第一章7
ラセミスタは震えていた。どうしよう、どうしよう、どうしよう。
昨日は思い至らなかったが、ひと晩ぐっすり眠ってみると、今の状況が絶望的であることが身に染みる。
どうしよう。女の子とふたりきりだ。
それも、マリアラと。
こうなった以上、顔を合わせて会話をしないわけにはいかない。マリアラはもう起きていて、今はたぶん箒でその辺りを見て回っている……のだろう。今はいないが、その内戻ってくるはず。どんな顔して会えばいいの? 自分のせいでこんなことに巻き込んだのに。
会わせる顔がない、とはこのことだ。
どうしよう死ぬ。冷たい顔して『どうしてくれるの』なんて責められたら死ぬ。もちろんラセミスタはリズエルとしての誇りを持って、原因を究明し帰り道を探り出したい気持ちでいる。が、手持ちの魔法道具は全て置いてきてしまった。ここにある魔法道具は全てマリアラのものだし、魔女の巾着袋の中には、もちろんリズエル用の工具や装置などは入っていない。
リズエルとは言えほぼ丸腰。魔法道具の知識を抜いたら何も出来ないみそっかす。一人でサバイバルなんて夢見たことさえないもやしっ子。どう頑張っても好きになってもらう要素などどこにもない上、見捨てられたらのたれ死にしかねない状態で、顔を合わせて会話をしろというのか。死ぬ。
ひゅっと音が鳴って、マリアラが降りてきた。ラセミスタは来たるべきマリアラとの遭遇に備え、とりあえず寝たふりをする。まずはあちらの出方を窺わなければ。
ところがマリアラは一向にこちらにやってこない。ラセミスタはそろそろと目を開け、テントの中からそっと外を窺って――
ようやく事態に気づいた。そこにいたのはマリアラだけではなかった。見知らぬ子供が二人増えていた。ひとりは男の子。血まみれで、意識がない。もうひとりは女の子。長く緩やかにうねる明るい茶色の頭髪に、はっとした。
――このふたり、昨日の“流れ星”……じゃ、ないのかな?
マリアラはと言えば既に治療に取りかかっていた。ラセミスタは意を決してテントから這いだしそちらへ行った。マリアラは巾着袋からはさみを取り出し、血まみれの男の子の衣類を切り裂いている。程なく露出した傷口を見て、ラセミスタは思わず目を背けた。――惨い。
背に、長い矢が二本、付き立っていた。一本は折れ、傷口が抉れている。他にも大きな裂傷が走り脇腹に大きな血の塊がこびりついている、そこまでは見られたが、もう限界だ。
マリアラはと言えば、いかにも左巻きらしく、傷口を調べても顔色も変えない。一年前まではただの女の子だったはずなのに、ここが魔女の不思議なところだ――そう思いながら、ラセミスタはマリアラの邪魔にならないよう巾着袋を引き寄せてから、ハンカチを敷いて中身をざあっと出した。水桶を選び出し、元の大きさに戻すと、何もかも心得た箒がすかさず寄ってきて、桶の持ち手に自分の柄をくぐらせ、湖の水を汲みに行く。
マリアラはあまり魔力が強くない。治療以外のことは出来るだけ、肩代わりした方がいい。
魔女の治療には大量の水が必要だ。ミフと協力してマリアラの隣に水桶の行列を作り上げた。そうしながらも、そわそわしないではいられなかった。昨日の狼は、寝ている間には運良くやって来なかったようだけれど――あの狼が今ここに乱入してきたら、皆、あっという間に殺されてしまうだろう。
「おかあ――さま」
か細い声が聞こえた。ラセミスタははっとした。
倒れた少女が、呟いたのだ。
こちらも無惨な有様だったが、彼女が被った血は、殆ど少年のものらしかった。少女自身のケガは見る限りでは存在しない。ラセミスタは水桶がまだ充分あることを確かめてから、少女の方へ行った。屈み込むと少女は目を開けた。涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
「おかあさま……エルギンを……」
「えるぎん?」
「エルギンを助けて。どうか……助けて……」
悲痛な声だった。ラセミスタは胸がぎゅうっとするのを感じた。
エルギンというのは、きっと、死にかけた男の子の名前だ。
少女は小柄で、エルギン少年よりずっと小さい。たぶんひとつかふたつ、年下だろう。この体格差で、更に大ケガをし意識のない少年を背負って逃げるなんて、どんなに大変だっただろう。
「大丈夫だよ」
ラセミスタは少女の頭の下にそっと手を差し入れて持ち上げ、自分の膝に載せた。血のこびりついた茶色の髪をそうっと撫でる。
「大丈夫だよ……左巻きの魔女が付いてるんだから。絶対、絶対助かるから。大丈夫だよ……」
「おかあ……さま」
少女の頭を撫でながら、ラセミスタはマリアラの方に視線を移した。
左手が、少年の傷の上に翳されていた。マリアラは目を閉じている。その手のひらの下で、劇的な変化が呼び起こされていた。深い裂傷が、ゆるやかに、しかし確実に、修復されていく。細胞同士が大喜びで手を取り合い、マリアラの助けを借りて自ら治っていく。魔女の治療は、いつも正しい。理不尽な出来事によって引き起こされていた災禍がぬぐい去られ、あるべき姿を取り戻していく。どう考えても異様な光景のはずなのに、実際に目にするととても自然だ。魔女の方が正しくて、出来ないこちらが間違っているのだと、そう思わずにはいられない程に。
しゃらららら。
マリアラの左手の親指で、指輪が音を立てている。
ラセミスタはついいつもの癖で目を凝らした。数値が踊っているのはわかるが、細かな数字までは振れ幅が激しすぎて読み取れない。が、複数桁あるのは確かで、少しホッとした。昨日の数値は何だったのだろう。帰ったら何とか理由を付けて一度指輪を返してもらって、壊れていないかどうかチェックしなければ。ついでにデータをリアルタイムで観測できるような仕組みを整えれば、その内あの指輪を量産して、マヌエルが魔力を行使している間に魔力値がどのように変動しているかを【魔女ビル】で随時チェックすることができるようになる――救助派遣や医局での治療や製薬、雪かき等の現場において、その情報はかなり有益な判断材料になるのでは、
がさ。
ついいつもの癖で考え込んでいたラセミスタは、茂みが立てた音で我に返った。
謎の少女は、ラセミスタの膝の上で気絶するように眠っていた。大ケガをしていた少年の傷は既にすっかり消え、マリアラは浄化した水で血や汚れを丁寧に洗い流している段階だった。唐突に現実が戻って来て、ラセミスタは身震いをした。昨日会った巨大な魔物? は、“流れ星”を捜していた。このふたりがあの流れ星だとしたなら、魔物がふたりを襲いに来るのは時間の問題だ。
逃げなければ。
でも、どこに? どうやって?
