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花の栄に  作者: 稲嶺雷華
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こんにちは、同志


学科のガイダンスでは、仲良くなれそうな人と仲良くなれなそうな人と。みんなが互いを見定めるような雰囲気で、相変わらずしばらくは疲れそうで気分が沈んだ。けれども先生や先輩たちは魅力的で、哲学や歴史の教授も面白そうだったし、専門をもって追求できるんだと思うと、ゼミも講義も早く始まれば良いと思えた。

 正直なところ、立地とそれからほんのすこしの別の理由でこの大学を選んだものだから、大学の中は大して期待も絶望もしていなかったけれど、これならどうにか前向きに楽しめそうだった。

必修の授業をいくつかとれば、あとは好きに選んでいいのが一年生だ。専門の授業が少ないのは残念ではあるが、代わりにたくさんの授業の中から好きなように選んで良い。興味本意に理系の授業にてを出したって良いのだ。

もしかしたら新しい出会いがあったり、もしかしたらあの動きの決まった美しい数式に、今度こそ親しめるような気がして理学部っぽい授業に目がとられてしまうくらいには、自分は浮かれていることを自覚していた。そうだ、そんな希望よりも現実的に、部屋に帰ったらシラバスを読んで、晴樹にメールして、いくつかは一緒にとろう。きっとあっちもあっちで面白そうだと思うポイントは自分とは違うだろうから、それがまた自分の知見を広げることにもなるだろうし。

そんなワクワクのせいか、午後も早くに解放された人文学部の大多数と別れたあと、ふと美術館によろう。そう思いたった。やっと慣れ始めた町並みをたどって、小さな町外れの美術館は、オープンキャンパスで一度訪れて以来、この町に越してきたら、必ず来たいと思っていたし、そもそもこの美術館が、この町に来た目的への最大にして唯一の手がかり。そんな思いもあったのだ。館の横に自転車を止めて見やれば、正面からは見えない、日の当たらない壁にはめられたガラスの向こう側に、墨で描かれた背丈ほどの高さで、量腕を横に広げたくらいの花吹雪があった。

確かめるように左下に目をやれは、花栄の

文字。強い部分と弱い部分が混在して、ものすごく不安定な白と黒と灰色の世界の癖に、驚くほどに色鮮やかな花吹雪は、かつてこの絵に魅せられ、ついにここまで来てしまった自分がこの先に進むための一歩だった。ざわざわと絵のなかに花びらを散らせる風が、花栄の吹かせた風がまるで自分まで撫でていったかのようで、その幸せに思わずぶるりと身震いをして、ほほが緩んだ。

ゆっくりと時間のとれる週末にでもと思っていたから、財布の中や閉館までの時間がいささか不安でもあったけど、駐車場には車もほとんどなく、人が少ない分ゆっくり見れるなあと、足取り軽く古い押戸を押した。

受け付けに座ってるおばちゃんは、いかにも地元のおばちゃんという感じで、自分が財布をひっくり返して入館料ギリギリの小銭をかき集めて数えているあいだ、にこにこと待ち、足りなくとも入れてくれそうなほどの優しい笑顔で、足りてよかったねえといいながらパンフレットを渡してくれた。



大学にも案内が貼ってあった地元出身の新進気鋭の作家たちによる展覧会をぐるりと見て、気になった作品の前にもう一度立ったり、遠くから眺めてみたり、柵のギリギリまで近づいてみたり。ずいぶん長居したつもりだったのに、その間一人もお客さんが来ないのは何だか申し訳ない気がしながらも貸しきり気分がとても嬉しかった。

「ずいぶん熱心だねえ」

「そうですか?」

受付から館内がすべて見渡せる、部屋も二つしかないような狭い美術館なものだから、受付のおばあちゃんはずっと自分のことをみていたらしい。それくらいには暇なのだろう。

「その桜森さんって、鍛金作家さんはね、大学の向こうの麓の辺りにいてねえ、二年前に親族を頼って越してきたんだけど、中々おもしろい人よ」

「ええ、作品もおもしろいです」

話しかけてくれたのをいいことに、聞こうと思っていたことを口にする。

「ところであの、お尋ねしたいのですが」

「なんだね?」

聞かれるのも楽しいと言うふうに、受付のおばあちゃんは聞き返した。

「この町に、彫刻と水墨画をなさる」

「花栄かね」

「はい!」

それが実はもなにもない。本当のここに来る目的だった。

「あの子はもう新人じゃないからねえ、この展覧会には参加しないんだよ。それに新人の展覧会はポスターにもある通り、ほらトークショウとかワークショップとかね、やらなきゃならないでしょう。あの子はそれは嫌だって言うからね、最初に一度参加したきり、個展をするようになったねえ」

