第一章8
マリアラの箒はぐいぐいと筏を引っ張って、沖へ沖へと進んでいく。
岸に取り残された追っ手たちをつくづく眺めてみると、彼らは本当に異様な風体をしていた。今までは恐怖と混乱のあまり彼らの服装までじっくり眺めている余裕などなかったが、こうして見ると彼らの服装はおかしい。
テレビで時折放映される時代劇に出て来るような、縫製が雑で色合いがくすんでいて、飾りもデザインも素っ気ない、実用本位の衣類。何より目を引くのは靴の粗末さだ。彼らが履いているのはサンダルだった。汚れたつま先がむき出しで、こんな森の中を下生えを踏み分けながら歩くには酷く心許ない代物だ。
と。
少しずつ遠ざかる彼らの様子をぼんやりと見ていたラセミスタは、急に異様な気配を感じて振り返った。
まだラセミスタを抱えたままで、マリアラが眦をつり上げている。
「ラセミスタさん!!」
「は、はいぃっ!?」
「ケガは……!」
出し抜けにマリアラはラセミスタの前に回り込んだ。ぐっと両肩を掴まれて、マリアラの必死の形相がラセミスタを覗き込んだ。
「ケガは!? あんな無茶をするなんて! どこか痛いところは!?」
「……!」
同い年の少女にこんなに近づかれたことはなかった。目を見開き呼吸まで忘れたラセミスタの顔を至近距離から覗き込んで、マリアラは痛ましげに目を細める。
「これどうしたの? 酷い擦り傷……」
「え、……擦り傷?」
「良かったら、治してもいい? もし嫌じゃなかったら、なんだけど……あのね、おでことほっぺたを、すごくすりむいてる。もう血は止まってるけど……さっきは髪の毛で隠れて見えなかった、のかなあ……」
マリアラの優しい指先が頬に触れ、ラセミスタは硬直した。確かに滲みるような痛みを感じた。そう、そうだった。昨日すりむいたかも、と、思っただけで忘れていた。
でも、それどころじゃなかった。腕が触れるくらいの距離で座ってくれる女の子の友達を夢想したことこそあったものの、こんな間近で、至近距離で、心配そうに覗き込んできてくれる同い年の少女なんて、妄想さえしたことがない。
「きっ」
思わず声が漏れ、マリアラが目を見開いた。「き?」
「きっ、きのっ、きのう……目が覚めたら木の上で、その……降りるときに、擦りむいた、の、かも。だ、だ、大丈夫。大丈夫、そそ、その内、治るから」
「かなり深いみたい。跡が残ったら大変だよ」
大丈夫だよあたしの顔なんて。誰も見ないし傷なんか残ったって誰も気にしないよ。
反射的に、そう言うところだった。しかし、危ういところで思いとどまった。左巻きの魔女は、治療を拒否されるのはとても傷つく。ということは、ダニエルとのつきあいでよくわかっている。
ラセミスタは声を絞り出した。
「つ、つ、つ、つか、疲れて、ないのなら……」
そして逡巡する。言っていいの? 大丈夫?
マリアラは黙っていた。ラセミスタはもう一度逡巡し、それでもマリアラが急かしたり苛立ったりしない様子に励まされて、囁いた。
「顔だけでも、治してもらえると……ありがたいぃ、デス」
「……、うん!」
と頷いたマリアラの顔がとても嬉しそうだったので、ラセミスタはホッとした。今の受け答えは、間違っていなかったらしい。
この状況にマリアラを突き落としたのは他ならぬラセミスタだ。
だからここで、いつものように、マリアラを避けて逃げたりどこかに引きこもったり、寝てる時間を見計らって帰ってきたり、なんてことをしてはいけない。こんな森の中、右も左もわからない状態でひとりで放っておくなんて絶対にダメだ。それはわかる。
だから何とか巧いこと受け答えをして、嫌われたり呆れられたり怒らせたりしないよう、細心の注意を払ってやり過ごさなければならない。そう思うものの、正直、前途多難だと思った。ラセミスタのような出来損ないのみそっかすを、好きになってくれる16歳の少女などこの世に存在しない。だから何とか、帰るまで、そう、嫌われないように。幻滅されないように、無難に、乗り切らなければならない。
マリアラは早速、ラセミスタの頬に左手を翳して、治療を始めていた。そうすると、確かに、頬に刻まれていた傷は思っていた以上に深いらしかった。じわじわと快さが満ちてくる。頬に刻まれていた傷跡が、大喜びで快復していく。それを感じながら、このまま時が止まればいいと思った。
“わたしの友達を侮辱しないで”と言ってくれた。
跡が残ったら大変だよ、と、心配して、傷を治してくれた。
カップケーキの保存法を死にもの狂いで考えた時のように、マリアラの感情を、今この状態で凍結してしまえればいいのに。このままでいてほしかった。どうか嫌いにならないで。あたしという人間を、よく知らないままでいて。知られたらきっと幻滅される。もしあのカップケーキのように、今のままのマリアラをどこかに永久に保存することが出来たら――何でも許してくれて、絶対にあたしを嫌いにならない女の子として、固定してしまうことが出来たら。
そんなことが出来たとしても絶対に満たされはしないと、重々わかってはいたけれど。
「木から滑り降りたんなら、他にも擦り傷が出来てるでしょう? 痛いところは他にどこ?」
