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魔女の遍歴  作者: 天谷あきの
魔女の冒険
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第一章4

 ルファ・ルダは六年前、アナカルシスの王によって滅ぼされた。創世神ルファルファを信奉する民の住む、聖地だ。

 今では王家の直轄地として統治されている田舎である。森と清浄な水に守られた神の聖地は、アナカルシス兵とマーセラの神官兵によって威圧され、沈黙を守っている。


 このたび、王は二人の息子のどちらかに、この国の統治を任せることにした。

 11歳の第一王位継承者、エルギン=スメルダ=アナカルシス。

 それから、8歳の第二王位継承者、カーディス=イェーラ=アナカルシス。

 ふたりはこの森の国で狩りの腕を競い、王の前に獲物を積み上げ、自らの素質を披露することになった。狩りの期限は一週間。二人の王子を応援する陣営はそれぞれ、王子のために獲物を捕らえ、血を抜き内臓を除き毛皮を剥ぐという仕事に精を出している。


 ――はずだったのだが。


 まさかカーディス王子の筆頭補佐官が、エルギン王子の命まで狙ってくるとは想定外だった。


 王が今駐屯しているのはルファ・ルダとアナカルシスの国境にほど近い、広々とした平原である。天幕の連なりと篝火を見たとき、イーシャットは心の底からホッとした。王は厳格だが公平だと聞いている。一度お目にかかったことがあり(もちろんあちらはイーシャットごとき、もはや覚えていないだろうが)、その時の印象から言っても、ムーサだけの申し出を盲信するような方じゃない。まさかムーサも、王の目の前で、第一王位継承者の側近を捕らえようとはしないはず。


「はああ……悪いちょっと……限界だわ……」


 安心すると同時に膝から崩れ落ちた。油と煙と熱と拘束と、あのくそじじいに痛めつけられた影響も色濃いままに、森の中の逃避行である。安全な場所にたどり着いた瞬間にぶっ倒れたって誰も文句は言うまい。


 マスタードラはと言えば、男一人担いでこの距離を走ったというのにまだまだ平気です頑張れます、という顔をしている。相変わらずの体力馬鹿め、とイーシャットは心の中で八つ当たりをした。マスタードラは体力馬鹿で剣馬鹿の割に、変なところで几帳面な奴で、散髪を面倒がらない。明るい茶色の頭髪は短くきちんと刈り込まれている。図体はかなりでかい。イーシャットと同じ19歳だが、その落ち着きのためかかなり老成した雰囲気を漂わせている。実際には、落ち着いているわけではなく何も考えていないだけなのだが。


 ああ、それにしても空気が美味い。ようやく実感が湧いてきた。生きてる。俺生きてるすげえ生きてる。この分ならいつか、あのくそじじいの残り少ない髪を少ーしずつ少ーしずつむしってやれる日が来るかも知れない。




 イーシャットは今日の午後、行方不明になったエルギン王子を探し回っていた。疲れ果て、マスタードラの状況を聞こうと野営地に戻ったら襲撃を受け、あっという間に縛り上げられ引きずられ、あの火刑の場に連行されたという次第である。もう絶対死んだと思ったのに、まだ生きてる。すげえ。


 それは、あの不思議な滝のお陰だ。


 ――あっちー!!!!

 あの叫び声に応じて飛来したように思えたが――とするとあの謎の男は、“契約の民”なのだろうか。右腕にも左腕にも、若草色の紋章は見えないが。

 “契約の民”は体に紋章を刻んで、風や水を使えるようになった人間のことを言う。彼らは紋章を露出させていないと使えないと聞いたことがある。ムーサもまさかそいつが“契約の民”だとは思わなかったのだろう。むき出しの手に紋章がないから。


「なーそいつ……なんなの……?」


 地面に転がったままマスタードラに訊ねると、マスタードラはそいつをイーシャットの隣に転がした。ごろん。かなり無造作な扱いを受けたが、そいつは呻き声さえあげない。

 生きている――ことは、確からしかった。目を凝らすと、そいつが呼吸しているのが見える。頭はひとつだし、目はふたつらしいし、鼻も口もひとつずつ。瞳の色はまだわからないが、頭髪は黒だし顔立ちも普通。アナカルシス近辺によくいる人種だ。


