのを聞きながら、なんだか不思議な気持ちだった。別の人間の話を聞いているようだった。そうであったらいいのにと、ぼんやり思っていた。王子じゃない、と昨日フェルドには言ったけれど、どうやらそれはカーディスの願望だったらしい。
「俺はエルギン王子の側近だ。あともうひとり、マスタードラって大男もいる。後で紹介するよ。で、カーディス王子にはマーセラ神殿がついてんだ。カーディス王子のお目付役のムーサって男はマーセラの、今んとこ一番偉い奴。そいつがこないだ、俺とお前を焼き殺そうとした奴だ。エルギン王子を付け狙って殺そうとしているヴァシルグって男もマーセラの神官だ。ムーサの腹心だな」
「王子は何で殺されそうになってるんだ?」
「邪魔だからだよ、わかるだろ? エルギン様が亡くなればカーディス王子――マーセラ神殿の傀儡が王太子になり、将来王位に就くんだから。でな、ここはルファ・ルダって言ったろ。ルファ・ルダってのは、“ルファルファの国”って意味でな。六年前までアナカルシス大陸全てを治める、創世の女神の本拠地だったんだ。女神ルファルファは、そりゃあ力の強い女神様だ。歪みを払い、魔物を退け、人が住める土地を浄化し確保する。大陸に住む人間全てがその恩恵に浴し、皆、ルファルファを崇め奉ってた。
そこでアナカルシス国王が必要としたのがマーセラだ。ルファルファに取って代わる、新しい神。それを作ったのは何代か前の王なんだが……ダメな王が多くてさ。ルファルファを捨てる決断もできず、と言ってせっかく作ったマーセラをきちんと国教に据えることもできず、右往左往して国が荒れた。
で、現在の国王陛下。この王はきちんと決断したんだ、六年前にな。エリオット=アナカルシス国王陛下は、ルファルファを滅ぼし、代わりに作ったマーセラって張りぼての神を信仰するようにって国中にお触れを出した」
「ずいぶん思い切ったことしたな。なんでそこまで」
「そりゃあ王より神様が偉くっちゃ困るからだろー。でな、ルファルファには娘がいる。その娘は“花”と呼ばれる。ルファ・ルダは、地上に生まれるその花を守り、次代につなげるって役割を背負った国なんだ。その“花”がルファルファの代わりに国中を経巡り、歪みを払い人の住みかを保証するってのがしきたりなんだ。彼女は人の姿をしている、喋るし食うし遊ぶし走る、でもルファ・ルダの人々に取っちゃ、未だにあの子は神の子だ。……それがランダールの妹。エルギン様と一緒に姿を消し、お前の仲間に匿われてる、ニーナ。エルカテルミナ=ラ・ニーナ=ルファ・ルダ。御年九歳の、そりゃあ可憐なお姫様だ。
ヴァシルグとムーサは彼女を狙ってる。自分らが信奉しているマーセラが張りぼての神だと言うことを、奴らは良ーく知ってるからな――ルファルファの娘を手に入れて、マーセラを本当の創世神にしちまおうってのが奴らの魂胆なんだよ。わかるか」
「……マーセラが、張りぼての神なのか」
「少なくともルファルファを知ってる人間は、マーセラなんぞ王が何とかひねり出した苦肉の策だってことは理解してるはずだな。
俺はルファ・ルダやランダールの、完全な身内ってわけじゃない。俺の主はエルギン様だ。ルファ・ルダが滅ぼされようと踏みにじられようと、俺はエルギン様を連れて逃げるだけさ。だが、ルファ・ルダには恩があるんだよ。
三年前、エルギン様はヴァシルグに殺されかけた。カーディス王子を王太子の座につけるためにムーサが仕組んだ――それが表向きの理由だった」
カーディスは茫然と、その話を聞いていた。今、なんて? なんて言った?
