第一章11
その日、フレデリカは怒っていた。
“流れ星”を早いところ見つけ出して始末しなければならないというのに、“彼”が見当違いのことばかりしているからだ。
あの“流れ星”は脅威になる。それがびりびりとひげに伝わってくる。“彼”もそれは重々わかっているはずなのに――本当に、“右”というのは単細胞で考え無しで、喧嘩っ早くて馬鹿だ。人間と喧嘩してる場合なのか、と言いたい。よっぽど“彼”のところに走って行って、横っ面を引っぱたいてやろうかと思ったが、今のところ自制している。国王の傍にいる黒猫が魔物の依代だと、大っぴらにバレるのはまずい。
広々とした野原に、天幕が立ち並んでいる。フレデリカがいるのはその内で、一番大きく豪奢なものだ。天幕の正面に机と椅子が出されていて、三人の男が座っていた。王と第一将軍、マーセラの神官長――という、この国の最高権力者たちの打ち合わせの真っ最中である。
昨夜襲ってきた魔物は、夜明けと共に来なくなった。夜になったらまた来るだろう。兵士の配置や配給の分配、見張りの報告などがひととおり済んだ。話に区切りが付くと、将軍が「そうそう」と声を上げた。
「こんな時になんですが……ウルクディアの嘆願について、そろそろご許可をいただきたく」
第一将軍――ヒルヴェリン=ラインスターク公爵が、穏やかな声で言った。
既に五十歳に近い、立派な男だ。実に不味そうだ。
将軍の向かいに座っているのがこの国の王。エリオット=アナカルシスという、まだ若々しさを残した王は、ああ、と頷いた。
「そうだった。ウルクディアでは、今年も収穫が落ち込みそうなのか」
「そのようですな。春の長雨が今年は殆ど降らなかったと。このまま日照りが続けば、彼の地は飢饉と言える状況になりかねない」
「ラインディアは大丈夫なのか」
「ご心配ありがとう存じます。我が地は雪山の雪解け水のお陰で、なんとか」
「そうか。しかしウルクディア伯爵もおかしな頼み事をしてきたものだな。穀物そのものではなく金を、それも貸して欲しいとは」
「律儀な男ですからな」第一将軍はそう言って、口元に優しい笑みを浮かべた。「ラインディアとウルクディアは距離が近すぎる。ラインディアの穀物をウルクディアに運んでは、いざというときに共倒れになりかねないと懸念したのでしょう。幸いまだ蓄えはあるそうで。イェルディア辺りから穀物を仕入れても間に合います」
「そうか」
フレデリカはふんふんと匂いを嗅いでいた。諍いの匂いがする。
とてもいい匂いだ。
ずっと控えていた三人目の男、マーセラ神殿神官長ムーサが、ゆっくりと口を開いた。
「……差し出口ですが」
「ムーサ。控えよ」
第一将軍が言い、ムーサは一瞬身をひいた。しかしすぐに嗄れた声が囁いた。
「……この期にクロウディアの力を削いでおくべきかと」
「ムーサ!」
「陛下、貴族の力を恐れる時代は終わりました。陛下はアナカルシスの王、邪神の支配を倒し豪族を束ね、この大地に君臨する唯一無二の強国のっ、王であらせられますぞ! 二年前のクロウディアの反抗を思い出しなされ! クロウディアが没落すれば他領主への見せしめとも――」
「ムーサ!」第一将軍が椅子を蹴立てて立ち上がった。「クロウディアはアナカルシスの重鎮、それを愚弄するか!」
「双方、落ち着け」
王が左手を挙げ、ラインスターク将軍は引き下がった。ムーサは下を向いていた。それは恭順の姿勢にも見えたが、ラインスターク将軍への憎しみにその皺深い顔が歪んでいるのが、フレデリカからはよく見える。
ムーサ――“邪神”を滅ぼしその信仰をつぶすことに人生の大半を捧げた男。
何て美味しそうなんだろう。フレデリカは舌なめずりをする。
魔物であるフレデリカにとって、人間は食糧――というより、嗜好品である。人間は基本的には不味い。栄養豊富というわけでもないし、積極的に食べたいものではない。
しかしごく稀に、とても美味しい人間がいる。例えばムーサのような人間は、しわしわだろうと筋張っていようと干からびていようと、フレデリカには極上のご馳走に見える。逆に、第一将軍は見るからに不味い。
王の方は今は不味そうだ。これを如何に美味しくするかは、フレデリカの手腕に係っている。
