第一章1
その日、ラセミスタは怒っていた。
自分のあまりの、バカさ加減に。
ラセミスタは自分が人間としてはかなりの欠陥品であり、魔法道具に関することしか誇れるものがない、という認識でいる。
しかし、今日は、その唯一の取り柄である魔法道具研究において大失敗をやらかした。魔法道具のことしかまともにできないくせにその唯一の取り柄で取り返しの付かない大失敗。しみじみと、つくづくと、もう立ち直れない気がする。
今、視界は逆さまだ。木の梢に引っかかっている。幸いなことにあまり高くはないが、自力で降りる気力も湧かなかった。
稲光も渦巻きもすっかり消え、ここはどう見ても、どう考えても、【魔女ビル】の中にある居心地の良いリズエル工房とはかけ離れた、森の中だ。
ああ、これが夢だったらどんなにいいだろう。
昼間である。茂った木の梢の隙間から、青空が見えている。
と、その青空を、流れ星が飛んだ。
逆さまになった視界の中に、それがはっきりと見えた。キラキラ輝く、とても大きな流れ星だ。ラセミスタはぼんやりとそれを見て、そして、目を疑った。流れ星にしては緩やかで、そして、ものすごく大きい。
――流れ星じゃ、ない?
よくよく目を凝らすと、人のように見える。子供――だろうか。キラキラしているからよくわからないが、長い髪が翻っているように見える。そう、それは、子供……それも、たぶん二人。抱き合うようにして落ちていく。ふわり、大気が腕を広げ、その子供たちを抱き留めたように思えた。落ちるスピードが弱まった。空を斜めに落ちていきながら、また――ふわり。大気がふたりを包み、更に速度が緩む。
「何あれ……」
流れ星は遠ざかっていった。段階的に速度を落としながら、梢の向こうに消えた。
何だ、今の。
ラセミスタはしばらく茫然としていたが、よっこらしょ、と体を起こした。頭に血が上ったせいで、何か意味不明な幻覚を見たのかも知れない。
今の光景を端的に表現するなら、伝説に良くあるような、天使降臨の場面そのものだ。だがラセミスタはもはや16歳でありリズエルでありプロフェッショナルである。そんなおとぎ話を頭から信じるほど子供ではない。ただ自分の見たものを幻だと、決めつけてしまうこともできなかった。未知の現象から目を背けたら、科学は進歩しない。ただ今は非常時だから、頭の片隅にとどめておくだけにする。
辺りは静寂に包まれている。深い森の奥だ。ラセミスタは太い木の枝に腰をかけてから、しばし考えた。何が起こったのかわからないが、たぶんフェルドとマリアラを巻き込んだはずだ。マリアラはまだ良く知らないけれど、非常時におけるフェルドの判断力と行動力は大変なものだ。頼れる“兄”はきっと怒っているが、今頃きっと行動を開始している。フェルドが探しに来てくれるまで、動かない方がいい。その間に落ち着いて良く考えよう。さっき、何があったのか。
原因はよくわかっている。魔法道具が暴走したのだ。
数日前、マリアラが魔力切れで倒れたとき、ラセミスタは、出来心で――そう、本当にほんの出来心で、マリアラの髪を一本、拝借した。深い意味はなかった。ただその、ちょっと、ちょっとだけ、お守りにというか。お近づきの印にと言うか。ああ、イーレンタールに言われるまでもなく、気持ちはわからないでもないが正直キモイひく。おまけにラセミスタはその髪をリボン状に結んでおいた。その内時間ができたら、押し花で隠してラミネート加工してしおりにするつもりだった。我ながらひく。
最近は忙しかった。エスメラルダの大気中に存在する成分を分析するための魔法道具を作成中だったのだ。その成分は、【壁】や【穴】を作り出している【歪み】の元になる元素ではないか、と仮説が立てられていた。国立次元歪研究所からの正式依頼だったので、ラセミスタは張り切っていた。歪みにはまだまだ謎が多い。その研究に自分が一役買えるなんて名誉なことだ。それで、マリアラの髪は、紛失防止のため、卓上カレンダーにテープで仮止めしておいた。終わったらしおりにしよう、と楽しみにしていた。どんびきである。
今日その装置ができあがり、イーレンタールが出張中であることをものぐさの言い訳にして、そのまま工房で試運転を始めた――それが、間違いだったのだ。イーレンタールがいれば、実験室に行ったのに。実験室には余計なものがないから、今日のように暴走することだってなかったはずだ。
スイッチを入れた瞬間、成分分析装置はなめらかに動き始め、当然周囲の大気を吸い込み、その過程で卓上カレンダーに軽く止められていただけの髪の毛を吸い込んだ。
その瞬間、暴走した。
ラセミスタには、自分の身を守るだけで精一杯だった。止めようがなかった。稲光の渦が巻き起こす破壊から身を縮めているうちに、フェルドとマリアラが一緒に部屋に入ってきて――稲妻が、炸裂して。
そして、こうなった。気づいたら森の中、という事態。
「……つまり。歪みを形成している大気中の成分の作用で……どこかに転移……動力……マリアラとフェルドの介入によって、動力を得た。って、こと?」
ラセミスタは座り直した。うっそうと深い、森を見回す。
仮説だが、歪みの元となる(?)元素を分析する過程でマリアラの髪という異物が加わり、工房全体が巨大な転移装置になってしまったのだとする。例えば魔女のコインを握ったときに生じる磁場のようなもの。そうそう、あれも【歪み】に干渉することで転移磁場を作り出す仕組みだ。
