第一章2
マリアラはラセミスタにまともに上に乗られたというのに、全然目を覚ます気配がない。ラセミスタは彼女の上から退き、改めて呼吸を確かめた。大丈夫、ちゃんと息はしている。体温が低いような気がするが、それは魔力切れのためだろう。
生きている。
食べられてもいない。
ラセミスタは、マリアラの寝顔を見て、心の底から安堵した。それと同時に、力が抜ける。マリアラの隣に仰向けに倒れると、梢の隙間から青空が見える。あの漆黒の獣が去ったからだろうか、鳥のさえずりが聞こえ始めていた。かさかさ、こそこそ、森のあちらこちらで小さな音。水のせせらぎも聞こえる。かすかな音に満ちているのに、ひどく静かだ。
あの獣は、何だったんだろう。牙まで黒いなんて、普通の動物じゃあり得ない、ような、気がする。
信じたくはないけれど、やっぱり魔物――なのだろう、か?
どれくらいそのまま、ひっくり返っていただろう。
ゆるゆると時間が過ぎていく。起き上がってフェルドを探さなければならないことはわかっている。マリアラが近くにいたのだから、きっとフェルドもこの辺りにいる――はずだ。たぶん。
さっき、マリアラのことはとても心配だった。魔力切れで倒れていて獣に食べられたらどうしよう、そう思うといてもたってもいられなかった。
でもこうしてマリアラの無事を確認した今は、まだフェルドの行方がわからないのに、あまり不安な気持ちが湧いてこない。
フェルドは頑丈だ。生命力が半端ない。ラセミスタが心配しなくたって、フェルドはいつだって大丈夫だ。フェルドが孵化する前に【穴】に落ち、三日ほど行方不明になったときも、救助されるまで自力で何とか生き延びた。孵化したあとはよく無人島にサバイバルしに行っていたし、いつだってちゃんと帰ってくる。その実績があるから、あまり危機感が湧いてこないのだろう。長年の間に、ラセミスタのようなもやしっ子がフェルドの心配をするなんておこがましい、という認識が刷り込まれてしまっている。信じていると言うより、既に常識に近い。早いところ合流したいとは思うが、それはこちらの安全のためだ。
だからフェルドの方の心配はいらないと思うものの、とにかくこのままではいられない。ラセミスタはようやく、のそのそと起き上がった。生まれて初めて寝転んだ大地は、少し湿っていた。背中が気持ち悪い。土に触れたのだって学校行事以外では初めての経験だ。うえ、なんか虫が這ってる。落葉の下からダンゴムシが覗いている。うえー。
立ち上がって、周囲を見回した。近くにあった木の枝振りを見て、これは先程ラセミスタが逆さまに引っかかっていた木だ、と考えた。そして、違和感を覚えた。張りだした枝が伸びている方向が、予想と違う。あの枝にひっくり返って見上げた空が、あの方向なのだとしたら――
――あっちですっ!
狼に指さした方向が、間違っている。
ざあっと血の気が引いた。『嘘だったら食いに来る』と狼は言い残して去った。ラセミスタが狼に教えた方角は、角度にして130度ほども違う。さっきからだいぶ時間が経っている。狼はもう、ラセミスタの教えた方角が違うことに気づいただろうか。
今頃、食い殺しに戻ってきている、かもしれない。
慌てながらラセミスタはマリアラのところに戻り、その左腕を自分の肩に回し、ぐっと力を込めてなんとか持ち上げた。重い。背中に担いで、歩き――出そうとして、
ずるっと足が滑って、
べちょ。
つぶれた。
ふがいない。ほっそりした少女ひとり担いで歩くこともできない。なんて筋金入りのもやしっ子。火事場のくそ力なんて都市伝説だ。
「か、考えろー」自分を叱咤する。落ち込んでいる場合ではない。「どうにかしないと、どうにかしないと、どうにかしないと」
とにかくここから、移動しなければならない。
けれど、魔力切れで眠っている魔女を起こそうとしても無意味だ。
声を掛ける程度ではもちろんのこと、叩いても揺すっても起きない。よほどの刺激を与えれば別だが、魔力が快復していないのに無理矢理起こしても、殆ど何もできないで再び倒れる。これでは意味がない。
すなわち、マリアラに自力で移動してもらうのは不可能だ。それなら次に取れる手段としては、魔法道具――
「そうだ、箒!」
若干どきどきしながらマリアラの首元を見ると、良かった、コインと箒を下げるための金の鎖がはみ出している。ラセミスタはそろそろと金の鎖を引っ張り出し、小さく縮んだ箒を取り出した。元の大きさに戻して、柄の持ち手部分にある蓋をぱこっと開け、緊急作動用の回路を露出させた。
