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魔女の遍歴  作者: 天谷あきの
魔女の冒険
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第一章10

 茫然とする間にも、エルギン王子は礼儀正しく待っている。マリアラは我に返り、あわてて、自分も居住まいを正した。


「え、え、ええと――わっ、わたしは姫ではないです。たっ、ただの、通りすがりの者です」

「僕のケガを治してくれたのはあなたですか?」


 まっすぐに見つめられて、マリアラは、気圧されるように頷いた。

 ケガを治したということをエルギン少年が知ったら、奇異に――あるいは異様に――思われるかも知れない、そう思いはしたものの、とっさに嘘を付くこともできなかった。少年の眼差しが、余りにまっすぐだったから。


 マリアラの首肯を見て、エルギンは微笑んだ。そして歩み寄ると、跪いた。ぎょっとするマリアラの左手を丁重に取って、彼は流れるような仕草で、マリアラの指先に唇をつけた。


「ご親切に感謝します」

「あ、い、いえ……どう、いたしまして。あの、これ着て? その格好じゃ困るでしょう」


 マリアラはできる限り不躾にならないように左手を取り返し、先ほど探し出したTシャツをエルギンに渡した。エルギンはまたしても丁重に礼を言い、不思議そうにTシャツを広げてみている。

 その様子を見守りながら、マリアラはひとつため息をついた。

 過去に来てしまったという推測がもし当たっているなら、今はいったい、いつなのだろう?


 孵化する前、マリアラは、歴史学を専攻していた。第一級免許を取得でき、大人気教授であるアルフレッド=モーガン先生のゼミに入れたのだから、歴史にはかなり詳しい方のはずだ。アナカルシスは隣国だが、エスメラルダとはかなり密接に関わる国だから、もちろんその国の歴史も頭に入っている。


 なのに、エルギンという名の王が即位した、という記憶はない。


 そもそも、先ほどの兵士たちの反応を見ても、またエルギンの反応を見ても、彼らはマヌエルを知らないらしいのだ。それから、〈壁〉がどこにも見えないのも気になっていた。アナカルシスとエスメラルダを隔てる〈壁〉は、天候の違いで視認される現象だ。今日は偶然天候が同じなのだろうと軽く考えていたが、マヌエルが知られていないほどの昔なら、もしかして〈壁〉もまだ存在しない――ということだって、あり得る。


 ということは。

 マリアラは考えて、身震いをした。

 ――ここは、【暗黒期】の前か、そのさなか……なのかも、しれない。


 マリアラが知っている歴史には、【暗黒期】と呼ばれる断絶がある。【壁】が生まれた天変地異のせいか、はたまた他に何か理由があったのかはわからない。また【暗黒期】が何年続いていたのかということもわかっていない。百年ほどだろうという学説が主流ではあるが、千年続いたと主張する論文も読んだことがある。マリアラの恩師であるモーガン先生は、僕はもっと別の意見だと一度話していたことがあるが、その意見の詳しい内容は結局、教えていただくことができなかった。


「姫。どうかなさいましたか?」


 エルギンが丁重な口調で訊ねてき、マリアラは慌ててパタパタと手を振った。


「あの、姫……って、やめてください。わたしはただの、通りすがりの一般人です」

「あんな酷いケガを跡形もなく治せる人は、一般人とは言わないと思います」

「そ、そう……かな? あの……変なことを聞く、と思うかも知れないけれど。“媛”と呼ばれる人を、知らない?」

「媛? ――いえ、知らないです」

「じゃ、じゃあ、デクター=カーンは?」


 エルギンは心許なげに首を傾げる。どうやら本当に知らないらしい。【暗黒期】以前の歴史はほとんどが闇に包まれている。辛うじて後世に伝えられているのは“媛”と呼ばれる女性のことと、それからデクター=カーンの冒険譚の数々、くらいのものだ。そのどちらも知らないと言われてしまうともう、この時代を特定することはできそうもない。


