第6章・戦士は仮面の奥に
『貴方は、私を、必要としてくれるの?』
(ああ!)
『ホントに、こんな私を使ってくれるの?』
(使うんじゃない。一緒に戦うんだよ。俺たち人間は、そういう存在を“仲間”と呼ぶんだ)
少女の双眸が見開かれる。
暗くくすんだ瞳に、光が宿る。
『私は貴方の、なかま?』
(そうだ)
『――――良い響きね』
(時々喧嘩したりもするけど、苦しい時には、互いに助け合うんだ。悪いもんじゃないぜ?)
1人では敵わなくても、仲間が一緒なら戦える。
(一緒に、他の仲間を助けてくれないか?)
首から下の感覚がない中、潤人は自分が少女に向けて手を差し伸べたのを視界に捉えた。
『……わかった』
少女は潤人の手をそっと握り、苦しみから解放された安堵の笑みを見せた。
(それと、名前が無いのは、ちょっと寂しくないか?)
『なまえ?』
(ああ。お互いの事を呼び合ったりする時に名前があれば、すぐに誰かわかるだろ? 良かったら、呼び名を決めてみないか?)
『私にそう言ってくれたのは、初めて私の主になった人と、あなただけ』
(そうなのか? 名前があった方が、何かと便利なのにな?)
潤人は先代の宿主達の振る舞いに疑問を抱く。
『そうね。それじゃあ、“ローズ”と、呼んで?』
(ローズだな? なんだか、君の容姿というか、雰囲気にぴったりな感じだな!)
『ありがとう。このなまえはね、他の国で、最初の宿主だった女の子につけてもらったものなの』
ローズは僅かに視線を落とし、遠い過去の記憶を懐かしむようにその眼を細める。
(へぇ、最初の1人は外国の女の子か。てっきり、こういう役は全員男かと思ってたよ。あの大男のイメージがデカ過ぎるんだな、きっと)
それを聞いたローズは微笑を漏らす。
『そうね。これまで、いろいろな国の人に巡り会ってきたわ。その中でも日本は素敵な国で、この島の人達も好き』
リルも、話せばきっと解ってくれると、潤人は信じる。
(狭いところだけど、俺の部屋でよければ、好きなだけくつろいでくれ)
『実体化は無理だけど、一部の感覚は共有出来るから、貴方がくつろいでいる時に、私もそうするわ』
(なるほど、感覚を共有出来るのか! すごいな!)
人ではないとはつまり、実体の無い精神体――――魂のようなものと捉えるのが妥当だろうと、潤人は思った。
『痛覚以外のものなら、ある程度ね。聴覚や視覚の共有とか』
今のローズの発言、“視覚共有”とはつまり、青春真っ盛りな潤人の自室での日常が筒抜けな事を意味するが、
(これから宜しくな、ローズ)
そういう細かな事実には気付く事無く挨拶をする鈍感少年の身体を、ローズが前触れも無く、そっと抱き寄せた。
(え!? ちょっと!? なにその展開!?)
彼女の身体が潤人に触れると同時に、潤人の身体に感覚が戻っていく。
『ただの愛情表現よ。それに、守護に縁起の良いおまじないでもあるのよ? どこの国でも、どの時代でも、これだけは変わらない』
囁くように言って、ローズはその小振りな唇を潤人のそれへと近づけていき――――。
『宜しくね、潤人。あなたに、私の全部をあげる――――』
(ちょっと待って! まだ心の準――――!?」
潤人の意識は再び途切れた。
「――――ッ!?」
寿潤人は、真っ暗闇に包まれたアパートの自室で目を覚ました。
ローズの姿は跡形もなく消え、気配の欠片も残っていない。
ベッドの上で仰向けに眠っていたらしい。
(今のは全部夢だなんて言わないよな?)
呼吸の度、渇いた喉に焼け付くような違和感を覚えた。
意識を失う前は港に居た筈だが、全て夢だったとでも言うように、部屋には静けさが立ち込めている。
身体には圧迫感があり、頭もぼんやりとしていて、目を回した時のような感覚が纏わりついていた。視点も泳ぎ気味で、天井がゆっくりと回っては元の位置に戻り、また回る。バットの柄を額に当ててグルグル回った後の感覚に近い。
(俺は、どうしてここに居るんだ?)
ずぶ濡れだったはずの制服はもう乾いていて、逆に焼け焦げたような染みが見られた。
(俺はさっき港で、リルが首を――――アイツに刎ねられるのを見た)
港で起こった惨劇を想起し、潤人は白い歯を食い縛る。
(あれから、何がどうなったんだ?)
視点の乱れが治まってきた潤人は天井の一点に両目の意識を集中し、完全に安定するのを待つ。
(知りたい事は山ほどあるし、アイツがどこに行ったかを付き止めて、どうにかして風紀団に突き出さないと)
アズロットを見つけ、どうにかして逮捕しなければ、被害者がもっと増えてしまうかもしれない。
『――――私の、全部をあげる』
ローズはそう言っていた。それはつまり、潤人は彼女を完全に受け入れる事が出来たという意味だろうか。
「……」
しばしの間、潤人は天井を見つめたまま、何か起きないか待ってみたが、銀髪の少女の声は聴こえない。姿も見えない。
だが。
「――――え!?」
潤人は自分の左手のひらにざらついた感触を覚え、ふと目を遣ると、左手が黒い何かを掴んでいた。
まるで砂鉄を凝縮させて固めたような感触。部屋の暗がりに目が慣れてきて、その黒い物体は“剣”のような形を形成している事がわかった。
刃の煌めきは無い。完全な“黒”が闇の中で浮き立ち、柄と刀身、と見て取れる形を成している。
潤人は一先ず、この黒い異物を“剣”と認識した。
ローズが出てきたあの闇の空間が何だったのかは不明だが、夢ではない事は、左手の剣を見ればわかる。ローズに抱き寄せられた時のあの温もりと弾力も、まるで事実であるかのように鮮明で、忘れようのないものだった。
この“黒い剣”は、ローズと何か関係があるのだろうか。いつ、どうやって潤人の部屋に持ち込まれたのか。
こんな外観の剣は初めて見た。
高校の歴史書や武具事典にも、『遠征学習』で訪れたウィンザー城の衛兵達の兵装にも見られなかった。
「どうなってるんだ?」
港での出来事といい、この“黒い剣”といい、誰かに説明を受けないと、ついて行けなくなりそうだ。
『その剣は、あなたのものよ』
頭の中に、彼女の――――ローズの声が響いた。
夢落ちではなかったようだ。
(これ、俺のなのか?)
全く身に覚えの無い潤人は少々困惑しつつ確認する。
『ええ。その剣は、私の力をこの世界へ安全に干渉させるのに必要な操作道具なの。これが無いと、力を発動した時に制御が出来なくて、皆暴走してしまうのよ』
(“滅びの力”のコントローラーがこの剣ってわけか)
潤人は仰向けのまま、左手で剣を持ち上げてみる。
大きさの割りに、かなり軽かった。この程度の重さなら、片手でも十分扱う事が出来る。
「……俺の、剣か」
潤人は以前、レイラに言われた事を想起しつつ、そうつぶやいた。
『自分で決めた武器を、大事にしてあげて下さい』
(ありがたいな――――)
今までバットを代用して剣術を磨いてきた甲斐があったというものだ。
初めての愛剣である。
(丸腰であいつに挑むより、何十倍も心強い。具体的な使い方とかはあるのか?)
『構え方にも能力にも、これといった決まりは無いわ。この“魔剣”は“魔術”を、周囲の“幸福粒子”を吸収して、“不幸粒子”に変換することで発動出来るの。“魔術”でなくても、あなたが念じた事も発動可能よ? 剣の長さや太さを変化させたり、剣を振るった瞬間に爆風を起こしたければその通りに。全てはあなたの“想像”次第。多少、乱暴に扱ってくれても構わないわ。傷がついたとしても、すぐに復元してあげるから』
と、ローズはやたらと長い名前の剣を解説してくれた。潤人が『想像』さえすれば、『創造』は剣が請け負ってくれる。つまり、潤人がまともな『気想術』を扱える可能性が生まれたという事である。
おまけに、戦闘中に刃こぼれなどの傷が付いても自己修復してくれるとは、なんと頼もしい剣だろうか。チート武器に認定しても良いくらいだ。
(便利すぎて、鍛冶屋も涙目だな)
『ただし、飽く迄剣は力の操作道具。あなたの想像がしっかり剣に伝わらないと、何が起こるかわからない。絶対に“暴走”しないとも限らないわ。だから、誰も不幸に巻き込みたくなければ、力を発動するタイミングは、極力あなたが1人で敵と戦う時に絞る事ね。そうすれば、“不幸粒子”の悪影響を受けるのは“敵”だけに止めることが出来る』
(わかった)
潤人には、自分自身が気想術を発動する事に関しては不得手極まりないという、精神的に固着した悪印象がある。故に、いざ気想術を扱えるようになったとしても、その自信の無さから来る不安と恐れのせいで、普段なら尻込みしてしまう所だが、そこはリルや仲間達の仇討ちを果たす機会が生まれたと考えて、自分を奮い立たせた。
潤人は起き上がろうと試みる。
身体の方は相変わらず重く、なかなか上手くいかない。特に首から下は、何か物が乗っているかのような圧迫感がある。
潤人は尚も解消されることのない、首から下の身体に掛かる重圧をどうにかしたい、という衝動に駆られ、自分の胸部を見遣った。
「――――ええッ!?」
新たな“驚愕”が、そこから始まった。
この島は気想術師を育成するための機関――――『I・S・S・O』の本部が置かれた要塞を有し、数多の術師訓練生達が交代でそこに勤務し、“外部”の異常事態に備えている。
今の所、要塞から“外部”への出動例は数回程度で、対処に当たったのも、3年の精鋭数人のみ。
故に、“実戦”経験者が極端に少ない。
とは言うものの、“経験”が少ないだけで、『気想術』の出来栄えの水準は、島の運用が開始された当初とは比べものにならないレベルまで上がっているし、今年の秋には、卒業して世界中に展開した第1期生達が本格的に、世界の『不幸情勢』に介入するという話だ。
今後増大が予想されている、『不幸粒子』による事件への備えは万全と言っても過言ではない。
組織の上層部にも、“自分達が育て上げた隊員達が、一体どれほどの成果を上げられるのか試したい”といった考えが渦巻いているかもしれない。
そんな、世間で言うところの、『超能力』、『異能』、『非現実』等の表現に該当する力を持つ人間がゴロゴロ居るこの島では、その辺で物が浮いているとか、人が常軌を逸した速度で移動したり、また跳躍したり、将又重い物を軽々と持ち上げたり、或いは火を吹いたり変身したりお札をはっつけて傷を治したりといった事が日常的に行われている。ついさっきは、潤人が“実体の無い女の子”と一心同体みたいな関係になったばかりだ。そのため、ここの住人達はそういった現象に慣れている。よほどの事が起きない限り、驚く事はほとんど無い。
ところが、潤人は今、物凄く驚いていた。
人間を16年やっているが、これほど驚いた事は恐らく無い。
人は心の底から驚愕すると、思考が一瞬フリーズして、何のリアクションも起こせなくなるようだ。
仰向けに横たわる潤人の胸に顔を埋め、重なるようにして、1人の少女が添い寝していたのだ。
胸の辺りに、妙に重いものが乗っていると感じた潤人が視線を下向けた時に、その少女と目が合った次第である。
「おはよう、潤人。気分はどうだ?」
「――――リル、なのか?」
自分の胸に顔を埋めるようにして、こちらを上目遣いで見つめる少女の名を、潤人は絞り出した。
「うむ。私はリルだ」
その首を刎ねられ、命を落としたはずの少女。
「リル!!」
幻でも見ているのではないかと疑う潤人は、リルの頬に両手で触れ、その存在を確かめる。
「うにゅ」
タコみたいな口になるリル。彼女は確かに今、ここに居る。
触れる事が出来る。
弾力のある白い素肌は、とても偽物とは思えないし、強力な幻術でも、ここまで精巧に再現するのは至難だろう。
(俺は実は港で死んで、こっちの世界に来ちまったのか!?)
