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第5章・窮魔、竜を噛む

「――――ッ!」

 突如として湧き起こった危機感が『竜人』の心を覆い尽くし、全身の毛が逆立った。

 アズロットは致命的なミスを2つ犯した。

 1つは、標的(ターゲット)である『魔人』が、今この港に居る子供達の中に紛れているという可能性を考慮しなかった事。

 もう1つは、その存在に全く気付けなかった事。

 その理由を考察することに、最早意味は無い。

 失敗は取り消せない。

 気持ちを切り替えなければならない。

 既に発生した、変えようも、防ぎようもない“悪の事象”に、対処するしかない。

『アズロット、気をつけて! この子、さっきと気配が違う!』

「冗談はよせよ……まさか、お前が!?」

 アズロットが見下ろした少年から、それまでは感じる事のなかった凄まじい気想が放出される。

 その量は、先の戦闘で感じたどの者よりも膨大。

 その質は、どの者よりも悪意に溢れ、揺らがない。

 その濃度は、肉眼で視認出来るほどに濃い。

 黒い靄が少年から湧き出し、その細身の身体を覆っていく。

 靄に触れ、覆われた部位は、まるで砂鉄が凝固したかのような、ざらつきを帯びた漆黒の異形へと変貌を遂げる。

『そんな! このリュウちゃんが気付けなかったなんて――――』

 闇の落とし子。

 黒き悪魔。

 滅びの化身。

“ソレ”のかつての呼び名を想起するアズロットは、『竜牙(エルド・スクーガ)』を強く握り直し、肩に担ぐと、中央の着岸ポート――――その先端から、付け根付近まで大きく跳んで後退し、“ソレ”との間合いを図る。

 地獄の怨念にその身を焼かれているかのように、身体の至る所から湧き上がる黒煙のようなオーラを纏い、“ソレ”は人の形を形成した。

 まるで、漆黒に塗り潰された蝋人形のような姿だ。

“ソレ”は、顔の眼に当たる部分に穿たれた真っ暗闇の()を、アズロットへと向ける。

 全ての気想粒子に対する絶対的な影響力。

“幸福”を“不幸”へと堕とす力。

 アズロットを、周囲の暗さが一気に増したような錯覚が襲う。

 いや、違う。

(幻覚でもないな。この暗さ……)

 チラリと眼球だけを動かしたアズロットは、静かに察する。

 少年が放つ黒い靄が霧のように周囲へ蔓延り、染めている(、、、、、)のだ。

「――――よう。久しぶりだな」

 深く息を吐き、吐き切ると同時に丹田に力を込め、右手の刀印を胸の前に構えたアズロットは、強気の表情でそう言い放つ。

 精神統一と強い意思。

 これらは、“ソレ”を相手に戦う者が、少しでも生存率を上げるために必用な行為。

 少年だった(、、、)“ソレ”はゆっくりと、揺らめくように、音もなく立ち上がる。


『魔人』


 二度と()う事の無いよう、何度祈ったか。

 その祈りを察知し、堕とされ、負の因果がこの瞬間を繋いだか。

 疑心暗鬼を誘い、陥れる存在。

 全てを否定し、滅びへと誘う存在。

『不幸粒子』の権化。

「オレが憎いか?」

 アズロットはかつての友人を想起し、少年が怯えの中で垣間見せた、覚悟に満ちた表情と重ねた。

「好きに憎んでくれていい。俺はお前(、、)を救ってやれなかった。気付いてやれなくて悪かったと思ってる」 

 その体内に『魔人』を宿した少年。

 組織の使者である“少女の声”が、アズロットに“処分”を求めた相手。

『魔人』はアズロットの言葉を解しているのか、首を僅かに傾げる動きを見せた。その顔の、目に当たる部分に穿たれた黒い穴――――その穴の中で、淡い赤の光を放つ点が生じ、『魔人』はまるで目を見開くかのように、その点を穴の中一杯に膨張させる。

『魔眼』だ。

 その赤い光を放つ瞳を見ると、気想の力が弱い者は呪いに侵され、死に至ると言われる『魔人』の“眼”だ。

 アズロットの時代に伝わっていた情報だが、本当か否かは誰にもわからない。

 未だ、その能力の多くは解明される事が無く、謎に包まれたままだからだ。

『魔人』を前にして、じっくりと研究に打ち込めた人間は果たして何人居たのか。

『魔人』を前にして、過去に何人の人間が生き長らえる事が出来たのか。

 その答えを察するのは容易く、しかし無意味だ。

 念話札の交信を妨害したのは、『魔人』の仕業だろうか。

 アズロットが今までその存在に気付けなかったのも、港の天候悪化も全て。あらゆる考察、行為を困難へと傾け、破滅に誘うための、『魔人』の力によるものだろうか。

 疑心暗鬼はあっという間に人の心を埋め尽くし、陥れば陥るほど、疑いと不安が止め処なく溢れる。そうして、対する者の精神と気想術を乱すのも、負の事象を司る『不幸粒子』の権化たる『魔人』が持つ、恐ろしい力の1つだ。

 アズロットは気想で全身を覆い、『不幸粒子』から身を守るための結界を張る。

 島の少年達が『護符』の補助を得て行う事を、アズロットは身一つで為熟(しこな)す。

(見たところ、ヤツの“眼”はまだ2つ(、、、、)だな)

 アズロットは再び刀印を結び、胸の前に構えた。

『相手は子供だとか言ってられないよ? 手がつけられなくなる前に、先手を打とう!』

「おうッ!」

 腹に力を込め、念じるアズロット。すると、中央のポートの末端――――『魔人』の足元から光が放たれ、その瞬間――――。

 音が消し飛び、激震が走った。

 目の眩むような光と共に、中央の着岸ポートが爆砕された。

 アズロットがこの港――――中央の着岸ポートに初めて降り立った時、アズロットは『魔人』による奇襲を警戒し、且つ、潜んでいた敵を誘うよう、気想をふんだんに放出しながら、自身の足元に『呪文爆弾』を仕込んでおいたのだ。

 それについては、運良く『幸福粒子』が味方したらしく、ベストなポジションとタイミングで爆破させる事が出来た。

 大地が揺れ、波紋のように広がった衝撃波が大気を震わせ、雷のような轟音が島中に響き渡った。

 その振動波は粉砕されたポートから広場へと伝わり、コンクリートが波打つように砕け、爆砕の連鎖はアズロットの足元まで及んだ。

 巻き上げられたコンクリートの破片群が雹の如く降り注ぎ、慄くように吹き飛ばされていた海面が港の壁面へと押し戻り、飛沫を舞き散らした。

 ヒコウキの“矢”とは比べ物にならない威力。 

 ――――だが。

「……」

 アズロットの表情は晴れない。

『“あの女”のしぶとさは折り紙つきだね』

 戦いの始まりを告げる狼煙の如く立ち昇る白煙の中で、()の“眼”が光り、アズロットを捉えていた。

“呪文爆弾”によって足場を失った『魔人』は、それでも尚、元の場所に(とど)まっていた。

 正確には、宙に浮いていた。

 アズロットのような翼は無い。

 微動だにしていない『魔人』は不自然にも、重力に逆らい、悪霊の如く漂い、ふわりと、“海面”に降り立った(、、、、、)

 比重が空気より小さいわけではないだろう。

『魔人』が持つ、“世界の理を『悪の事象』へ誘うべく、歪めて改変する能力”は、『魔人』自身が存在意義を果たすためであるなら、あらゆる法則を利用し、また捻じ曲げる事も当然のように出来るのだ。

 故に、『呪文爆弾』による不意打ちを受けても、爆炎、衝撃、数多の物理的事象を捻じ曲げ、何事も無かったかのように、そこに居る。

(さすがに今の程度(、、、、)じゃ、倒れちゃくれねぇか――――)

 もはや、底なしとも言えるほどの力。

 もし仮に、『6人の代行者(パワー・シックス)』に優劣があるとするなら、『魔人』は恐らく“優”の側であろう。

 だが。

 かつて天の遣いによって授けられたとされる6つの力は、確かに人の域を超越したものであるが、それが宿っているのは“神”ではなく“人間”だ。

 不完全な存在なのだ。

 底が知れないとはいえ、決して無いわけではない。

 もう過去に二度、倒されているのがその証と言えよう。

 特に、今の形態(、、、、)に関して言えば、まだ望みはある。

(ヤツが初期形態(、、、、)の内なら、今のオレでもまだやれる)

 何故なら、今の『魔人』は不完全(、、、)だからだ。

(ヤツはまだ、『剣』を抜いていない!!)

『“あの女”が姿を見せていないってことは、向こうはまだ本気じゃない。正確には、何かにつっかえて、本調子を出せていない感じがするね。やっつけるなら今のうちだよ!』

 リュウも、『魔人』側の不調を見抜いたようだ。

(『不幸粒子』への警戒、頼むぜ?)

『ガッテンしょうち!!』

 アズロットの体内に、熱がこもり始める。

 リュウが膨大な気想をアズロットの体内に巡らせているのだ。

『竜』は、聖獣の王。

 その力は、底知れぬ生命エネルギー。

 生命エネルギーは、生きる力。活かす力。癒す力。

 それらは全て、『幸福粒子』だ。

「――――俺は、お前の事もわかってやりたいと思ってる」

 と、アズロットはつぶやく。

「この世界が憎いんだろう?」

『魔人』は未だに傾げた首を戻さぬまま、『竜人』をその赤い双眸で呪うように見つめる。

「来いよ。オレはその“世界”の代表だ」

 手招いたアズロットは、重心を低くし、前方に意識を集中する。

『魔人』の――――“彼女”と“彼”の憎しみを解き放つため、彼らの闇を、一身で全て受け止める覚悟を持って。

 それに反応するかのようなタイミングで、魔人に変化があった。

 顔の下部が裂け、無数の、細く鋭い牙とも見てとれる黒い糸を引きながら、その口を露わにしたのだ。

 口腔は、吸い込まれそうな闇。その体内の状態は想像もつかない。人知を外れた存在であるが故に、推測のしようがない。

「ヴォア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!!」

 言語とは思えない、怪物が哮るかのような声が、港に響き渡る。

 くぐもりながらも、物凄い圧力で吐き出されるかのような咆哮は、もはや人のものではなく、聞いた誰もが耳を覆いたくなるようなおぞましさを含んでいた。

『相変わらず、耳障りな吼え声だね』

 リュウがそう漏らす中、アズロットのこめかみから汗の滴が滑る。

 ――――次の瞬間。

“黒い異形”が、アズロットに襲い掛かった。

 それは、眼を疑うような速度で、2本の黒い“触手”としてアズロットへと伸びる。

「ッ!!」

 アズロットはその初撃を読んでいた。正確には、複数予想した『魔人』の攻撃パターンの中に、この一撃が含まれていた。

 アズロットは2本の“触手”を『竜牙』の刀身で受け止め、その強靭な腕力で押し払う。

“触手”の正体は、『魔人』の両腕だ。

 姿が豹変しているという点から見れば、変化(トランス)に分類される能力であると推察出来るが、細部まで分析を試みる余裕は無い。

 両腕を弾かれた『魔人』は、しかし動じる事も怯む事もなく、溜めのラグもなく、その両腕を再び“触手”としてアズロットへと放ってきた。

 2撃目のあまりのハイレスポンスに、アズロットの対処は僅かに遅れをとった。

「!?」

 2本の触手の内1本は、横一線に構えられた刃の根元に、もう1本はアズロットの右手首に巻きつく。

 同時に、想像を絶する力で締め付けてきた。

 皮膚が絞られ、肉が潰され、骨が軋む。

 以前のアズロットであれば、この程度の戦闘速度なら、まだ十分に対処出来たはずだ。

『やっぱり、昔みたいにはいかないかぁ』

 リュウと共に自身の弱体化を悔やむアズロットは、それでも尚、白い八重歯を覗かせ、不敵に笑って見せた。

「どうした? これだけか?」

 万力の締め付けによる苦痛も表には出さず、『魔人』を挑発する。

(ヤバイ時は、とりあえず笑っとけ!!)