しかし磁場は作れても、実際に転移するには動力がいる。コインにもしかるべき魔力を渡さなければ転移できない。だからラセミスタがひとりの時には転移しなかった。そこへ加わったフェルドとマリアラの持つ魔力が、動力になったのだとしたら。
ここがどこだかはわからない。でも本当にものすごく遠くなのだとしたら――フェルドの魔力量があれば、かなり遠くまで転移してしまった恐れがある――フェルドもマリアラも、現在、魔力切れの状態である可能性は、充分にある。繰り返すが、森の中だ。たぶん色んな生き物がいる。猛獣とかもいるかもしれない。二人がもし、魔力切れで倒れていたら。
動けるのは、ラセミスタだけ、なのだとしたら。
下を見下ろした。ラセミスタの身長よりはかなり高いが、たぶん三メートルはないだろう。落ちても死ぬことはないはずだ。しかし、木登りなんてしたことがない(当然降りたこともない)。ロープも手がかりも無しに木を降りるなんてことが、この自分にできるだろうか。よっこらしょ、と枝に立ち上がって、ぐるりと辺りを見回し――少し離れた地面に投げ出された、細い手を見た。親指に、見覚えのある幅広の指輪が填まっているのが見える。
そして同時に、その手をふんふんと嗅いでいる漆黒の獣をも見た。
「――……!」
どうして自分にそんなことができたのかはわからないが、とにかくラセミスタは次の瞬間地面を走っていた。どうやって木の幹を滑り降りたのかは謎だ。漆黒の獣がその勢いにぱっと飛び退き、その場にラセミスタは倒れ込んだ。地面に倒れたマリアラと、その獣の間に。
「た、たっ、食べちゃダメ……!」
叫んでから我に返った。
その獣は、とても大きかった。
ラセミスタとマリアラをふたり合わせたよりもっと、ずっとずっと大きかった。犬――いや、狼だこれは。ラセミスタは凍り付いた。
ああ死んだなこれ、と思った。
指一本、動かせなかった。漆黒の狼の息づかいが聞こえてくる。顔が半分に割れているかのような巨大な口から、牙が覗いている。牙さえ黒い。はみ出た舌も黒い。が、炯々と光る瞳だけがとても綺麗だ。前足がとても大きくて、あの足に押さえつけられて喉元に食いつかれる自分の光景が目の裏に見えた。怖い。怖い。怖い怖い怖い。ガタガタ体が震えだした。――殺される。
そう思った時、数日前に聞いた宝物のような言葉がぽつんと脳に浮かんできた。
――勝手な憶測や噂話だけで、わたしの友達を侮辱しないで。
その言葉を聞いたのは数日前だ。あの指輪がジェシカに対して使われたらわかるように、アラームを仕掛けておいたからそれが聞けた。〈アスタ〉のカメラとマイクを通して廊下を覗いたちょうどその時、ジェシカがラセミスタについて自説を披露するところだった。
ラセミスタはねーえ、陰険で意地悪で、特に同年代の少女が大嫌いで――
人を困らせるためなら何だってするのよ――
聞き慣れた言葉だった。昔から何度も何度も投げつけられて、今さら傷つく神経なんて残っていないと思っていた。でも“人を困らせるのに魔法道具を使う”、という侮辱はさすがに痛い。少女としての自信は既に亡いが、リズエルとしての誇りはまだある。
それを、マリアラが、守ってくれた。
――勝手な憶測や噂話だけで、わたしの友達を侮辱しないで。
ああ、そうだ。
あの言葉が聞けただけで、この世に生きてた甲斐があったじゃないか。
ラセミスタは震える声で、漆黒の狼に向かって囁いた。
「た、た、食べるなら、あたしだけにして。この子は」
――わたしの友達を。
「あたしの、とっ、ともだちを、た、たっ、……食べないで。お願い」
『お前流れ星を見たか』
冷静な声が聞こえ、ラセミスタは目を見張った。喋った。
狼はしげしげとラセミスタを見ている。様々な色が混じり合った不思議な瞳には、確かに理性の光が見える。しかし、威圧感は変わらない。狼がその気になればラセミスタどころかマリアラまでもを一瞬で殺せる事実も同じだ。
「あ、あ、あ……あの……」
『お前流れ星を見たか』
漆黒の狼は、そう繰り返した。目が細められ、ラセミスタは震え上がった。応えないと殺す。その瞳が確かにそう言っている。
「み……見ました」
『どこへ落ちた』
「お、お、落ちたところ……までは……」
『どっちへ飛んだ』
さっき見た流れ星の正体は、抱き合ったふたりの子供――のようなもの、だ。キラキラ輝いていて、とても綺麗だった。悪いもののようには思えなかった。狼はあの子たちを何故捜しているのだろう。
行方を言っていいのか、一瞬迷ったラセミスタの視界が、ブレた。
「!」
気がつくとラセミスタは仰向けに倒れていた。マリアラの体の上だ。狼がその巨大な前足でラセミスタの胸を押さえつけている。重くはないが、爪が食い込んで痛い。ぬうっと鼻が迫ってくる。鋭い牙。酷薄な瞳。しゅうしゅうと冷たい呼気を漏らしながら狼は言った。
『どっちへ飛んだ』
「あっちですっっ!!」
恥も外聞もなくラセミスタは白状した。指した手は右を指していた。狼はその手を見ると、ふん、と鼻を鳴らしてラセミスタの上から退いた。
『嘘だったら喰いに来る』
その言葉を残して狼は消えた。
ラセミスタはまだマリアラの上に倒れたまま、長い長い息をついた。