いけそうだ。
ラセミスタは孵化していない人間にしては魔力が強い。魔法道具に関する類い希なる才能を見いだされ、将来迎えるだろう孵化を起こさせない措置を、特例で施されたくらいだ。だから恐らく、箒を強制起動させることはできるはずだ。
ただやはり孵化していないから、長時間起動させ続けることはできないだろう。自分は歩いてコントロールしないと危ない。でもずっとここに居続けるよりはマシだ。
箒の柄をマリアラの腹の下に差し込み、マリアラの体を押したり引っ張ったりして穂の上に何とか移動させてから、ラセミスタは緊急作動用回路の結晶をはめ込む部分に親指を押し当てた。動け、と念じながら魔力を込める。動け、動け、動け――
ぶうん。
かすかに柄が震え、箒は浮き上がった。マリアラの体をその穂の上に載せて。
これなら移動できる。ラセミスタは長く震える息を吐いた。
*
十五分ほど歩いた。行けども行けども変わらない、うっそうと深い森の中。景色は全然変わらないのに、そろそろ限界を感じ始めていた。
魔力の枯渇のせいではない。体力的な問題だ。
体育の授業を受けなくなって久しい。適度な運動なんて夢想したこともない。それどころか、ラセミスタはいつも極力歩かないようにしていた。運動したり移動したりするのにカロリーを使うくらいなら、魔法道具について考える脳の方に回したい、と思っていた。歩くのといえば自室からエレベーターまでの数メートルと、エレベーターから工房までの数メートル。空島に行くときはもう少し歩いていたが、吹雪のせいで最近はそれもさっぱりだ。
こんなに歩いたのなんて、たぶん数年ぶり。
いや、生まれて初めて――かもしれない。
汗をかいている。頬がひりひり痛いのは、たぶん木から下りたときにすりむいたのに違いない。はあ、ふう、はあ、ふう、みっともなく喘ぎながら、よろめくように何とか進んだ。手のひらまで汗で湿って滑りそうだが、箒の柄に押し当てた親指だけは放すわけにはいかない。
あの狼ならこんな距離、ほんのひとっ飛びだろうな――そう思いはするものの、それでも歩みを止めることがどうしても出来ない。
と。
唐突に、視界が開けた。
湖だ。
とても大きくて、美しい湖だった。ラセミスタはひゅうひゅうごろごろ言い始めている肺の音を聞いて、もうこれ以上歩くのは無理だ、と思った。だいぶ日が陰ってきている。今のところとても運が良く、あの狼以外の獣の姿は見ていないが、やはり日が暮れる前に安全を確保すべきだろう。
水の上にいれば、あの狼も他の猛獣も、手を出せなくなる――のでは、ないだろうか。
少し休んでから、ラセミスタは再びマリアラの私物をあさった。運良く――本当に幸運なことに、マリアラは巾着袋を持って来ていた。ありがたやありがたや。拝んでから借りた。魔女の巾着袋の中身については、ラセミスタはプロフェッショナルだ。薬はお手上げだけれど、使えそうなものにはいくつか心当たりがある。
ハウスの壁を二枚つなぎ合わせて固定し、湖に浮かべ、マリアラの体を再び箒に乗せて壁の上に移った。おたおたしながら何とかやり遂げ、マリアラを真ん中に寝かせてから箒の柄で岸を押すと、壁はふたりを載せてすうっと水を滑った。ある程度離れると、箒の穂から係留フックを引っ張り出して壁に付け、緊急回路に再び親指を押し当てて、おっかなびっくり箒に乗った。箒で引っ張ると、壁は面白いくらいすいすい動く。
ややして岸から100メートルほど離れた場所に壁を落ち着けることが出来た。ラセミスタは冷や汗を拭きながら急いで箒から降りた。自律行動も出来ない状態の箒に一人で乗るなんて、もう絶対にやりたくない。
どこへ来たかはわからないが、どうやらこの辺りは暖かい地方のようだ。
この季節だというのに寒くもないし、風も殆どない。これなら野宿をしても、そうそう風邪も引かずにすむだろう。巾着袋の中からポップアップ式のテントを取りだした。これなら、ラセミスタひとりでも立ち上げることが出来る。壁の端についているフックをペグ代わりにして、せっせと働いた。一人用のテントだが、二人入るくらい何とかなるだろう。
結論として、何とかなった。マリアラが巾着袋を持って来てくれていたお陰だ。一ツ葉用の巾着袋には、他のものに比べ魔力の結晶が多く入れられているし、魔力回復のための薬も豊富だったはず。