『天候』が今も刻一刻と悪化を続ける中、少しでも己自身を『幸福粒子』で保護するために。

 だが。

『魔人』は両腕が伸びて塞がった状態で、(こうべ)を後方へと傾げていき、人間では不可能な角度まで反り返ったかに見えた次の瞬間、頭が視覚で追い切れない速度で正面へと戻り、その反動で、まるで妖怪の如く首を伸ばし、飛ばして(、、、、)きた。

「――――っ!!」

 触手を振りほどこうと必死なアズロットは、(もり)のように射出された『魔人の首』を避けられない。

 赤い双眸が光る首は、獰猛な獣のような口を開き、無数の鋭い牙で、アズロットの首に喰らいついた。

 頚動脈を食い破らんと、牙を肉に食い込ませてくる。

 固い皮膚が、破られた。  

「ぐッ!!」

『アズロット!?』

(ちょっとヤバイな。初期形態の時点でこれか)

『竜人』が誇る強靭な肉体は、そう易々と食い破られはしないが、それもやはり底無しではない。

 痛みと焦りが全てを狂わせるこの状況で、アズロットは深く息を吸い、驚異の集中力を見せる。

竜に楯突く(エルド・エイジス)馬鹿野郎は(・アーガスフール)どいつだ?(・ヲルガ)

『それは“あの女”!!』

“竜との念話”を知る者だけが解する、竜の言葉。

 その言葉を吐き出すは、アズロット。

 その言葉が指し示すは、竜王の気想術。

 その方式は、発声法。

 その意図は、一発必中。

 喰らい突く獲物に狙いを定め、確実に狩る。

そいつに(ジ・ヲルガ・)王が誰か(ケイングエルド・)教え込め! (ヴランスタルグ)その身を以って!(・ヴラスター)

 アズロットが初めて、発声法による詠唱で(スキル)を放つ。

 かつて、誇り高き竜族の王はこの術で空を制し、全ての獣の頂点に君臨したという。

『リュウちゃん、久しぶりに本気出しちゃうよーッ!!』

 リュウが叫ぶのと同時に、アズロットの薄黄色の双眸が、淡い光を帯びる。

 この世の全てを焼き尽くす力を秘めた灼熱の炎とされる“原始の炎”。その伝承を元に脳内で“想像(イメージ)”を膨らませ、“創造”へと移行する。

 アズロットの体表に、赤褐色の靄が浮かび上がった。

“想像と創造”によって発生した灼熱のオーラが、『竜人』の全身を覆う。

 人の域を超えた強大な結界。

 触れるものを焼き焦がし、圧倒する、“竜王の奥義”。

 竜族の言葉を人の言葉に無理矢理置き換えると、その術の名は、“闘気の鎧アーマード・ヘルフレム”と呼ぶ。

 灼熱の身体は敵意を向ける者を威嚇し、注ぎ込まれた膨大な気想で筋力と皮膚の硬度を更に高め、肉弾戦において無類の強さを得る。

 それが、“竜”に直に喰らい突く『魔人』を、容赦なく襲う。

 ここに第3者が居たなら、次の瞬間に目を見張っていただろう。

 アズロットの呪文爆弾でも微動だにしなかった『魔人』が、『竜人』の纏う灼熱のオーラに、まるで怯え慄くかのような雄叫びを上げ、その場から一気に後方へと飛び退いたのだ。

 しかも、無傷ではない。

 頭部(、、)を、失っていた。

 アズロットが『魔人』の首に喰らいつき、その強靭な顎で噛み千切ったのだ。

(まだだッ!)

 アズロットは銜えた生首を吐き捨て、追撃するべく、その鋼のような大腿部に力を込める。

 しかし、それを見計らったかのように、既にひび割れていたアズロットの足元が更に陥没した。

 踏ん張りが若干逃げてしまった状態から地を蹴ったために、猛獣のような突進の勢いが弱まってしまった。 

(『不幸粒子(ディスティフィア)』め!!)

 そう歯を食い縛るアズロットの目が数瞬の後、驚愕に見開かれる。

 頭部を失ったはずの『魔人』――――その首が。


 ――――元に戻っていた。


(くそッ!)

 わかってはいた。

 笑みを見せて強がる己の本心には、断固たる決意の他にも、僅かな恐れがあることに。

『魔人』を倒せなかったら。

 己が敗れたら。

 不慮の『悪の事象』に遭ったら。

 リュウが創造する生命エネルギーの加護を受けても尚、湧き上がるあらゆる懸念を含んだ恐れ。その中には、“首を取った『魔人』に何のダメージも与えられていなかったら”という懸念も生まれていたに違いない。

『魔人』は、相手が本心から恐れ、望まない事象を引き起こす『不幸粒子』を撒き散らし、自身の能力として取り込んでいる。それが、“全てを滅ぼす力”の正体だ。

 アズロットが心の片隅で抑えきれずに抱いた懸念を、利用された。

 アズロットは『竜人』

 即ち、彼も人間なのだ。

 驚愕するアズロットを嘲笑うかのように、魔人の口が大きく裂けた。 

 ――――恐らく。

『魔人』は自身の存在を保つため、身体の部位を損傷しようと、瞬時に再生する能力を持っている。

 更に、『魔人』に同じ術は通用しない。“一度通じた術なのだから、もう一度使おう”と考える相手の思惑を覆そうとする力によって、事象を捻じ曲げ、その術に対する耐性を得てしまうためだ。

 倒す方法は、アズロットが知る限りでは2つ。

 1つは、事象改変能力を備えた、『魔人』の悪意の鎧である黒いオーラを、『竜牙(エルド・スクーガ)』のような、強い気想が込められた武器で突破し、本体の急所を破壊する事。鎧を突破しない限り、砂鉄のように黒く、ざらついたオーラを纏った状態の『魔人』に何をしても、改変されてしまう。

 もう1つは、『魔人』に取り込まれた宿主の意識を呼び起こし、『魔人』を封じさせる事。

 狙うのは、後者。

 過去のアズロットの場合では、物理打撃で押し通したものの、正確且つ適確な方法はわからない。

 それでも、ここで止めるわけにはいかない。

 逃げるわけにはいかない。

 何が何でも、寿潤人を呼び起こす。

 突進は、緩めない。


「ウオオオオオオオオオオオオッッ!!」


 襲い来る恐れに立ち向かうため、剣を担いだアズロットは鬨の声を上げて突撃した。

『魔人』に、真っ向からぶつかる。

 担いだ剣を、振り下ろす。

 対する『魔人』は、両腕でアズロットの左手を打ち払い、『竜牙』を吹き飛ばさせ、更にその両腕を彼の胴に巻きつけてきた。

 構いはしない。

 圧倒的体格差で『魔人』を押し倒したアズロットは、獲物に馬乗りになり、両の拳を、骨が砕ける勢いで叩き込む。 

 亜音速で振り降ろされる拳が、『魔人』の痩せた肢体を打ちのめしていく。

『魔人』が横たわる地面が陥没し、衝撃が周囲のコンクリートを砕き、地鳴りが広場に轟く。

「ォォらああああああああああああああああッ!!」

『ぉぉりゃあああああああああああああああッ!!』

 僅かでも鋭く、強く、力積を増し、より重い衝撃力を。

 襲い来る恐怖を押し返し、差し向けられる不条理を打ち、圧壊し、砕き、貫き、奥底で嘲り笑う“悪の権化”に制裁を加えるのだ。

(弱みなど見せるな! 抗え! 叩け! 倒せ! 終わらせろ! 終止符だッッ!!)

 渾身の、力という力を振り降ろし、念じ、抱く。

 血が滲み始める拳。歯を食い縛り、尚も打ち込む。 

 やれると思った。

 そうなるはずだった。

 信じていた。

 にも拘らず、世界はアズロットをまたしても裏切った。

 アズロットの拳が、止まる。

 彼が見下ろす先では、“黒い異形”が、1人の少女の姿を模っていた。

 かつて、共に旅をし、共に戦った戦友。

 そして、魔人に心を侵され、堕落した少女。

 そんな彼女の顔が、ほんの一瞬、“黒”に重なって見えた――――そんな気がした。

「うッ!?」

 それは罠。

 それは(いざな)い。

『アズロット! それは幻術だよ!!』

 精神の隙を見せてしまったアズロットは、リュウが内側(、、)から呼びかけたおかげで正気に戻るが、その時既に彼の腹部へ、『魔人』の両腕が突き刺さっていた。

『魔人』は、アズロットが抱える過去の傷をも巧みに利用し、惑わす。

 血反吐を吐き散らし、アズロットは一瞬の間、痛みを受け止めるべく全身を硬直させるが、すぐさま対応を起こさないと、事態が更に悪化していく事はわかっていた。

「リュウ、力を貸せ」

 今度は、英国語で発声するアズロット。

 術によっては、発声する言語も、個々の想像に関与し、その効力に違いが現れる。

『うん!』 

 ひび割れた広場に横たわっていた『竜牙(エルド・スクーガ)』が独りでに持ち上がり、刃をプロペラのように回転させながら、アズロットの方へと飛び込んできた。

 そしてその刃で、アズロットを刺している『魔人』の腕を斬り飛ばす。

 アズロットは敵の腕による呪縛から解放された瞬間に地を蹴り、10メートル近い距離を一気に飛び退き、間合いを稼いだ。

 彼の身体に食い込んでいた『魔人』の腕の先端部は黒い霧のように雲散霧消し、瞬時に『魔人』の下で再生される。

『ホント、うんざりするしぶとさだね』

(早く手を打たねぇとやばいぞ! 畜生!)