たまらなくなって、潤人は“念話”でローズに問いかけた。
『違うわ。あなたも、その子も生きてる。感触があるでしょう? 温もりがわかるでしょう? 姿が見えているでしょう?』
(確かに実感あるけど、君だってちゃんと感触も温もりもあったのに、君だけ姿が見えないのはどうしてだ?)
『私は肉体を持ってはいないからよ。剣がその代わりと思ってくれればいいわ。そして私の姿や声は、宿主であるあなたか、他の“力”を宿した人間以外には感知出来ない。だから、周囲の人にあなたと私の会話を見聞きされる事もまず無いわ』
(な、なんか凄い設定だな)
『……っ』
(――――ローズ? どうした?)
『……急にごめんなさい。何だか、港での一件もあって疲れちゃったから、少し休ませて? あとはあなた達でごゆっくりどうぞ。でも私は、潤人だけのモノだって事、忘れないでよね?』
と、ローズはそれっきり何も言わなくなってしまった。
ローズがこの状況で黙り込むと思っていなかった潤人は、
(せめてこの状況の説明をもうちょっと詳しくしてくれよローズさん!)
と嘆いた。
剣はシカトを決め込んでいる。
潤人もリルも制服姿。服の下から伝わってくる温もりは本物としか言いようがない。
紛れもなく、ここに在る。
潤人の感情は、驚愕から安堵へと変化していく。
「無事だったのか?」
震える声で尋ねると、リルはこくりと頷いた。
「この通り、怪我も無い。とは言っても、港での一件の後、意識が無くなっていてな。元に戻ったのは、潤人がこの部屋に運び込まれた時だ」
会話も成り立っている。
「でも、おまえ、さっきあいつに――――」
その続きを言おうとして、潤人は吐き気に見舞われた。
胸の奥が焼けるようで、苦しい。
「さすがに、あれには私もびっくりしたぞ。初めてだったからな。あんな事をされるのは」
(いやいや、初めてとかXX回目とか無いでしょあれは! 一度やられたらそれでオシマイでしょう!?)
心の中でそうツッコミを入れる潤人は、
「いや、でも、リルは今ここに――――」
と、胸の圧迫に耐えつつ、混乱を吐き出す。
「うむ。私はここに居る。ここに居る私は、双子のもう一方でも、クローンでも、そっくりさんでもなくて、本物だぞ」
「おまえ、アイツに何をされたんだ? 俺の見間違いだったとはとても思えないんだけど……」
「私の首をつなぐ素粒子を全て破壊された。首を、刃が通過したのだ」
(リルちゃんはその辺の学生より知的な日本語を使いますね。じゃなくて! そこじゃなくて! 刃が首を通過します白線の内側まで下がってお待ち下さい! でもなくて! 危ないよちゃんと避けなくちゃ! ヤイバが首を通過って何!? それ明らかに1つが2つでしょ!? 分離してるでしょ!? それ死んじゃってない!?)
と、潤人は内心で新たに溢れるツッコミを叫ぶ。
「で、でもでももも、でも、い、生きてる!?」
「――――大丈夫だ。支障は特に無い」
潤人は、試しにリルの頬を両手で摘んでみた。
縦、縦、横、横、丸書いて――――。
「うう、放さんか!」
どうやら、夢でもないらしい。
頬を摘まれているリルが頬を真っ赤に染めてもがくので、潤人が手を放してやると、『ぱちん! ぷるるん』といった按配で、リルのほっぺは元の形に戻った。
完全に、本物だ。リルは無傷で、目の前に居る。
アズロットは、一体リルに何をしたというのか。
首を刎ねたように見えたのは『幻術』で、実はリルを眠らせていたとでも言うのか。
仮にそうであるとしても、リルの姿はどこにも見当たらなかったし、そんな事をする理由がさっぱり分からない。
思考で頭がごった返す潤人を余所に、リルは自身の近衛騎士に馬乗りになり、
「私はもう、死なないのだ」
不機嫌そうに頬を赤らめたまま、そう言った。
“死なない”と。
「――――どういう、ことなんだ?」
と、尋ねる潤人。まだ、今の状況はとても理解出来そうにない。
「……私は、一度死んだ身だからな」
しばしの間のあと、その表情に影を落としたリルは、そう答えた。とても潤人をからかっているようには見えない。
アズロットも、そう言っていた。
リルは、疾っくの昔に死んだ人間だ、と。
「冗談……じゃないよな?」
死んだはずのリルが今この瞬間、潤人と共にアパートの一室に居る理由としては、あまりにぶっ飛んでいた。
この島がいくら『I・S・S・O』の拠点であるとはいえ、“死者を蘇らせた”なんて話はさすがに聞いた例がない。
しかし、そのレベルの発想で以って考えれば、辻褄は合う。
何も無い闇の中で、“人ではない女の子”と話した後でなければ、とても信じる事は叶わなかっただろうが。
「今ここに居るリルは、幻でもないのか?」
首を刎ねられたリルの身体が消えていくのをはっきりと見た潤人が、自身の混乱を収めるには、情報が少な過ぎる。
(消えたはずのリルが、今ここに居るのはどうしてだ? ローズが、俺がリルの死を悲しんでいると考えて、良かれと思って幻でも見せているのか?)