「ごめん、変なこと聞いて――」

「しっ」


 エルギンが鋭い声を上げた。マリアラは口をつぐんだ。


 少し離れた森の奥を、彼は鋭い眼差しで見つめている。そのただならぬ様子に、マリアラは、現状を思い出した。慌ててラセミスタに視線をやれば、彼女はまだ難しい顔をして改造に取り組んでいた。ハウスの壁は、先ほどとはだいぶ様変わりしていた。板の保護パネルが数枚はぎ取られ、内側の複雑な回路が露出している。ハウスの支柱が固定され、手すりができている。それから左右に張り出した大きな羽――どうやらこれも、ポップアップテントの残骸を切り開いて作られたらしい。


 いかにも飛びそうだ。これはもう、筏ではなく乗り物と呼んでいいだろう。

 でも、まだできないのだろうか。


 眠ったままの少女、ニーナは、乗り物の中央に寝かされている。ミフは、今はすっかりラセミスタの助手になっていた。ミフは魔法道具であるが故に計算機能と記憶能力に長けている。ラセミスタが数値を計り式を組み立てて読み上げると、ミフがたちどころに答えを出し、それを元にまたラセミスタが新たな式を組み立てるというやり方で、二人は着々と計測と調整をこなしている。

 マリアラはミフに囁いた。


 ――ミフ、あと、どれくらいかわかる? なんか、さっきの人たちがまた追いかけてきそうなんだけど。

 ――大丈夫、もうすぐできるよ!


 少し安心して、マリアラはエルギンに囁いた。


「追われてるんだよね? あの乗り物に乗ってくれる? 空を飛べる乗り物なの」


 言いながら、マヌエルを知らない人にとっては荒唐無稽に聞こえるだろう、と思った。けれどエルギンは今回も訝しまなかった。茶色の瞳がマリアラを見て、囁いた。


「ニーナは乗ってますか」

「うん、乗ってる。だからあなたも」

「あなたが先に」

「わたしは――」

「エルギン=スメルダ=アナカルシス王太子殿下。お迎えに上がりましたぞ」


 低い涼やかな声がかけられたのは、その時だった。


 森の奥から、ひとりの男が進み出た。ほかの男たちとは服装が違う。色は同じえんじ色だったが、縫製も装飾も段違いに質がいい。何より違うのは靴だった。ほかの男たちがサンダルを履いているのに、彼はブーツのようなものを履いている。髪が短く刈り込まれているからか、それとも涼やかな目許のせいか、かっちりした印象を与える男だった。有能そうで、勤勉そうで、彼の周囲を囲む野卑で粗野な兵士たちよりも、格段に話が通じる雰囲気だった。

 しかしエルギンは彼を睨んでいた。彼には何も答えずに、マリアラに囁く。


「乗り物に、乗ってください」

「あなたは……」

「ヴァシルグの狙いは僕じゃない、ニーナです。ニーナだけはあいつに渡すわけにはいきません」


 どうやらあの有能そうな男の人は、ヴァシルグ、という名前らしい。エルギンの囁きが聞こえたのか、ヴァシルグの口角が持ち上がった。にいっ、と嗤うその笑みを見て、マリアラはなんだかぞっとした。仮魔女試験の時に会った、あの恐ろしい狩人――グールドと名乗った若い男を、彷彿とさせる笑みだった。


『マリアラ、乗って』


 ミフが言った。マリアラは後ずさり、ラセミスタが今作り上げたばかりの乗り物に乗った。中央にいるニーナの体をしっかりと抱き寄せる。ラセミスタはミフの穂から係留フックを引き出し、乗り物からのびるロープをくくりつけている。彼女は既に我に返っていて、不安そうなしかめっ面をしている。

 目が合うと、ラセミスタは低い声で言った。


「テスト飛行ができればなあ……」

「い、いざとなったら、さっきみたいに、ミフに吊してもらって……それでまた距離を稼いでから、改めて調節したっていいんだし」

「それができればね、良かったんだけど。あの飛び方だとそれほど速度が出せないの。見て、あれ、馬だよね……? さすがに人の走る速度には負けないけど、馬で追われたら距離を稼ぐなんてとても」


