第一章5
その日、ランダールは怒っていた。
もちろん、エルギン=スメルダ=アナカルシス王子が、居候の分際でありながら、ルファ・ルダ最高位の存在であるニーナ姫を黙ってこっそり連れ出した挙げ句、日が暮れても戻る気配がないからだ、とイーシャットは理解している。
場所は地下神殿。時刻は真夜中。六年前にルファルファ神を祀る神殿は全て破壊され、再建を禁じられたが、人々は地下に神殿を作ることでルファルファへの信仰を密かに繋いできた。六年の間に少しずつ少しずつ掘られ、補強されてはいるものの、未だ装飾の部分にまで着手できていないようで、有り体に言えば要所要所を石柱で補強された洞穴に近い。正直言って夜は怖い。
木で作った台に赤い繻子の布をかけたものが祭壇だ。その上には、ルファルファのご神体として、金色の髪が一房祀られている。部屋中に蝋燭が灯され様々なものの影をむき出しの土あるいは石の柱に映し出し、風が吹けばゆらゆらと揺れる。
怒れるランダールの影も。
――怖え。めっちゃ怒ってるやっべすっげ怖え。
ランダールはイーシャットと同じ19歳にして、既にこのルファ・ルダをまとめる有能な統治者である。正式な名は、エルヴェントラ=ル・ランダール=ルファ・ルダ。この国の正当な代表者だ。
六年前に当時のエルヴェントラとエルカテルミナが処刑され、その息子であったランダールは密かにエルヴェントラを継ぎ、敵国の統治下におかれながら地下で人々を守り、導き、ルファルファの教義を守ってきた。イーシャットはこいつのことをすごい奴だと認めている。たった13歳でひとつの国を全て背負う決意をしそのとおり邁進するなどイーシャットにはできない。
しかし、どうも好きにはなれない。
「……貴様らの王子はなにを考えてる。馬鹿なのか」
この歯に衣着せない物言いが、特に好きじゃない。イーシャットは我が主のために、何とか弁明を試みる。
「エルギン様は馬鹿じゃない。たぶんどうしても、何か、重大な、理由が……」
「当たり前だ!」ランダールは激昂した。「さしたる理由もなくエルカテルミナを誘拐されてたまるか!」
「ご、ごもっともで……」
ランダールはすぐに、ため息ひとつだけで激昂を抑えた。
「ルファ・ルダは……マーセラ神殿側のカーディス王子に統治されるよりは、エルギン王子に統治された方が百倍マシだから、もちろん、狩りにも協力してる。三年前に王妃に命を狙われた王子を匿い、その安全を確保してきた。今後もその協力を変えるつもりはない。エルギン王子には是非ともこの土地の統治権を獲得していただきたい。側近殿にはそのあたり、ご理解いただいていると思う」
「はい、もちろんです……」
「だがいくらエルギン王子による統治を熱望しているからと言って、譲れることと譲れないことがある! ニーナを誰だと思ってる、唯一無二の神子、この世の花だぞ! 万一ニーナに何かあってみろ、この国どころか世界の破滅だ! 本当にわかっているのか!?」
わかっている、つもりだった。
ニーナはルファルファの教義では、是が非でも女子を産み、次代に花を繋がなければならないとされている。先代のエルカテルミナは既に亡くなっているから、花を残せるのはニーナだけなのだ。ニーナはまだたったの九歳だ。子を産める年齢になるまで、まだ何年もかかる。
それはただの宗教の教義でしょ、と一笑に伏せない重みが、ルファルファにはある。歪みを払い魔物を遠ざけるのがエルカテルミナの勤めであり、その勤めは目に見えて果たされている。もしこの勤めを果たせるものがいなくなったら、この国どころかアナカルシス、近隣諸国までもが、歪みや魔物に蹂躙されるようになってもおかしくない。
「……母上様が、ほら……」
イーシャットは小さな声を絞り出し、ランダールが息を詰めた。
イーシャットは囁く。
「エルギン様の母上様が、死にかけて、いらっしゃるだろ……危篤だ、狩りが済んだらすぐ戻れって、知らせが、昨日届いてさ……もちろんエルギン様には言わなかったけど、あの方は聡明だから……悟っちまったんだと思うんだ。それで……」
聡明で利発だとは言え、エルギン王子はまだたったの十一歳だ。そこを斟酌してもらいたい。ランダールにはこれで赦してもらって、一緒にエルギン王子とニーナを探し始める段階に移りたい。その一心で言った言葉だった。
しかし戻って来たのは、酷く辛辣な応えだった。
「もしそれが本当なら俺はあの王子を見限るぞ」
イーシャットは顔を上げた。ランダールの氷のように整った美貌、鋭い眼差しに、酷薄で蔑むような光が宿っていた。
「この狩りに失敗すればルファ・ルダも破滅だ。そして王子もそうだ。ここに逃げ込めなくなった王子はアナカルディアに戻るしかなくなり、遠からず暗殺されることになるだろう。イーシャット、マスタードラ、それから王子を支える民全てが住処と職と命を失う、そういう末路になりかねん」
「う……」
「母親だと? 危篤だと? ――ふざけるなッ!」
鋭い怒号が神殿に響き反響し四方八方からイーシャットを打った。
「……っ」
「そんな甘ったれた情に負けてこの狩りを放棄してアナカルディアに帰ったというなら、王子に賭ける価値などない! 王子にこの国を守れる技倆などない! 見どころがあるなんて思った俺が誤りだった――」
「…………」
「……まだそう決まったわけじゃないから、それは今は、保留しておく」
