プロローグ
その日、マリアラは怒っていた。
今朝も――そう、今朝も! ラセミスタがいなかったのである。
同室になってもうすぐ一ヶ月。フェルドから『できれば一緒に行ってやって』と頼まれた花火大会はもう一週間後に迫っている。先日書いた手紙に、花火大会に一緒に行きたい旨も書き添えたのに、それ以来一向に返事が来ない。
そもそも、マリアラがこの部屋に来てから、ラセミスタは全く休みを取っていない。
夜は十二時近くに戻ってきている(らしい)。そして出勤するのは、遅くても朝六時半以前だ。ベッドで眠っている時間は五時間に満たない。休みも一切ないのでは、その内倒れてしまうではないか。
マリアラは、今日は非番だ。昨夜は当直だったが出動がなく、充分休めたから元気満々である。コーデュロイの長ズボンにフリル付きのパーカーを合わせ、髪は二つに分けて編んで、スニーカーを履き、巾着袋をポケットに詰め込み、マリアラは憤然と部屋を出た。今日という今日は、ラセミスタと顔を合わせる。そして自分の部屋でちゃんと寝て欲しいと伝えるのだ。そうしないとラセミスタが倒れてしまいそうで気が気ではない。
少しでも恩を返したいと思っているのに、マリアラの存在のせいでラセミスタが体調を崩すのでは本末転倒だ。
ラセミスタが休めないなら――マリアラがこの部屋を出るしかない。
たんたんたん、足音も高く階段を降りていく。ラセミスタの居場所はわかっている。【魔女ビル】三階の北側にある、リズエルの工房だ。たんたんたんたん、たんたんたんたん。十六階からの長い長い階段を降りる間に、少しずつ冷静になっていく。冷静になるにつれ、頭の中で執拗に囁く声が聞こえるようになってくる。
待っててやらなくていいのか。
待っててやって、と頼まれたのに。ダニエルからも、フェルドからも、ミランダからも。
明日には歩み寄ってくれるかも知れないのに。今日の夜は、マリアラが起きている時間に帰ってきてくれるかもしれないのに。
待っててあげたほうがいいのではないのか。
恩返しはそもそも、押しつけるものじゃない。
恩を返したいからと強要するなんて、本末転倒だ。それは恩返しじゃない。自己満足だ。
たん。
足音が止まった。回数表示には、△八階/七階▽、と書かれている。
やっぱりやめようか。
でも、ラセミスタが部屋で寛げない状況は困る。
でも、それはマリアラの都合だ。寛いでくれ、と押しつけられて、はいそうですね、と寛げるようなら誰も苦労しない。
この怒りは正当なものとは言えない。
そもそも、ルームメイトがどこで何をしようと、歩み寄る姿勢を見せてくれなかろうと、マリアラに怒る権利はないのだ。
たんたんたんたん……軽い足音が上から響いてきた。誰かがやって来るらしい。マリアラはまだ迷いながらも、とりあえず階段の端に寄った。どうしようかな、どうしようかな。起きたときに感じた怒りはすっかり冷め、気弱な自分が戻って来ていた。やっぱりやめよう。部屋に戻ろう。踵を返そうとしたとき、階段の上から「あれ」という声が聞こえた。
フェルドだった。
「何してんの?」
「あ――おはよ。えっといやその、ちょっと……」
口ごもるマリアラを少し不思議そうに見て、フェルドはマリアラと並ぶ位置にまで階段を降りてきた。
先日、ミランダはフェルドについて、『いい人だけど付き合うと疲れそうな問題児』だと評した。ララは『この子のあだ名は“やんちゃ坊主”だ』と言い、南大島の保護局員ステラは『放浪児』だと言った。ディアナも『休みのたびに無人島に飛んでいく』という主旨の話をしていたような気がする。
確かに、フェルドの普段着はたいてい、そのままハイキングにでも行けそうなものが多い。今も――と見れば、今日は、いつもよりもう少し重装備だった。防水加工の施されていそうな生地のしっかりしたジャケット。靴も、一見するとスニーカーに見えるが、よく見ればトレッキングシューズだ。いつものジーンズではなく動きやすそうな、防風処理を施された黒のトレーニングウェアを履いている。
「……どこか行くの?」
そう、無人島とか? 思わず訊ねるとフェルドは笑った。
「いやー明日仕事だし、さすがに無人島には行かないよ。この季節にこんな装備じゃ、起きてる間は良くても寝たら死ぬし」
「あ、そういうものなの?」
「ただちょっと、イーレンかラスに頼みたいことがあって工房行くとこ。すぐに出来そうならこのまま雪山にでも行って試してみたいし」
そう言いながらフェルドは、ジャケットのポケットからキーホルダーを大事そうに取り出して見せた。
「あ」