(リルはあの時、俺の前から消えてしまったはずなんだ)
(これが、今この部屋に居ることもひっくるめて全部『幻術』だとは、とてもじゃないけど、考えられない)
(全部悪い夢だった、で説明がつくとも思えない)
知恵熱が出そうだ。
「私の存在は、“霊人”と言ってな、人間ではないんだ」
「すぴりっと?」
リルの言う、『霊人』という言葉に、潤人は聞き覚えがあった。
ついさっきだ。
ローズが口走っていた言葉だ。
「詳しく、説明してくれないか?」
リルは僅かに視線を落とし、目を閉じると、自身が抱える真実を、紡ぎ出した。苦い過去を思い出し、それに耐えているかのように。
「“霊人”とは、一度死んだ人間が、ごく稀に至る存在の事だ。“霊人”は、他者に憑依し、気想を吸い取って、己がエネルギーとすることで、その存在を維持し、“実体化”出来る。私が今潤人に触れているこの身体は、実体化で得た仮のもの。港であのアズロットという男に首を討たれたのも、実体化していた仮の身体だ。実体化を一度解いて、再構築すれば、何度でも消えたり、現われたり出来る――――」
そう言って、リルは目を閉じたまま、何かを念じるように押黙った。
そして次の瞬間、潤人の上で馬乗りになっていたリルの身体が、港の時と同じように、眩い光に包まれ、無数の粒子となって分散し、宙へと溶け込み――――音も無く消えた。
今までそこに居たリルが、感触も重みも残さずに。
「!?」
潤人がリルの姿を探し始めた途端、
「――――こんなふうに」
ベッドに横たわる潤人のすぐ横に、ぺたん座りをしたリルが音も無く現われた。
今度は、消える時とは逆。どこからともなく無数の光が集まって凝縮し、人の形を形成して、発光が収まると、そこにリルの姿があった。
「す、すごいな! 生まれて初めて見たぞ」
まだ取り乱し気味の潤人が、上体を起こしつつ率直な感想を述べると、
「……私が、恐いか?」
頭の高さが逆転し、上目遣いになったリルが、その細い眉を八の字にして聞いてきた。
リルの正体は、世間で言うところの、“幽霊”と似たようなものなのだろうが、恐怖などは微塵も感じなかった。
リルは、仲間想いの優しい女の子だ。
リルは、“仲間”と一緒に居る事を望んでいた。
その、今まで一緒だった“仲間”である潤人に、もし“恐い”などと言われれば、傷付いてしまうだろう。
リルはきっと、それを恐れている。
誰が、恐いものか。
「恐くなんかないよ。人間だろうが、霊人だろうが関係無い。リルはリルだ。俺の仲間だよ」
潤人にとって、リルの存在が無事だったという幸福は、ズタボロに朽ち果てていた心へ火を灯すに足るものだった。
「――――今まで黙っていて済まなかった。私の正体を知った時の皆の気持ちを聞くのが、どうしても恐かったのだ」
ほんの少し、眉を開いたリルは、その瞳を潤ませていた。
心が壊れかけ、故郷のトラウマを抱え、この島にやって来たリル。
少なくとも、自分達と一緒に過ごす間は、彼女の心も健やかでいられるだろう、と潤人は思っていた。
だがそれは、間違いだった。
今度は、“自分の正体を仲間に知られる事”が恐かったのだ。
“願って止まなかった、『王女』という隔たりの無い友情が、自分の正体が明るみに出た途端に、崩れてしまうかもしれない”
という懸念がリルの中で新たに生まれ、心を蝕んでいた。
島の結界の中とはいえ、『不幸粒子』の影響が全く無いわけではない。
「大丈夫。他の皆も、恐がったりなんかしない。でも、どうして――――」
過去にトラウマを抱え、思い出すのを恐れるリルに、“死んだ理由”など聞いてもよいものかと、途中で言葉を詰まらせる潤人。
「私が死んだ理由だな? 前に話した通り、王族としての世渡りが私の中で苦痛に変わったのが引き金だ。」
潤人の考えを察したリルは、世の少女達が憧れを抱くお姫様の概念を覆す、あまりにも暗く、辛い過去を、話し始めた。
「私はあの手この手で、そのストレスを和らげようとしていた。当時の私は、周りの皆が、私が普段するように、“偽りの仮面”で私と接し、本心は隠したまま、陰では私を疎ましく、また妬ましく思っているに違いないと考えていた。ちょうど、城の城壁を1人で散歩していた時に、ふと、“この城壁の上から下まで落ちて私が死んだら、皆は喜ぶのだろうか”という考えが浮かんで、軽い気持ちで、城壁の淵に立ってみたことがあったのだ。本当に飛び降りようなんて気は無かったが、既に心が疲れ果てていて、半ば放心していたのだと思う。その時、強風か何かに煽られて、私はそこから落ちたのだ――――」
「…………」
潤人は、何の言葉も掛ける事が出来ない。
リルの心は、ある日突然壊れてしまった。
リルが何か悪い事をしたわけではない。
望んでそうなったわけでも、以前から予期されていて、それに対して何の策も講じなかったわけでもない。
リルの優しすぎる心が、受け身な姿勢を創り、それが“神経質”に変わり、逆に仇を成したのだ。
如何に考えようが、原因も打開策も定まらない苦しみ。
一度壊れた心は、何のきっかけも無しに、たった1人では治せない。
他者の言動――――そのあらゆる部分が、自分へ向けられた刃だと錯覚してしまう、疑心暗鬼。
負の思考がループし、さらに壊れていく心。
毎日決められたスケジュールが流れる、在り来たりな日常では、その“きっかけ”すらも乏しい。
沈みゆく太陽を止めたいと思ったところで、何もしようがない。
それでもリルは、誰にも相談出来ず、1人で悩み、地獄に耐え続けた。戦い続けたのだ。
しかし、『不幸粒子』がそんな彼女に容赦をするはずがなく、リルは追い詰められ、無気力になり、心が放心し、その結果、最悪の事態を招いてしまった。
いや。
招いたのではない。“仕向けられた”のだ。
まさに慟哭。
負の極地に、彼女は追いやられてしまったのだ。
潤人は落胆した。“自分は普段から、どうして自分の事しか見て来られなかったのか”と。
潤人は気付かされた。“世の中には、生きたくても生きられなかった人が居るのだ”と。
潤人は再認識した。“生きるも地獄、死ぬも地獄。そんな状況で苦しみながら歩む者が、自分の他にも居るのだ”と。
考えればわかったはずの事なのに、目を背け、可哀相な己のみを見てきた。
潤人も、いつの間にか盲目になっていたのだ。
そうしている間に、世界では一体幾人の罪無き人間が、不条理に命を落としたことか。
「――――それから何日かが過ぎて、私達が初めて会ったあの日が来る。霊となって彷徨っていた私はあの日、誰かに見つかり、私が“霊人”という存在になったことを伝えられ、全てを納得して受け入れる覚悟が出来ないまま、さらにこう告げられたのだ。“実体化して、家出する王女を演じ、助けてくれる人を探して試し、憑依しろ。そうしなければ、いずれ心という名の気想を全て使いきり、消滅してしまう”と。そして、潤人と共に城外から連れ戻された私は、別れ際に、お前の中に憑依した」
あのウィンザー城で、リルは笑顔を絶やす事なく、退屈凌ぎの悪戯と見紛う陽気さで潤人に接してきたが、それも全て演技だった。建て前として無理矢理に身に付けた、偽りの表情だったのだ。
「だから、“家出した”という話は嘘だ。母上を含め、王室の一族は皆、私が『霊人』になった事を知らされていた。私達が出会った日、ウィンザー城に集まってな。あの日、城の外で私達を捕まえた衛兵も、リル・オブ・シャーロット・レスターの正体の事は事前に聞かされていた。I・S・S・Oの上層部も、レイラも、この事は以前から知っている。私がこの島に来ているのも、母上の承認あっての事だ。表向きは“社会勉強”のためという設定を演じるよう、レイラ達から言われていたので、潤人達には黙っているしかなかったが……」
「そんな事に、なってたのか……」
(一時は、家出した王女を匿ってしまった事に俺は慌てたけど、そうじゃなかったんだな)
「でも、それは今から1年前の話だろ? 憑依したって言ったけど、あの日から今までの1年間は、どこに居たんだ?」
潤人は、新たに浮かんだ疑問を尋ねる。
「レイラの計らいもあって、夜はお前の中に戻って気想を吸い、昼間は『本部』の『最深部』に籠って、ひたすら日本語の練習をしていた。私を見つけ、『霊人』の事を教えてくれた人物に、“指示があるまでの間は、『最深部』以外の場所では絶対に実体化するな。その代わりに、宿主とその身の安全は保障する”と言われていたのだ。潤人に何の断りも無しに憑依してしまった事もそうだが、今まで憑依していながら、一度も姿を見せずに、気想だけを拝借していた事を謝らせてくれ」
正座になったリルが、優美な姿勢で頭を下げる。
リルは、悲痛な気持ちを“仮面”で隠し、自分自身が消えてしまわないように、言われるがまま動くしかなかった。
その裏に隠れた心は、既にボロボロだったにも拘らず。
「……どうしてなんだよ」
不幸粒子の牙はローズに止まらず、リルをも喰らったのだ。
盲目になっていた自分自身への怒り、仲間を襲った不条理への怒りが、潤人の中から沸々とこみ上げる。
拳を強く握り締める潤人を見たリルが、“ビクッ”と萎縮してしまう。
「何でリルまで、そんなに不条理で、酷い目に遭わなくちゃならなかったんだ!? どういうわけがあって、『不幸粒子』は、立て続けにリルを狙うんだよ!」
この叫びは、今まで自分が自分のために抱いていた嘆きを、単に、他者に移し変えただけかもしれない。
それでも。
潤人は、自分とリルが、そしてローズが、理不尽な境遇で溜め込んできた、或いは溜め込まされてきた怒りを、抑え切れそうにない。
「リルの言う、その“誰か”は、リルが望むような、或いはそれに近い形で、リルを助けてはやれなかったのか? リルの状況を見て、一方的にものを言うだけだったのか? そいつは、何がしたかったんだよ!」
「落ち着くのだ潤人。港での事があったばかりだ。身体に響くかも」
「もしかして、アズロットか? あいつが黒幕なのか!?」
「それはわからない。でもあの男は、私の身に起こった事を自分の事のように嘆いて、そして励ましてくれた。だからきっと、悪い輩ではない」
「皆を傷つけて、リルに剣を向けた張本人だぞ!?」
「あれは、私のために、あの男が考えてやった事なのだ。それに、誰も殺されてなどいない。皆無事だと、由梨が言っていたぞ?」
「え!?」
(リルは今、何と言った?)