 言われて見れば、そのとおり、続々と現れる兵士たちの向こうから、馬を引いてやってきた兵士がいる。彼はヴァシルグに馬を届けにきたらしい。ヴァシルグはぽんぽんと馬の首を叩き、声を張った。


「娘。ルファルファの神子と王子を差し出せ。そうすれば命だけは助けてやろう」

「信じないで。とても残忍な男です」


 エルギンが囁いた、その時だった。

 出し抜けに横合いから男がふたり、飛び出してきた。ミフの係留フックにロープを結びつけていたラセミスタが棒立ちになった。マリアラはとっさに風を呼んだ。ぶわっと湧いた風は辛うじてラセミスタの上から刃の切っ先を逸らさせた。ラセミスタの足ぎりぎりに刃が落ち、マリアラは手を伸ばした。


「つかまって――!」

「……っ」


 ラセミスタが伸ばした手をマリアラはしっかりとつかんだ。ミフが飛び始め、引っ張られた乗り物が滑り出した。マリアラは満身の力を込めてラセミスタの体を引きずりあげた。追い縋る兵士がもう一度剣を振りかぶった。乗り物にしがみついたラセミスタの背に振り下ろされた刃は途中で逸れた。駆けつけたエルギンが、石を投げたのだ。


 兵が取り落とした剣を拾ってエルギンは走る。その後ろから、ヴァシルグが、兵士たちが追ってくる。馬に乗ったヴァシルグは嗤っている。ラセミスタが乗り物に転がり込み、マリアラはエルギンに手を伸ばした。


 エルギンの後ろに、ヴァシルグが迫る。

 ヴァシルグは剣を抜いた。しゅりん、金属音と共に白い光が煌めいた。


 乗り物がバウンドして、ラセミスタの悲鳴が聞こえた。

 馬の蹄の轟きが迫る。ヴァシルグの笑みが深まる。あいつの狙いは僕じゃないとエルギンがさっき言ったけれど、確かにそのようだ。少年の、治ったばかりの小さな背中に、躊躇いなくあの金属を振り下ろすつもりだ。

 頭が、真っ白になった。


「冗談じゃ……ない……っ!!」


 叫んだ瞬間。

 炎が炸裂した。


 炎は全く出し抜けに現れた。ほんの一握りの小さな炎だったが、馬を愕かせるには十分だった。馬は悲鳴と共に竿立ちになり、ヴァシルグが狼狽の声をあげた。エルギンが伸ばした手を、マリアラはしっかりつかんだ。ミフが速度を上げた。エルギンが乗り物に転げ込む。


「ミフ、仰角15度!」


 ラセミスタが叫び、ミフが柄を斜め上に向けた。ふわりと乗り物が浮き、がくん、と落ちた。地面をバウンドして、ラセミスタが喚いた。


「しっ、かりっ、掴まってええええ……!」

『もーいっちょー!』


 ミフが叫ぶ。乗り物がもう一度バウンドして、一瞬、ふわり、と浮いた。しかしすぐにまた地面に落ちた。もしこれがハウスの壁でなかったら、と、マリアラは思った。今頃衝撃で外に投げ出されているに違いない。


「計算では上がる、はず……!」


 どっ、再び蹄の音が響いた。ヴァシルグと兵たちが追いすがって来ている。ヴァシルグの顔から笑みが消え、凄惨な表情を湛えている。マリアラはエルギンとニーナの体をしっかり抱え、目を閉じて祈った。飛んで、飛んで、飛んで……!


