表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
花の栄に  作者: 稲嶺雷華
3/3

二度目の邂逅は意図的に

「また是非メールして。花栄の話もだけれど、日本美術の現代史の話とか、力になれるかもしれないし。まあ、正直花栄の話のほうが面白そうだと思っているんだけどね。日本の画家について知っていて、話せる人なんて、あんまりいないから、是非もっと色々話してみたいな」


 家に帰ってからその話を思い出して、その夢のような話がどうしようもないくらいに嬉しくて、誰かに話したくてしょうが無くなった。こんなときにはやっぱり、入学以来世話になっている、春樹だ。

 いつものように返信は驚くほどに早くて、私が毎朝ちゃんちゃんと大学に行く理由の一つが、その人とお近づきになれたなどという、間の抜けた話に、自分のことのように共感をしてくれた。

『それはきっと、本当に美術のことが好きな人なんだね。迷い無く本を選んで、おすすめしてくれるなんて、人文学部の先輩だって、そうはいないはずだよ。しかも、その人理学部なんだろう?そんな人が何でそれだけ知っているんだろうね。図書館の中の利用するコーナーだってきっと全然違うはずなのに、そこにいたことも不思議だ。きっと、よほど美術に興味があるんだろうな』

『たしかに、言われてみれば不思議だね。なんで理学部なんだろう。今度聞いて見ようかな』

『話題の提供になったようなら嬉しいよ』

 メールをして、なんだか少しだけ冷静になった私は、借りてきた本をのことを思い出して、カバンを開け、二冊を机に並べた。

 ずいぶんと古ぼけた表紙だが、でも何も知らない自分が見つけるよりはずっと、ましな内容が描いてあるはずだと思いつつ、ネットで本の名前を検索した。

 未だに再版がされていて、評判を聞くといい評判が八割と、悪い評判が二割。

 それでも、版が重なっているからには、それなりに信頼度が高く、内容が現役なのだろう。

 確かに少し頭の方を読んでみると、難しい文面ではあるが、よくまとまっていて、少し古めかしい言い回しを読解する手間さえ除けば、知りたいことが的確にまとめられている。

 とりあえず一読と思って表紙をめくった手が、いつの間にか勉強用のノートに伸びて、気になったページをメモに取り始めていた。

 時代背景に基づく線や色の傾向を材料から論じるだけでなく、その特徴を的確に言葉で表す巧みさも感動するほどだし、図表や資料への誘導もわかりやすく、最初に気になった古ぼけた表紙とは裏腹に、今欲しいと思っていた情報の少しだけ先を行く、まさに今の自分にちょうど良いであろう内容。

 目を通しておこうと思っただけのはずだったのに、気がつけば参考文献のリストにたどり着いていて、我に返って時計を見れば、十時の少し前。

 余りに良い内容に、紹介してくれたつん先輩にお礼のメールでも送ろうと思って携帯のメール画面を開き、キーボードに指を置いて、ふと止まる。

 こんばんは。いや、先ほどはありがとうございました。いや、初めまして? ええっと。

 一行打ち込んでは半分消し、二行打っては、すべて消し。

 一向に納得のいく文章など書けそうにない。

 これが彼女にとっての自分の第一印象、否。第二印象になるかと思うと、中途半端な文は書きたくなかった。だというのに全くいい言葉が浮かばず、かといってもちろん妥協もできず。

 挙句、夜の十時を過ぎてメールを送るなんて、ご迷惑じゃないだろうかだなんてことまで考えだし、ついには真っ白な画面を見せたままの携帯を放り出して、ベッドに沈むことになった。


 ところで翌朝それなりに爽やかに目覚めて、寝ぼけの取れた頭でよく考えてみれば、いつも通りならば、朝大学に登校すれば、いつもの理学部棟の前でえりかつん先輩に会えるのだと、寝て覚めて少し冷静になった頭は思い出した。それならばその時にお礼を言えばいい。

 さあ、少しだけ早く家を出て、ぜひともすれ違うなどという悲しいことのないようにしようと、いつもより少しだけ丁寧に顔を洗って髪を梳かし、少しだけ乱暴にご飯をかきこみ、いつもよりも随分と気合を入れて自転車を漕いだ。

 自転車置き場に遅刻寸前の様相で愛車を突っ込んだ時には、まだ一限が始まるまでに二十分程の余裕があった。

 家を出た時にあったアドバンテージが十分だったことを考えると、通りで息が切れているわけで。

 こんなに頑張って坂を登ったのは、もしかしたら初めてかもしれないというほど、清々しい気持ちと共に、何やってんだろう自分、とちょっとだけ照れ臭いような甘酸っぱさも感じつつ、息が整うのを待ちながら理学部棟の玄関が見えるベンチに腰掛けた。しかし先輩がその戸を潜って出てくるのを見た瞬間にそんな雑念は全て、どこかに吹き飛んでしまうものだから、私の感情など随分と即物的なものだと思った。