頬と額の治療を終えたらしいマリアラが穏やかな口調で訊ね、ラセミスタは身震いをした。何をやってるんだと、自分を罵倒した。そんな優しい言葉をかけてもらえる権利など、あたしにはないのに。
こんな騒動に巻き込んでしまったのは、ひとえにあたしのせいなのに。
「……他は、大丈夫」
「ラセミスタさん――」
「とにかく……とにかく、その、さっ、さっきの子は大丈夫でっ、しょうか。というかその、そのっ、あの変な人たち――」
言ってラセミスタはぞっとした。
追っ手のいる岸はもう、だいぶ遠くなっているが、目を凝らすとまだ彼らが何をしているのか位はわかる。彼らはラセミスタたちを追うように、湖の周りを移動し始めていた。見ると前方に、岸が大きく張りだしている部分がある。既にそこに足の速い人たちが辿り着いていて、
「木……伐ってる……」
ラセミスタは茫然と呟いた。岸が大きくはりだしている部分は、当然、ラセミスタたちの乗った筏と岸を隔てる湖の距離が短くなっている。木をボート代わりにして、こちらに追い縋る気だ。
おまけに人数が続々と増えている。皆同じ色合いの粗末な服を着ている。生成りではなくえんじ色に近い色合いだから、きっと制服なのだろう。
ラセミスタが見ているものをマリアラも見ていた。彼女は未だ藍色に染まった瞳で、ラセミスタを振り返った。
「あの人たち、あの二人の子を殺そうとしていたよね?」
「は、はい。どう見ても」
「夢中になっちゃって良く見てなかったけど、あの男の子、矢……刺さって、たよね?」
「はい、まさに」
確かに、エルギン少年の背中に付き立っていたのは矢、だった。矢だ。矢である。これまた時代劇などでしかお目に掛かれない代物ではないだろうか。
あの張りだした岸から丸太で近づいてこられ、更に矢でも射かけられたら。
マリアラも同じことを考えたらしい。深刻な顔で囁いた。
「逃げなくちゃ。あそこまで行ったら追いつかれちゃう。ミフ……わたしの箒に、この二人とわたしたちで、四人。全員載せるのは無理?」
「無理です」ラセミスタは即答した。「箒の最大積載人数はふたり。どんなに頑張っても三人。いくら子供でもあの子たち、結構もう大きいもの……全員元気で自力でしっかりしがみついていたとしても、バランス取れない」
「あの……でも、箒って、結構力持ちだよね? 箒が運ぶ乗り物があるでしょう、あれには人が何人も乗ってたのに」
「ああ、力はある。あたしたち四人を軽々運ぶくらいのことは朝飯前だよ。問題はバランスなの。あと空気抵抗。そうだねえ、あの乗り物があれば問題解決だったんだけど、巾着袋の中にさすがにそれは……」
「じゃあ……どうしたら」
ラセミスタは素早く計算した。未だに建てたままだったポップアップテント。工具こそごく簡易的なものしかないだろうが、ロープやボルト等の資材は豊富にあるはずだ。しかし今はとにかく、簡易的な処置だけで逃げなければ。あの人たちを撒いてから、改めてちゃんとした乗り物を作ればいい。
「あの……箒、ミフって言うんだっけ」
言うと箒がぴょこんとこちらを向いた。『そう! ミフだよ! よろしくね!』
「あ、どうぞよろしく……あの、ね。嫌かも知れないけど非常事態だから……柄にロープを結びつけてもいい? 筏の四隅にロープを縛って、それでミフが垂直に飛んでくれたら、気球みたいな感じで空に浮かべると思うんだよね」
「……!」マリアラが手を打った。「そっか……!」
「矢が怖いけど、これだけ離れてればまあ……」
『ええー』案の定ミフは渋った。『穂の中の係留フック使ってくれない? ロープは嫌だな、安全性が確保できないよ』
「いやなのはわかるよ。ごめん、非常事態だからどうか……今だけ、ね? あの人たちを振り切ったら、係留フック使って飛べるようにそりに変えるから」
『係留フックにぶら下げて飛べばいいじゃない』
「係留フックはひとつしかない。筏は長方形だから、最低でも三点保持したい。できれば四点が望ましい」
ミフはうーうー唸り、それから、泣きそうな声で言った。
『……非常事態だから!』
「うん」
『フィには内緒にしてよね!?』
「うん、もちろん」
ラセミスタは真面目に請け合い、早速取りかかった。筏の四隅にロープを結んで固定し、釣り合いが取れるように調節して、ミフの柄に縛り付ける。フェルドからロープの結び方を習っておいて助かった。
『ううう、かっこわるい……かっこわるいよう……』
「そんなことないよ、ミフ。嫌なのに頑張ってくれてありがとう」
マリアラが励まし、ミフはまだぶつぶつ言いながら浮き上がった。ラセミスタは先日、イーレンタールが空飛ぶ絨毯を作ろうとしてフェルドと一緒に真っ逆さまに落下した、という話を思い出していた。あれも、箒の力を借りられればあんな苦労、しないですんだはずなのだ。
箒は柄に何かを結びつけられることをとても嫌がる。どうしてだろう。改造されることは別に嫌がらないのに。
岸で、男たちが騒いでいるのが聞こえる。あの人たちはどうやら、空を飛ぶ箒を知らないらしい。と言うことはつまり、魔女のことも知らないのだろうか。
いったいどこに来ちゃったんだろう。ラセミスタはため息をついた。