第二話
―――タッタッタッタッ…。
仄暗い路地裏をひた走る。
「っはぁっ、はぁっ…」
冷たい雨の降りしきる深夜3時過ぎ。この時間になると、外に出ている人はいない。大都市フローレスと言えど、繁華街のないこの地区は夜になれば猫ですら眠りにつくのだ。
―――――タッ、タッ、タッ…。
100mくらいだろうか。少し離れたところからまだ足音が聞こえる。
目についた角を曲がったところで、良さそうな隠れ場所を見つけた。大通りに面したこの小道は、何かの店舗と店舗の間なのだろうか。ただでさえ細い道の両脇に所狭しと様々な荷物が並べられていた。
その中、立てかけてある看板の裏に身を潜める。横から見えないよう荷物を隣につめて。
―どうか、見つかりませんように…!
足音が徐々にこちらに近づいてくる。どうやら同じ角を曲がったようだった。なんて運のない。
近付く足音に息を潜める。
―コツ、コツ、コツ…。
「どこに行った?ははっ」
下卑た笑いを浮かべながら男が通る。
緊張して、息苦しさを感じ身動ぎをした、その瞬間―!
爪先が、こつん、とまるでノックでもするかのように看板を蹴った。
衝撃で看板はガタンッ!とひとつ大きな音を立て、無残にも私を下敷きに倒れてしまった。
「おやおや、そちらにおいでかな?」
まさに通りすぎようとしていた男が、こちらに向き変なおる気配がした。
どこまでドジなんだろうか。ただ看板の下で震えるしかできない私は、自分自身に悪態をついていた。ペタリと座り込んだ地面は、雨のせいもあって、氷のように冷たい。
「よっこいしょ、と。はい、お嬢さん、こんばんは」
男がギフトボックスのフタを開けるように看板を取り払い、にいっと不気味な笑みを浮かべて私を見おろしていた。
座り込んだ私は、ただ怯えた表情で男を見上げるしか出来なかった。
―もう、だめだ…。
「いやぁ、手をかけさせてくれたねぇ。長かったよ、ここまで」
男は嬉々としてそう語る。そして私の顔に手を伸ばした。
「欲しかったんだよ、その瞳」
そう言われて思い出す。
最後の抵抗のつもりで、目を見開いて男の汚れた瞳を見つめた。数秒しかもたないことも承知の上。その後は消耗して動けなくなるのだから、本当に、最後の抵抗でしかない。
びくり、と男が一瞬震えて、その一切の動作が止まる。
―ここまで、か…。
そこには、諦めしかなかった。守ってくれる人も、もうどこにもいない。
ついに体力も切れ、意識を失いかけるその刹那―――。
一筋の光が空を切った。
――――――――。
そこで目が覚めた。
見上げると、見慣れない天井。長く放浪していた私に、見慣れた天井などないのだけれど。
シミ一つ無い真白い天井をまじまじと見ると、前に一度見たことがあるような気がした。
そうだ。夢。夢のあと。あれは、記憶。
あそこで意識が遠のいて、目が覚めたらこの天井だった。
あの時はライトさんがベッドサイドに座っていた。デジャヴのような感覚でベッドサイドを振り向くと、予想に反して何故か失礼男―トウマが座っていた。
「ようやく起きたか。」
トウマがため息をついた。その言葉に思考を巡らせる。何がどうなってここにいるんだっけ―?
窓の外を見ると、夜が更けたのか真っ暗になっていた。
「今何時だと思っている」
苦々しげにトウマが言う。時計を見やると午後8時を回っていた、
そこでようやく思い出した。ライトさんに、百花隊の任務として初めて呼び出されて、散々バカにされて、力試しとかなんとかで瞳術を使わされたこと。
そして――この男、トウマがパートナーであるということ。
「おい」
思い巡らせているとふいに声をかけられ、思考を遮られる。
「帰るぞ」
「…え?」
頭の理解が追いつかないまま、トウマが立ち上がって背中を向ける。帰るって…、誰が?どこに?
大量のはてなマークを浮かべていると、振り向いたトウマが、これまた盛大にため息をついた。
「ライトさんから言われてんだよ。お前を送れって」
そこでようやく合点がいった。倒れた私を待ってくれていたんだ!こんな時間まで。
それはため息の一つもつきたくなる。
私は慌てて起き上がろうとする。しかしうまく力が入らず、ベッドサイドに大きくよろめいてしまった。
あ、落ちる。
そう思ったそのとき、トウマの腕が私を抱き止めた。
度重なる失態に、恐る恐るトウマを見上げると、もうため息をつくのもうんざりだという顔をしていた。
「っとに手がかかるな…」
またひとつ悪態をつくと、おもむろに私を抱き上げた。
「なっ…!」
突然のことに訳がわからず、思わず身動ぎするも、鍛えられたであろう身体の力には逆らうことが出来なかった。
「歩けないならじっとしてろ」
ぶっきらぼうにそう言うと、私を抱えたまま歩きだす。
他人と、それも男性とこんなに接したことのない私は、どうしていいかわからず、ドギマギしてしまう。
気付かれないようにそっと、トウマの顔を覗き見る。漆黒の髪に、海のように深い紺碧の瞳。今まで気が付かなかったが、端正な顔立ちをしていた。
はからずとも、心臓がドキドキいっている。
時折、ドクリとトウマの鼓動が感じられる。それがなんだか気恥ずかしくて、ぎゅっと目を瞑る。
別に、緊張してるだけ。トキメキとかじゃないし。
ああ、どうか私の鼓動がトウマに伝わっていませんように―――。