王は穏やかな声で言った。
「ムーサ、下がれ」
「――は。ご無礼いたしました」
ムーサは立ち上がり、深々と臣下の礼を取ると、しずしずと去って行った。ラインスターク将軍が、低い声で王に言った。
「陛下。……やはり、あの男を遠ざけられた方が」
「そう言うな。ああ見えて役に立つ」
「しかし、」
「それじゃあヒル、マーセラの神官長など他の誰に頼める?」
王が自嘲するように笑い、ラインスターク将軍は嘆息した。「……まあ……」
「そうだろう。今までこの世を守ってきた創世神ルファルファを、邪神に貶めるために作られたマーセラの神官長など……まともな神経の持ち主には出来ぬ。まして“邪神”の信者を捕らえて火炙りにするなど――しかしな、抑止力としてどうしても必要だ。ムーサにはもう少し、マーセラが浸透するまで長生きして頑張ってもらわねば」
「クロウディアへの無利子貸し付けは」
「……少し待て」
王の答えに、第一将軍はもう一度嘆息した。「陛下」
「ムーサの言にも一理ある。二年前、クロウディアは“契約の民”を穏便に御する機会をつぶした」
「……陛下!」
「最後の機会だったかもしれない、と、今は思っている」
「そのような……!」
「クロウディアは愚かな男だ。目先の情に負けて大局を見なかった。“契約の民”はこれ以上野放しにはしておけぬ。何としても――」
「“契約の民”を何故そこまで敵視なさる。ひとりひとりにはさほどの力はありませんし、その大半は医師ですぞ!」
「……」
「陛下! クロウディアで飢饉が起きればその影響はアナカルシス全土に渡ります。クロウディアの民は既にアナカルシスの民となって久しいではございませぬか! 王妃のご意見を――」
あーあ、言っちゃった。
フレデリカはクスッと嗤った。
ややこしい政治の話などに興味はない。フレデリカが興味があるのは人の心、それも憎しみや悲しみや苦しみといった美味な感情。痴情のもつれなどは最高のご馳走だ。ここからは興味のもてる話になるかも。
この王の逆鱗は王妃だ。その機微が、第一将軍にはわからないらしい。聡明な男なのに、機微には疎い。自分が剛胆で実直で、そんな機微などに屈することがないからか、その機微によって国が傾くことを理解しない。
古来、数多くの国が、この機微によって滅びてきたというのに。
「あれの耳には入れるな!」
案の定王は激昂し、第一将軍は反射的に膝をついた。が、この二人は君臣とはいえ、もともと兄弟のような間柄だ。将軍は膝をついて臣下の礼を取りはしたものの、すぐに頭を上げて王を見た。
「陛下。なにか、臣に隠しておいでなのでは」
「……あれの耳には入れるな」
王は呻いた。酷く苦しそうな声だった。フレデリカは舌なめずりをした。ああ、ああ、愉しい。
こういう機微が、苦悩が、切望や煩悶や嘆息が、フレデリカの大好物だ。エリオット=アナカルシスのような、聡明で公平な男が、その苦悩によって自滅していく。国中を巻き込んで転落していく。その行程は、幾たび繰り返しても飽きることはない。人々の恨みを浴び、絶望に漬け込まれ、肉の隅々まで旨味の満ちた、暴君に育っていく。どんどん美味しくなっていく。
「……あれの耳には入れるな。これは王が背負うべきものだ。アナカルシスの、王が」
第一将軍は、まだ何か言おうとした。
ところが、それを遮ったものがあった。ムーサだ。
一度下がったはずのムーサが、息せき切って戻って来たのだ。もうひとりの男が共に走ってくる。
「――か! 陛下! 陛下あ――!」
「何事だ」
王は先程の激昂を恥じるようにムーサに向き直り、第一将軍が三度嘆息した。ムーサはその年齢にしてはかなりの速さで駆け戻るや、草を蹴散らしてその地に膝をついた。ムーサの後ろから付いてきたのは、確か、ムーサの部下だ。ヴァシルグ、とかいう名前だったはず。美味しそうだから覚えている。
「今し方っ、報告がっ、ございました!」
ムーサは息を切らせて言い、王は頷いた。「言え。ヴァシルグ、発言を許す」
「はっ。エルギン王太子殿下が邪神の信徒に拐かされてございます」
ぴくっ、と、フレデリカの耳が勝手に動いた。誘拐?
