第一章6
目が覚めると、朝だった。
お腹が重い。寝汗をかくほど暑い。目を開くと布張りの天井が、手を伸ばせば触れそうな場所に存在していて、布越しにもお日様がさんさんと降り注いでいる様子がわかる。
――ここどこ?
マリアラはぼうっとしたまましばらくその天井? を眺めていたが、周囲の暑さが次第に耐えがたくなってきた。同時にお腹がとても重いのだ。何か、ボーリングの玉のような、あるいは西瓜のような、丸くて中身の詰まった重いものが乗っている。
ふわあ、とあくびをしてそろそろと動き、その重いものをそっと床に下ろして――
初めてそれが、金髪に近いほど明るい茶色の頭髪を持つ、誰かの頭だと言うことを認識した。
一気に目が覚めた。ラセミスタだ。
ラセミスタは、すうすうと健康的な寝息を立ててぐっすり眠っていた。頭を床に下ろされたというのに目を覚ます素振りもない。マリアラは混乱し、とにかくこの暑さをどうにかしようと周囲を見回した。テントだ。
何が起こったのかいまいちよくわからないが、マリアラはラセミスタと一緒に、とても狭いテントの中で眠っていたらしい。
テントの入口を探り当てて合わせ目を開くと、さっと涼しい空気が流れ込んできた。ホッとしながらマリアラはラセミスタの体を踏まないように気をつけてとりあえず外に出た。そして思わず、わあ、と声を上げた。なんて――何ていいところだろう!
そこは水の上だった。どうやら湖らしい。水はとても澄んでいて綺麗だ。周囲を深い森に囲まれていて、静かで、しかし鳥の囁きが響いてくる。ちゃぷん、魚が遠くで跳ねた。お日様はもうだいぶ高く上がっていて、水面がキラキラ光っている。
そう、いいお天気だ。11月のエスメラルダでは信じられないほど輝かしい日光だ。おまけに気温が高い。夏みたいに暑い。マリアラは急いで上着を脱いだ。
服装は昨日のままだった。――昨日? と考えて、ようやく、最後の記憶を思い出した。フェルドと一緒に階段を降り、ラセミスタを訊ねて工房へ行ったこと。工房の中では大騒動が起こっていて、扉に亀裂が走り、続いて扉が部屋の中に吸い込まれて――ラセミスタが床の上で椅子を構えて身を守っていた。部屋には電気の嵐が渦巻いていて、がすがすばすばすと様々なものが凶器となって飛び交っていた。
それで。
……それで?
目が覚めたらテントの中でラセミスタの頭がお腹の上に乗っていて外に出たら湖だった。
「目、覚めてる……?」
ほっぺたをつねってみる。夢にしては痛い。そして――テントの中に比べればましだが――暑い。上着を脱いで、薄い長袖のTシャツだけになってもまだ暑い。マリアラは腕をまくり、それからテントの入口を開いて留め、中に風を送った。このまま眠り続けたら熱中症が心配だ。
テントの入口に、見覚えのある巾着袋がぶら下がっていた。マリアラのものだ。地面はがっしりしていて、どうやらハウスの壁をつなぎ合わせて筏にしたものらしい。ポップアップ式のテントも、巾着袋の中に入っていたものだ。テントをぐるりと一周すると、ミフが立てかけられているのに気づいてホッとする。
巾着袋の中から魔力の結晶をひと粒取り出し、ミフの緊急起動回路の蓋をぱこっと開け、中のくぼみに結晶をはめ込む。蓋を閉めて、マリアラは言った。
「マリアラ=ラクエル・マヌエルが命じます。ミフ=ミルン、起きなさい」
『声紋パスワード認識。起動します。――おっはよー!!!』
当然ながらミフは寝起きが素晴らしくいい。きゅぴーん☆とでも言いそうな仕草で命を取り戻すやぶるんと全身を震わせ、マリアラに飛びついた。ぶんぶん穂を振りながら。
『おはよおはよおっはよーマリアラー! きのーはびっくりしたねびっくりしたよねー!! もーびりびりなって死ぬかと思ったよー! マリアラ痺れなかった? 元気? 大丈夫?』
いつもと変わらないミフの元気さに、マリアラはようやくホッとした。自然に笑みがこぼれ出る。
「おはようミフ。あのね、この筏を岸に着けて欲しいんだけど、いい?」
『もっちろーん!』
