虹色鶏の独り言(上)
ミシェル=イリエル・マヌエルは、昨年の冬、ある痛い経験をしている。
その経験によって、失ったものは大きい。
*
11月のエスメラルダは、“独り身”の右巻きでもなかなか忙しい。皆ピリピリしているし、休みは取りづらいし、取らないと倒れるし、と言って取ったら後ろめたい。溶かしても溶かしても雪は降り続き積もり続ける。来る日も来る日も町に覆い被さる白い悪魔を撃退し続ける毎日――過酷な冬はそれだけで、人の心を荒ませる。あの事件だって、冬じゃなかったら起こらなかっただろう。……たぶん。
だからといって昨年の自分を赦すわけにはいかないけれど――
と、ちょうどその時。
向こうから、顔見知りの少年が歩いてくるのに気づいた。否応なく去年の自分の醜態を思い起こさせられる相手に、一瞬だけ気後れを感じる。
しかしそれを押し隠して、ミシェルは手を挙げた。
「よー、ジェイド」
声をかけると、相手は一瞬ミシェルを見て、すっと目を逸らした。「こんにちはー」硬い挨拶。合わない視線。足を速めて歩き去る後ろ姿。
フェルディナント=ラクエル・マヌエルが相手だったら、ジェイドは絶対にこんな態度は取らない。
それはそうだ。わかっている。
まあ、挨拶が返ってきただけ収穫だ、と思うことにする。ミシェルはジェイドの背から目を逸らして、また歩き出した。もう夕方だ。風を媒介に魔力を行使するイリエルであるミシェルは、日が暮れても働ける。これから雪かきの担当時間に入る。
去年の冬、ミシェルは、ある、とても恥ずかしく忌まわしく居たたまれない経験をした。
それで失ったものは、とても大きかった。あれ以来ミシェルは、付き合う人間を選ぶことにしている。様々なカツラで自らを鎧って。
ジェイドとも何とか関係を修復したいのだが、まあ無理だろうなあ、とも、思っている。
一度部屋に戻ってカツラを取り、身支度をして部屋を出た。時刻は、五時半。詰所に行くにはまだ早いが、他のことをするほどの余裕もない、半端な時間だ。しょうがないのでエレベーターではなく歩いて行くことにする。エレベーターホールを通り過ぎ、階段に続く廊下に出たとき、向こうからフェルディナント=ラクエル・マヌエルが歩いてくるのを見た。
「よー、フェルド」
声をかけるとフェルドは顔を上げ、あー、というような声を出した。少し疲れた顔をしている。
「なんだ、どした、疲れてんの?」
「まーね……」
「なんだよ、出動あったのか? あー、吹雪が酷いとか言ってたよな」
彼はラクエルだが、今日の午後はイリエルのサポートで出動したに違いない。今日の天候は、積雪が続いてイリエルが手薄になったところへ満を持して襲いかかった吹雪、だった。レイエルやラクエルの手も借りる状態だったはずだ、得たばかりの相棒と一緒に出動してきたのだろう。しかしそれにしてもこいつがこんな疲れた顔をするなんて珍しい。ミシェルはつい軽口を叩いた。
「医局にいって癒やされて来ればあ?」
フェルドが顔をしかめた。
その顔を見て、あ、やべ、とミシェルは思った。
図星を指した、らしい。
「……会いました?」
フェルドが医局が苦手な理由は重々わかっている。訊ねるとフェルドはとても嫌そうな顔をした。会ったらしい、とミシェルは思う。あれだけ医局を避けているのに、どこで捕まったのだろう気の毒に。
美人だし上品だし左巻きだしレイエルだし大人だし、どこが不満なんだ贅沢な奴だな、と笑ってやるのは簡単だ。
しかし去年の冬から、それはやめた。……正しくは、やめようと心に決めた。ミシェルは自他共に認める軽率で軽薄な若者なので、よく失敗するのだ、そう、さっきのように。