王も驚いたらしい。数歩ヴァシルグに近づいて、言った。
「もう一度申せ」
「空を飛ぶ不可思議な箒と、それを操る少女がふたり、森の中で目撃されてございます。箒は巨大な板を吊し、それに少女ふたりとエルギン王太子殿下を乗せ、森の向こうへ飛び去りました」
何だそれ。
フレデリカは体を起こした。全く意味がわからないけれど、エルギン王太子殿下と言えば、ムーサの敵に当たる方の、王子の名前だ。
ムーサは自らが導いているカーディス王子を、ルファ・ルダの領主にするためにここにいる。そうなればこの土地で、“邪神”の信者たちを好きなだけ虐殺できるからだ。それがムーサの野望であり、フレデリカとしてもその未来は大歓迎だ。
その野望を阻止する立場にいる王子が、何者かに連れ去られたという。
――何それ? ちょっと、愉しそうじゃない。
ヴァシルグ自身も、自分の目で見たものを信じかねているらしい。しかし砂盤に“箒”とそれに吊された巨大な板の絵を描いて見せたから、実際に目撃したようだ。そも、そんな嘘をわざわざ報告する利点などヴァシルグにはないし、嘘をつくならもう少しまともな嘘をつくだろう。
箒が吊るした板には、エルギン王子も乗っていた。森の向こうへ飛び去った。一度は追いつめたが、次に乗り物を作り替え――??? とフレデリカは思う――速度を上げて逃げた。今は追跡中であるが、新たな形態の乗り物は速度もかなりのものだったから、追跡は困難を極めている、とヴァシルグは言った。
「邪神の長を問いたださねばなりませぬなあ」
ムーサはとても愉しそうに言う。王はふうん、と鼻から息を漏らした。ムーサは言いつのった。
「陛下、早速、ここへルファルファの長を――」
「もう日が暮れる。ムーサ、忘れたか。今はそれどころではない。日が暮れたら魔物が来る」
「しかし、陛下」
「控えよムーサ」王はぴしりと叱責した。「ルファルファの力を借りずとも、マーセラ神官兵が魔物を見事駆除してご覧に入れます、と言った、昨夜の言葉を忘れたか」
「は、はあ――」
ムーサは不本意そうにもじもじした。ムーサとしては、今すぐにでも“邪神の長”を呼び出して、詰問して、出来るなら拷問などもして、王子の居場所を吐かせたかったに違いない。王子の居場所など本当はどうでも良く、それが愉しいからだ。やりたいからだ。人をいたぶるのがムーサの生きがいだ。それがルファルファのエルヴェントラならなおさらのこと。
だが王はムーサよりよほど冷静だった。静かな分析が続いた。
「少女ふたりと申したな。エルギンには“剣”がいたはずだ……確かマスタードラだったか。あの“剣”が付いていて、更に少女ふたりと共に行ったというなら、それはエルギンの意思である可能性の方が高かろうが」
「し、しかし陛下――」
「そも、ルファ・ルダの民は、もともとエルギンを匿い味方している者たちだ。エルギンを害するわけがなかろう。ヴァシルグ、追跡は続けていると申したな」
「は」
「追跡は許そう。出来るだけ穏便に捕らえろ。空飛ぶ箒、もしそんなものがあるなら余も見てみたい。行け」
「はっ」
ヴァシルグは礼をし、ムーサにも頭を下げて立ち去った。ムーサはまだ地面に座ったまま、不満そうに唇を尖らせている。
フレデリカは少し考え、ヴァシルグを追うことにした。初めは“彼”の動向を探った方が良いかと思っていたが、気が変わった。空飛ぶ箒、ふたりの少女――もしかしてそれが、あの“流れ星”に関連する何かかも知れない。そう思い至ったからだ。
“右”は愚かにも人間の挑発を受けて、“流れ星”のことなどすっかり忘れて暴れるつもりのようだ。
いいだろう、と思った。
それなら、私がそちらに行こう。“流れ星”――あの不可思議な存在は、アシュヴィティアにとって許しがたい災厄となる恐れがある。
アナカルシスの王を操り、破滅への道を歩ませることで、アシュヴィティアは着々と先へ進んでいる。
今更得体の知れぬ“流れ星”などに――その道を阻まれて、たまるものか。
ヴァシルグの手助けをしてやろう。フレデリカの力を使えば、空飛ぶ箒に負けぬ速度で追い縋ることも出来る。フレデリカの足取りは軽く、すぐに飛び跳ねるほどになった。