『もうアズロットったら! それは思っちゃいけないやつ!』

 リュウが叫ぶのと同時に、次の手を考えていたアズロットを、予想外の事態が襲った。

 砕かれる足元。

 その地中から、『魔人』の2本の“触手”が飛び出し、アズロットの両足を縛り――――。

 更にもう2本(、、、、)の触手が正面から襲い掛かり、アズロットの両腕を縛り、一斉に“外側”へと引っ張り始めたのだ。

 四肢をもぎ取ろうとする万力に、アズロットは手足の自由を奪われた。

(しまった!!)

 アズロットは呻く。

 恐れてしまった。

 考えてはいけない事を、考えてしまったのだ。

(『魔人』が、“次の形態に変化する前に”、何か行動(アクション)を)と。

(――――第2形態!!)

 この、次の形態(、、、、)――――即ちアズロットが恐れる事態を、『魔人』に察知されてしまったのだ。

「ぐッ、ぐあッ!!」

 あまりの激痛を、口から“赤”と共に吐き出すアズロット。

 腹部からも血を溢れさせ、歯を噛み合わせて苦痛に耐えるアズロットは、それでも戦意は失わずに、己が宿敵を睨む。

「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!!」

『魔人』は空を振り仰ぎ、まるで天をも呪おうとするかのような咆哮を響き渡らせ、新たな豹変を開始する。

 大きく、裂けるかのように開かれた口内から、『魔人』の新たな頭部(、、、、、)が現われた。

 最初(、、)の頭部は原形を崩壊させてひしゃげ、新たな頭部の首元に纏わりつく。

 その新たな頭部の顔に宿る赤い光は、4つ。

 2つは従来通り“眼”に当たる部分、もう2つは頬に当たる部分にそれぞれ出現している。

 異形だ。

(――――間に合うか!?)

 痛みと戦いながら、体内に膨大な気想を消費し、『創造』を実行するアズロットは、“成功を祈り、失敗を恐れる心の乱れ”を、持ち前の集中力で抑制に掛かる。

 4つの眼。

 4本の腕。

“第2形態”と化した『魔人』を相手にこのまま戦闘を長引かせれば、確実に(、、、)負ける。

(その羽ばたきを、日出国(ひいづるくに)に。その咆哮を堕天の闇に。その炎を以って、罪人を裁く!) 

 縛られている右手を刀印の形にしたアズロットが、『念法』で唱える。

あれ(、、)をやるんだね!? まかせといて!!』

 リュウの気想供給もあり、背中に再び“翼”を出現させると共に息を肺一杯まで吸い込み、『不幸粒子』を焼き払う創造を注ぎ、一挙に吐き放つ。

咆哮弾エルド・アールグヘルム!!)

 空間を打ち震わし、正面――――『魔人』へ向けて、爆風に匹敵するほどの激しい咆哮が放たれた。

 同時に、アズロットの口内からは黄とも白とも取れる光が溢れ出し、咆哮が駆け抜ける空間へ続いて、紅蓮の炎が吐き出される。

 爆風のような咆哮を受け、アズロットを縛っていた触手に、逆に縋りつくような形でその場に踏ん張っていた『魔人』の身体を、巨竜の火炎弾は容赦なく呑み込んだ。

 先の“竜の奥義”への耐性を身につけていた『魔人』が、再び苦痛の叫びを響き渡らせた。

 燃え盛る空間から脱しようと、地上から100メートル以上の上空へ一気に飛び上がった『魔人』に、アズロットも“竜の翼”を力強く羽ばたかせて肉薄する。

『不幸粒子』を焼き払う想像を注いだ“咆哮弾”による攻撃で、アズロットを縛っている触手の力が怯む隙を狙ったのだ。

 だがさすがに、『不幸粒子』が完全にその空間から消え去る事は無く、結果的に『魔人』の回避行動を許す形となった。

「逃がすか!!」

 それでも、薄黄の双眸で獲物を捉えたアズロットは、そのたくましい両腕で『魔人』の身体を拘束し、軌道を変更する。

 重力に従い、真下へと。

 そこから、“竜の翼”が生み出す推力で一気に速度を増し、『竜』と『悪魔』は超音速で急降下を開始する。

『行けぇぇぇぇ!! かましたれぇぇぇぇぇぇぇぇッ!!』

 叫ぶリュウ。

 そうはさせまいと、『魔人』の触手の1本がアズロットの肩を抉るが、

「オオオオオオオッ!!」

 アズロットは決して揺らぐことなく、羽交い絞めにした『魔人』と共に地上へ、流星の如く激突した。




 視界を埋め尽くす、黒。

 潤人は1人、闇の中に佇んでいた。

(これは夢か?)

 そう疑った。

 世の中には、夢の中で“これは夢だ”と気付き、その夢を自らの意志でコントロールする事が出来る人間が居ると、過去に聞いた覚えがあるが、恐らくその体験をしているのだろう、と。

 港で見た光景。

 人の死の光景。

 それを消したいがために、自らの意思で周囲を真っ暗に変えたのだろうか、と。

(――――?)

 闇の中で立ち尽くし、周囲を見回してみた潤人に、徐々に感覚が芽生えてくる。

 そして、自分が今、凍えている事を知った。 

 内側も外側も、凄まじい冷気で冷え切っている。

 そんな中、潤人が背後に誰かの気配を感じて振り向くと、そこには見知らぬ少女が1人立っていた。

 洗練された漆黒のショートラインドレスに身を包み、ウェーブを形作った銀の髪は艶やかで、白い素肌が、暗闇を寄せ付けない。

 その少女には、筆舌に尽くしがたい美しさが宿っていた。

 少女は闇の中に煌めく深紅の瞳で、潤人をじっと見つめている。

(君は――――)

 潤人は彼女を知っていた。

 聴き覚えのある声。

 この数日間、脳内に響いた声。

 その妖艶な音色が、心の隅に張り付いていた。

(――――“悪魔”、なのか?)

『私はあなたの力。名前なんて無い』

(どうして、俺の中に居るんだ?)

『あなたは、私を宿す資格を与えられた人間だから』

(与えられた?)

 初めて耳にする情報が、潤人を混乱させる。

『そうよ? あなたは私の主』

 どこか悲しげな少女は口を動かす事無く、潤人に語りかける。これが、“念話”と呼ばれるものだろうか。

『あなたはまだ、私を使いこなせていないわ。私をもっと、受け入れて?』

(使いこなす? 何の話だ?)

『お願いだから!』

 彼女の口調からは懇願しているような印象を受けるが、潤人は事情が全く飲み込めずに、ただ、少女に対して何の施しも出来ない罪悪感が芽生え始めた。

(……ごめん。何だかよくわからないけど、断らせてくれ)

 潤人の返答を聞いた少女は、その見目好い顔に浮かべた悲しげな影を、一層深く落とした。

『あなたも、私を拒み続けるの?』

(拒むわけではないんだけど、今の状況は生まれて初めて直面したようなもんで、その、錯乱しそうになる気持ちを抑え込むので精一杯なんだよ)

『私が恐いから? 私はただ、あなたの望み通りにしてあげたいだけ――――私を受け入れて欲しいだけなの』

(君を受け入れたら、俺はどうなるんだ?)

『昔、あなたよりも()の主から、同じ事を聞かれたわ』

(前の主?)

『皆、私を邪悪な者としか捉えない。だから、誰も私を、完全には使いこなせない』

 潤人には、銀髪の少女の言わんとしている事が解らなかった。

 1つ確かなのは、今の彼女(、、、、)からは、不思議と何の恐怖も感じない事だ。

『もっと、力が欲しいでしょう? 私をより強く求めれば、それを叶えてあげられる』

 潤人の視点が、少女へと音も無く近づいていく。

(確かに、今は力が欲しい。あの男を追い払える力が。リルを生き返らせる力が――――)

 少女はそっと眼を閉じると、その小さな唇を、潤人の口元へと運んでいく。


「だめだ!」


 突如として響き渡る、もう1つの声。

 もう二度と聞く事は出来ないと思っていたその声で、潤人を覆う冷気が薄れた。

(リル!?)

 潤人は振り向き、闇の中にリルの姿を見出そうとするが、彼女の姿は無い。

 それでも、声ははっきりと、潤人に届いた。


「彼女を受け入れてはだめだ!」


 と、リルの澄み渡る声が響く。

(リルは、まだ生きている!?)

 ゆっくりと、自分から離れる潤人を見て、

『どうしたの?』

 少女が当惑しきった表情で聞いてきた。

 何とも言いようがない寂しげな眼で、潤人を射抜く。

『力が欲しいのでしょう? 楽になりたいのでしょう?』

 潤人はそういう思いを、少なからず抱いていた。だが、

(確かに俺は、不条理な世界に復讐してやりたいと思った。だけど、それよりも――――)

 今はそれよりも、守りたいものがある事を思い出した。

(リル!)

(リルはどこだ?)