「み、皆、生きてるのか!?」
「うむ。今頃はきっと手当ても終わっているだろう」
生きている。
皆、生きている。
遠藤も、上平も、海に消えた寺之城も。
潤人の中で、大きな安堵と共に、怒りが収まっていく。
肩の荷が一気に降りたような気分だ。
「無事、なのか……よ、良かった」
リルの話では、あの港からここまでは、咲菜美がおんぶで運んでくれたらしい。
潤人はその事実を聞いて少々赤面した。
おんぶという術は、本来なら逆の立場で発動されるべきである。
後で運搬料として、咲菜美から何を請求されるか、新たな不安に遭遇する潤人。
「私は、潤人。お前にとても感謝しているのだぞ?」
そう言って、リルはほんの少しはにかむように笑う。
「――――え?」
「潤人はあの城で、自分が困っている中であっても、私を助けようと必死になってくれた。私をリードしてくれた。そんな潤人を見ている内に、胸が、いや、この場合は心か? とにかく、その、凄く熱くなって、潤人を応援出来るなら、“霊人”という自分の存在を認めて、受け入れてもいいと思えるようになったのだ」
「……感謝されるほどのことはしてないよ」
潤人は、リルの可愛らしい微笑みから、思わず目を逸らす。
自分の事しか考えられていなかった潤人は、自分に、リルと対等に目を合わせる権利があるとは思えなかった。
「今の私があるのは、潤人のおかげなのだ。でも――――」
リルは、どこか遠くを見るような眼差しを、その膝元に落とす。
「せっかく自分の存在の事は受け入れられても、私の正体をお前に明かす勇気は、なかなか出せなくてな。つい先日、実体化の指示を受けて、潤人の前に出られるようになってからも、“家出”の設定のまま、動けずに居た。それが、今度はアズロットのおかげで、吹っ切れたのだ」
「……あいつに、何か言われたのか?」
という潤人の問いに、
「うむ。あの男は私に、“逃げるな”と言った。そして、潤人と力を合わせて、困難を乗り越えろ、と――――」
リルは凛とした表情で頷いた。悲しみに染まった心が洗われているかのように、だんだんと表情が晴れてきていた。
「……もう、わけがわからないな。あいつは敵なのか? 違うのか? 攻撃してきたと思ったら、今度は励ますとか、一体、目的はなんだ?」
「あの男は敵ではない。何かの仕事で、この島に来ていると話していた。皆と戦ったのは、仕事を邪魔されたくないがための正当防衛というやつではないかと思う。だから、言い難いのだが、あの男には、怒りとか、恨みとか、抱かないでやってほしい……」
「いや、それでも――――」
(リルは、優し過ぎる)
と、潤人は思う。
(アズロットは悪い人じゃないとリルは言って、アイツを庇おうとしているけど、リルがされたことは、簡単には許しちゃいけないことなんだ。悪気がなくたって、本当なら死人が出ることをアイツはやったんだ。罰せられる必要がある)
まだだ。
まだ、この件は何一つ解決していないのだ。
アズロットがこの島に潜伏している以上、油断は出来ない。
港の戦闘を受けて、生徒会や『風紀団』は動いてくれているのだろうか。
潤人とリルだけでは、どう考えても解決出気そうにない。
今は下手に動き回るより、部屋で休んで、体力を養うべきだ。
そうすればリルも、安心して潤人の気想を吸える。
「――――あれ?」
その時、潤人の思考の流れに、何かがつっかえた。
リルの話では、『霊人』は憑依した宿主の気想を吸い取る事で、半永久的にその存在を維持出来るとの事だが、ここに、潤人が高校に進級してからずっと悩まされてきた謎の症状を当てはめると、どうだろうか。
潤人の気想の総量は、何の訓練も積んでいない一般人と比べても少ない。
潤人の気想の増幅が途中で止まってしまうというのは、それ以上無理矢理に気想を出すと、命をすり減らす事になるという、人間に元々本能的に備わる自己リミッターのような仕組みが関与しているためであるらしい。
何故潤人だけが、他の生徒達よりも早く燃料切れを起こすのか。
「――――そうか。そういうことだったのか」
至った持論に納得し、思わず声を漏らす潤人。
潤人の気想の総量が平均を下回るのは、リルに気想を分けていたからだ。
つまり、より一層修行に励めば、潤人でも成長出来るという事ではないか。“自分だけが劣っている”という考えは、ただの勘違いだったのだ。
「どうかしたのか?」
「いや、今から話す事を、リルが気にする必要なんて全然無いからな? その、俺の気想の量って、平均よりも少ないって話をしたと思うんだけど、その理由がわかったという……」
「――――あ」
リルも察したらしく、
「……済まない。その事で1つ、大事な話を伝えなければならないのだ」
と言って、その表情を曇らせた。
「大事な話?」
「うむ。これは最近になってわかった事なのだが、潤人の中には、私の他にもう1人、誰かが居る」
「……」
潤人は、リルの口から発せられた“誰か”というフレーズの心当たりをすぐに見つけた。
リルは恐らく、ローズの事を言っている。
「それってもしかして、銀髪の女の子か?」
「そうだ。潤人も、自分の中に潜む輩に気付いていたのか?」
少し驚いた様子で顔を上げ、リルは潤人の目を交互に見つめる。
「ああ。気付いたのは今日だ。初めは声だけが聴こえて、港で意識を失った時、真っ暗な中で初めてその姿を見たんだけど――――」
「今日か。確かに、今日は“彼女”の干渉力が一際強かったから、説明がつくな」
リルは何を知っているのだろうか。
レイラが潤人に、“ストレス性の暗示”と説いた“悪魔説”。
潤人が以前、“誰か”から聞いた“悪魔説”。
あの“記憶”は、レイラの言う自己暗示ではなく、事実なのか。
「リルは、俺の中に居る女の子が何者なのか、誰かから聞いてるのか?」
「いや、人から聞いたわけではない。霊的な存在になったわたしは、同じような存在の者が側に居れば、その“気配”を感じる事が出来るのだ。具体的に、どこの誰かまではわからないが、彼女の力は非常に悪質なモノであるのは確かだな」
どうやら、気想を感じ取り、それだけで善悪の判断がつくのは実際に起こり得る事らしい。
ローズと同じように、リルがそれをやってのけていたのだ。
「悪質に感じるのか?」
「うむ。“彼女”は潤人の身体を強く求めている。もしかすると、潤人がネガティブに物事を考えがちなのは、“彼女”の存在が影響しているのかも」
「……」
やはり、リルもローズに対して、悪いイメージしか持っていないようだ。
「以前、“彼女”の気配を感じなかったのは、何らかの因果で、“彼女”がその力を完全には発揮できていなかったからだと思う。それが最近になって、急激に力を出し始めてきた。潤人と私が港で意識を失ったのは、“彼女”の力が、これまでで一番強く現われたからだと思う」
潤人は港の戦いでローズの求めに応じた。しかし、恐らく満身創痍に陥ってまともに気想術へ集中出来なかった事が災いして意識を失ってしまったが、今はこうしてほぼ無傷で生存出来ている。もしあの時、ローズを拒み続けていれば、アズロットにやられていてもおかしくはなかった。
万全の状態で、且つローズと理解し合えていれば、今のように、制御装置である剣を出現させて、もっと善戦出来たかもしれない。
ローズの呼びかけで初めて、失った意識が僅かに戻り、“自身が闇の中に居る”という認識を引き金に思考を彷徨わせ、自室で目覚めるに至った。
確かに、『滅びの力』というくらいなのだから、敵味方関係なく、物事を何でも彼んでも悪い事象へ運ぼうとする効力がある事と、その危険性は認めざるを得ないが、
「俺、港で気を失って眠っている間に、その女の子と話をしたよ。名前はローズって言うんだ」
“彼女”と互いを理解し、共に戦うと約束したのも事実だ。
この、潤人達しか知らない事実をリルに伝えて、誤解を解いてもらう必要がある。
「会話をしたのか!? ローズは一体何者なのだ?」
「“天の遣い”がこの世界にもたらした6つの力の1つだって言ってたな。スケールがバカでかいけど、何の気想術も使えないはずの俺に悪質な気想が備わっているのはそれで説明がつく。“彼女”は人の姿をしてるけど、人じゃない。“聖霊”って言うらしいんだ。昔から、いろんな人に取り憑いてきたって話してたから、リルに似た存在って事になるんじゃないかと思う」
気配はしているのに、姿が見えないのはそのせいか、と、リルは納得した様子で小さく頷いた。
「潤人が握っていた黒い物も、ローズの力によるものなのか?」
リルも先ほどから、潤人が床にそっと寝かせていた黒い剣の事が気になっていたようで、潤人にそう尋ねた。
「ああ。ローズの力を扱うのに必要な制御装置だな」
「その“聖霊”とやらは、そんな事が出来るのか!」
「ローズは、自分以外にも、聖霊があと5人居るって言ってたな。つまり、この剣と似たようなのが他に5本あるって事。計6本の剣が、世界の安定を担ってるって話だ」
「何だか御伽噺みたいになってきたな」
「それと、ローズはリルが感じてイメージしているような悪者でもない。自分の力の性質は、滅びを司る『魔術』だから、周りの人間から『悪魔』と呼ばれても仕方が無いと言って、悲しんでた。ローズは、何も好きで悪影響を与えているわけじゃないんだよ」
潤人の説明を受けるリルの目が、僅かに見開かれる。
「彼女が、そう言っていたのか?」
「ああ。初めは俺に、自分を滅ぼしてくれって頼んできたくらいだからな。本来は世界の秩序を守るためにもたらされた力なのに、宿主を助けるどころか、必要以上に“滅び”を振りまいて、大勢の人を傷つけてしまった過去をあの子は抱えていて、酷く疲れた様子だった」
リルの、ローズに対する考えが和らいでくれる事を信じて、潤人は続けた。
今まで悪魔だと誤解していたものの正体は、“リルという霊人と、ローズという聖霊の、2つの存在”だったこと。
対話をする内に、お互いの真意が見え、理解し合えたこと。
自分が、ローズを完全に受け入れたこと。
生きて共に戦い、“罪”以上の“救い”を世界に返すと決めたこと。
「――――そうだったのだな」
潤人が話す間、リルは口を挟む事なく、最後まで聞いてくれた。
「信じてくれるか?」
「うむ。潤人がそう言うのならば、信じる」
「ありがとうな」
少しでも感謝の意を伝えたい潤人がリルの目をじっと見つめつつ言うと、
「いや、その、私もローズの事を“悪”だと決め付けて悪かったというか――――」
「リルは、優しいよな」
「――――!」
潤人にそう言われ、その可愛らしい小顔を急激に赤面させたリルは何も言えぬまま俯き、所々噛みながら今後の話を始めた。
「こ、ここ今後の事だが、く、詳しい情報を握っていそうなレイラに、この状況を説明して、たちゅけてもらうというのはどうだ?」
「そうだな。明日、2人で学校に行こう。そこで生徒会長に会って、知っている事を全部話してもらおう。俺たちだけじゃ、いくら考えても、推測して不安になる事しか出来ない」
と言う潤人だが、外に出たら出たで、どこかでこちらを狙っているかもわからないアズロットに警戒しながら進まなければならない。
考えれば考えるほど、恐怖や懸念が生まれてしまう。
(ここは気持ちを切り替えて、別の事を考えるのも手ではなかろうか)
潤人には他にも、疑問や考えなければならない事がたくさんあるので、思いつく順に処理していく事にする。
まず、リルの過去に度々出てきていた“誰か”とは、一体何者だろうか。
リルは『霊人』だ。“実体化”しない限り、目には見えない。
しかし、リルは“誰か”に見つかったと言った。
目には見えないはずのリルを察知した、その“誰か”。
母親である女王陛下の事だろうか。
そもそも、人間だろうか。
『霊人』という、人でない者の存在を知った潤人は、同時に疑いの幅も広がっていた。
リルだけではない。寺之城も、小隊の『依頼』の件で、“誰か”に話を持ちかけられたと言っていた。
潤人も、1年前の春に、“誰か”から『悪魔』の事を告げられている。
共通点は、皆が記憶の中に“誰か”という不明の人物を抱えているという事だ。
「ッ!?」
まただ。
ここでも、偏頭痛が襲ってきた。
「――――ちくしょう!」
激しさを増していく頭痛の中、懸命に思い出そうとする潤人の脳裏に、“誰か”のシルエットが、僅かに蘇る。
朝陽のような眩い光の中に立つ、1人の男。
(一体、何なんだよ。アンタは一体、何が狙いなんだ?)
