第三話
「ねぇ、ジラソール」
突然、名前を呼ばれて大変驚いた。思わずびくりとしてしまうくらいに。
「あっ…、名前で呼んだら、まずかった?」
バツがわるそうににエレナが言った。
「い、いや、その、しばらく呼ばれてなかったから、びっくりしちゃって」
えへへ、と頭をかく。特に嘘は言っていない。
「それならいいけど…、ねぇ、名前で呼んでも、いい?」
一瞬固まってしまった。しかしすぐに気を取り直す。
「えと、特に構わないけど…」
そう言いつつ、心の中では少し引っかかっていた。今はいない人たちを、両親を、思い出してしまうから。
…だけど、慣れないといけない。社会の中で生きていくのだったら。そう自分に言い聞かせることにした。
「ふふ、それならよかった。私だけエレナって呼んで貰うのもなんか変な感じがしてね」
屈託のない笑顔でエレナは言った。それから、何か思い出したのか、少し心配そうな顔で続けた。
「昨日は大変だったみたいね」
「昨日…?あ、あぁ、少し体調が悪くて。気がついたらベッドの上だったから、よく覚えてなくて」
「ライトさんに珈琲を持って行ったかと思ったら、その後運ばれて出てきたのよ。…しっかし、まさかあのトウマが女の子を抱いて歩くなんて思わなかったわ」
そう話すエレナに少しだけ違和感のようなものを感じたが、見直したエレナはいつもの笑顔だった。それよりも私は話の内容が気になっていた。
「私、あいつと幼なじみなんだけど、ぶっきらぼうで女っ気も全くないやつなのよ。そんなトウマがあなたを抱いて出てきたから、びっくりしちゃって。」
「隼が?私を?」
やっぱり!トウマが私を運んでくれたんだ。それからあんな時間までずっと私を待っていて、それは不機嫌にもなる。
すごく失礼なやつには違いないけど、昨日だけで迷惑はかけちゃったな。
「それでね、これはちょっと言いにくいんだけど…」
そこまで言うと、エレナは小声になった。
「ほら、中身があんなんでもあいつ、見た目は悪くないじゃない?だから女の子たちがヤキモチ妬いちゃってるみたいでね…」
なるほど。どうりで今朝から女性陣の視線が痛かったわけ だ。
…気にしても仕方がないので、これは聞かなかったことにしよう。
「ねぇ、エレナ。隼ってぶっきらぼうと言うか…、もの凄く口が悪くない?」
トウマをよく知るであろう人に愚痴をこぼす。
「昔からそうなのよ。あなたも何か言われた?」
こくこくとすがるように頷く。あぁ、わかってくれる人がここにいた!
奴の狼藉を口にしようとしたそのとき、
「おい」
後ろから声をかけられ、大変に驚いてしまった。その声の主が、トウマの声だったから。
今の会話を聞かれていないことを願いつつ、ぎこちない笑顔で振り返る。
「なんでしょうか?」
「ライトさんがお呼びだ。珈琲が飲みたいんだと」
それだけ告げると、気怠そうにカツカツと去っていった。
「あら、今日も大変ね。ライトさん沢山飲む上に、こだわるから。それじゃあ行ってらっしゃい」
エレナが笑顔で送り出してくれたが、私の心は不安に満ちていた。
ー珈琲が飲みたいー。
それは私が百花隊での任務にあたるときの合言葉だった。
「よぉ、今夜はかの有名な隼様がお相手か」
静けさが街を覆う夜更け。**街の繁華街から少し入った、人も通らないような路地で私たちは男に遭遇した。短い茶髪の髪に、金色のメッシュを入れた見るからにチャラそうな男が今夜のターゲットだ。
「仲間が世話になったらしいな」
トウマがそう返す。私は昼間ライトさんから言われた任務の内容を思い出す。
ー強盗傷害事件を起こした男を追って貰う。一度は百花隊のメンバーを向かわせたが、撃退されてしまった。…ん?なぁに、大丈夫だ。その時はちょうど若い人間をあててしまってな。隼と比べれば相手は格下だよ。彼がいてくれれば、君に危害はない。それに、君には瞳術がある。きっと、大丈夫だー
初めてターゲットを目にして、心臓が強く脈打つ。本当に、私に出来るのだろうか?そう思い始めると、勝手に身体が震えだした。
そんな私の心境を知ってか知らずか、トウマが私に声をかける。
「お前は何もしないでいい。そこにいろ」
「ん~?なんだ、女連れとは、俺も見くびられたもんだなぁ。…よく見りゃ綺麗な顔してんじゃねぇか。お前に必要ないなら、俺が貰ってやるよ!」
言うなり、こちらに向かって走り出した。チャラ男のギラギラした目が私を見つめている。
ーーー怖い…!