三年前、カーディスは、三つ年上の兄が突然アナカルディアを出てルファ・ルダへ引きこもってしまったのが、淋しかった。仲良く遊んだ記憶は一度きりしかなかったが、もっと仲良くしたい気持ちだけは、人一倍持っていたからだ。
それが。
それが、自分のせいだったなんて。
「表向きはそうだったが」
イーシャットの声が続いている。
「その裏には、更に――王妃がいたって」
もうやめて。
もういい。
もういいから。
王妃というのは、アンヌ=イェーラという名の、烈女と呼ばれる女性だ。エリオット=アナカルシス国王陛下の正妃である。とても有能で慈悲深い、まさにアナカルシス王国の母と呼ばれる人だ。
カーディスの、実の母親である。
「ムーサだけならまだしも、王妃にまでその命を狙われたと言うことで――エルギン様はアナカルディアに居場所がなくなったんだ。エルギン様は王太子という立場ではあるが、母親は第二妃で――そのう、あんまり評判のいい女性じゃないからなあ。エルギン様の立場は生まれながらに微妙だったんだ。アンヌ王妃は国中の国民から母と慕われる女性だ。その母の地位を脅かし苦しめた第二妃、レスティス=スメルダという女性の息子で、ただ先に生まれたという理由だけで第一王位継承者に据えられたから――それで、王妃に命を狙われたときに、エルギン様はルファ・ルダに匿われることになったんだ。エルギン様が今まで生き延びてこられたのはルファ・ルダが受け入れてくれたお陰だ。
今はエルギン様とカーディス王子がな、ルファ・ルダの所有権を廻って争ってる真っ最中なんだ。国王陛下がどちらかの王子にルファ・ルダを継がせると決めた。狩りの腕――というか、どっちの王子が大勢の民に慕われてるかってのを計るのが目的なんだよ。カーディス王子のために獣を狩り毛皮をはぎ、肉を塩漬けにして保存してるのは、ムーサを始めとするマーセラ神官兵たちだ。で、エルギン王子のために狩りをしてるのがルファ・ルダの人たち――マーセラに征服されるよりゃあ、なんの後ろ盾もないエルギン様に統治してもらった方がはるかにマシだろ? ムーサがここの統治者になってみなよ、“邪神”の信者を虐殺するのが趣味みたいな奴だ、大勢の民が捕らえられ殺される未来が目に見えてるからな。
そんなわけで、エルギン様とルファ・ルダは死なば諸共――とまではいかないものの、まあ、手を組み合ってる。エルギン様は狩りでカーディス王子に勝ち、ここの統治権を手に入れれば、王位継承のその時まで、命の心配をせずにいられる。ルファ・ルダの人々は、エルギン王子に狩りで勝ってもらいここの統治権を手に入れてもらえれば、ムーサに虐殺される心配をせずにいられる。持ちつ持たれつだ。
そう言う関係なんだよ。今のところな」
イーシャットの長い話が終わったらしい。ため息がひとつ聞こえた。フェルドのだろうか、イーシャットのだろうか。
ややして、フェルドの声が聞こえた。
「カーディス王子ってのは――」
「ん?」
「まだ子供なんだろ。そんなに敵視するような相手じゃ、ないような気もするけど」
「カーディス王子はムーサの傀儡、操り人形だからな。本人の資質だの性格だのは、この際関係ねえんだ。後ろ盾になってるムーサが、エルギン様にとってもルファ・ルダにとっても、危険すぎる存在ってだけで」
沈黙が落ちた。カーディスは膝を抱えたまま、黙って二人が立ち去るのを待っていた。ここに来たときの高揚感も好奇心もすっかり醒め、今はただ、早く帰りたかった。
自分を敵視しない存在のところに、帰りたかった。
衣擦れの音がした。イーシャットが持って来た衣類に、フェルドが着替えているらしい。それはそうだろうと、ぼんやり思った。あんな衣類を着ていたら、目立つことこの上ない。
「大きさも良さそうだな。――今からルファ・ルダの集落に行くが、あんまり余計なこと喋らないでくれ。言っておくが、ここにいるエルギン様の身内は、俺とマスタードラって体力馬鹿の大男だけだ。他の人間は全部ランダールの指示に従うって、覚えておいてくれ」
「わかった」
「行くぞ」
そう言って、イーシャットが先に出たらしい。フェルドはゆっくりと戸口に向かった。じりじりしながらそれを待つカーディスの耳に、フェルドの静かな声が聞こえた。
「早く帰れ。――見つかるなよ」
そうしようと、カーディスは思った。
今もしイーシャットや、他のルファ・ルダの人たちに見つかったら。
カーディスを敵視する人たちに、ここにいることがバレたら。
どんな目に遭わされるかわからないのだ。そう、悟るだけの分別は、既に備わっていた。――哀しい。