『大丈夫いける! 絶対飛んでやるー! もーいっちょー!!』


 ミフが叫んだ。乗り物がバウンドし、また、ふわりと浮いた。マリアラは叫んだ。


「飛んで!!」


 叫びに応じて、風が湧いた。

 真下に湧いた風は、乗り物を一気に上空に押し上げた。


『やっ、たー!!』


 ミフが高らかに叫ぶ。下で狼狽の声が上がり、ちらりと見えた視界の中に、ヴァシルグがこちらを睨んでいるのが見えた。梢につっこみ、そして抜けた。赤く染まり始めた青空の中――水平飛行に移ったミフが、にぎやかな声を上げる。


『やった! やったやったやったー! いーきもちー! ちょっとコツわかってきたー! 凧揚げってこんな感じかなー!?』


 兵士やヴァシルグの威圧感から逃れて飛び出した空は、確かに気持ちが良かった。さわやかな風が楽しげな音を立てて周囲をすり抜けていく。マリアラは下を見、既にあの恐ろしい人たちが見えなくなっているのを確かめ、はああああ、とため息を付いた。


「………………やった」


 そう言った声は、ラセミスタと同時だった。

 見るとラセミスタもこちらを見ていた。目があった。ラセミスタはへにゃ、と顔を崩した。長くふるえるため息が聞こえる。


「……ああ、怖かった……。あの、ありがとう。あの風のお陰で飛べたよ」

「ふふ」マリアラは思わず笑った。「それはこっちの台詞だよ。こんな乗り物作っちゃうなんてすごい……ありがとう、ラセミスタさん」


 ラセミスタはそれで、我に返ったらしかった。

 非常時の混乱と興奮が抜けたのか、彼女は、見る見る表情を堅くした。視線が泳いで、下を向いた。呻くような囁きが、聞こえた。


「……ど、どう……イタシマシテ」

「あの、」


 声をかけようとすると、ラセミスタはビクリとした。彼女の外見はとても可愛らしく、同時に小柄で、なんだか小動物じみている。声をかけただけで虐めたような構図になり、マリアラはちょっと傷ついた。


 でも。


 ――ラセミスタ=リズエル・シフト・マヌエルはねーえ、人嫌いで、偏屈で、意地悪で、特に同年代の女の子が大っ嫌いで……


 先日ジェシカが言っていた言葉を思い出す。どこをどう見たらそうなるのだろうとマリアラは思った。

 どこからどう見ても、怯えてるじゃないか。


「……」

「……」

「……」

「……えっと、それで、エルギン……だったよね。家はどこ? 送っていくよ」


 話の矛先を変えると、ラセミスタは目に見えてホッとした。マリアラはまた若干傷ついたが、努めて表に出さないようにする。

 エルギン少年は、まだ気絶したままのニーナのすぐ傍に座り込んだまま茫然としていた。口がぽかんとあいている。マリアラがその顔の前で手をパタパタ振ると、我に返ったようだった。


「あ、え、え……は、はい!?」

「どっちに向かって飛んだらいい? 家がどっちの方か、わかる?」


 エルギンはしばらく考えていた。

 この子は本当に魔女を知らないのだと、マリアラは考えた。こんな乗り物が本当に空を飛ぶなんて、考えてみたこともなかったのだろう。

 しかし彼はすぐにふるふると頭を振って、それから、ニーナを見た。

 静かな決意のようなものが、その視線に宿る。


「……アナカルディアへ……行きたいのですが」

「アナカルディア?」


 ラセミスタが反応した。マリアラも、半ば予期していたことでありながら、やはり動揺しないではいられなかった。

 アナカルディアなら知っている。エスメラルダの隣の大国、アナカルシスの、首都だ。【暗黒期】以前から連綿と続くアナカルシス王国の王宮があり、今では、狩人の本拠とされているけれど。


 エルギンは、マリアラとラセミスタの反応をどう思ったのだろう。出し抜けに彼は居住まいを正し、右膝をたてて跪いた。


「助けていただいた身で、さらなるお願いをさせてください。図々しいとわかっていますが、貴女方のご厚意におすがりするしかないのです。――アナカルディアへ、僕とニーナを、連れて行っていただけませんか」

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