ラセミスタは周囲を見回し、所在なさげにふわふわ飛び回っている箒をそっと手招きした。すぐに近寄ってきた箒に囁く。
「逃げた方が、いいと思うの……」
がさ。
さっきの音がまた聞こえた。少し近づいている。ラセミスタはゾッとし、言葉を早めた。
「この子たち、襲われたんだよ。小さな女の子が男の子を担いでそんなに長い距離移動できるわけないもの、今にもきっと追いかけてくるよ。逃げよう。とにかく、筏に男の子をのせて。あたしはこの子を担いでいくから」
初めからこの子たちを筏に乗せれば良かったのだ。それから治療を始めてもらうべきだった。矢が付き立っていたのにそれに思い至りもしなかったなんて――悔やむけれど、後の祭りだ。箒は言葉に出さずにマリアラに、ラセミスタの意見を伝えてくれた。マリアラの藍色の瞳がこちらを見た。ラセミスタは頷いて見せる。
がさ……
更に茂みが鳴り、マリアラもそれに気づいた。箒がその柄を少年の腹の下に差し込み、そっと持ち上げた。落ちかけた少年をマリアラが支え、岸に乗り上げた筏の方に運んでいく。ラセミスタは少女の体を背中に担ぎ上げ、何とかよろよろと立ち上がった。がさっ、茂みが大きく鳴り、はっと息を吸う音がした。続いて、野太い声が叫んだ。
「いたぞ――! 王子と神子だ! こっちだ!」
王子?
神子?
なにそれ?
少女の体が重かった。おまけに少年の流した血とそれを洗った水で地面がぬかるんでいて、ずるっと足が滑った。大きくたたらを踏んだ瞬間、ひときわ大きく茂みが鳴り、そこから大柄な男が姿を見せた。大きな金属の棒――剣――を持っていた。邪魔な下生えをそれで薙ぎ、男は怒鳴った。
「何者だ!」
「……っ!」
あんまり驚いて、声が出ない。逃げることしか考えられない。ラセミスタは必死で走ろうとし、足が絡まり、足が滑って、倒れ込んだ。男の体臭が迫る。屈み込んでくる大きな影。先程の声に応じて次々に仲間が集まってくるのを感じる。地面に歯をぶつけた。土の、水の、血の味。背から少女の重さが消えた。振り仰ぐと男が少女の首根っこを掴みあげたところだった。「捕まえた――! 報奨金は俺のもんだあ!」野卑な男が高らかに叫び、
『ところがどっこいしょー!』
「!?」
箒の叫び声と共に、少女の体を取り落とした。
少女の首を掴んだ男の手首に、箒の柄が振り下ろされたのだ。
「なっ……なんだこりゃ! 箒!?」
「箒が勝手に動いてやがる!」
落ちてきた少女の体をしっかり掴まえ、ラセミスタは走った。ばしゃっ、水音がして男たちの悲鳴が上がった。マリアラが彼らに水を放ったのだ。フェルドの使う水よりは遙かに少なく大人しかったが、彼らを一瞬下がらせるだけの効果はあった。
いつしか十人近くもの人間がその場に現れていた。ラセミスタは筏の上に少女もろとも倒れ込み、そして跳ね起きた。
巾着袋がまだ、地面に落ちている。
「ラセミスタさん!?」
マリアラの声を後ろに、ラセミスタは今来た道を取って返した。箒が果敢に戦うその真下に走り込み、男たちに踏みにじられる寸前に、巾着袋をひったくった。
「ラセミスタさん……!」
再び水音が轟いた。ラセミスタの上に伸ばされていた男の腕がそれた。ラセミスタは死にもの狂いで走った。すぐにマリアラの腕が伸び、ラセミスタを抱え込んだ。二人はそのまま筏の上に倒れ込んだ。男たちが追ってくる。剣の光がちらちら輝いている。その輝きが二人の上に振り下ろされる寸前、筏がぐっと引かれた。いつの間にか湖側に回っていた箒が、筏を引っ張っていた。
湖面を滑る筏を、取り残された男たちが怒号をあげながら追いかけてくる。ばしゃばしゃと水しぶきが上がるが、湖面を滑る筏の方がずっと速かった。あっという間に彼らは置き去りにされ、ラセミスタはようやく、ホッと息を吐いた。
死ぬかと思った。