『待って!』

 銀の髪を揺らし、少女が叫ぶ。

『ごめん、俺、人を探さないといけないんだ』

 リルに会いたい。

 リルに、謝らなければならない。

 リルを、探さなければ――――。




 島の上空を、黒い雨雲が覆っていた。

 時折、雷が荒ぶるかのような轟音が空を震わせている。

“天候”は“雨”。

 いつ降り出してもおかしくはない。

『――――どうにかなったねぇ』

 疲弊したリュウの声。

 ズタボロの姿で夜空を見上げたアズロットは、額から滴る血を手の甲で払った。

 彼の足元には巨大なクレーターが穿たれ、その中心に、1人の少年が仰向けで横たわっていた。

 少年は意識を失ったままだが、呼吸は落ち着いている。

 闇の中で、己の“中”の者と戦っているのかもしれない。

 アズロットもまた、リュウと共に葛藤の最中だ。

 予断の難しい状況は続く。

 まだ、“あの形態”で済んだから良かった。

 どうにか、心臓を突かずに、宿主の意思を叩き起こす事が出来た。

 そう安堵するべきなのだろうが、アズロットの中では1つの疑問が生まれていた。

6人の代行者(パワーシックス)』には、それぞれの力の象徴とも言うべき“少女”即ち“剣”が与えられていたはずだ。

 1人の代行者に、一振りずつ。

 だが、先の戦闘で、『魔人』は剣と思しきものを持っていなかった。

 この事実は偶然なのか、『幸福粒子(エフティフィア)』の助けによるものなのか、或いはアズロットの心境に油断を生むための、『魔人』による行動なのか、判断のしようはないが、アズロットにはその事実が、妙に気に掛かっていた。

「……まぁ、結果オーライって事でいいか」

 考えても仕方のない事は一先ず隅に追いやり、次に必要な行動を考えることにする。

『この子、どうする?』

「……」

 アズロットは青さが残る少年を、()さを抱えたような表情で見下ろす。

 今、アズロットの中には大きな迷いが生じていた。

『組織』からの依頼は、“魔人を殺処分する”事。

 しかし、アズロット自身はそれを望んでいないのだ。

 大勢の命を守るために、1人の命を殺す。

 それは弁護される選択かもしれない。

 大義と呼んでも良いのかもしれない。

 その1人の命が、人類にとっての『悪』であるなら、討って当然なのかもしれない。

(コイツはまだ、完全に自分を失くしちまったわけじゃねぇ)

 アズロットは、かつて愛する友を討った。心を完全に乗っ取られて自分を失い、真の『魔人』と化した友を。

 過去と今、状況の核は同じに見える。

 体内に『魔人』を宿す者。危険因子。諸刃の剣。

 討たずに放れば、いずれ世界が危機に曝される。

 誰もがそう思い、納得するだろう。

 ところが、アズロットには、全く違って見えていた。

 愛した友は、『魔人』に心を侵食され尽くしてしまっていたが、今、この少年は、まだ己を保っている。

 意思を、“心”を、失くしてはいないのだ。

(過去がそうだったから、今も同じように対処する。これは間違ってるわけじゃねぇ。だけどな、『不幸粒子』の侵食が始まってる今の世界では、あらゆる“負の概念”を覆して、反撃(、、)してやらなきゃ意味が無ぇんだ)

『そうだよね……』

 アズロットは、左肩に担いだ大剣(リュウ)と、首元の爆弾リングにふと意識を向ける。

 これを振り下ろせば、愛剣はアズロットを裏切る事無く、『依頼』を達成させるだろう。振り下ろさなければ、首輪が『依頼』を放棄したアズロットに牙を剥き、『死』という名の“負の事象”がアズロットを襲うだろう。

「……」

 やらなければ、自分がやられる。その心理は、かつても今も同じ。それを分かつのは、選択だ。

「――――お前は、どうしたい?」

 足元で横たわる少年に、つぶやく。

 もし、少年が心の中で『魔人』に破れ、今度こそ本当に心を乗っ取られ、次に目を覚ました時にはもう手遅れになるというのなら、ここで終わらせてやるべきだ。

 でも、もし、少年が己の中の『魔人』に反撃(、、)し、打ち勝つチャンスを、今アズロットが下す決断によっては与える事が出来るというのなら、それに賭けてみたい。

 この時代で、唯一“過去”を知るアズロットだからこそ、抱き、成し得る選択と言えるだろう。

 アズロットは愛する友に、誓ったのだ。

“もう二度と、同じ事は起こさない。お前と同じ境遇の人間を救う”と。

 その瞬間から疾うに捧げていた己の命を、こうして誰かのために役立てる機会に恵まれ、誓いを果たすことが叶うなら、この世に未練などない。

「――――そうか。確かに今の俺の心理だと、大切なものを守るためなら、1つの命は安いって考えに至るな。一度“そうじゃない”と否定しておいて、結局は自己犠牲っていう、根本的な部分が同じな選択をするのかって、さっきの眼鏡の坊主なら突っ込んできたかもしれねぇ……」

 己が愛した友への誓いを果たすため、最善と信じて選択した答えを皮肉るように、アズロットは薄く笑む。

“少女の声”が言っていた、“多数の命のために1つの命を切り捨てる”という考えも時には必要に思えて、命を天秤で量る行為は許されないという考えも同じく、必要に思える。

(固めたはずの思いが揺らぐ、か。いくら強い意思と気想を備えようが、“6人の代行者”の一角だろうが、俺も所詮は1匹の人間てわけだ)

 アズロットは白い歯を覗かせて笑う。

(両方とも正しくて、両方とも間違いなら、俺はどちらを選べばいい?)

(おい、“世界”よ)

(黙ってねぇで、ヒントの1つでもよこしやがれ)

 世界はどうやら、矛盾で溢れているらしい。

“矛盾”こそ、世界なのだ。

 今の寿潤人であれば、この場では空を睨むだけだったかもしれない。

 しかしアズロットは、微かに声を漏らし、笑った。

「まぁ、何がどうなろうと、時間は止まらねぇ。止まらねぇなら、自分で進むしかねぇ。後悔するのも、安堵するのも、その先の話だ。酷なようだが、この世界じゃ、もうそれが当たり前なのさ」

 アズロットは、横たわる少年に語る。

「慣れろ。慣れて、笑い飛ばせ。それが出来りゃ、オレ達の勝ちだ」


 その時だった。


「――――ッ!!」

 アズロットは、遠方から自分を狙う者の気配に気付き、瞬時に後方へと飛び退いた。

 アズロットがそれまで立っていた場所に、槍の如き(いかずち)が突き刺さる。

 まるで天罰が下るかのように。

 悩み惑う者たちに活を入れるかのように。

 一瞬視覚と聴覚が麻痺し、思わず瞬いたアズロットだが、少し前から漂っていた新たな気想の気配もあり、今の雷に乗じて新手の術師が現われた事を(さと)っていた。

 数秒前から、誰かに見られているような気もしていた。

 そして、竜の五感で、その誰かが超高速で近づく気配を察知した彼は、その場から飛び退いたのだ。

 動物の中でも群を抜く竜の五感は、人から見れば、まるで先を読んでいると見紛うほど、感知の範囲と速度に富んでいた。

『わぁお!』

「こいつは驚いた」

 そう漏らすアズロットの前に立つのは、細身の剣を携えた、制服姿の少女。

 少女は長く整った睫毛(まつげ)に縁取られたナイルブルーの目を鋭く細め、アズロットを睨みつける。

 欧州人を思わせる色白の素肌。スラリとした長身な身体。腰まで伸ばしたブロンドの長髪は黄色くも白くも輝き、時折放電が見られる。

 世にも珍しい、雷系統の術師(スキラー)だろう。

 それだけではない。

 アズロットと少女の周囲を囲むように、着岸広場中に無数の杭のようなものが突き立っていた。

 雷と共に空から現われた少女が、同時に杭の雨を降らせたとでもいうのか。

「そこまでにして頂きます。彼は我が校の生徒です」

 少女とアズロットの身体を、雨の滴が打ち始める。

「増援のつもりか?」

「私は、新大島東高校で生徒会長を務めている者です。現時刻をもって、貴方を暴行致傷、器物破損の罪で逮捕します。無意味な抵抗はなさらず、風紀団(コミュニティー)が管理する留置所までご同行願えますか?」

 その少女――――レイラ・アルベンハイムは、ブロンド(、、、、)の髪を靡かせ、威ある口調で言い放った。彼女の気想からは、恐れも迷いも感じられない。

 と、アズロットは感心した後で眉を寄せた。“リュウチジョ”など、教わっていない単語は何を指すのかよくわからない。

“逮捕”は確か、手枷をはめられて、身柄を拘束される事だったはずだ。

 差し詰め、“牢に入れ”的な事なのだろう。

「断る」

「ダメです」

「だが断る」

「許しません」

「されど断る」

「では、斬りますが?」

 レイラのこめかみから、まるで怒りを表すかの如く、バチリと電流が迸る。

「それより、今の術は何だ? 今まで長いこと人生やってきてるが、初めて見たぜ。どんな修行をしたんだ?」

 こんな時は適当に逸らして、逃げの手を考えるに限る。

 それに、レイラの術に興味があるのは本当の事だった。アズロットの時代では、雷の能力は創造が困難で、かなりの難易度だったため、気想術全盛時代であるにも拘らず、会得者がほとんど居なかったのだ。

「……貴方は、電流による拷問を受けた事がありますか?」

「――――?」 

 レイラの睨み据えた表情に、僅かな陰りが差した――――ように見える。

「貴方は、死を知っていますか? 肉体を失う感覚を、知っていますか?」

 それは、彼女の過去の体験を指すのか、他の情報源によるものなのか定かではなかったが、陰りの中でも尚、強くあろうと、光を宿した彼女の目を見たアズロットには、前者に思えてならなかった。

「気想術の発現には、気想の量と想像力の他にも、経験によって深層心理に根付いた感覚や感情が大きく関与すると言われています。私がこの力に目覚めたのも、その例の一つです」

 何らかの理由で臨死のようなものを体験し、そこから“肉体を失う”という想像(イメージ)が芽生え、己の身を電流に変化(トランス)させ、長距離を一瞬で移動する気想術(ソウルスキル)を発現した、といった所だろうか。

「新しい術は、いくつも条件が重なって初めて出来るもんだからな。お前がここへ来るのに使った術は“転身(ジャンプ)系統か?」 

「端から見れば似ているようですが、違います。己が身体を別の場所へ瞬間的に高速移動させる“瞬速(ソニック)”に分類される術です。あらかじめ移動したい場所に自分の気想を仕込み、或いは飛ばして、座標選定(マーキング)経路選定(ナビゲーション)をする必要があるのですが、貴方は私がそのためにここへ飛ばした気想を察知したのですか?」

「まぁな。避けるのは際どかったが」

『さっきの術の速さには、リュウちゃんもびっくらこいたよ』

「大した反射能力ですね。あの一撃で眠って頂ければよかったのですが」

「オレは仕事でこの島に来てるんだ。邪魔はやめといた方がいいぜ?」

「まだ戦うと言うのであれば、私が相手になりますよ? 少しは楽しませて頂けそうなので」

 険しい表情を変えることなく、レイラは細身の長剣を縦に掲げ、顔の前に構えた。

「ちなみに、周りに避雷針を仕掛けましたので、このエリア内であれば、私はあらゆる範囲に一瞬(、、)で移動出来ますから、目を回さないようにして下さいね?」

“ヒライシン”とやらが、アズロット達を取り囲む、銀に煌めく無数の杭の正体らしい。

「面白い芸当だ。是非とも手合わせ願いたいところだが、ちょいと疲れた。しばらく休む間、そこの坊主はお前に預ける」

「狙いはこの子という事ですか?」

「ああ。お前は、その小僧が何者か知らねぇのか?」

「――――何の事でしょうか?」

 今の言葉の前に在った僅かな間が意味するものを、アズロットは推察する。

 彼女が庇うように立つその影で、少年は小さくうなされている。しばらくすれば、目を覚ますだろう。

「いや、お前くらいの能力者なら、気付いてるかと思ってな。知らないなら、その方がいい」

「……」

 アズロットの見間違いなのか定かではないが、今少女の口元が、僅かに笑んだ――――ような気がした。

 どこか遠くの方から、先のヒコウキに似た轟音が響いてきた。それに続くように、多数の術師の気配が近づいてくる。 

「さっき、海に何人か放り込んだ。悪いが助けてやってくれ」

 そう言い、アズロットはその翼で空へと羽ばたいた。さすがに、『魔人』と戦って消耗した状態で、恐らくかなりの使い手であろう金髪の少女を相手取るのは、少々厳しいものがある。戦略的撤退というやつだ。