マリアラは声を上げた。先日買い物に付き合ってもらったとき、マリアラがプレゼントしたものだった。コインくらいの大きさの、弓と矢を象ったマークと銀色の鎖が付いている。
「これをさ、ちょっと改造してもらおうと思って」
わくわく。
そんな擬音が聞こえそうな言い方でフェルドは言った。
「改造?」
「スキーマーカーにも使えるし、まあ他にも使い道は色々あるからね。このマークの部分に発信器を仕込んでもらってさ――」
お店などでもそうだが、混雑しているスキー場で、ものを小さく縮める魔法を使うのはマナー違反だ。お店では万引きを警戒しなくてはならない(サービスの行き届いた店では、レジで購入したその場で店員が縮めてくれる)。スキー場では、ブーツや板、ボードの盗難に神経を尖らせる人が多いため、板やボードを立てかけておく柵の近くや店の近辺であの音を響かせると、トラブルになりかねない。といって、びしょ濡れの板やブーツを店に持ち込むこともマナー違反だ。
必然的に、マヌエルだろうが一般人だろうが、柵に板やボードをたてかけ、入口でブーツを脱いで乾燥機に入れてから、店に入ることになる。その際に目印が付いているととても便利なのだとフェルドは説明した。
「俺の、孵化前に買ったヤツだから、目印が組み込まれてないんだよね。金なかったからさ」
昨日マリアラが購入したものは、確かに“盗難防止ブザー・目印付き”を謳ったものだった。今までスキーには学校行事でしか行ったことがなく、その時も一括レンタルで済ませてきた身には、知らないことばかりだ。マリアラは感心した。
「なるほど」
「イーレンいるかなー。いたら話が早いんだけど」
言いながらフェルドは歩き出した。階段を数段降りて、マリアラが続かないのに気づいて振り返った。
「下行くんじゃないの?」
「ああ……うん。どう、しようかと、思って……」
マリアラは言いよどみ、フェルドはそれで悟ったようだ。
「ラス、まだ逃げてんの?」
「あー、あ、うん……。ラセミスタさん、そろそろ、そのう、……体調崩すんじゃないかって……だって部屋で全然休んでないんだもの。そう思って、それで心配で、会いに行こうと思ったんだけど、でも……」
「いーじゃん。行こう」
あっさり言われてマリアラは顔を上げた。「でも、やっぱりもう少し待った方が……」
「前に『待っててやって』って確かに言ったけど」
言いながらフェルドは歩き出した。マリアラもつられて数段降りた。
「もう一ヶ月だろ。こんなに待たせるなんて想定外だよ」
「……そう?」
「マリアラ、リズエルが魔法道具作るとこ見たとこある?」
「ううん、ない」
「このストラップが魔法道具になるとこ、見たくない?」
「見たい」
マリアラはもう数段降り、フェルドのいる踊り場に降りた。フェルドはニッと笑った。
「リズエルの工房に魔法道具改造の依頼出せるのはマヌエルの特権だよ。もちろんこれは私物だから有料だけど……一度工房への依頼のやり方、見学しといてもいいんじゃないか」
「いい……かな?」
「そりゃいいだろ。ラスはああ見えてプロだ。普段はもやしっ子で臆病でよく逃げるけど、魔法道具に関することなら絶対逃げないから」
ラセミスタからもらった、指輪型の魔力計測器のことを思い出した。
指輪に付いていたメッセージ。表側には素っ気ない数行の文字だったが、裏面の取扱説明書の文言は流暢だった。慣れていて、また自信があるのがよくわかる文章だった。腕は確かだと、ダニエルも言っていた。
確かに彼女は臆病かもしれない。
でも魔法道具に関しては、堂々としたプロフェッショナルだ。
マリアラはポケットから指輪を取り出して、親指に嵌めた。
そして、決めた。
「ありがと。行きたい」
「よーし」フェルドはまたニッと笑った。「吹雪が続いてて空島にも逃げられないし、工房にもマリアラがいつでも来られるんだって思い出せば、そろそろ腹括るだろー」
並んで歩き出しながら、無理強いしたいわけではないのだと、言い訳のように思った。
魔法道具に関することなら逃げないとわかっていて、工房に押しかけるのは、なんだかちょっと、フェアじゃないような気が、しないでもない。
でももう限界だ。少しずつ慣れてもらおうと思っていても、そもそも顔を合わせることも出来ないのでは、慣れるなんてきっと一生無理だ。
リズエルの工房は、この階段を三階まで降りてすぐだ。行く、と決めたからか、道のりは短かった。
医局に続く大廊下から一本外れた通路の一画にその扉はあった。重厚な木の扉をノックしようと、フェルドが手を挙げる。
そのとき、
――ふと。
その音に気づいた。
――い・やー!!!