「あ、ひろちゃん、おはよう」

 自動ドアが開いて先輩が駐輪場のあるこちらに向かって歩き出した時には、まだ少し距離があったのに、先輩はすっかりこちらを認識していて、遠くから手を振って声をかけてくれたものだから、どうやって声をかけようかなんて考えていた私はすっかり先を越されてしまって、慌てて立ち上がりながら、少しだけ言葉に詰まったかっこ悪い返事をする羽目になった。

「お、おはようございます! 先輩! 」

「昨日の今日で会えるなんて、偶然だねえ、嬉しいよ」

いえ、偶然などではないのです。と、心の中では言いながら、口ではそうですねなどというのだから、私という生き物も大概気持ち悪い構造をしてている。

「昨日の、印象派の、とりあえず読んでみたんですけど、とっても読みやすかったです。ありがとうございました」

「役に立ったならよかった。またよければ紹介するよ」

「はい、ありがとうございます。できれば花栄についてもぜひ、お話ししてみたいです」

 自転車を漕ぎながら必死になって考えていた展開。

どうにか図書館のような大きな声を出せない場所じゃなくて、大学の学食でいいから、気兼ねなくおしゃべりできる場所で、彼女も好きだという花栄についてお話してみたい。そう思っていたのだ。

「いいよ。私もぜひ、そのファイルのこととか、聞いてみたいと思ってた。よければ一緒に夕食でも食べに行こうか。昼間は忙しいでしょう? またメールしてよ。私大抵日付が変わる頃までは起きてるからさ」

「あ、ありがとうございます」

「そうだ、それじゃあ、明日の夕方なんてどう? 急すぎる?」

「明日ですか!?」

 先輩の言うとおり随分と急な話ではあるが、異論なんてこれっぽちもない。あるはずもない。でも、こんなにトントン拍子にことが進んでいいのだろうかと言う不安は少しだけ心をよぎる。

 まさかこれは、私のみている夢ではなかろうか。なんなら、昨日会ったことも、メールアドレスを教えてもらったこともぜーんぶ、目が覚めたら消えちゃっているなんてことはありはしないだろうか。

 そんなことを一瞬のうちに考えたのが、もしかしたら見えてしまっていたらしい。

「あ、明日はダメかな?」

 先輩がその可愛らしい丸っこい眉をハの字ににして、あまりに悲しそうな顔で言うものだから。

「いや、いえ、大丈夫です!」

 慌てて夢だとか幻だとか、そういう現実を疑う感情を頭のなから追い払って答えると、先輩の眉も元の位置に戻って、二重の大きな目を細めて笑ってくれた。

「よかった」

 夢でもなんでもいいや。今の幸せを享受できるならたとえ白昼夢の幻だろうと、かまわない。

 この街のどこかにいる花栄についての情報も、何か得られるかもしれない。一目でいいからお会いしてみたいと言う私の願いに、共感してくれるかもしれない。それに、感想とか解釈とか、一度誰かと共有してみたいと思っていたあれやこれやとか、大学のこととかもっと他にたくさんなことを、この素敵な人とお話しできるかもしれない。

「あ、ヒロちゃん九時から授業でしょう、そろそろ行ったほうがいいんじゃないの?」

 そう言われてポケットから取り出した携帯の外画面の表示をつければ、いつの間にやら現在時刻は授業開始の五分前。

「後でメールしてよ、待ち合わせ場所とか、また詳しく決めよう」

「あ、ホントだ!すみません、失礼します」

せっかく頑張ったアドバンテージは、いつの間にか終わってしまい、大慌てで走らないと、三階の講義に間に合いそうにない時間になっていた。

「後でメールします!」

「授業、頑張ってね」

 笑顔とエールに背中を押され、鐘の音がなるまでにと大慌てで階段を駆け上って飛び込んだ講義室は、窓辺後方の特等席はとっくに埋まっていた。それでも素早く講義室を見廻し、どうにか運良く残っていた、内職しやすそうな端っこの席を確保した。

 隣にいた同じ学科の友達に「珍しいねえ、ギリギリで」なんて言われ、苦笑いで「まあね」などと曖昧な返事をしたところで、ゆっくりとドアが開いて、教授が入ってきて、授業開始の鐘がなった。



「それじゃあ、始めます。前回は日本神話に描かれた、神についてお話ししましたから、今回は各時代における神道の扱いや内容の変化について少し触れたいと思います」

美術を扱うには欠かせない、民族の歴史における信仰について知ろうと思ってとった神道の先生は、人文学部で宗教と民族の分布や歴史について研究している人らしい。

 机の下で携帯を構え、右手は机の上で、配られたレジュメを次の人に回しながら、机の下ではメール画面を立ち上げて、手元をみないままに文章を組み立てる。

 いくらなんでもガラケーを使っている人がだいぶ減ってきた昨今、大学入学を機に携帯電話を新しくしようかとは考えたものの、pcを授業に持ち込むならばともかく、スマホよりもガラケーの方が、手元を見ないで文章を組み立てるには優秀だ。だから、高校時代からお世話になり続けているこの古ぼけた機種をまだまだ手放せないでいる。