細身に引き締まった肉体。背丈は潤人より高く、寺之城と同じか、彼より少し低いくらいだ。
それ以外の特徴は、見えなかった。
(――――誰だ? 今のは?)
全く心当たりの無いシルエットだった。
遠藤はもっとがっしりしているし、上平はもっと真ん丸い。
アズロットのような巨漢でもない。
(何かを思い出そうとする度に頭痛がするのは勘弁願いたいものだな)
偏頭痛の事も、もう一度生徒会長に相談するべきだ。
今度は、潤人だけでなく、寺之城達にも似たような症状がある事も話そう。
皆が共通して抱えている“偏頭痛”は、放っておけるものではない。
「どうしたのだ? 急に顔色が悪くなったぞ?」
リルがじっと見つめてくるので、潤人は気まずさから目を逸らした。
「――――大丈夫だ。ところで、以前リルに指示を出した誰かって、思い出せるか?」
リルの記憶にある“誰か”と、潤人の記憶に出てくる“誰か”が同一人物であるかどうか審議するには、わかっている情報が足りないものの、リルも潤人と同じような“記憶障害”を抱えているとすれば、全く無関係であるとは言い切れない。
「済まない。いくら考えても、思い出せない。頭が痛くなるのだ」
リルも、潤人達と同じ症状という事は、仮にこの記憶障害が何者かの術によるものだとすると、やはり、術者が同一の可能性を考慮するべきだ。
だが、仮に術師の術によるものだとして、そんな能力を持つ術が果たして存在するのだろうか。
中学から今まで4年以上の間、潤人達訓練生は気想術に関する知識を学んできたので、組織が認識している気想術に、どんな能力のものが存在するのか、ある程度は分かる。
ところが、件の“他者の記憶の一部を抹消し、想起を妨害する”という術は、思い当たらないのだ。
それも、複数の人間を同時になど、並の素質と努力で叶う術ではない。
とはいえ、潤人の勉強不足と言えばそれまでではある。
現に、組織が『禁術』と定めた術(主に『魔術』全般)については、訓練生は一切の情報収集及び関与を禁じられているからだ。
「俺も、記憶の一部が飛んでて、思い出そうとすると、それを邪魔するみたいに、頭痛がするんだよな。聞いた話だと、寺之城先輩もらしい」
「そうなのか? 皆して記憶の一部分が無いという事か。なんだか、気味が悪いな」
(これもアズロットの仕業なのか?)
と、潤人は考えたが、潤人自身の記憶障害はアズロットがこの島に来る以前から始まっていた事を思い出し、明確な根拠は得られなかった。
「もしかして、皆俺の側に居るから、俺の症状がうつっちまったのかな? 風邪みたいに……」
潤人は冗談交じりに自分の境遇を皮肉る。
潤人は何かと不幸な目に遭う男だ。大概は、原因すらわからない、不意打ちみたいな災難だ。そのとばっちりが、周囲の人間にも害を及ぼしている可能性も、ゼロとは言い切れない。
「港でも、俺、リルを恐がらせる大本をやっつけようとして出て行ったのに、寺之城先輩のお荷物みたいになっちゃったし……色々ごめんな」
「潤人が謝ることなど、何もない」
リルは、本当に仲間想いだ。
これまでの潤人は、そんな彼女の心情を考えるどころか、自身の災難を嘆き、それだけを恐れ、本当の意味で、リルを守れてはいなかった。
その潤人の“弱さ”が、リルに刃が及ぶ結果を招いてしまったとも言える。
「いや。俺は、リルに謝らなくちゃいけないことがあるんだ」
潤人は意を決した。
リルは、自分が嫌われてしまうかもしれないという恐れを乗り越えて、潤人に自分の正体を打ち明けた。それは、潤人に本当の意味で受け入れてもらい、これからも友達でいたいという想いからだ。
ならば潤人も、偽りの無い、仮面を取り払った素の自分を打ち明けるべきだろう。
ローズにも、『一緒に戦う』と宣言したのだ。
リルの正面で正座し、姿勢を正し――――。
自分のこれまでの心情を、自分という人間の正体を、全て打ち明ける。
そうする事で、リルに失望される可能性があるとしても。
リルと同じ境遇を経験する事で、例え僅かでも、互いの理解が深まる事に繋がれば、と。
全てを話したうえで、罪を謝り、次こそは、リルを守るのだ。
きっとローズも、潤人と和解した事で、同じ境遇に立ったはずだ。
「……?」
リルは物言わず、潤人の言葉を待っている。
「俺は今まで、自分自身から、ずっと目を背けてきた。逃げてきたんだ」
自分の正体を認め、受け入れ、それでも望みを捨てずに一歩を踏み出し、この島までやって来たリル。その心の、なんと強い事か。
「俺の任務はリルの身の安全を守ることだ。でも俺は、自分の身が一番大事で、リルが傷つく事よりも、自分が傷つく事のほうが恐かった。失敗が恐かった。災難が恐かった。努力を裏切られるのが恐かった」
潤人は己の内にある真意を、言葉を探しながら、少しずつ紡ぐ。
「でも、リル達と基地に居た時に、それじゃいけないって思ってさ。自分と戦って、変わろうとしたんだよ。だけど、その時はそう意気込んでも、それまで自分がしてきた行いのツケが、許してくれなかった。昔は頑張ってた修行を、最近は“どうせ無駄だ”って考えて、手を抜いていたから、港の戦いでそれが諸に出た。そのせいで、リルを助ける事も出来なくて、全部打ち砕かれて、その途端に何もかもどうでもよくなって、心が折れて、残ったのは、理不尽な世界への憎しみだけだった。結局俺は最後の最後で自分に負けて、自分の事だけしか考えられなかった――――」
いつの間にかぼやけた視界の中、膝の上できつく握った拳に、滴が落ちた。
「――――俺は、本当の俺は、臆病で、自分勝手で、最低な、弱い男なんだ」
全て紡ぎ、言い切った。
自分の“弱さ”を。
(さあ、寿潤人)
潤人は必死に息を殺し、漏れ出しそうになる嗚咽を呑み込む。
楽になろうとする自分を、逃がすまいとするかのように。
(次は、粛清の言葉を全て聞き入れる番だ)
「――――それは違う」
というリルの言葉に、潤人は――――。
(俯くな、俺よ)
(前を向くんだ)
(リルの目を見て、その言葉をしっかり聞くんだ!)
きつく口を結び、顔を上げて、リルの目を真っ直ぐに見つめた。
どんな罵声も受け入れ、胸に刻もうと、心で踏ん張るのだ。
「潤人は、本当の潤人を忘れているだけだ」
ところが、リルの口から出た言葉は、潤人が覚悟を決めて待っていたものとは違っていた。
「潤人が抱いて、口にした汚点は、自分だけのものだと思っているのかもしれないが、私はそうは思わない。私だって、逃げ出したいと思った事は何度もあるし、実際に逃げた事だってある。だからあの過去があるのだ。その時は、他人の事など見もしないし、考えない。自分の事で限界だからだ。潤人がしてきた、“自分自身を守るためだけの思考と行動”は、確かによくない。でもそれは少なからず、誰もが抱く感情だと思うのだ。中にはそれを、悪い事とも思わない人間も居る。人は、独りぼっちだと、その強さに限界があるのだと思う。追い詰められれば誰だって、潤人と同じ恐れを抱き、同じ行動を取るだろう。そして大概、それらの行為が何の変哲も無い日常の、ほんの小さな事で何気なく使われ、特別意識する事も無く、皆見てみぬ振りをし、口外されることもない。その方が無難で、平穏だからな。それに比べれば、自分のしてきた事に対して、自分で後悔出来る潤人は立派だぞ。潤人は正直者で、むしろ自白した事を、己で讃えるべきだ。」
「――――皆、同じだって?」
潤人は、潤んでいた目を擦る。
「失敗をしたことの無い人間が居なければ、失敗を全く恐れない人間も居ない。たまたま失敗が何度も続けば、自信を無くしたり、逃げたくなったりもする。お前は、何もかもどうでもよくなって、最後に自分に負けたと言ったが、本当に、心の底からそう思ったのか? 精一杯の力を尽くして、限界を超えてしまっていただけではないのか? 『不幸粒子』に邪魔されて、それを後付けで、“自分の心は弱いんだ”と、自分で卑下しているだけではないのか?」
潤人の中で一度、一際強く、心の臓が脈を打ったような気がした。
「それは――――」
潤人は思い返す。苦しみ、枯れる事を知らない紅の涙を流し、嘆いていた“彼女”の言葉を。そして、港での自分を。
あの時の潤人は、自分の奮闘を容赦なく打ちのめす、度重なる負の事象で心身共に疲れ果て、止めと言わんばかりに、目の前でリルの首を刎ねられ、直後、意識が闇に包まれた。記憶はそこで途切れているが、“心の底から諦めたのか?”と聞かれると、たった今自分で言い切った事であるにも拘らず、自信が持てない。
無理だと思った。
だが、奮起して立ち向かいもした。
どうでもいい、とも思った。
しかし、それはとても悲しく、悔しかった。
とにかく嫌で、恐かったのは確かなのだ。しかしその対象は、個ではない。故に正確には、自分が傷つくのが恐かったのか、努力が水の泡になるのが恐かったのか、仲間が傷つくのが恐かったのか、仲間に失望されるのが恐かったのか、何が恐かったのか、断定が出来ない。
つまりそれは、リルが言った“後付け”という指摘が的を射ている事を意味した。
「――――なんとも言えない」