 しかしどう考えても、服装がおかしい。こんないい身なりした奴が、敵国の占領下にあるルファルファの民の中にいるわけがない。ニーナでさえ普段は裸足なのに。


 だいぶ落ち着いてきたので、イーシャットはやっこらせ、と起き上がって濡れた衣類を脱ぎ、絞った。真夏なのでそれほど寒くない――そう、今は真夏だ。しかしそいつが着ている衣類はどう考えても冬のものだ。目を凝らしてよくよく見ると、びっくりするほど縫製がいい。ちょっと上着に触れてみると、今まで触ってきたどの革とも違う手触りだ。そもそもこれ、革なのか。

 おまけにこいつ、濡れてない。

 すぐ隣にいたイーシャットがびしょ濡れなのに。こいつだって水に取り巻かれたのに、衣類も靴も頭髪も肌も、全然濡れてない。


「なんなの、って」と、今頃になってマスタードラが言った。「お前が担げって言ったんだろ」

「あー、だって、俺が生きてんのたぶんそいつのお陰だから」

「そうなのか」

「あ、それからもちろんお前のお陰な。ありがとよ」

「ああ」


 マスタードラはそう言って、ようやく安心したというようにイーシャットの前に座った。謎の若い男は死んだように眠っている。なんで起きないんだろう、とイーシャットは思う。さっきは起きた……そしてあっちー、と叫んで、水を呼んだ(たぶん)。水はふたりの頭上から降り注ぎ炎を消し煙を押さえ、ムーサと兵士たちを押し流した。それ以来、こいつは全然起きない。


「なんかさー……ムーサの野郎が、お仲間だ、カーディス王子のそばに……なんか……稲光? と一緒に落ちてきた、たぶん王子の命を狙った刺客だろう、とか何とか言って、そいつを薪の中に突っ込んだんだよ。一緒に地獄に行けとか言って」

「抵抗は?」

「うん、最初からこんな感じだったんだ。縛られてもいねーし、なんかの理由で寝てんのか気絶して……いや、一度起きたからなあ。気絶っつーよりか、力尽きて倒れてるって方が近いのかも。あの水を呼んで火を消したのはたぶんこいつなんだ」

「水を呼んだ? “契約の民”か? 紋章は見えないけど」

「んー……まーいーや、とにかく助かったことは確かだし。ほっとけば起きるだろそのうち。ランダールならなんか知ってっかもしれねーから、一応知らせといてやるか」


 絞った衣類をぱんと叩いてもう一度着て、イーシャットはため息をついた。

 マスタードラが単身で助けに来、その後何も言い出さないところを見ると、王子はまだ行方不明のままなのだろう。


「……エルギン様の行方、なんかわかった?」

「あー、それが、どうもな」とマスタードラがいつもどおりの間延びした口調で言った。「ニーナを連れ出したらしい」


 イーシャットは硬直した。

「げ」

 何をそんなに落ち着いてるのだこいつは。


「マーシャがな、ニーナとエルギン様が一緒に何か話し込んでいるところを見てる。狩りのためにマーシャはほら、忙しいだろ。飯とか。それでつい、目を離したと。まさかエルギン様がニーナを連れ出すとは思いもしなかったと」

「あー」

「自分のせいだって泣いてる」

「ああー」

「ランダールが激怒してて」

「あああー」

「お前を連れてこいって言うから探しに戻ったんだ。そしたらなんか煙が上がってたから」

「ああああああああああ……」


 マスタードラの説明はたどたどしく間延びしていて落ち着き払っているように聞こえるが、なかなかどうして、大変な事態になっているではないか。


 ニーナ――エルカテルミナ=ラ・ニーナ=ルファ・ルダは、この滅ぼされた国ルファ・ルダの、唯一にして無二、神聖かつ崇高な、“ルファルファの娘”である。国が違えばたぶん、女王の座に着くべき存在――いや、神子、崇拝の対象、というよりご神体、現人神そのものだ。ルファ・ルダは既に滅ぼされた国なので、もちろんニーナを崇拝の対象として崇めることは禁じられているが、ルファルファの民にとっては未だに何をおいても守らなければならない大事な大事なお姫様である。おん年九歳。とても可愛らしく利発なお姫様だ。


 エルギン王子がここに住むようになって三年経つ。イーシャットにとっても既にここは家のような感覚だが、しかし忘れてはいけない。エルギン王子の身内は、ただ単にここに居候させてもらっているだけだ。エルギン王子が無事に戻らなければもちろんイーシャットに生きる意味などなくなってしまうが、このままではエルギン王子の行方を知る前にランダールにひねり殺されるかも知れない。

 一難去ってまた一難とは正にこのことだ。イーシャットはがっくりと頭を垂れた。

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