第一章3
その日、イーシャットは怒っていた。
自分のふがいなさに。
伸びすぎた黒髪を切り揃えるのを面倒がり、後ろで無造作かつ適当に括った若者である。前髪の隙間から覗く眉はとても太く、とてもまっすぐだ。それほど上背があるわけではないのだが、痩せているからかひょろりとした印象を与える。目が大きく、そして鋭く、剽悍な顔立ちをしているが、口角がいつも上がっているので愛嬌がある。――普段は。
今は、愛嬌を湛えているはずの口には容赦ない猿ぐつわが嵌められていて彼の人相は歪んでいる。更に地面に突き立てられた太い柱に全身を括り付けられ全く身動きが取れない状態だ。揮発性の液体が先程から幾度となくかけられているので目が痛く、涙が止めどなく流れている。もちろん、彼は哀しんでいるわけではない。心の底から怒っている。怒り狂っていると言ってもいい。口から先に生まれたと言われる自分が、自慢の舌鋒を猿ぐつわで止められ、自慢の逃げ足もロープで封じられているという現状が、悔しくて悔しくてたまらない。
「おお、おお、イーシャット。いい眺めだのう」
何よりこのくそじじいが――
この世で一番大嫌いな、いけ好かないくそじじいが――
もうすぐ自分の命を奪う人間がよりによってこのくそじじいである、という事実が、もう本当に、悔しくて悔しくて。ああルファルファ様、魂でも何でも差し上げますからこいつだけは勘弁してください。先程からずっと祈っているのに、創世神は全く応えてくれる気配がない。創世の女神のくせに。
ムーサはもう少しで全部禿げ上がる、という頭をした、六十くらいのくそじじいだ。僅かにちょろちょろと残った白髪をとても大切にしているらしく、椿油かなにかで丁寧に撫でつけている様子が忌々しい。神官のくせに慈悲の欠片も持ち合わせていなさそうな残忍な笑みを、その脂ぎった頬に刻んでいるのが憎たらしい。そもそも六十過ぎのくそじじいの癖にあの肌つやは何なのだ。“異教徒”を捕らえては火炙りにするのが趣味だと聞くが、実は燃やす前に生き血を絞って夜な夜な飲んでいるのでは――という疑惑がまことしやかに囁かれる程度に肌つやがよろしい。どこもかしこも憎い。
「何か言い残すことはあるか?」
こちらの口にがっちりと嵌められている猿ぐつわを見ながら、愉悦の滴るような声でムーサは言う。うーうー唸るイーシャットに、とても嬉しげに嗤った。
「いくら口から先に生まれた男でも、口を塞がれては何も言えんか」
――当たり前だろくそじじい! ほどきやがれこの野郎!
「根性がないのう。命乞いでもしてみせれば見逃してやらんでもないぞ、ん? 猿ぐつわごときで黙っていいのか? 何か言ってみろ、“王太子の舌鋒”ともあろうものが、このままみすみす灼かれるつもりか?」
そんなつもりであるわけないのだが、しかし、もはや何も出来そうもない。
イーシャットは怒っていた。自らの境遇、そのものに。
何しろ命より大事な王子が行方不明だ。その上自分は縛り上げられて焼死寸前だ。俺がいったい何したってんだ真面目に地道に正直に、生きてるだけなのに。
しかし今となっては、イーシャットの大事な主であるエルギン=スメルダ=アナカルシス王子が行方不明になったのは、幸運だったのだと思わずにはいられなかった。もしエルギン王子が今日、野営地にいたならば、イーシャットと同じく縛り上げられて油をかけられ、焼き殺されていたとしてもおかしくない。
エルギン様は無事だろうか――
そう考えた。油の匂いで頭がぼうっとする。目がかすみ、ムーサの憎々しい笑顔を最後まで睨み続けることも難しい。ムーサはとても機嫌が良さそうに、囁いた。
「心配するな。お前の大事な王子もすぐに後を追わせてやる」
それが神官の台詞なのかよ、くそじじい。
しかし、それで少しだけ、安心した。
エルギン王子は、まだ生きていて、ムーサに捕まってもいないらしい。
ここは森の切れ間である。ルファ・ルダはどこもかしこも森ばかりの国だ。開けた空間は差し渡し、二百メートルほどだろうか。かつては神殿だったようで、所々に石柱が倒れ、崩れたまま放置されている。その中央にイーシャットが縛り付けられた柱が突き立てられており、周囲に茅だの藁だの木の枝だの薪だのが山と積まれ、油が撒かれている。紛う事なき火刑である。俺別にルファルファ教徒ってわけじゃないんですけど、とイーシャットは思う。
マーセラ教の神官であるムーサは、“邪教”に貶められたルファルファの民を一人ずつ捕まえては火刑にするのが生きがいだ。だからといってイーシャットまで火炙りにしなくても良さそうなものなのに。
「……おお、着いたか。早うせぬか、ぐずぐずするでない」
ムーサが声を上げ、イーシャットは、未だに自分が火炙りになっていなかったのは、ムーサが何かを待っていたせいらしいと悟った。
ムーサがこちらを向いた。それは気配でわかる。
「良かったのう、イーシャット。お仲間が来たぞ」
仲間? マスタードラか? あの剣バカまでもが、捕まったのか?