一転、静かな声でランダールは言い、イーシャットは身震いをする。こいつの激昂はいつもすぐ収まる。自制心の強さのゆえだろう。
だからイーシャットは、ランダールが好きになれない。
強すぎて。孤高すぎて。指導者として仰ぐのにはいいだろうが、友人にはなれそうもない。――高みに、いすぎて。
「エルヴェントラ」
神殿の入口で、低い声が囁いた。ランダールは息をつき、それから入口に向き直った。
「ゲルト、見つかったか」
「いえ、襲撃です」
「襲撃? ――神官ムーサか?」
「いえ、魔物……かと」
ランダールが走り出した。イーシャットも後を追った。魔物って言ったか、今。
石段を駆け上がると上で控えていたゲルトがランダールに手を貸し引っ張り上げた。もちろんイーシャットのことは無視である。イーシャットは身を乗り出し、ゲルトがランダールにひそひそ報告する声を盗み聞いた。
アナカルディアの方角から――初めは手出し――王の兵が攻撃――負傷者を収容――手当ての要請――
どうやら先程イーシャットが丸焦げにされそうになったこととは無関係らしい。
つい先程、王の兵が駐屯している平野で、魔物が目撃された。あちらから襲ってきたわけではないが、早とちりの兵が獣と勘違いして威嚇し、魔物は激昂して襲いかかってきた。王の兵が何名も負傷している。使者が、ケガ人の収容・手当てを要請している。
話しながらランダールとゲルトは足早に、居宅の方へ歩き出している。イーシャットは追いすがる。王子の諜報担当として、情報を把握することはイーシャットの勤めだ。
「そんで、魔物は?」
口を出すとゲルトはちらりとイーシャットを見たが、特に隠すこともなく言った。
「まだ東の平原にいる。ルファ・ルダは聖地だからな、魔物は侵入を嫌がるはずだ。だが雪山に潜まれたら厄介だ」
「殺せてねーのか、第一将軍もいらしてるのに」
「闇夜だからな。何と言っても相手は魔物だ」
「ゲルト、要請はケガ人の収容と手当てだけか。出撃要請は?」
「今はまだです」
「王の兵だけならまだしも、マーセラ神官兵が中隊派遣してるからな。面子に掛けてもルファルファに助けを求めるわけにはいかねーだろ」
イーシャットが言うとランダールは唇を歪めて嗤った。
「面子にこだわって数を減らしてくれるならこちらとしては願ったりだ。ゲルト、戦えない国民を泉の周りに集めろ。神官兵を全員叩き起こせ。ニーナと世継ぎ王子の不在を気取られるな。イーシャット、マスタードラは?」
「エルギン様とニーナを捜しに行った。とても寝てられねえって」
「わかった」
「ランダール様」
行きかけたゲルトが、振り返った。珍しく――この男にしては本当に珍しく、彼は逡巡した。
ランダールやイーシャットより十以上も年上の、有能で辣腕な男だ。ランダールの補佐として国をまとめる手腕はかなりのもので、六年前、たった13歳だったランダールが幼いながらも何とかエルヴェントラの地位を担うことが出来、国を存続させることができたのは、かなりの割合でこの男の功績だった。同時に私欲のない男だ。“国王”の右腕でありながら彼は未だに妻帯もせず家も構えていない。ゲルトが、ただひたすらこの国の行く末を思い身を粉にして働いていることは周知の事実だ。目的が明確だからなのか、その行動には一切の迷いがない。
その彼が、珍しく言いよどんだ。ランダールもその珍しさに眉を上げた。
「どうした」
「……イーシャット」ゲルトが言いにくそうにイーシャットの名を呼んだ。「さっき、拘束され連行されたとき――兵の中にヴァシルグがいたか」
「ヴァシルグ? ……いいや、いなかったな」
答えてから、イーシャットもその違和感に気づいた。
ヴァシルグ。ムーサの右腕であり、マーセラ神官兵の兵団長であり、とても狂信的で酷薄で有能で、ムーサの汚れ仕事を一手に引き受ける役割の男。
確かに、第一王位継承者の身内を捕らえ、連行し、火炙りにする――そんな汚れ仕事の場に、ヴァシルグがいなかったのは不思議である。
「ゲルト」
ランダールが促し、ゲルトは目を伏せた。絞り出すような声が聞こえる。
「奴に付けていた見張りが戻らないのです。今朝から」
「何――」
「奴の姿が見えません」ゲルトは静かな口調で繰り返した。「確証はありません。いたずらに不安を煽るのもどうかと――だが」
「胸騒ぎがするのか。……あなたがか?」
ランダールが訊ね、ゲルトはくっ、と歯を噛みしめた。現実的で理性的なランダールと、現実的で理性的なゲルト。この二人が“胸騒ぎ”などという非現実的な要素を理由に動くことなど普通はあり得ない。
なのに。
「胸騒ぎがするんです」ゲルトは不本意そうに言った。「ニーナ様の姿が見えない。……時を同じくしてヴァシルグも消えた。奴に付けていた見張りからの報告も途絶えた。胸騒ぎがする。お気を付けください、ランダール様。ムーサがなりふり構わなくなったのだとすれば、イーシャットの火刑も頷けます」
イーシャットは身震いをした。真っ先に考えたのは、やはり命より大事な王子のことだ。
王子は無事でいるだろうか。
ヴァシルグはどこへ消えたのだろう。
今頃――
そんなばかな。いたずらに不安を募らせてどうする。そう思いながらもイーシャットは、不安を笑い飛ばすことが出来なかった。
――今頃ヴァシルグが、王子を、そしてニーナを、殺しかけている、なんて。