遠くで、誰かが甲高い悲鳴を上げた、ように、聞こえた。
空耳かと思ったが、フェルドも聞こえたらしい。ふたりは顔を見合わせ、同時に、工房の扉に向き直った。無垢材でできた無骨な大きな扉だ。こちら側に開くようになっている。
その扉の向こうで。
確かに、また悲鳴が響いた。
――やっちゃった……! どどどどーしよ、どーしよどーしよっ、きゃー!!!
ラセミスタの声だ。防音のしっかりした扉ごしにさえ聞こえるほどの、紛うことなき悲鳴だった。同時に、何かが倒れる音。それに伴う破壊音までが響いてくるに至り、マリアラは思わず扉に手をかけた。それは図らずも、フェルドと同時だった。
指先に刺激。針で刺されたような痛みに手を引っ込めたのも同時だった。
「痛っ」
「てっ」
扉をしげしげと眺めて、眉を顰める。
針なんてどこにも出ていない。
「なんだ――今の」
その時。
めき。
ふたりの目の前で、扉に亀裂が走った。
めきめき、めりめりめり。亀裂が広がっていく。広がっていく。どんどん広がる亀裂から、部屋の中が見える。ごおっ――風の渦巻く音に紛れて全身が逆立ちそうな金属音。
稲妻が、部屋の中で荒れ狂っている。
「な――」
呆気にとられて見つめる目の前で、破壊音と共に扉が部屋の中に吸い込まれた。目の前にカウンターがありそこに引っかかって止まった。暴風と轟音が溢れ出し荒れ狂った。前髪が、ふたつに編んだお下げが吹き散らされる。自分まで吸い込まれそうな力を感じて壁に手をかけ、やはり針に刺されたような刺激にまた手を放す。帯電している。
「ラス――!」
フェルドが怒鳴った。部屋の中央に稲妻の渦巻きが生じていた。青白い閃光を放ちながらその渦巻きは部屋中のありとあらゆるものを貪欲に吸い込もうとしていた。壁に作り付けの棚から引き出しがひとつまたひとつと引っ張り出され渦巻きに飛び込んでいく。部屋の中は吸い込まれようとする様々なものが飛び交い――
「ぎゃーっ!」
どすどすどす。ラセミスタが身を守っている椅子の座面に鋏とボールペンとドライバーが突き刺さった。
そう、ラセミスタはそこにいた。椅子を構えているがその隠れ場所はあまりに心許ない。また別のドライバーが彼女の体をかすめた。あまりの速さのせいで、ドライバーもボールペンも充分な凶器だ。危ない! ラセミスタのこめかみを鑿がかすめ渦巻きに飛び込んでいった。
「ラセミスタさん……!」
このままじゃ。
死んでしまう。
マリアラは足を踏み出した。フェルドと同時だった。マリアラの左足、フェルドの右足が、同時に稲妻の嵐の満ちた部屋の中に――
――ずしん。
地響きが聞こえた。
そして、何もわからなくなった。