「“己を見つめ、悔い改めよ”十字教では、そう教えられ、それが“正義”として受け入れられる。潤人は本当に正直で、優しい男なのだな。私はわかったぞ」
リルの片手が持ち上がり、潤人の頭を撫でた。
「リルは俺を、許してくれるのか?」
恐る恐る、聞いてみる。
「うむ。許す! 以前から、潤人は素直なやつだと思っていたが、純粋な心を持つ男だと、改めてわかって、私は嬉しいぞ。やはり、近衛騎士としてふさわしいというものだ!」
リルは微笑んだ。
“嬉しい”と。
潤人の鼓動の高鳴りも、恐れ多くも、まさにそれだった。
許しをもらえた事は、ありがたく、嬉しく、そして温かいものだった。
きっとローズも、潤人との対話で同じように、許しと救いを感じたのだろう。
それが潤人の中で、新たな“兆し”に変わる。
「俺は、汚名を挽回するチャンスをもらっても、いいのか?」
「うむ。潤人が自分の事に危機感を感じて、あれこれ改善しようと思案するのは、潤人が“正義”である何よりの証拠だ。正義はどうあっても正義なのだ!」
リルは潤人に対して、何の嫌悪感も抱いていなかった。それどころか、さっきよりも表情が明るくなっているように見える。
「……ありがとう」
リルの想いに恥じることの無いよう、今度こそ任務を全うする。
潤人はそう胸に誓い、日本人として、リルに引けを取らぬよう、姿勢を正し、深く頭を下げてお辞儀をした。
「おお! それが、“DOGEZA”という作法か!」
潤人は感涙に噎ぶ思いで、大真面目に、懇切丁寧にお辞儀をしていたのだが、リルがしてくれた解釈は想像の斜め上だった。
「……どこで誰に聞いたんだその日本語」
「うーん……レイラだったはずだ」
「あまり人前では言わないでくれよ? 土下座ってのは、容易く口に出来るほど軽々しいものじゃないんだ」
真剣な気持ちで丁寧なお辞儀をしたのであって、両手は膝の上だし、床に額がつくほどには頭を下げていない潤人だが、とりあえず今のは土下座だという事にしておく。
それにしても、我らが生徒会長はもう日本に居て長いのだから、日本語のレクチャーくらいしっかりやって欲しいものだ。リルのこの独特な口調は何なのかと問いたい所である。
「そういうものなのだな。わかった」
リルは僅かにその微笑みを緩め、真剣な眼差しで潤人を真っ直ぐに見つめてきた。今のリルの愛らしい顔は、どこか一皮向けたような、大人びた雰囲気を秘めているように見えた。
「私も潤人も、お互いの事を理解し合えた。これは凄く幸せな事だ」
「そうだな」
リルの言葉に、潤人も異論は無い。
リルは、自分の事を“正義”と言ってくれた。
己の事しか考えず、恐怖と災難の重圧に耐えられなかった潤人を。
自分自身の行いを悔やみ、反省はしたものの、まだ何も解決出来ていない潤人を、リルは許してくれたのだ。
潤人はいつからか、結果が全てだと思っていた。
潤人が忘れてしまっていたもの。それが今――――リルが、結果を出せていない潤人を許した事で、蘇りつつあった。
潤人本人はまだ気付いてはいないが、リルの“優しさ”は、潤人に心臓マッサージのような刺激をもたらしていた。
(リルは“優しさ”をくれた。それに報いるために、リルを、命に換えても守り抜くと決意を固めたは良いが、具体的な思考も、実働もまだだ)
(もっと、考えなければ)
(脳細胞をフル動員しろ)
出来るか否かと不安に駆られるのは、きっと間違いだろう。
取り柄が無いから、自信が無いから、不幸だから。
もう、散々に、嘆くだけ嘆いた。
これから必要なのは、嘆きではない、別の何かだ。
「潤人。これからも、私の友達で居てくれるか?」
「そんな当然の事、聞くことないよ」
「私の相談とかにも乗ってくれるか?」
「俺なんかで良ければ、いつでも」
「あ、もちろん、私も潤人の相談に乗るぞ!」
リルは潤人に、自分が“己の事しか考えない人間である”という誤解はして欲しくないと、あたふたした様子でそう付け加える。
「約束する」
潤人はリルが安心する事に繋がればと、胸の内を伝えた。
「私も、約束する」
リルはコクりと頷いた。
「……」
「……」
目覚まし時計の秒針音が、部屋の中を徘徊する。
潤人はこの秒針音が生み出す“雰囲気”に覚えがあった。
遠い意識のまま、何度も繰り返し、それが日常になっていた。
学校から戻る度、白い照明が照らす静寂の室内を、ぼんやりとした目で見回した時に、まるで虚しさを強調するかのように、決まって耳に響いてきた音だ。
部屋の中で独り、不条理に追い詰められた心を己で更に追い詰め、暗闇に包み込まれた日々。
無気力に身体を埋めていた日々。
希望も、安心も、意欲も無い。
ふと願いを想像し、念じてみても、何も起こらない。
照明がじりじりと照らす室内で、ただひたすらに、時が刻まれていくだけの空間。
孤独の空間。
空虚の世界。
自分以外に誰も居ない、誰も助けてはくれない現実。
この部屋は、ほんの数日前は、そんな世界だったのだ。
でも、今は違った。
潤人はもう、1人ではない。
すぐ側に、リルが居てくれる。
同じ空間。手を伸ばせば届く距離に、理解者が居てくれる。
命に代えても守りたい、大切な仲間が居る。
(……き、気まずい。どうしよう)
つい物思いに耽ってしまったせいで、妙な沈黙が流れている事に気付き、潤人の心拍数は上昇を始める。
「――――俺から離れたらまずい事とかはあるのか? 去年から今までは、俺の家と本部とを行き来してたって話だけど」
ふと気になった事を、咄嗟に尋ねる潤人。
「それはまだわからんな。試した事が無い。レイラから聞いた話では、一定のエリア内にお互いが居ないといけないらしいが――――」
「なるほどな。でも、ここから本部まで離れて平気なら、この島の中でなら粗方大丈夫なんじゃないか? 今度暇な時にでも、島の端と端に分かれて試してもいいけど」
「レイラによると、互いの距離が離れすぎた場合、私がその存在を保てなくなって、強制的に霊体に戻ってしまうらしい。また実体化するには、潤人の中へ戻って気想を吸わなければならないのだそうだ」
「あの人、裏の事情を色々隠してるな。大分前から騙されてたよ俺。俺に憑依したリルの経過を見るとか、実体化の有効範囲を探るみたいな、ちょっとした実験をやったりさ。どういう思惑が絡んでやってる事なのかまだわからないから、何も言えないけど……」
レイラは当初、潤人が他の人と比べて気想の量が少なく、災難ばかりに遭う病――――即ち『悪魔』の件を相談した際に、『ストレス性のものです』と言っていた。
彼女は初めから真実を隠して動いていたと見ていいだろう。
どこが“ストレス性のもの”だというのか。
恐いお姉さんである。酷いお姉さんである。
何故、潤人がこんな扱いを受けるのか、その理由は、いずれ彼女に話してもらわねばなるまい。
「とりあえず、そういう、ゲームにありそうなシステムが備わっているわけね。これなら、リルが今後もし本当に誰かに襲われてどこかに誘拐されても、“霊体化”すれば、それこそ浮遊霊的な移動手段で俺の所まで戻って来られるから安心って事か?」
「いや安心ではないだろう。一応誘拐なのだぞ? 恐いぞ。助けて欲しい」
女の子は、『霊人』になっても女の子。
守ってあげなければ。
「ごめん。それもそうだよな。護衛の仕事だ」
潤人は“仕事”というフレーズから、新たな議題を見出した。
「そういえば、アズロットはあの港で、仕事があってこの島に来たと言っていたけど、仕事ってまさか、王女リルの抹殺とかか? アイツは、リルの正体を知らない、且つ英国に恨みを持ってる奴から頼まれてここまで来たとか……」
「そう考えると、彼が私の首を刎ねた理由にはなるが、私はそうは思えないぞ」
リルは、潤人の仮説とは違う考えのようだ。
「でも、あの男は大きな剣を持っていたから、戦いに関係のある仕事なのかもしれん。潤人が疑うのも当然ではあるが……」
「どうにかして、アイツを捕まえて、目的とか、協力者は居るのかとか、知っていることを全部聞き出さないと、謎は謎のままだな――――」
潤人はふと気になった事――――時刻を確認する。
深夜3時半を少し回った所だった。
「ところでリル。リルは、俺が眠っている間も、ずっと意識はあったのか?」
「いや、ずっとではない。私の気想の残量が限界に達すると、携帯電話よろしく、私も意識が飛ぶからだ。意識が飛ぶと、気想を吸収して回復するまでは目覚めない。潤人が近い範囲に居れば、実体化したままでも眠ったような状態で気想を吸う事が出来る。咲菜美が潤人をここまで運んでくれたあとは、潤人の看病をするためにしばらく実体化してはいたが、気想の限界が近づいたので、以降は私も潤人の側で眠っていた。彼此、8時間以上前になるな。咲菜美が潤人をここに残して去っていったのは」
「こんな時間だもんな。その間、何がどうなったのかを知りたい。今後の行動を決めるためにも、情報を集めないと」
潤人の中で、小さな焦りが生じる。
ローズと話をしたのは、僅かな間のはずだ。
港での戦闘から8時間以上も経過してしまっているとは思わなかった。
その間に、この島はどうなったのか。
自分達はどうするべきなのか。
(考えろ俺。考えるんだ!)