恐怖で身体がすくむ。動かないといけないのに身体が言うことを聞かず、ただその場に立ち尽くす。瞳術を使うことさえ忘れてしまう。
男が私に迫ろうかとしたその時、黒い陰が目の前に飛び出した。
ガキンッ!
閃光が走ったかと思うと、直後に金属がぶつかり合う音。トウマが剣を抜いたのだ。
「ナイト気取りか?隼さんよ」
チャラ男が軽口を叩く。背中しかみえないが、トウマが動じる気配は全くない。
その後も右へ、左へ、剣戟の応酬がつづくが、トウマの背中に焦りなどは全く見られない。対して、チャラ男のほうは息が上がってきているようだ。
―隼と比べれば相手は格下だよ―
ライトさんの言葉が脳裏をよぎる。トウマがいれば、私の力がなくても大丈夫なんだ。
「埒が明かねぇな!だがよぉ、これなら、どうだ…!」
突然、チャラ男が叫んで、左に大きく踏み出した。その瞳は、大きく見開いて私を見つめている。
いけない―!
そう思った時には、既に私の服の左腕にに火が点いていた。あの男の瞳術だ。
「きゃぁっ!!」
熱い!!思わず叫び声をあげる。その声に、トウマが私を振り返った。
「おい!」
その一瞬の隙をつき、チャラ男の腕が私に伸びる。私は一瞬の出来事になす術もないまま、男の腕に捕らえられる。男の腕が、逃がさないよう私の身体にまとわり付く。触れた部分から男の体温が伝わってきて、酷く気持ちが悪い。
「形勢逆転、だな」
ニタリとチャラ男が笑みを浮かべる。
「おっと、動くなよ、隼」
踏み出そうと構えたトウマを男が牽制する。
私はどうなってしまうのだろうか。完全にパニックになって、頭が真っ白になってしまった。ただ、恐怖だけがそこにあった。
「なんだ、震えてるのか?後でたっぷり慰めてやるよ」
私の震えに気がついて、更に下卑た笑いを浮かべた。おぞましくて吐き気がする。
「おい!」
トウマがいつでも踏み出せる体制で叫ぶ。
「なんだぁ?」
「力を使え!」
―ちから?
「お前の力だ!!!」
―!!!
言われて思い出す。私の、力。
「なんだ?そんなに御大層な瞳術をお持ちなんですか?え?」
そう言って、男が私を見やったその一瞬、私はチャラ男の瞳に意識を集中させた。
男が驚愕に大きく瞳を見開いたその刹那―――。
一筋の光が閃いた。同時に、顔に、身体に、生暖かい液体がふりかかった。トウマの剣が、チャラ男の胸を切り裂いたのだ。
ずるりと私の身体から男の腕がおち、ふらふらとよろけながらやがて男は地面に倒れた。私は解放されて、立っていられずにその場に崩れ落ちる。
―――終わった、の…?
目の前で突然行われた命のやりとりに頭がついていかず、ただその場で呆然とすることしか出来なかった。
トウマを見ると、何事もなかったかのように無線機で何やらやりとりをしている。その頬は男の返り血で染められていた。ふと自分の頬を触ると、ぬるりした感触があった。これもまた、男の血で汚れていた。
ーーー!
途端にその血が、男の死が、現実味を帯びてきて、ガチガチと奥歯が音を立てて震え出す。
呼びかけるトウマの声にも気付かないほどに動転していた。
「おい!!」
しびれを切らしたように呼び掛けられ、ようやく呼ばれていたことに気がつく。
「戻るぞ」
そう言って、トウマが背をむける。私は立ち上がろうとするも、腿から、膝から震える脚には、うまく力が入らない。
立ち上がれずにまごまごしていると、トウマが私を振り返る。
「…ったく」
ため息をひとつつくと、無造作に私を抱き上げた。
触れた部分から感じるトウマの体温。さっきと違って、心地が良かった。
もう怖くて、何かに、誰かにすがりつきたくて、無意識のうちにトウマの首に抱き付いた。同時に、涙が急激に流れ出す。
「っ、おい!」
トウマの困惑した声がしたが、離すことは出来なかった。むしろぎゅっと力が入る。
「っ、こわ、かった…」
奥歯がガチガチと音をたてて、身体がうまく言うことをきかず、それだけ言うのが精一杯だった。
そこで何かに気がついたように、トウマがゆっくりと大きく息を吐く。
「…悪かったな」
ぼそりと、呟いた。
ーこうして初任務が終わったのだった。