「それと、オレは露出に趣味があるわけじゃねぇからな!」

 自身の格好を気にしたアズロットは捨て台詞と共に一気に加速し、避難所として選んだ場所に向かう。

 中央の山へと。

(一先ず隠れて、傷の具合を見なきゃならねぇ。出直すのはその後だ)

 次第に強くなる雨と風を切り裂き、闇夜に紛れ、山の東側へと近づく。

 どこか、雨風を凌げる所があればありがたい。

(それにしても――――)

 アズロットは、先程から気になっていた事があった。

『アズロットも、気になる?』

 どうやら、リュウも同じ事を考えていたらしい。

(今の、金髪の嬢ちゃん。あの気想と声はどこかで……)




 雨足が強まる中、レイラ・アルベンハイムは『竜人』が飛び去った方角を、追跡する事も無く、いつも通りの落ち着いた様子で見つめていた。

 物言わず、制服のポケットから取り出したインカムを耳に取り付ける彼女の背後に、黒の戦闘服に身を包んだ2人の男女が馳せ参じた。

 レイラの背後で片膝をついた2人が身に着けているのは、機動部隊(ナイト・フォース)共通のタクティカルベストではなく、忍者が着るような半袖の鎖帷子に、下はコンバットスーツとタクティカルブーツという、機動性に振った異種装備だ。

 両者共に、背中に刀を背負い、腰の後ろにハンドガンのホルスターを装着している。

 左耳にはインカム、右耳にはサーチライトをそれぞれ掛けた、レイラの親衛隊のメンバーだ。

 新大島東高校の3年生から選び抜かれた精鋭である。

 2人に続いて、上空からは2機の武装輸送機(ガンシップ)がサーチライトを点灯させつつ飛来し、複数の隊員が機内からロープで降下してきた。

「レイラ会長、ご指示を」

 親衛隊の少女がレイラを見上げる。

「侵入者は三沢山へと逃走。貴方たちは、武装輸送機(ガンシップ)の援護を受けつつ、他の小隊と連携して捜索にあたりなさい。116小隊はここに残って、海に落ちた生徒を救助するように。私は今から東高校にて緊急総会を召集し、応援を要求します」

 武装輸送機が備えるターボファンエンジンからの轟音の中、レイラは山へと向けた目を逸らさず、各小隊の特徴を考慮し、インカム越しにそう命じた。

 それは港に参じた部隊全員に伝わり、一斉に行動が開始された。

 武装輸送機がエンジンの出力をやや上げて前進を開始するのと同時に、総勢20名を超える術師が銃を構えて進んでいく。

「はっ!!」

 2人の男女は、まさに疾走と呼ぶに相応しい速さでコンテナ群へと駆けていき、目を見張る跳躍力でコンテナに飛び乗り、その上を走って内陸へと姿を消した。


『索敵結界を前面に展開して、警戒しながら前進しろ。訓練通りにやれば大丈夫だ』


『131小隊は照明弾を発射し、付近の生徒に警戒を促せ』


武装輸送機(ガンシップ)は敵からの奇襲に警戒されたし。108小隊の橙泉より、敵は対空戦闘能力を有するとの情報あり』


『海から複数の人の生体反応が! まだ間に合います! 急いで!』


 隊員達の連絡が飛び交うインカムを徐に外したレイラは、ここでやっと視線を動かし、足元に横たわる潤人を見下ろした。

「……その辛さの中を歩んでいく事が、大切なものを救う兆しに成り得るのだと、あの人(、、、)は言っていました」

 そうつぶやくレイラは、先程の射竦めるような表情から一変し、暗い思い出に浸るかのような、悲痛の色を浮かべていた。

「――――と言っても、貴方たち(、、)は私を恨んでいるでしょうね」

 その言葉は、倒れた少年と、少し離れた後方からレイラの背を物言わず見つめる者へと向けたものだった。

「……もう、止めて下さい。レイラ会長」

 レイラの後方で、少女の声が発せられた。

 透明感のある声。二つに束ねたおさげの黒髪。

 鍛え抜き、極限まで引き絞った細身の身体。

「彼は、もう十分耐えてきました。潤人も私も、もう限界です」

「寿潤人の監視。それは今後も変更の無い、貴方の任務です。咲菜美さん」

 レイラはその少女――――咲菜美の方へと向き直り、2人はしばしの間、無言で視線を交わす。

「なら、私を解任して下さい。もうこれ以上、潤人を欺くのは嫌なんです」

 咲菜美は必死に悩み、選び、やっと紡ぐかのように、その喉を震わせた。

 彼女の頬には、雨とも涙とも取れる滴が伝い続けている。

「私は貴方をとても頼りにしています。今日、寿君の不在時に彼の家に入り、リル殿下の状態を報告し、その場をうまく切り抜ける事が出来たのは、彼の幼馴染である貴方だからです。咲菜美さんは、今回の計画において、非常に重要な役割を担っている。それが損なわれては、計画に狂いが生じてしまうかもしれないのですよ?」

「……」

 きつく結んだ唇を、咲菜美は動かす事が出来ない。

「もう少しの間、辛抱して下さい。計画はこれから大詰めを迎えます。それが過ぎれば、長期に渡った貴方の任務もおしまいです」

「上手くいく保障はあるんですか?」

「結果がどうであっても、私達は『不幸粒子』に抗わなければならないのです」

 如何に絶望的な状況であっても、絶望してはならない。最後まで、『不幸粒子』に抗う。それが、『I・S・S・O』なのだ。

「寿君は、貴方が自宅へと運んであげて下さい。彼を部屋に寝かせた後、アパートの周辺を見張るように。寺之城君達の事なら、救助部隊に任せて下さい。医療院へと運ばせますので」

「……はい」

 レイラは、咲菜美が俯きの影で歯を食い縛っているのを見逃さなかったが、それ以上の言葉は掛けなかった。

『指揮官は、時には冷酷にならなければならない』という、彼女の師の教えを思い出していたのだ。




 三沢神社は夜の帳に染まりながらも、眠り行く自然を見守るかのように、暗闇の中でその存在感をひっそりと漂わせていた。

 先ほどの雨はレイラの気想術の作用によるものなのか、局地的だったらしく、山の方は全く降っていなかった。

「ここいらが妥当かねぇ」

 腹部に穿たれた傷を押さえつつ、アズロットはつぶやいた。

 身を隠せる場所を探していたアズロットは、空から山に近づいた際に、生い茂る木々の開けた場所にこの建物の屋根を見出し、一先ず降り立ってみたのだった。

 人影は無く、何の気配も無い。ここであれば、しばらくの間休む事が出来るだろう。

『――――日ノ本の神殿かぁ。こんな形の門、リュウちゃんは覚えてるよ? “ジンジャ”って呼ばれてたよね!』

 古びた鳥居に迎えられ、アズロットは敷地内へと足を踏み入れた。

 正面に見えた小さな社の裏手に回ると、家屋と思しき建物が隣接していた。明かりは無い所から見て、無人だろう。

 さすがに、神聖な社の中に上がり込んで休む気にはなれないので、この民家の中を覗いてみる事にした。

 社の真裏、家屋の引き戸の前に立つアズロット。

 社同様、この家も築数十年は過ぎている老体だった。

 以前、この島の地上は日本政府によって大規模な開発が行われたらしいが、中にはこの家のように、手をつける事なく残された建物もあるようだ。

「木造か。木の家は本当に久方ぶりだな。石造りには無い、木だけが出す独特の匂いがする」

 そう呟いて、引き戸の取っ手に指をかけようとしたアズロットは、 

「――――ッ!?」

 自分の背後から来る何者かの視線に、そこで初めて(、、、)気付いた。

「あなた、だれ?」

 アズロットは振り向くと同時に、おっとりとした口調の声を耳にした。

 敷地を囲んで立つ木々の奥から、こちらへと歩んでくる小柄なシルエットがあった。

 新月の夜空で瞬く星たちが僅かに照らす敷地内に現われたのは、薪を抱えた一人の小さな少女。

 頭には円錐型の帽子を被り、白い上着に、紅いロングスカートのようなものを纏った身なりは確か、この日ノ本に古くから伝わる、神聖な民族衣装だったはずだ。

 その昔、日ノ本を訪れたことのあるアズロットは、かつてそこで見た、巫女(ミコ)と呼ばれた女性の姿を思い出した。

 今目の前に現われた少女もその類か。

「ええと、その、怪しいモンじゃないんだが、この家の住人か?」

 たった今までその少女の存在に気付けなかったアズロットの方が、動揺で言葉が出てこない。

「そうだけど、怪我をしてるの?」

 腹と肩に傷を負ったアズロットの血にまみれた身体を目にして、薪をその場に置いた少女は、その帽子をひょこひょこ揺らしながら駆け寄ってきた。

「――――大丈夫?」

「大した傷じゃないさ。しばらく休めば治る」

「手当てしないとダメだよ。そのためにここに来たんでしょう?」

「ああ。別に盗みに入ろうだとか、思っちゃいねぇんだ。ちょいと隠れて休める場所が欲しくてだな――――」

“ヘンシツシャ”だと思われているのでは、と不安になりつつ、アズロットは答える。

「上がって?」

 家の鍵でドアを開けた少女は、バカでかい剣を携えた見慣れない大男を特に怪しむ様子も無く、1人の怪我人として見てくれていた。

「――――済まねぇな」

 まだ血が滲み続けている腹部を片手で押さえつつ、アズロットは石畳の狭い玄関に入った。

「靴は脱がなくてもいいから、ついてきて」

 と、自分の履物を脱いだ少女は、一足先に廊下を歩き、奥へと入っていく。

(そういえば、日ノ本では靴を脱ぐのが習慣だったか)

 アズロットは怪我人に対する少女の細かな配慮に感謝しつつ、ブーツを脱いで廊下へと上がる。

 巨漢の重量に驚いたか、木の板が規則正しく敷かれた廊下がギシギシと軋んだ。

 少女の後に続いて奥へ進んだアズロットは、左手の、畳が敷き詰められた部屋に通された。

「ここがリビングか?」

 と聞いてみたところ、日本では“茶の間”と呼ぶらしかった。

 頼りない白光色の電球がチリチリと宙を照らし、部屋の中央には木製の丸いテーブルが置かれている。

 食事も団欒もこの一部屋で済ませるのだそうだ。

(ドアの枠に頭をぶつけちまいそうだな……)