日が暮れる前に首尾良く光珠を探し出した。それを頼りに巾着袋の中身をもっと良く調べられるようになった。何はともあれ、魔力回復剤を見つけ出して、早いところマリアラに起きてもらわなければならない。そうすれば箒も再起動できるし、箒に内蔵されているマップもコンパスも使えるようになるし、フェルドを見つける方策も、何とか立てられるようになるだろう。
魔力回復剤より先に、ツィスの実を見つけた。
ツィスは加工するととても美味しくなる高級嗜好品だ(加工しないととても不味くて食べられない)。が、何より珍重されるのは、魔力の快復にとても優れた効果を発揮する、と言う点だ。滋養をたっぷり含んでいて、病気やケガの快復にも良いと言われている。健康な人間があまり食べ過ぎると鼻血を出すほど、らしい。
ナイフを見つけ出し、ツィスを小さく刻んで、マリアラの口にひとつ入れ、「おーいマリアラー」揺すってみた。ぐらんぐらんと頭が揺れ、マリアラが顔をしかめる。かすかに意識が浮上したらしく、口の中の異物に生理的な反射作用を見せた。ごくん。飲み込んだ。誤嚥もしなかったことにホッとする。
同じ作業を繰り返して、ツィスの実ひとつ分を全部飲み込ませてから、指輪の存在を思い出した。
先日ラセミスタが、マリアラのために作ったものだ。ジェシカに対抗するための武器になってくれたようで本当に嬉しかったけれど、今日までつけているのは何故だろう。首をひねりながらも、これまた運が良かった、と思った。これで魔力量を計れば、快復の目安になる。
指で、とんとん、と指輪を刺激する。あの稲光の渦にさらされたというのに指輪は問題なく起動して、ラセミスタは嬉しくなった。が、すぐにそこに示された数値を見て、目を見張った。
表示された数字は、14だ。
たったの。
二桁。
――残念だけど壊れちゃったんだ。
そう思った。だっていくら魔力切れで倒れているといったって、こんな数値が出るほどしか魔力が残っていないなら、――マリアラは既に、死んでいるはずだ。生命維持に支障が出るレベルだ。呪われ者ならあるいは、こんな数値が出るのかも知れないけれど、孵化してマヌエルになっているマリアラが、まさか。そんな。
見るうちに、数値は緩やかに――本当にごく緩やかに、快復の兆しを見せている。
ラセミスタが目を疑っている間に、数値は16になっていた。と、17にあがった。18――19―20、21、22 23 24 25 26 27。快復が速まっている。さっきのツィスが効いてきたのかも知れない、そう思って、この指輪ったらずいぶん器用な壊れ方をしたものだ、と思う。
そっとマリアラの指から抜き取り、自分の親指に嵌める。
三秒経って表示された数字は、854988。それを見てラセミスタはまた眉を顰めた。
ラセミスタの数値は、健康診断の度に見る、85で始まる6桁の数字だ。
――壊れてない?
ラセミスタは目を閉じ、もう一度開け、もう一度マリアラの親指にそれを嵌めた。しゃららら……軽い音と共に表示された数字は、35。36。37、38、39 40 41。やはり数値は緩やかに快復を続けながら、依然として二桁である。
マリアラの口元に手を翳す。すう、すう、規則正しい寝息が聞こえる。生きている。さっきより顔色が良くなっているような気がする。きっとツィスが良かったのだ。ナイフでもう一粒を切り分け、欠片をマリアラの口に入れる。揺する。「おーい、起きてー」マリアラがうーん、と唸り、欠片を飲み込む。ごくん。何度も繰り返して、ツィスの粒を全て飲み込ませる。ごくん、ごくん、ごくん。
しばらくして数値の増加は更に速まり、ついに数字を飛ばすようになった。51、55、59、65、71、76、84、95――壊れてないのだとラセミスタは直感した。この数値が、今現在、実際に、マリアラの体内にある魔力を示す数値なのだ。
――呪われ者。
そのレベルの魔力量しかないのに、マリアラは生きている。
普段は一ツ星とは言え、孵化したことを疑問に思われるほどではない数値を保っているはずだ。そうでなければ仮魔女時代に物議を醸したはずだから。だからもしかしたら、このことは、医局の医師たちはもちろん、マリアラ自身さえ知らない――だろう。心臓がどきどきしている。異端、という言葉が脳に浮かぶ。
もしこのことを医局の医師たちが知ったら。〈アスタ〉が知ったら。ジェシカが知ったら。【魔女ビル】の中に少なからず存在する、魔力の弱い存在を蔑む価値観を持つ人たちが、知ったら。
この子はいったい、どうなるのだろう?