「そうなんですか。それじゃあ、あってお話ししてみたいと思ったんですけど、無理ですかね」

「ああ、この展覧会の人たちと違って、アトリエの場所も秘密にしたがっているしねえ。ああでも、きっと会えるよ。同じ町に住んでいるんだもの」

ここまで来て会う道はここにはないらしい。気休めの慰めのような一言で少し落胆を増されつつ、それでも忘れず最後にとショップに入った。

「あ、あった」

コーナーのはしに、小さな小さな区画で展覧会の中身とは関係ない、日本画のポストカードがならんでいた。

その一枚のどこの一部を切り取って額にいれても成立するのがよい絵画だと言うのなら、これはきっとそんなによくない絵画だ。ただ一つのパーツが欠けたらその瞬間美術品でなくなってしまうほどの危ういバランスの墨絵。ひっくり返して作者を見ると、花栄の二文字。

「こんな絵も描いていたんだ」

数年前から好きだったけど、あまりにマイナーなため、作品を間近に見る機会もなくて、知らないことの方が多い。そもそも作者自身が公開する情報もさして多くはなく、まだ二十代でこの町にすんでいることしかわからない。

それでも大河ドラマのオープニング映像を、花栄の絵が飾ったり、それをきっかけに、本の表紙やCDのジャケットを書いたりもしている。きれいなという表現じゃ足りないくらい、目が離せない絵を描くのだ。


ポストカードを一枚(財布のなかがあまりにも寂しくてそれだけしか買えなかった)てにとって受け付けに行き、会えるといいねとまた笑うおばちゃんを背に美術館を出た。花栄の絵のなかの桜は相変わらず花を散らすばかりで、その花びらの一枚すら拾えない自分を憐れみもせず嘲笑いもせず。それはまるで私のことを知りもしない花栄その人のようだった。


大学生活はいたって平穏だ。美学研究のサークルがあるわけもなかったから春樹が作ってしまった。ボックスはないが、空き教室を使ってはゼミの先生を招いて鑑賞に特化した活動をしている。授業は、一般教養等というものは見聞を広めるためとはいいつつ、結局そう難しいことをするわけでもない。朝九時に大学につければそれで問題ないだけのことで、朝九時が大変だという学生もいるなか、自分に限ってこれっぽちも早起きは問題ではなかった。

というのも、朝九時に間に合うように大学についた頃、必ず理学部棟から出てくる人が気になるのだった。いつも白衣か繋ぎで、目のぱっちりした顔を彩りもせず、授業の始まる五分きっかり前に帰っていく先輩らしき人間に、いつもなぜか目を引かれた。

しかし一般教養のゼミで一緒の理学部生に聞いてみても、名前もわからないし、さらに一度会いたいと思っていた花栄についての情報を得ることも叶わないままに、気がつけば大学生活は3ヶ月、一年の四分の一が終わっていた。


ゼミの資料を探しに大学図書館に来ていた日のことだった。

愛用の、この町の美術館で買った花栄の桜の絵のファイルを抱えて本を探していた自分がふと目をあげると、ちょうどたなの向こう側にいた人と目があった。それは驚いたことに、あの美人のつなぎの人その人で、目があった瞬間ににこりと笑いかけられて、思わず笑い返したほほがひきつっていた自覚はあったけど、恥ずかしくても、気まずい気分でも、自分はその目線を自分からはずすことが出来なかった。

スッと目線をはずした先輩が棚の向こうから歩き去るのを残念に思いながら、本の隙間に目を近づけてその背中が視界から消えるのを惜しみ、また本の背表紙をなぞるのに戻ろうとした瞬間、その頭が思考停止した。