 アズロットの体格には若干窮屈な部屋ではあるが、文句などは言わない。

「ここで休んでて。今お札とか、お水とか持ってくるから」

 家の中でも帽子は外さないらしい少女は、足袋を履いた小さな足でぱたぱたと走り回る。

「いろいろと悪いな、嬢ちゃん」

 壁に大剣を立て掛けたアズロットは腰を下ろし、自身も壁に背を預けた。

『ちょっとアズロットぉ? あんまり油断しちゃ嫌だよ?』

 リュウが口を尖らせたような声を発する。 

 向かって左には引き戸式の窓があり、外の様子が伺えた。今の所、建物の周囲には何の気配も無い。

 向かって右には、廊下を挟んだ向こうにキッチンと思しき部屋があり、少女が時折爪先立ちになりながら、せっせと物音を立てていた。

「とりあえず、わたしが出来る限りのことはしてあげるから」

 バケツにタオルを浸して運んで来た少女は、そう言ってタオルを絞り、アズロットの上半身を慣れた手つきで拭き始める。  

「痛くない?」

「ああ。少しくらい、雑に拭いてくれて構わないぜ」

「あなたは頑丈みたいだけど、傷は丁寧に治療しないと、悪いバイ菌とかが入っちゃうよ?」

 腹部の傷口に、タオルをそっと宛がう少女。

「お前、名前は?」

万炎(ばんび)。あなたは?」

「オレは――――」

 アズロットは名乗ろうとしたが、突如として外に現われた気配が、2人の会話を途切れさせた。

 玄関のドアを、誰かがノックする。

「ッ!?」

 息を潜めるアズロットを、万炎は不思議そうに見つめた。

「どうかしたの?」

「……いや、何でもないさ。それより、お客さんじゃないのか?」

「そうみたい。少し待ってて?」

 ぱたぱたと、玄関へ駆けていく万炎。

(畜生。そう甘くはいかねぇか)

 今家の外には、複数の術師の気配がする。

 恐らく、港からの追っ手だろう。

 思っていたよりも早くここまで来られた。

 今回の仕事には関係の無い万炎を巻き込むわけにはいかない。

 そう考えたアズロットは、今のうちに窓から出て、森に身を隠そうとするが、

(――――!?)

 身体が、動かない。

 まるで前進の筋肉が眠ってしまったかのように、応答しない。

 力が、入らない。

(身体が、う、動かねえ!)

『アズロット? 体内に変な気想が紛れ込んでるよ? あの万炎って子、何かしたのかな……』

(なんであの嬢ちゃんが俺にそんな事――――まさか、痺れさせる術か何かで俺の動きを封じて、突き出す気か!?)

 いや、待て。

 あんなに温厚な少女が、果たして裏でそういう事を考えるだろうか。

 自分が思った以上に、消耗していたという事ではないのか。

 なんてタイミングだろうか。

 神聖であるとされる神殿の側でさえ、『不幸粒子』にとっては何の阻害にもならないのだろうか。

「……」

 アズロットは自身の気配を断つべく、息を止める。“気配消し”の基礎手段の1つだ。

 同時に、竜の聴覚を駆使し、玄関での会話に集中する。


『こんばんは』

『こんばんは、万炎ちゃん。少しいいかしら?』

『うん。どうかしたの?』

『今この山に、外部からの侵入者が潜伏してるらしいんだけど、誰か怪しい人見なかった? 情報だと、大男って事なんだけど』

『見てないよ?』

『そう。ならひと安心と言いたいところだけど、侵入者が捕まるまでは物騒だから、今夜は私の寮に来ない? 本当は、神社にはレイラ会長が直々に行くから、私達は他を探せって命令されているんだけど、彼女、他の高校の会長と緊急会議もやらなきゃだし、何かと忙しいみたいだから、先に私達で見回っておこうと思ったの』

『ありがとう。それなら、大丈夫だよ。わたし、ほら、レイラと話すための念話札持ってるから、いつでも助けを呼べるもの』

『でも、念話札だけでしょう? 本当に大丈夫?』

『うん。わたしも、神社の周りに、頑張って強力な結界を張っておくから』

『――――レイラ会長が来るまで、一緒に居ようか?』

『ありがとう。嬉しい。でも大丈夫』

『それじゃ、何かあったら私の携帯にも連絡くれる? 足には自信あるから任せて? 海沿いの女子寮からここまで5分以内に来てあげられるから。レイラ会長の瞬速(ソニック)、天候によって最長移動距離が変わっちゃうの』

『わかった』

『それじゃ、行くね。ちゃんと戸締りするのよ?』

『うん』


「……」

「――――お待たせ」

「……どうして、オレを庇ったんだ?」

 家の外の気配が遠ざかるのを待ってから、アズロットは聞いた。

「うーん、あなたは確かに大きいけど、怪しい人じゃないと思ったから。仮にあなたが悪い人だったとしても、怪我の手当てが先。そのあとで、わたしがあなたを突き出せばいいんだから」

 そう答えて、治療用と思しきお札を用意する万炎。

 アズロットはいたずらな笑みを浮かべつつ、

「手当てが済んだ途端、暴れて逃げ出すかもしれないぜ?」

「なら、治癒のお札に呪いも混ぜとく」

「冗談だ。済まん。オレが悪かったよ」

 先ほど万炎の事を疑ってしまったアズロットは、その後ろめたさもあり、素直に謝った。

「よろしい」

 万炎は、お札の呪文が書かれているのとは反対の面をアズロットの患部に宛がい、目を閉じて呼吸を整え、念じ始めた。

 すると、お札が熱を放ち出し、アズロットの腹部の傷口から、じわじわとした痛みが染み込んできた。

「ッッ!」

 アズロットは予想していたよりも強い痛みに、思わず表情を歪める。

「少しの間、我慢してね?」

 お札の上に両の手を優しく重ね、気想を注ぎ続ける万炎。

(オレが原因で、この嬢ちゃんが“理不尽”な目に遭うのは頂けねぇな) 

 アズロットはそんな少女の姿を見て、意を固めた。

 朝が来たらここを去る、と。 




『聴こえますか?』

「――――?」

 どのくらいの時間が過ぎたのか、いつの間にか眠りに落ちていたアズロットは、真っ暗な茶の間で目を覚ました。

『私の声が聴こえますか?』

 覚えがある“少女の声”とその気想が、茶の間を漂っていた。

 ふと顔を上げたアズロットは、丸いテーブルの上に、一枚の念話札が置かれているのを目にする。

 どうやら“少女の声”は、白く淡い光を放つこの念話札から聴こえたようだ。

 アズロットが眠る前に、万炎が、『何かあったら、これで助けを呼ぶから』と言って、テーブルの上に置いたものだ。

 今この部屋に居るのはアズロット1人だけ。

 それはつまり、念話札の相手が、アズロットに向かって話し掛けてきているという事だ。

「……よう。嬢ちゃん」

“依頼主”に、アズロットは返す。

『お身体は、大丈夫ですか?』

「ああ。ジンジャの娘のおかげでな」

『どうやら、標的を倒すことは叶わなかったようですね』

「封じはしたが、倒しちゃねぇ。それより、どういう魂胆か話してもらおうか?」

『はい。私も、いずれ全てを話す必用があると考えていました。こうしてコンタクトを取ったのもそのためです』

“少女の声”には、聞きたい事がたくさんあった。

 島に着いてから連絡がつかなかった“依頼主”はその間何をしていたのか。

 当初は『住民の避難は完了した』という話だったにも拘らず、大勢の子供達に迎えられ、攻撃を受けたのは何故か。

 その声と気想は、港で遭遇した、『レイラ』と名乗る雷少女のものと全く同じ(、、、、)なのはどういう事か。

 そして、『魔人』を宿した少年と、自らを英国の王女と名乗った“あの少女”は、一体何者なのか。

依頼主(クライアント)は、お前だったのか?」

『そうです』

『ええーッ!?』

 あっさりと認めたレイラに対して、リュウが叫んだ。

「どうして邪魔をしたんだ? 念話札が音信不通になったのも、事故じゃないよな?」

『あの少年はまだ、自分の正体を知りません。知らせてはいけない事になっています。ですから先程、私はあたかも貴方を敵と見做しているかのように立ち振る舞い、貴方をここまで逃がす事で、作戦を一時中断したのです。万が一、私達の会話があの少年の耳に残るとも限りませんので』

『南極からこの島に向かう途中でそれらしいことを聞いたが、そもそもどうして、あの小僧が自分の正体に気付いちゃダメなんだ?』

 アズロットの問いに、レイラは言葉を選んでいるのか、少しの間沈黙する。

『“魔人”は、今から15年前、日本の首都を破壊し、大勢の人の命を奪いました。この件は世界中が知る所となり、“惨劇”として歴史に記録されています。“魔人”の存在は隠蔽され、世間では大型爆弾を使用した“テロ事件”として認知されていますが、術師達の間では、“魔人”は凶悪な存在であるという印象が深く根付いてるのが現状です。その中で、彼が自分の正体を知ってしまったら、精神に掛かる負荷は相当なもののはずです。彼の精神が乱れ、恐れ、嘆いていては、“魔人”によって精神を乗っ取られる可能性を上げる事になり兼ねません』

「また随分と面倒な芝居をしたもんだな。殺処分するつもりなら、そこまであの小僧を気遣う必要は無いんじゃないのか?」

『私達の()の目的は、“魔人”の抹殺ではなく、“実験”なのです』

 レイラが返してきたのは、予想の斜め上を行く真実だった。

「依頼は全くの嘘だったのか?」

『それは違います。“実験”が失敗に終わった場合は直ちに処分します。貴方には引き続き、私達の傭兵として働いて頂きますし、報酬は以前お話した通りです。貴方と初めてコンタクトしたストロングホールドでは、偽りの依頼をする必要がありました。私達の“結界”の守りが及ばない、島の外の世界で、真実を話すことは出来なかったのです。敵対勢力に傍受される恐れがありましたので』 

「敵対勢力?」

 新たな情報に、アズロットは眉を寄せる。

『術師のほとんどが衰退した現代では、残り僅かとなった術師を中心に、その勢力を盛り返そうとしている状況です。とはいえ、世界各地を探せば、古来の術師は小規模ながらも存在しています。

 そして、その術師達の中には、反社会的な考えを持つ者や、“I・S・S・O”に敵対し得る者が居ないとも限りません。その者が中心となって、我々と似たような裏組織が構成されている可能性も否定出来ない。そういった情勢への配慮もあり、今回のような依頼の形を取らせて頂いた次第です』