「あー、じゃー、そんなら、まー」
「……あのさ」
「俺六時から雪かきシフトだから……あ? なによ」
逃げだそうとしていた体勢から振り返ると、フェルドは珍しく少し言いにくそうな様子で言った。
「……スキー行くって、言ってたっけ?」
「あー、マリアラちゃんとな。だいぶ先だけどもう予約しといた。あとリンって子と、もうひとり、女の子がいるって言ってたんだよね。どーすっかな、やっぱこーゆーのって男女の人数揃えるべき?」
「しらねーよ」
ジェイドを誘うのはどうか。
一瞬そう思った。フェルドが誘えば来るのでは――しかし、来るはずがない、とすぐに思った。同行者にミシェルがいる限り、ジェイドは絶対に来ないだろう。
するとフェルドが言った。
「それっていつ?」
「は?」
おいおいおい、待て待て待て。
ミシェルは表情を引き締めた。笑ってはいけない。去年の冬に、決めたのだ。付き合う人間は選ぼう。そしてその相手を、粗末に扱うのはやめよう、と。
しかし、これは想定外だった。
聞いてないのかよ、おいおい。
まだ誘ってないのかよ、おいおいおい。
ミシェルとしては、当然、フェルドも一緒に行くものだと思っていた。マリアラとフェルドは相棒同士だから、休みのタイミングも同じはずだ。マリアラもたぶん、そのつもりでいるはずだ、と思う。というよりもむしろ、フェルドがスキーの話を聞いたら、当然自分も数に入っているのだと思ってしかるべきではないだろうか。
それがどーよ、この顔。
「……悪い、遅刻するよな。今日はいーや、疲れたし……」
フェルドは疲れ切った様子で踵を返した。今日の出動で救出した相手は、よほどに疲れる相手だったのだろうか。それともイェイラに会ったことがそれほど堪えたのだろうか。それとも――
ミシェルは時計を見、フェルドを引き留めずに仕事に向かうことにした。ミシェルは軽薄で軽率な若者ではあるが、真冬の雪かきシフトに遅刻するほど無責任ではない。
――それとも。
階段を降り始めながら、ミシェルは思った。
まだ誘われていないことで、結構凹んでいる――とか?
ミシェルがマリアラ=ラクエル・マヌエルに会ったのは、一週間ほど前が初めだ。
ミシェルは去年の冬から、付き合う人間は選ぼう、と思っていたから、友人の相棒になる子についても確かめておきたいと思った。手持ちの中で一番派手な七色のカツラを付けて、一番ボロい衣類を身につけて、連れて行ったのはラーメン屋だ。
マリアラは七色のトサカにもボロい衣類にも驚いた。
が、態度を変えなかった。少なくとも、そのように努めていた。
ラーメン屋のカウンター席に座らされても、注文の仕方を説明してあげなくても、昼時の戦争を経てどうしてもぺたぺた感が残ってしまっているカウンターにも、彼女は不快そうな顔を見せなかった。
――だからそれでね? と、ミシェルは誰にともなくそう語りかけた。それでね、まあね、なんだか嬉しくなってしまったわけなんですけれども。
そうですか、そうですか。
足早に階段を降りながら、ぷぷぷ、と笑った。
そうですかそうですか。
そうですかそうですかあー。なるほどー。
イェイラがフェルドを捕まえようとするなら、詰所から出るタイミングを狙うのが一番だ。と言うことはつまり、まだマリアラと一緒にいるときにイェイラに追いつかれたと考えるのが自然だ。それは疲れるだろう。ぷぷぷぷ、と思う。気の毒に。
粗末に扱うのはやめようと心に決めているけれど。
面白がってしまうのは、どうしようもない。
今度マリアラに会ったら、それとなく釘を刺しておかなければ。
そう思いながら、いよいよ足を速めて階段を駆け下りた。やばい超楽しい。