「んんん……」
かすかな声が聞こえ、ラセミスタはギョッとした。マリアラの瞼が動いている。
数値を見た。105。ようやく3桁。一ツ葉の平均魔力量は2から8で始まる5桁、と定められている。まだまだ生命維持が危ぶまれるレベルにすぎないのに、マリアラは目を覚ました――
「あ……れ……?」
瞼の隙間から覗く瞳は、以前倒れたときと同じ、藍色だ。
それで、思い出した。前の時、彼女は自分の愚かさを悔やんで、泣いた。魔力の枯渇による精神作用だから仕方がないけれど、今泣かれると色々と困る。
「話も説明も、後回しにさせてね」
出来るだけ優しい声で、ラセミスタは言った。
「あのね、マリアラ、ツィスがあるから食べて。いい?」
「ツィス……?」
「知ってるでしょ、美味しいよ? はい、あーん」
まだ半分眠っているようで、マリアラは素直に口を開けた。もごもご口の中で動かして、ごくん、と飲んだ。この大きさを飲んでくれる。意識があるってありがたい。
ゆっくりと時間をかけて、何粒かを飲み込んだ。その後に見ると、指輪の数値は2589まで上がっていた。やれやれ、ここまで来れば特別おかしい数値ではない――孵化していない一般人だったら、の話ではあるが。
「わたし……また……やっちゃった?」
マリアラは掠れた声で言い、ラセミスタは首を振った。
「違うよ。あたしのせいなの」
「……そう、だっけ?」
「話は後にしよう? 今は出来るだけ快復しなくちゃ。ツィスは全部、なくなっちゃった。マリアラ、すぐ飲めるようになってる魔力回復剤ってこの中にある?」
巾着袋の中に入っていた薬品を全て元の大きさに戻して彼女の目の前に並べると、マリアラは中身を魔力で探ることをせず、すぐにボトルを指さした。
「これ」
「どうやって飲むの? 原液のまま?」
「それが1に対して、精製水5。美味しく感じるうちは……いくら飲んでも大丈夫……」
そうしてラセミスタはその日、生まれて初めて薬を作った。
同時にリズエルとしての癖で、考えていた。左巻きの巾着袋の中には、ヒルデがこないだ作ってくれた錠剤タイプの魔力回復剤を絶対に入れておくべきだ。それから簡単な薬の作り方のメモも、一緒に入れておくべきだ。帰ったら改善指示書を作成して工房に指示しておかなければ――
ラセミスタの作った魔力回復剤を3リットルも飲んでから、マリアラはテントの中に自力で潜り込んで眠った。その時には既にとっぷりと夜も更け、ラセミスタももう、へとへとだった。お腹がすいているような気もするが、疲れすぎていてそんな気力も湧かない。明日になったらマリアラが元気になる。そうしたらきっと、何もかも巧くいくはずだ。もう寝よう。一緒のテントで。毛布にくるまって。友達と一緒に。
毛布を被ってもぞもぞし、目を閉じて深々とため息をついた、そのとき。
マリアラが言った。寝言のような声だった。
「……フェルドは……?」
はっとした。掠れた声は、とても不安そうな響きを持っていた。
寝言だろうか。顔を上げると、マリアラの藍色の瞳が、今にも閉じそうな瞼の隙間から確かにこちらを見ていた。縋り付くような、今にも泣き出しそうな、酷く不安そうな、色を浮かべて。
ずきん。胸が痛む。
自分の薄情さを突きつけられたような気がする。
ラセミスタは表情を取り繕った。今はとにかく、マリアラに眠ってもらって、快復してもらわなければならない。微笑んで、囁いた。
「フェルドは大丈夫だよ。……すぐ近くにいるよ?」
きっと、という言葉は敢えて言わなかった。
マリアラは答えなかった。でも聞こえたことは明らかだった。藍色の瞳が笑みを含んで、瞼の陰に隠れた。嘘をついたようで、後ろめたかった。
フェルドが大丈夫だというのは、ラセミスタの中で、既に常識になっている。
しかしその常識は、――この不可思議な森の中でも、通用するのだろうか?
じわりと不安が忍び寄ってきた。フェルドは大丈夫――大丈夫だ。いつでも絶対に大丈夫だ。心配するだけ損なのだ、こちらをさんざんやきもきさせた挙げ句にけろっと帰ってくるのがフェルドという人間だ。
――普段なら。
そう思ってラセミスタは、毛布の中で身震いをした。
――あの“兄”のことだ。今頃きっとどこかで、ぐっすり眠っている。
……はずだ。たぶん。きっと。