「組織ってのは、いろいろ面倒でややこしいな。要は、真実を敵に知られたくないから、とりあえず適当な理由で偽装して、オレをここまで呼び出したかったってわけか?」

『はい』

「じゃあ次だ。港でオレをいきなり襲ってきたあのガキ達も、お前の差し金か?」

『そうです。理由は3つ有ります』

(……なんだか、手のひらの上で踊らされまくってる気分だ)

 アズロットは黙って間を置き、レイラに発言を促す。

『まず、貴方の肩慣らしのためです。刑務所内でリハビリをしたとはいえ、その前準備だけで彼の“魔人”と引き合わせるのは、いささか不安がありましたので』

「あのガキ達はお前のとこの生徒じゃないのか? いくらオレが加減してやったと言っても、戦場だぜ? 下手したら死んでもおかしくない場所に、お前は自分のガッコウの生徒を、消耗品みたいに送り込んだって言うのか?」

『死の危険性と隣り合わせの戦場に、しかもあの“悪天候”の下とわかっていて送り込んだのは事実です。生徒達には事前に、港で敵に備えるよう、命令も出していましたから。ですが、私は決して、彼らを消耗品として扱ったのではありません。まだ訓練中の身で、実戦経験を持つ者がほとんど居ない生徒達に、いずれは訪れる実戦を学ばせるため、貴方を、貴方の肩慣らしも兼ねて利用させて頂いたのです。遅かれ早かれ、危ない時は私が介入するつもりでいましたし、貴方のおかげで、生徒達にも良い刺激になったと思います』

「敵を欺くには味方からってわけか」

『今のお話を2つ目の理由として受け取って下さい。そして3つ目の理由ですが、これは、先ほどお話した、件の“実験”に関わるものです』

「オレも嬢ちゃん達の“実験”とやらが気になってたんだ。何が狙いなんだ?」

『私達は、あの少年が“魔人”に打ち勝ち、自身で制御(コントロール)出来るようになる事を望んでいます。“実験”とは、今後起こり得る“敵”との戦闘に備え、“6人の代行者(パワーシックス)”の1人である“魔人”を、我々の制御下に置けるか判断するための行為を指します』

『6人の代行者』の1人である寿潤人が、その体内に宿る『魔人』に打ち勝ち、力を完全に制御したうえで戦闘に参ずる事が出来るようになれば、その能力を組織のために利用する事も可能だろう。

『I・S・S・O』の狙いは、初めからこれだったのだ。

 そのために、宿主の少年は『東京』で生きたまま回収された。

 そのために、“保護観察対象”として育てられた。

 そのために、アズロットが呼ばれた。

 そして、そのアズロットも『6人の代行者(パワー・シックス)』の1人。

 つまり、今回の計画が成功した時点で、『I・S・S・O』は2人の代行者を管理化に置く事が出来る。

「まさに“合理的”ってか? まさか、あの金髪の嬢ちゃんも、この計画のために、あんな存在(、、、、、)にされちまったって言うのか?」

 アズロットは、己が首を刎ねた少女の事を想起した。

 自らを“英国第一王女”と名乗った、まだ幼さの残る少女。

 人間ではない(、、、、、、)少女。

『違います。ですが、“彼女の死”が計画の足掛かりになったのは事実です』

 幾許かの沈黙の後、レイラは話し始めた。

『英国第一王女は、今から一年ほど前に事故で亡くなりました。その時、彼女の“心”には強い未練と願いが残っており、“霊人(スピリット)”として現世に覚醒し、彼女のもとを訪れていた寿潤人に“憑依”したのです。その彼女が“霊人”となった際に発現したと思われる能力(、、)に、私達が目をつけ、今回の計画が立ち上がりました』

 レイラが語る、『霊人(スピリット)』という言葉の意味を、アズロットは知っていた。

 一度肉体を失った者が何らかの強い想いを残していた場合、それが目には見えない思念体となって現世を彷徨うという、世間で言えば『亡霊』のような事象が起こるが、その思念体の中でも、群を抜いて強い気想を持つ者は、思念体である己を実体化し、あたかも生者であるかのように存在する事が出来る能力を発現する場合がある。その者の事を、『霊人(スピリット)』と呼ぶのだ。

 死者が『霊人』の力を発現するのは非常に稀であり、『最暗部』が管理する歴史上では、過去に『霊人』であると認識されたのは2人しかいない。

『霊人』という概念が生まれるきっかけとなった“最初の1人”は、今から数百年前とも、数千年前とも記述の残る遠い昔の人物で、それから現代に至るまでの間において、新たに発現したのは1人だけ。

 つまり、数百年に1人現われるかどうかの逸材なのだ。

「そいつは昔、噂で聞いた事があるぜ。嬢ちゃんの雷系統よりもうんと珍しい能力だって話だろ?」

『仰る通りです。“霊人”は、過去の歴史上で2人しか認知されていませんから』

「リルって嬢ちゃんが“3人目”ってことか」

『そうなります。飽く迄、私達が把握している中での話ではありますが――――』

 歴代の『霊人』には、実体化能力に加え、強力な気想術が備わっていた。神でも人間でもない『霊人』が扱う気想術は、『霊術(スピリットスキル)』という部類に分けられる。『霊術』は、死者が生前から修行していた気想術が死後に開花するケースと、生前から備わっていた術が死後も継続され、より強力になるケースの2つが報告されているが、“3人目”であるリルの場合は、“死後、全く新しい能力に目覚める”というケースであった。

 そのリルの“全く新しい能力”が、今回の計画の重要な鍵を握っているらしい。

『霊人』は滅多に現われる事のない“逸材である”と言えば聞こえは良いが、その存在にはリスクが課せられる。

『霊人』は、契約を交わした生者に憑依し、気想を吸い取らなければ、自らの存在を維持できずに消滅してしまうのだ。気想を吸い取るという事は、宿主の寿命に大きく関わってくる。

 宿主が老いても、自分の姿形は変わらぬまま、やがて訪れる永遠の別れを待つのだ。

 宿主が死ねば、新たな宿主と契約する事となる。

 もし、『霊人』と宿主の間に愛情が芽生えた場合、寿命が減って死期が早まるという宿命を認められなければ、2人にとって辛い運命となる。

『霊人』のリスクも心得ていたアズロットは、港でリルに助言をし、彼女を鼓舞したのだ。

「1つ、気になってることがある」

 アズロットは、自身がリルの首を刎ねた理由を語る。

「あのリルって嬢ちゃんと、『魔人』の小僧と、それから眼鏡の若造には、誰かに記憶を操作された気配(、、)があった。ちなみにオレもな。それが誰なのかも、意図もわからねぇが、嬢ちゃんの場合は、その実体化を強制的に解くことで、記憶操作の束縛から解放してやれないかと思ったんだが、成功したかどうか不明だ。リルの嬢ちゃんは、『魔人』の小僧に()いてるんだろ? お前の方で、あいつらの状態を確認できないか?」

 記憶に干渉する術は複数あるが、いずれも、解除の方法が存在している。被術者の特定の部位にショックを与えるか、特定の台詞を言うかの2つである。

 後者である場合は、術を掛けた人物以外には解除用の台詞がわからないので厄介だが、前者であるなら、まだアズロットにも対処のしようがある。

 術者が、肉体を持たず、姿の見えない『霊人(スピリット)』状態のリルと、実体化した状態のリル、どちらに術を掛けたのかにもよるが、実体化した状態であれば、解除方法は“ショック”で、『霊人』の状態であるなら、解除方法は“台詞”の可能性が色濃い。アズロットは、“ショック”に賭けた。

 解除方法が“ショック”の場合、記憶を司る脳と、解除スイッチとなる身体の一部を、術者は気想の糸で繋ぐ必要がある。首を切断する事で、脳と身体の一部を繋ぐ“糸”を切り、術を解こうとしたのだ。

 無論、成功する確証は無い。

 解除方法が“台詞”であれば、どこにショックを与えても無意味だし、“ショック”の場合でも、“糸”を切られる可能性を消すために、スイッチを額や耳といった頭部に設けていれば、首を切られても“糸”は切れない。

 実体化した状態のリルに術が掛けられ、スイッチと糸が設けられたのなら、1度実体化を解いて肉体を消せば、掛けられた術も消えるかというと、そうではない。

 実体化は、リルが気想によって己の身体を“想像し、創造したもの”――――つまり気想術である。それは実体化を解いたとしても、リルの記憶に残り続ける。そこに他者が仕掛けた気想が紛れていれば、それも共に残ってしまうのだ。

 1度データを保存したパソコンをシャットダウンし、再度起動した際に、保存したデータが消えずに残っているのと同じように。 

『記憶操作――――ですか? 私には、貴方が一体何の事を仰っているのか分かりかねます。港に居た複数の人間に、件の術が掛けられていると?』

 どうやら、アズロットを含め、何人かがリルのように記憶の一部を封じられているという事態を、レイラは知らないようだ。

 アズロットの目が、訝しげに細められる。

「お前は、“計画”ってやつに詳しそうじゃないか。何も知らないわけはないだろう?」

『今回の計画に記憶操作の過程があるとは聞かされていませんので、何の関係も無いはずですが。貴方には、術の痕跡が分かるのですか?』

「竜の特技は豊富でね。本当に何も知らないのか? もし、今回の仕事と何の関係も無いとしても、お前らの生徒が誰かに記憶を弄られているってのは、問題だろう?」

『まず、記憶を操作する意図が掴めません。それに、この島に居る術師(スキラー)達の中で、他者の記憶に干渉して操れるほどの力を持つ者はおりません』

 今回の『依頼』の裏で手回しを働いていたのはレイラだが、“記憶操作”については全くの無知であった。これはつまり、レイラもアズロットも知らない思惑を持つ何者かが、影で動いているという事になる。

「島には居ないって事は、オレみたいに、外部から来たヤツが他にも居て、そいつが裏で悪巧みをしている可能性なら有り得るんじゃないか?」

『この島は、“I・S・S・O”の誇る結界が展開し、島の住人を『不幸粒子』から守っています。もし侵入者があった場合には、結界師達が逸早く気がつく事でしょう。ですが、島は平穏を保ったまま。言い難い事ではありますが、貴方は長年のブランクもあり、感覚が麻痺しているのではありませんか?』

「なあ、嬢ちゃん。気になる事がありすぎると、なかなか寝付けなくて、疲れがとれなかった、なんて経験無いか? 無いか。若いし……」

『――――わかりました。私の方で、調査に当たってみましょう。貴方は、朝までに回復出来そうですか?』

「血は止まったし、このまま邪魔が入らなければ、体力も戻るさ」

 アズロットは自分の腹部の傷を見遣り、そこに包帯が巻かれている事に気付く。

(あの帽子の娘――――バンビって言ったか? 手当て上手いな)

『幸いです。我々は早朝にもう一度、あの少年の覚醒を試みますが、その際、貴方にもう一度彼の相手をして頂きたいのです。次が最後です』

 レイラの言う、“最後”という言葉が指す意味を、アズロットは考えた。

『もし、この最後の試みでもダメ(、、)な場合は、南極で依頼した通り、処分()して下さい』

 組織は飽く迄、『魔人』が利用可能なら(、、、、、、)生かして戦力にし、利用は出来ず、敵対関係になり得るのであれば、殺処分するという意向なのだろう。

「……わかった」

『魔人』を宿した少年にとっても、それを救ってやりたいと志すアズロットにとっても、次が最後のチャンスという事だ。どんなに足掻こうが、審判の時は来る。

『処分って言葉、あんまり好きじゃないな』 

 と、リュウが漏らす。

『指示は追って伝えます。別の場所へ移動して頂く事になると思いますので、そのつもりで』

「さっき話した“記憶操作”の件、頼んだぜ? 今回の仕事は、いろいろと臭う。お前も、気をつけた方がいい」

『ご忠告、ありがとうございます。何か分かり次第、すぐにご連絡します。それではまた後程』

 というレイラの声を最後に、念話札の発光が止んだ。

 アズロットの忠告を、彼女が重く見たかどうか、定かではなかった。

(一体、この島で何が起こっていやがる?)