「大方ルファルファの民であろうな。稲妻と共に我が王子のおそば近くに落ちてきた。命を獲ろうとしたのであろうが――邪教徒の考えることなど、お粗末なものよ」
くくく。
ムーサの含み笑いと同時に、茅と藁と薪の山の中に、そいつが投げ捨てられた。
イーシャットはかすむ目を開けてそれを見た。マスタードラじゃない。
どうやら人間らしかった。イーシャットと同じ年頃の、若い男だった。風変わりな服――そして何よりその靴に、目が吸い寄せられた。なんだこいつ、すげえいい靴履いてる。イーシャットは、うー! と唸った。こんな身なりしたヤツがルファルファの民なわけねーだろ! 王の関係者じゃねーのかよ! 軽々しく焼いていーわけねーだろ! そう言いたいが、言葉が出ない。
ムーサはその男が王の側近かも知れないなんて、考えてみもしないらしい。
「地獄へ一緒に落ちるのだから、仲良うするのだぞ」
そう言って無造作に、積み上げられた薪と藁の祭壇に、持っていた松明を投げ込んだ。
しゅうっ。空気が鋭く鳴いた。
「うー!」
イーシャットは喚いた。起きろ! 起きろ! 起きろ! すぐ横に倒れる被害者は縛られてはいない。そいつが起きれば何とか、ほどくとか、してもらって、逃げ出せるのでは――と思ったが、若い男(少年? 青年?)は完全に意識がないらしく、炎が上がっても身じろぎもしない。油は粗悪なものだったようで、薪に燃え移るのに時間がかかっていて、ムーサの醜悪な顔がまだ見える。ムーサは嗤っていた。とても楽しそうだった。覚えてろこのくそじじい、とイーシャットは思った。絶対、絶対、絶対絶対絶対、死んだら幽霊になってあの爺さんのとこ行って、残り少ない髪を一本一本むしってやる!
「うー!!」
ごうっ。薪が燃え始めたらしい。炎が上がった。次々に燃え移り、次第に、次第に、こちらに迫ってくる。煙の匂い。もうもうと上がってイーシャットの目に更なる打撃を与えてくる。煙を吸い込んでしまい噎せ、猿ぐつわに止められて吐けない。死ぬ。焼け死ぬより先に窒息して死ぬ。
霞む視界の中に、隣に倒れる男が顔をしかめたのが見えた。
そいつの方が炎に近い。しかし、まだ全く焦げていなかった。イーシャットは目を疑った。そいつの指先に、確かに炎が這い寄ったのに、指先寸前ですっと引いた。まるで――おかしいとはわかっているが、まるで、相手が誰かに気づいて炎が身を引いたような動きだった。イーシャットは噎せ、必死で息を吸い、また叫んだ。
「うー!!!!!!」
男の眉が顰められた。回りは既に炎に取り囲まれていて、ものすごく熱かった。そして煙臭い。猿ぐつわが臭い。口の中が切れて鉄の味。脚衣の裾が、上着の裾が、髪が肩が足が、焦げている。痛い。熱い。苦しい。死ぬ。エルギン王子がこんな目に遭わなくて良かった。あの健気で気の毒な王子は、イーシャットが焼け死んだことを知ったら、哀しんでくださるだろうか。
「――っ!?」
男が飛び起きた。それはもう見えなかった。意識が既に飛びかけていた。途切れる寸前だったイーシャットの意識を、男の喚き声が引き戻した。
「――あっちー!!!!」
ずずず。
どこかで、地響きがした。
次の瞬間、大量の水がその場になだれ落ちた。全ての感覚が一瞬断ち切られる程の、豪雨と言うより滝だった。イーシャットを舐め尽くそうとしていた炎が押さえ込まれ身もだえし消滅した。水はイーシャットと謎の男の周りで溜まり、その場の炎と熱を完全に押さえ込んでから、
どう。
決壊した。
煙と油と煤と、薪と藁と茅と、全てのものを巻き込みながら水は津波のようにムーサとその兵たちに襲いかかった。イーシャットは茫然とそれを見た。水で洗い流されたお陰か目は何度か瞬くうちに視界を取り戻し、それが見えた。ムーサが何か喚きながら押し流されていく――
ばしゃん。
何かが水たまりに倒れる音で、イーシャットは我に返った。
謎の男が、また倒れたのだ。
「うー!!!???」
「イーシャット!」
その時、右後方から聞き慣れた声がした。エルギン王子を探しに行っていた相棒が、戻って来たらしい。ばしゃばしゃばしゃと水を蹴散らし駆けつけた相棒は、止まるより先にイーシャットの手を戒めていたロープを断ち斬った。「うー!」叫んだ次の瞬間には猿ぐつわがはぎ取られ、酸素が、なだれ込んできた。
やばい泣く、と、イーシャットは思った。空気が美味すぎて泣く。
しかし泣き出す前に、相棒の、大男の、厳つい顔が視界に割り込んだ。
「イーシャット! 悪い、遅くなった!」
「――マス、ター、ドラ! そいつ、担げ!」
「は!?」
イーシャットは残る戒めを振りほどいて地面に崩れ落ちた。体中が痺れていて、巧く動かない。しかし、あまり猶予はない。水は既に止まっているし、押し流されたムーサがあちらの方で何か喚いていて、マーセラの神官兵たちがばしゃばしゃ駆け戻ってくるのがわかる。イーシャットが何とか立ち上がると、素直に謎の男を担ぎ上げたマスタードラが言った。
「こいつ誰だ?」
「知るか! 走れ、早く!」
「お、おー?」
マスタードラは剣を握り、走り出した。イーシャットも続いた。足は縛られていなかったのがせめてもの幸いだった。痺れた腕と肩を宥めながらとにかく走る。無様によろけ斜めになりながらもひたすら。
走りながら、考えた。
――なんで俺、生きてんだ?
全ての願いを叶えると言われる、創世の女神、ルファルファ。さっきムーサにだけは殺されるのはごめんだと祈った。もしかして彼女には本当に、願いを叶える力があるのかもしれない。
つーことは俺、いつか、魂差し出さなきゃいけねーのかな――