真っ暗な部屋。聴こえるのは、リルの小さな息遣いと、時計の秒針の音。
明かりはこのまま点けないほうが、この部屋の“無人”を演出出来て良いかもしれない。
「咲菜美は、今どこに居るんだろう?」
潤人はおもむろに携帯を手に取り、幼馴染の電話番号を入力する。
…………。
…………。
どういうわけか、ノイズだらけで全く通じない。
『アジト』に居る時に起こった通信障害と同じだ。
「……ここもかよ!」
「また、通信がダメなのか?」
「ああ。原因はなんとも言えないけど、とにかく連絡手段が無い」
これでは、もしもの時に助けを呼ぶ事も出来ない。
状況――――孤立無援。
せめて風紀団か生徒会長に、自分達の身に起こった事を報告したいのだが。
(このアパートの連中に助けを求めるにしても、皆の携帯も圏外だろうし、せめて“念話”とかが使える優秀な人が近所に居てくれれば、夜中とはいえ、駆け込んだところなんだけど――――)
この男子寮の野郎共は、サポート系の上平を除くと、どいつもこいつも、気想術に疎いのだ。そしてその上平も、更に遠藤も、今は医療院に居る。
まさに八方塞がりな状況に、潤人は呻いた。
その時だ。
玄関から、何かの物音がした。
「ッ!?」
咄嗟にリルの口元を覆い、自分の口に人差し指を当てて、“静かに”と合図を送った潤人はそっと立ち上がると、台所のフライパンを手に取り、フローリングの軋みに注意を払いつつ、玄関へと近づく。
聴こえてくるのはどうやら、ドアノブを回したり、鍵穴に何かを挿し入れる物音らしい。
別名、強盗。
別名、不法侵入。
犯罪の音だ。
「ッ!」
強盗か、リルを狙う敵か、備わる覗き穴からドアの向こうを見る勇気の無い潤人は、相手がアズロットでない事を祈るしかない。
潤人はブワッと噴き出す額の汗を手の甲で払い、呼吸を整え、フライパンを右手に構える。
そして、相手を誘い込むべく、左手でドアロックを、敢えて解除した。
すると、ゆっくりとドアノブが回り、徐々にドアが開かれていく。
「……」
フライパンを両手で構え直す潤人は、それを大上段に振りかぶり――――。
物音を立てず、サッと玄関に侵入してきた影を、思いっきりぶっ叩いた。
「アべしッ!?」
暗闇での不意打ちで、フライパンを額に諸に喰らった人物は、漫画のような悲鳴を漏らして昏倒した。
ほぼ同時に玄関のドアが閉まり、静寂が戻ってきた。
「やったぞ!」
そう零して、潤人は玄関の明かりを灯し、倒した相手を確認する。
寺之城だった。
「……」
潤人は、寺之城をやっつけた。
『――――もう、潤人ったら、せっかく貴方の剣が側にあるのに』
ようやく口を開いたローズの嘆息が、潤人にだけ聴こえた。
「すみませんでした! ほんとにすみませんでした!」
リルよ、これこそジャパニーズ“DOGEZA”だ、と言わんばかりに、土下座を連打する潤人。
「顔を上げたまえ寿君。こんな状況なのだ。ボクももう少し入り方を考えるべきだったよ。まぁ、わけあって物音を立てたくなかったから、静かに入る方法を考えてはいたがね」
と、寺之城はリルが絞った濡れタオルを、徐に、その額に巻かれた包帯の上から宛がって苦笑を浮かべる。
寺之城は潤人の部屋に来たとき既に、額に包帯を巻いていた。怪我の手当てが済んでいたのだろうが、潤人はそこを殴ってしまったので心配だったのだ。
ちなみに、“剣”は寺之城には見せない事にした。ローズの話では、剣自体も具現化と消失が可能で、普段使わない際は消しておく方が『幸福粒子』の維持には縁起が良いらしく、使う時が来るまでは剣を消しておくべきだと判断した潤人が、ローズにそう頼んだ次第である。
「寺之城、怪我は大丈夫なのか? 搬送されたと聞いたぞ?」
潤人の隣に座ったリルの質問で、寺之城はその表情を引き締めた。
「怪我は平気なんだが、ボクは2人に話があって、医療院を抜け出して来たんだ。いや、逃げてきた、と言った方が正しいな。この部屋にコソコソ入ろうとしたのも、追っ手が居た場合に、こちらの位置を気取られないようにするためだったのだよ」
海に沈んだ寺之城は、あの後港に駆けつけた増援部隊によって、他の隊員と共に無事に救助され、新大島東高校の敷地内で管理されている医療院へと運ばれたそうなのだが、治療中であるはずの彼が突如潤人のアパートを訪れたのは、何故か。
“逃げてきた”とは。
「一体、何があったんですか?」
寺之城のただならぬ雰囲気に、潤人も気持ちを切り替える。
「少し長くなるが、全て話す。が、その前に――――」
寺之城は立ち上がると、足早に窓へと近づき、閉め切られたカーテンの隙間から外の様子を伺う。
「寿君、玄関の鍵は閉めているかね?」
「はい。さっき閉め直しましたけど?」
「よろしい。これで気休めは出来た。今から話す事を、落ち着いて聞いてくれ」
寺之城はそうつぶやいて、潤人の正面に座り直し、
「――――寿君、敵の狙いは、君だ」
そう切り出した。
「え?」
今の寺之城は真剣な表情だ。厨2病全開には見えない。
「それは、本気で言ってます?」
「無論だ。ボクもこの展開には驚いたがね」
潤人はリルと、互いの引きつった顔を見合わせる。
寺之城による“ドッキリ大成功”の宣言はまだか。
まだか。
「な、なんで俺!? 狙われてるって、誰に!?」
「――――恐らくはあの男だ。だが、あの男を差し向けたのは、レイラだ」
寺之城の言葉は、潤人の予想だにしないものだった。
「何を、言ってるんですか? 生徒会長が?」
「レイラは、私の面倒を見てくれていた。だから彼女の事はよく知っている。彼女はワルモノなどではないぞ?」
潤人とリルの反論を、小隊長は片手で制す。
「戸惑うのも無理はないが、事実だ。ボクはさっき、レイラに会ったのだよ」
と、小隊長はその身に起きた事を話し始める。
「ボクは医療院に運ばれ、そこの病室で一度目を覚ました。今から4時間ほど前の事だ。その時、部屋には彼女が居たのだ――――」
『もう目が覚めていたのですね、寺之城君』
『――――レイラ会長ではないか! ここはどこだ!?』
『東高校の医療院です』
『港はどうなった!? 寿君はどこだ!?』
『寿君は幸いにも軽症で済んだので、もうアパートに帰しました』
『無事なのだな!? ヤツは!? あの男はどうなった!?』
『私が応戦しましたが、取り逃がしてしまいました。現在も島のどこかに潜伏しているので、私の部隊に捜索させています』
『君が助けに来てくれたのか?』
『正確には、私ではありません。私が侵入者と対峙している隙に、他の部隊が海に落ちた貴方達を救助したのです』
『――――あの港に居た生徒達は全員無事なのか?』
『ええ。全員をあの場所から救助しました。今は皆、貴方と同じように、ここで手当てを受け、安静にしている所です』
『そうか。済まなかったな。礼を言わせてくれ』
『お礼には及びません。身体の具合はどうですか?』
『怪我といっても、打撲が数箇所と、いつ切ったのかも分からない額の裂傷だけだ。大したことは無い。救助に当たってくれたのは誰か教えてくれないか? ご丁寧に、ボクの眼鏡まで回収してくれたのだよ。後でその人にも礼を言いたい』
『救助に当たったのは116小隊なので、後で名簿を渡します――――私が居ながら、こんな事に巻き込んでしまってごめんなさい』
『君1人が自責の念に駆られる必要は無かろう。こんな事は皆初めてだ』
『……優しいのですね』
『紳士は皆そうさ。ところで、島の警戒レベルはいくつになっているのかね? ヤツの狙いは、もしかしたらリル君かもしれないぞ? 彼女の立場上、身柄を狙われる理由は十分にあるからな。寿君をアパートに帰したのなら、きっとリル君と合流するはずだ。2人きりにしておくのは、まずいのではないか?』
『……警戒レベルは上げていません』
『――――? 何故だ?』
『今回の件は、あまり大勢の人に知られるわけにはいかないのです。ですから、港での出来事も、東高校の一部の生徒達で、秘密裏に処理させています』
『――――これまた、何故だ?』
『侵入者の件については、上層部から私に特例任務が与えられているのですよ。今はお話出来ませんが――――』
『まさか、君1人で対応するつもりなのか?』
『そうです。手は出さないで頂きたいのです』
『そんな! 上の連中は何を考えているんだね? あれほどの戦闘があって、他校の生徒会長が勘付かない筈がない。きっと彼らからも、同じ事を問われるぞ?』
『“四天王”には、事前にこの事は話してありましたし、緊急総会で再度説得済みです。確かに、多少の不服は出ましたが』
『馬鹿な! 止めるんだ! ヤツは、あの侵入者は、ボク達の想像を遥かに超える力を持っている。いくら“東の猛剣”と謳われる君と言えど、単独では危険だ!』
『それは、私があの男と戦えばの話です』
『――――どういう事だ?』
『彼は――――アズロットは、敵ではありません』
『……攻撃を仕掛けてきた相手だぞ? 何故そう言い切れるんだ?』
『彼が攻撃を仕掛けたのではありません。初撃を放ったのは我々で、彼は正当防衛をしたに過ぎません。全ては寿君のためです。私達は彼を、全力で抑えなければならないのです』
『何故そこで寿君が出てくるんだ!? あのアズロットと名乗った男の狙いは、寿君だというのか!?』
『その質問に対する答えは“イエス”であり、“ノー”でもあります。ですが、アズロットに寿君を狙うよう仕向けたのは、私です』
『――――なんだと!?』
『全て、私がアズロットに依頼した事。港での事もそうです。部隊を予め配置に就かせ、彼との戦いを仕組んだのも私です。彼には、“リハビリ”が必要でした。そして、この島の生徒達には“実戦経験”が。少々荒療治でしたが、必要な2つのものを、あの港で得られたわけです』
『それは、真実なのか? レイラ』
『はい』
『……教えてくれ、友よ。君は、自分の後輩を、仲間を、どう思っているのかね?』
『……私は、この島では皆の指揮を執る立場にあります。その務めを果たすためなら、手段に制限は設けないつもりでいます。“不幸粒子”に抗い、抑制する大義を脅かす者は、例え誰であっても容赦はしません』