視界のはしに再びその先輩が現れたのだ。

「こんにちは。探し物、手伝おうか」

「あ、いえ!そんな。大丈夫です!」

言いながら自分を殴りたくなったが、そういうわけにもいかず、人生一番に悔やむ自分を知ってか知らずか、眩しくて直視しがたい癖に目が離せない笑顔の先輩は、そう遠慮せず。と続けた。

「何を探しているの?授業で使うやつ?」

「い、いえ。サークルなんです。美学研究会っていう」

「ああ!知ってる。今年一年生が作ってたやつね。作った人より、副会長の方がよほど熱心だって高野先生がいってたやつね。それで、何かプレゼンするのかな」

「はい」

ああ、その熱心な人というのは間違いなく自分だ。お陰での先生にゼミに来ないかと声をかけられているけれど、当然プレゼンは拙いし、内容も浅い。歴史的事実に基づいた多角的な見方を出来るように、勉強中だ。

「えっと、印象派の概要か日本画の近代史や現代か、どちらかをやろうと思ったんですけど、中々どれを読んでいいかわからなくて」

「そうか、印象派なら……、この本が良いんじゃないかな。前後の関係も割りと丁寧だから、時代背景とか、他の芸術分野の発達とかまで網羅してくれるから、たぶん読みやすい」

「あ、ありがとうございます」

ファイルを左脇に抱え直して本を受けとる。ちょっとだけ手が手に触れて、心が浮き上がる。

「それと日本画かあ。近代はこの辺かなあ。まだまだ発達途中すぎて、あんまりきれいにまとまらないんだけど、現代に繋がる流派とか基本的な明治以降の流れはわかるし。でも現代って言うと、ここにはないなあ。主な十人とかそう言うのだったら教えてあげられるけど、そう時間もない、よね」

「詳しいんですね」

「まあね、私も好きだから。君も好きでしょう」

そりゃ好きだけど、なぜ、と聞き返すような顔になってしまった。いくらファイルが日本画だからといって、調べている内容が日本画だからといって、好きとわかるわけがない。いままでだって、いろんな人に。そう、高野先生ですら西洋絵画が好きなように見えたと言われ、自分で言うまで日本画が好きだと気づかれなかったのだ。

「だって、その花栄の桜-三-の絵のファイル、市販のやつじゃないもの。確かその絵のファイルは三種類出したけど、それは去年の個展の、初日来場者五十名限定配布だったやつだわ。ほら、この端の花びら、他の二つの版では切れちゃって」

その通り、去年の個展の初日が偶然入試の日で、午後からの面接時間の前に必死になって寄ったあの花栄の桜の絵のある美術館に寄って、もらったファイルだった。

「よくご存じなんですね。花栄って気づく人も少ないのに、そこまで知っているなんて」

「私も持ってるからね。花栄、好きなの?」

「はい!先輩もですか」

「あー、まあね。まあ、またよかったら何でも聴いて。花栄とか、日本画好きな人あんまり多くないからさ、また話してみたいかな。って、連絡先ないと聞けないか」

言いながら携帯を取り出して、ほらっと促すものだから、自分も上着のポケットから携帯を引っ張り出して、通信したその画面に表示された文字列で、ついに私はその先輩の名前を知ることとなったのだ。

「山之上絵梨花……さん」

「そう。でもつんってあだ名で呼ぶ人のが多いかな。えりかつんって言うのからつんだけ残って」

「つん先輩?」

「うん。」

そしてつん先輩は続いて私のアドレスを受け取って、ふーんとその文字列を嬉しそうに読んだ。

「吉野、ひろ?」

「はい。ひろで合ってます。久しぶりに一発で読んでもらえて嬉しいです」

「へへ、ひろちゃんだ。素敵、優しくて強い、いい名前」

名前を誉められただけで、それは別に自分の手柄じゃなくて名付けた母親だか父親だかの手柄だと言うのに、嬉しく思えた。それは今まで男とも女ともつかない名前なうえに、読みにくい漢字だったせいで、この大学生活の3ヶ月で随分困らされたからだとも言えるが、それでもそんな言い訳を思い付いて幸せを萎ませたくなるほど、幸せな気分になったのだ。

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