『ひろです。さっきは声をかけていただいて、ありがとうございました。

明日夕食をご一緒させていただくと言うことですが、私は5限まで授業があるので、大学を出るのが6時以降になってしまいますが、よろしいでしょうか?』

 予測変換に頼りながら、チラ見で書き上げた文書を一読し直し、『ご一緒』は少し硬すぎるかなとか、ありがとうよりも、うれしかったですとかの方がいいかななどと、手直しを加える。

 一通り言葉遣いを柔らかく改めて、もう一度読み直し、間違いもないし問題ないだろうと、送信ボタンを押した。


左手で携帯電話を握り締めたままだから、教授の話は耳には入ってきても、まるで右から左へ抜けていくようだ。

 何度もサイドボタンを押して、見落とした着信がありはしないかと確認するが、震えを感じた覚えもないという感覚が正しかったことを、新着件数が〇の時に出る無情なデジタル時計の表示が伝えてくる。

「仁王像というものがお寺にはありますね。一方で神社にも狛犬という文化があります、神社の一種ですが稲荷神社では左右に狐の像を置くことが一般的ですね。それではこの二つの文化の共通点や相違点はなんでしょう」

 狛犬がなんだ。仁王像と何が違うかってそりゃ、花栄が絵に書いたことがあるかないかって、どうよ。

 知りたいことがあってとった講義だ。いつもならかなり優等生な部類に入ると自負しているけれども、今日ばかりはまともに思考をするくらいなら、明日の話のネタを探す方が大事だった。


 返信は意外と遅くて、こちらからメールを送ったその30分くらい後だった。

左手の中で急に震えた携帯に驚いて肩を跳ねさせた私は、それでも教室の誰にもそれを気づかれることなく携帯の画面に視線を落とすことができた。

「それじゃあ、明日は5限が終わり次第理学部棟の前、さっきお話ししたところでどうですか?

 運転中でメールが見れなかったので、お待たせしちゃったね。ごめんね。

 明日は私のバイクに二人乗りすればいいかな?大丈夫なら安全のために、長袖と長いズボンを履いてきてください。』


 いちいち句読点が丁寧で、その上返信が遅くなったことを誤ってまでいて、なんて優しい人だろう。自分も句読点はちゃんと打ってしまう派だが、大学の友達には硬すぎると嫌がる人もいた。どうやら先輩、句読点の使い方においてはは私と気が合うらしい。行頭をちゃんと一文字落とすのは、私以上に丁寧だ。

 文字の向こう側に薄ら見える先輩の姿を探ろうと、繰り返し繰り返し先輩からの文字を目でなぞり、普段しないような合いもしない分析をしてみたりと、大いに授業を右から左へと聞き流しつつ、そして最後の一文の上を目が通るたび、今にも踊り出したいほどに心が弾んだ。

 バイク! 先輩と二人乗り!

 よくわからないけど、不安だけど、楽しみだ。楽しみでしかない。

 自転車の二人乗りくらいしかしたことがないけれど、不思議と怖くはない。

 学生の頃友達と一緒にふざけてやった二人乗り。自分は運転する側だったけれど、そっと自分の服を掴む相手のてに、普通では近寄れない距離を詰める感覚がたとえ用もなく甘かったことを思い出す。

 その幸せの二人乗りを、先輩と!


 1日が長かった。

 でも、あっという間でもあった。

 了承の返事を出した後、メールが続かなかったからだし、あるいは隙さえあればそのメールを読み返してばかりいたからかもしれない。

 お昼を挟んで授業が終わって、明日の夜に用事が入ったのだからと、その次の日のサークル活動の準備をしなければならないというのに、思うように手が動かない上にもちろん頭も働かない。

 当然のように翌日の授業も身が入らないのに、そんな日に限って二限を皮切りに五限まで、隙間なく授業が詰め込まれている日だったものだから、誰かに後でノートを見せてもらわないと、怪しいなあなんて思いながら、お昼ご飯さえ身が入らず、学食で注文したものを、出されたときには忘れてて、ただタイミング的にはこれが自分の料理だろうと受け取って支払いをして、味もよくわからずもぐもぐと掻き込んで授業をこなして、進まない時計をにらみつけて。

 それでも沈まない太陽はないという詩的表現をするまでもなく、時間はちゃんと流れるし夜は変わらずやって来る。

 五限は早く終わりやしないかと期待していたのだが、そんな期待を見事に裏切って五分の延長戦付きであった。

 終わりますの声が聞こえるや否や、カバンに荷物を流し込んで、授業の片付けをする教授を追い越すように講義室を飛び出した。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