『ボクは108小隊の小隊長だ。スケールは違えども、仲間を率いるという立場は同じ。だからボクは、君の考えにも理解を持っているつもりだ。だがな――――』
『……』
『仲間を道具扱いするのは、クズがやる事だ!!』
『――――どう思って貰っても構いません。これが私のやり方です。チェスの駒は、平和を守るために戦うのです。クイーンでさえも』
『残念だ、レイラ。君が寿君に何をするつもりかわからんが、今後の動向によっては、ボクは対面の|駒にならねばなるまい』
『やはり、後輩思いの貴方なら、そういう反応をしますよね――――!』
『――――ぐッ!? な!? 何を、した!?』
『先ほども言った通り、手出し無用です。でも、貴方は聞かないでしょうから、私の電撃でしばらく麻痺していてもらいます。貴方は勘が鋭く、行動力もある。このまま放っておけば、今回の件に首を突っ込むと思ったので、お見舞いに来たのですよ。あまり嗅ぎ回られては、私の任務に支障が出兼ねませんからね』
『ッ!? 目的は、何かね!?』
『朝には全て終わります。それまでは、貴方の装備一式もお預かりさせてもらいます。妙な気は起こさない事です。事が一段落したら、またお話に伺いますので』
『ま、待て――――!』
『思ったよりも、しぶとい人ですね。休んでいなさいな』
『――――ッ!?』
「――――悔しいかな、レイラに気絶させられたボクは、その後しばらくして奇跡的に目が覚めて、身体が動くようになってね。病室に誰も居ない隙を見て脱走し、君がアパートに戻っていることに賭けてここまで来たというわけだよ。携帯を含め、所持品の全てを没収されていたから、途中でボクのアパートに立ち寄って、部屋にあった秘蔵コレクションの銃も持って来てあるから、少し安心したまえ。とはいえ、今頃学校では、ボクが逃げた事に気付いたレイラが目を吊り上げてお怒りかもしれない。それを踏まえると、ボクも狙われる身だがな」
寺之城は自嘲気味に笑った。
潤人の中で、何かが崩れていく。
まるで、今まで雨風を凌いでくれていた家が、切り開かれた牛乳パックのように分解し、自分が丸裸になるような感覚。
潤人のどこかに、無意識の安心感を与えていた土台が、崩れ落ちた。
新大島東高校で、恐らくトップの実力者。
全校生徒の模範であり、憧れであり、皆を守ってくれているかのような包容力を放つ統率者。
その頼れる生徒会長――――レイラ・アルベンハイムが、“黒幕”。
この事実は、潤人とリルの思考を凍りつかせ、言葉を失わせた。
レイラが“敵”だと考えると、彼女が潤人達に隠していた事の説明も、単純に、強引に、“敵である潤人達を混乱に陥れるため”と、まとめる事は可能だが――――。
――――だが。
出来ることなら、何かの間違いであって欲しい。
「……まさか、ここまで事態が複雑だとは考えなかったな」
と、誰に言うでもなしに、寺之城が呟いた。
「生徒会長が、そんなことを……」
ショックのあまり、胸の辺りで止まっていた呼吸と共に、ようやく声を漏らす潤人の目は、どこか遠い。
「レイラは、君を“全力で抑えなければならない”と言っていた。その事について、何か心当たりはあるかね?」
という寺之城の質問に、潤人は唸った。
「わからないですけど、最近、自分に起きてる異変ならあります」
以前、友人達に打ち明けて信じてもらえなかった“悪魔説”を、今度は信じてもらえるだろうか。
それを裏付ける証拠は、リルの正体だ。
リルは、潤人が打ち明けるのを許してくれるだろうか。
「異変だと!?」
寺之城の語気が強まる。
潤人はリルに目を向け、リルはその視線に気付き、ゆっくり頷くと、潤人の手を握ってきた。
「今から話す事を、どうか恐がらずに聞いてもらいたいです」
潤人の意を決した表情を見た寺之城は、
「わかった。聞かせてくれ」
と、後輩の話に耳を傾ける。
以前、“悪魔の説”を寺之城に相談した時、彼は潤人の事を、“疲れているのでは!?”と、本気で心配してくれていた。
寺之城ならば、きっと信じてくれる。
“幸福粒子”にそう祈りつつ、潤人は寺之城に、“ローズ”の存在を話し、己を蝕んでいた、“気想の総量が人より少ない事”と、リルの正体を説明した。
話が進むにつれ、寺之城は胸を突かれたかのような表情から傷心していき、明るさを失くしてしまった。
「――――ボクは信じるぞ。そのローズという少女に直に会えないのが残念だがね。それに、恐くなどない。言葉足らずだが、大変だったな、リル君」
「でも、皆のおかげで、今はとても幸せだぞ」
頷きながら、狐に撮まれたような真実を聞き入れてくれた寺之城に、リルは微笑んだ。
「私は過去と向き合って、それを潤人と寺之城が親身に聞いて、受け入れてくれた。だから私も、これから先は、振り向かずに進もうと思う。いつまでも過去に囚われて、下ばかり向いていたくはないからな」
「ボクも、寿君も、リル君も、寿君の中の“彼女”も、皆仲間だ。我が108小隊は、今後も揺らがぬ結束で活動していく!」
リルの笑顔に『幸福粒子』を見たか、少し顔色の好くなった寺之城は、次に潤人へ向き直った。
「寿君、君は強い男だ。理不尽なハンデを負いながら、今までそれに耐え、共に訓練に励んでくれたこと、感謝するぞ」
寺之城は潤人を“強い男”と言ってくれたが、今は“まだ”だと、潤人は気を引き締める。
「俺は、強くありません。今まで散々愚痴をこぼしながら、後ろ向きにやり過ごしただけだったんです。でも、これからは、俺も顔を上げて歩こうと思ってます」
今までの過ちと向き合い、リルに許しを与えられた潤人は、リルのために、大切なものを守るために、“これから強くなる”と決意したのだ。
寺之城に命じられた、“自分の取り柄を見つける”という任務はまだ達成出来てはいないが、きっとこの決意は、そのための一歩になり得るはずだ。
「――――素晴らしいことだぞそれは! 打ちのめされても、リングにしがみつき、歯を食い縛って立ち上がる! そういう人を、強者と呼ぶのだ!」
何故か両手を腰に当てて得意気に胸を張る寺之城の眼鏡が、明かりの無いワンルームでえらく輝いて見えた気がした。
「私もそう思うぞ、潤人。一緒に頑張ろう!」
ありがたいことに、リルも称賛の言葉をくれた。
(……ともあれ、なんか、柄にもなくアニメみたいな台詞語っちゃったよ俺。もしかして、俺も厨2病になってきちゃってる?)
と、潤人は思ったが、それを漏らせばたちまち、
『すんばらしぃ!!』
と、寺之城のスイッチが入って本領を発揮されてしまうので黙っておく。
「しかし、『霊人』という存在は初めて聞いたよ。寿君の話では、姿を消せるとの事だったが、一体、どのようなものなのかね?」
「寺之城にも、特別に見せよう」
寺之城のリクエストにリルは答え、潤人にやって見せたように、その姿を消した。
「――――おお!?」
寺之城は眼鏡の奥で、その目を大きく見開く。
一度消えたリルは、再び元居た場所に姿を現した。
発光する粒子が集まって少女の形を形成。それが収まると、そこにはフローリングに女の子座りするリルの姿。
「おおおおッ!!」
寺之城の拍手が起こった。
「素晴らしい! 実に素晴らしい! なんて凄い能力なんだ!!」
演劇の経験でもあるかのように、身振り手振りを加えて、感情を表現する寺之城。
「この力を褒められたのは、久しぶりだな。耐えてばかりだった今までの道のりが、少しだけ報われたように思える」
と、リルは嬉しそうに微笑む。
「リル君も、勿論強者だ! その強靭な精神は我が小隊の鏡とするに相応しい。君も胸を張りたまえ。こうするのだ!」
だんだんテンションが上がってきたらしい寺之城が立ち上がり、先ほど自分がやった、“両手を腰に当てて胸を張る動作”をリルに指導し始めた。
「ふむ、こうか?」
厨2病眼鏡男につられて立ち上がったリルが、両手を腰に当て、なかなかふくよかな2つの山を突き出すようにしている。
「上出来だ。このポーズはな、得意気な気分になったり、好ましい事があったりした時にするものなのだよ。敵を打ち倒し、見事勝利した時とかな!」
「なるほど! 日本ではそうするものなのだな!」
リルの目も輝いてきた。
「そうだとも! 是非この機会に覚えておくといい!」
「い、いや、ちょっと待って。なに変なこと吹き込んでるんですか!」
だんだん危ない気がしてきた潤人はリルを連れ戻すべく、口を挟む。
リルの護衛の仕事は、意外な場面で巡ってきた。
「何を言うかね寿君! これは戦国時代から成されてきた勝ち鬨と同じ、立派な感情表現だぞ! 勝ち誇り、めでたいと感じた時はこうして自身や仲間を盛り上げるのだ! さあ、君も一緒に立ちたまえ! そしてこう笑うのだ―――――ッハーッハッハッハッハ!!」
「嫌です」
「はーっはっはっはっは!」
首を振る潤人の横で、リルが旅立つ。
「惜しいなリル君! 声を腹から出し、気迫を増すのだ! ッハーッハッハッハッハ!!」
「っはーっはっはっはっは!」
まだ幼さの残る、なめらかな、可愛らしい歓呼を上げるリルは、喜色満面の笑みを浮かべている。
(もし追っ手が居たら、この声で居場所がバレちゃうんじゃない!?)
「ちょっと、2人とも止め――――」
「寿君の中のキミ! 聴こえているかな? キミも一緒に笑おうではないか! ッハーッハッハッハッハッ!!」
その楽しげな声と表情はまるで、分厚く暗い雲の裂け目から覗いた陽光の如き幸甚に満ち、薄暗い部屋を温かい和みで包んでいくようだった。
潤人も、そんな2人を見て、次第に何だか気が晴れたような気分になり、それ以上は何も言う気になれなかった。
そんな後輩達の表情を、そっと見遣った寺之城は、静かに眉を開き、
「――――元気が出てきたところで、諸君らに問う!」
眼鏡をずり上げ、襟を正し、後輩達と交互に目を合わせる。
彼の態度に、潤人とリルも気を引き締め、背筋を伸ばす。
第108小隊、小隊長寺之城和馬は、威儀を正したオーラを纏い、こう言い放った。
「これからどうすればいいかな?」
そんな、頼れる先輩を、潤人とリルは思わず二度見した。
読んで下さった方、ありがとうございます。また機会がありましたら続きも読んで頂けると嬉しいです。