マリアラがミフの穂を掴むと、ミフは早速岸に向けて飛んだ。テントを載せた筏はすうっと綺麗な水面を滑って岸に辿り着く。ミフはさながら尾を振る犬のような仕草でマリアラの周りをぴゅんぴゅん飛び回った後、穂から係留フックを取り出してハウスの壁のフックに取り付け、筏を陸に引っ張り上げてくれた。マリアラはその間に簡易トイレと洗面台を設置し、朝の身支度を調えた。冷たい水で顔を洗うと、ようやくこれは、現実なの――かも? という気分になってくる。
「ねえミフ」
『んー?』
ふよふよとその辺りを覗いて回っていたミフが戻って来た。テントの中で、ラセミスタは相変わらず眠っている。
「これって……現実?」
『んー? 現実の定義による』
「いやあの、哲学的な話じゃなくてね」
『哲学じゃないよ、科学だよ?』
「わたし今、起きてるんだよね?」
『うん、起きてるよー』
「ここ、どこ?」
言いながらマリアラは辺りを見回した。起きてからずっと変わらず、深閑とした森の中だ。静寂に満ち、同時に生き物の気配に満ちている。
もしピクニックに来たのだったら、とても楽しかっただろう。季候もいいし、散策にはうってつけだ。
ミフは言った。
『んーとね、座標によると。エスメラルダのー』
「エスメラルダ……なの?」
『水の博物館のー』
「水……水の博物館の!?」
『“甘味処 びいだま”のある辺りだねー』
「……嘘!」
“びいだま”でダリアに励ましてもらったのはつい先日のことだ。マリアラはミフの柄を掴んで跨がった。ふわりと体が浮き、ぐうんと上昇した。湖が遠ざかる。全貌が見えるようになる。森の中でキラキラ光る湖面は歪んだひょうたんのような形をしている――
「……う、そお……」
『地図あるよ。目え閉じてー』
言われたとおり目を閉じると、瞼の裏に、ミフの送ってくれた地図が見えた。エスメラルダの南東部に位置するセ・ルクレ湖――別名“ひょうたん湖”は、子供でも知っている湖だ。水量が多く水質が良いことで有名で、名水と謳われたと習った。水の博物館はひょうたん湖の南側に張り出す形で建設されている。
確かにミフの言うとおり、今マリアラは、ひょうたんそっくりの湖の、南側にいた。
「どういう……こと……?」
高いところから見るとよくわかる。見渡す限りの森、森、森だ。ここが水の博物館のある場所だというのなら、湖を挟んで左前方には【学校ビル】、正面には【魔女ビル】が見えなければおかしい。そもそもこの辺りはエスメラルダ有数の繁華街のはずだ。なのに建物が全然見えない。動道もない。空に浮かぶ島も。何より雪だ。雪がない。
寒くない。
『変だねー』
ミフが言った。全然変だと思っているように聞こえない暢気な言い方に、気が抜けた。まあとにかく、と思った。何が何だかわからないけれど、とにかくラセミスタが一緒にいる。ミフもいる。巾着袋もあるから衣食住にも困らない。ラセミスタと二人なら、ひと月くらいなら生き延びられるはずだ――そう思って、はっとした。
「フェルドは?」
最後の記憶では、確かにフェルドが一緒にいた。ラセミスタよりも近くに。
「ミフ、フィと連絡取れない?」
『んー?』ミフは一瞬黙り、それから言った。『……ダメみたい。あっちが落ちてる』
「落ちてる?」
『さっきまでのあたしと同じ状態だね。何らかの事情で持ち主からの魔力供給が完全に遮断されてしまうと、箒は強制終了状態になっちゃうんだよ。フィの方もこっちと同じ状態になったってこと。フィはまだ再起動してもらってないんじゃないかなー?』
ミフは軽い口調で言ったが、マリアラはなんだかゾッとした。フェルドはどこに行ったのだろう。ラセミスタに聞いてみなければ――そう思って下へ戻ろうとした、その時。
がさ。
真下で、音がした。
荒い息づかい。喘鳴が混じっている。ずるずる、何かを引きずる音。そして――血の匂い。
視線を落とすと真っ先に、血が見えた。幼い少女が信じられないと言うようにこちらを見ていた。
べっとりと血にまみれた、意識のない少年を、その細い肩に担いでいる。
「浮いてる……」
そう呻いて、少女は倒れた。――どさり。濡れた重い音を聞いて、マリアラは、
頭の中が、真っ白になった。