 考えるほどに浮かび上がる疑問を、アズロットは整理する。

 

・魔人は如何な経緯で、“あの少年”に宿ったのか。

・アズロットを含め、複数の人間が、似たような記憶障害に陥った原因は何なのか。

・計画の鍵であるというリルの持つ能力とは、一体どんなものなのか。

 

 レイラの言うように、自分の感覚が鈍っていて、考え過ぎなだけなのだろうか。

 アズロットは、どうしてもそうは思えなかった。

『ストロングホールド』で感じた、何者かの“気想(ソウル)”。

 その“気想”の主が今、この島のどこかに居る。

 ニオイがするのだ。

 気配が在るのだ。

 恐らく、向こうもこちらに気付いている。

 監視されている。

 だが、飽く迄、それだけだ。

 直接関わろうとはして来ない。

 その意図が、未だにわからない。

「……人を駒みたいに扱いやがって」

 アズロットは暗闇の虚空を見つめ、そう独りごちる。まるで、手のひらの上で踊らされているかのような気分だった。

「裏でコソコソしてないで、前に出てきてものを言いやがれってんだ。振り回されるこっちの身も、少しでいいから考えて欲しいもんだぜ……」

 アズロットはふと、自分が酒を探して視線を動かしている事に気付く。

(そういえば、酒も久しく飲んでないな。この仕事が済んだら、どこかで一杯やりたいもんだ)

 さすがに万炎が酒を持ってはいないだろう、と、僅かに抱きかけた希望に自らツッコミを入れたアズロットは、ほんの少しではあるが、気が紛れた。

 朝が来れば、最後の戦いが始まる。

 アズロットは、己の成すべきことを再確認する。

 次は、迷いはしない。

 素早く見極め、決断する。

“あの少年”とリルが、自身の抱える“闇”に敗れれば、アズロットはその長い生涯の中で始めて、“子供を殺める”ことになるが、『竜人』の心には、そういった思考は無かった。

『魔人』を相手にした決戦を控えるアズロットは、懸念を背負うのは無しにしたのだ。

『魔人』が覆そうとするであろう“願い”を、負けじとひたすら強く抱いた。

(痛みは底無しかもしれねぇが、あいつら(、、、、)なら、それを跳ね退ける事が出来るはずだ)

“あの少年”が、港で垣間見せた、決意と覚悟に満ちた表情。

(痛みを知り、乗り越えた人間は、その分強い。これは時代だとか、個人だとかは関係無いと、オレは思うんだ)

 苦しみと恐れを乗り越えた者が見せる、強い心の面構え。

「あの小僧、ウルトって言ったか……」 

 ウルトとリルのコンビが、それを揺ぎ無いものとし、再び見せてくれることを、アズロットは願った。




(――――俺は、今、どんな状態なんだ?)

 朦朧とする意識の中、潤人は人の声を聞いた。

 それが誰のものだったかはよくわからない。


「――――は我が校の生徒です」


「――――は、その小僧が何者か知らねぇのか?」


(ダメだ。視界がぼやけてよく見えない。暗い――――)

 ふと、何かが身体に触れる気配が起こった。

 鈍い感覚が、微かな熱を捉える。

 手だ。

 誰かの暖かい手が、自分の手を握り締めている。

 一瞬、ほんの僅かに動いた眼球を通して、潤人は自分が誰かにそっと手を握られている事を知った。

「……」

 声は出せなかった。

 再び意識が遠くなる。


「――――うると」


 手を握ってきた人物が、自分の名を呼んだ。


「――――許して」


 聴き馴染んだ声。

 毎日聴くのが当たり前になっていた、安心する声。

 しかし、潤人がその声の主を認識する寸前に、再び暗闇が意識を奪った。




 ――――。

(俺は、あのあと、どうしたんだっけ?)

 次に意識が戻った時、既に手のぬくもりは無く、暗闇と静寂が辺りを包んでいた。

(港で海から這い上がって、そうしたら目の前で――――)

 潤人の脳裏に、再び“あの光景”が蘇る。

(ッ!?)

 力無く座り込んだ、1人の少女。

 その首に、彼女の身体よりも遥かに大きな、容赦の無い刃が襲い掛かる瞬間。

(ううッ!!)


『落ち着いて。私を受け入れて。力を抜いて――――そう、その調子』 


 ――――。


『私の声が聴こえる?』


 闇の虚無の中、声がした。

(――――?)

 潤人は声の主を探して首を動かす。どこを見回しても、見えるのは闇一色。しっかり視点を移動させて周りを見れているのか怪しくなってくる。

『こっちよ』

 潤人が顔を正面に戻すと、そこで闇から浮き出るようにして、黒のショートラインドレスを纏った少女が立っていた。  

 日の光をずっと拒絶してきたかのような蒼白の肌に、スラリとした身体。背丈は咲菜美と同じくらいに見える。

 幼いながらも、甘く妖艶な響きを含んだ声色は、潤人の記憶に深く焼きついて離れそうにない。

(……!?)

『貴方とは、これまでで一番深く繋がれた(、、、、、、、、)かもしれないわね』

 生き血が宿ったような深紅の瞳が、再び潤人を捉える。

(君は、さっき港で――――)

 最近になって、その存在は感じていた。

 だが、神社や基地での時とは違い、寒気や恐怖は感じない。

 出で立ちは、潤人が港に居た際、脳裏に初めて“姿”として現われた時と同じだ。

 確か、港では途中でリルの声が聴こえて、それっきり意識が飛んでしまっていたのだ。

『あなたに、こうして深く繋がって話すのは()度目ね。初めて会った日からもう随分経ってしまったけれど、あの日は未だに忘れられないわ――――』

“2度目”というフレーズが引っ掛かったが、幼少期の記憶があまり無い潤人は、いつこの少女と出会ったのかは思い出せなかった。

 だがこの時。

 潤人の脳裏に、恐らくは彼女が()っている情景が、浮かび上がった。

(!?)

 それは、荒れ果てた大地。

 砂埃と、嘆きに満ちた廃都。

 見覚えがある。

 かつて自分はこの光景を、どこかで見た事がある。

 ――――いや、違う。

 自分は以前、この場所に居た(、、、、、、、)

(ぐッ!?)

 再び、あの(、、)頭痛が鳴り響く。

 まるで、最も思い出させたくない事であるかのように、これまでに無い強烈な痛みが潤人を襲った。

『大丈夫?』

(あ、ああ。何とか。最近、ずっとこんな調子なんだ)

『……今のあなたの中には、私も感じた覚えの無い気想が込められて(、、、、、)いるわ。多分、その人間の気想が、あなたに痛みを与えている』

(……? 君以外にも、俺の中に誰か居るのか?)

『――――ごめんなさい。その人間の気想は私にも影響を与えていて、記憶を思い出せないから、詳しい事は解らないけれど、居る(、、)のとは少し違う』

(記憶障害なのは君もか。頭痛は大丈夫なのか?)

『私のような存在に、痛覚は無いわ』

(なら、安心と言いたいところだけど……)

『あなたの中に込められた気想が誰のものなのか、不安?』

(不安かと聞かれれば、そうだな。1度知り合いに相談したんだけど、確証の無い返答しかもらえなくて、俺自身にも、任務とか災難ばかりやって来て、そこまで深く悩む余裕が無かった。ほぼ野放しの状態だったよ)

『多分だけど――――』

 少女は少し考える間を置いてから、

『悪い人のものではないと思う』

 そう言った。

(そう、なのか?)

 どこの誰なのか、身元不明な少女は無言でこくりと頷く。どうやら潤人の不安を取り除こうとしてくれているらしい。

 しかし、彼女が何を根拠にそう言っているのかわからない以上、潤人の精神は依然としてすっきりはしなかった。

 というのは、相手の気想を感じ取り、更には善か悪かを言い当てるという行為そのものが、潤人個人にとっては現実から逸脱した事象である事が大きい。

(――――君は、一体何者なんだ?)

『私は、あなたの心に宿った“力”よ?』

 と、銀髪の少女は微笑を見せる。

(もしかして、“悪魔の力”ってやつか? 前に人から、“悪魔が取り憑いている”って言われた事があるんだけど)

 敵か味方かもわからない少女に向けていい質問かわからなかったが、この不安が思い浮かんだのは、質問してしまった後だった。

『……“悪魔”と言われても、仕方ないと思っているわ』

(――――仕方ないってことは、違うのか?)

『……神話は飽く迄人間が想像し、語り継いだもの。それらが全て真実とは限らない。私の存在は“滅びの力”として人間に恐れられてきたけど、本来の私の存在意義というのは、滅びではなく、“守護”なの』

 少女は自分の存在を“力”だと言った。

“滅びの力”。

 しかしその真意は“守護”であるとも言った。

(悪魔ではない――――つまり、天使みたいな位置づけって事?)

『人間の言葉でイメージするなら、その言葉が近いかしら。でも、明確な定義は私にも解らない』

(人間――――じゃないのか?)

『人間ではないし、人間が後から霊体化した“霊人(スピリット)”とも違うわ。私達は初めからこの姿。表現するなら、“天の遣い”の分身体――――かしら。“天の遣いによってこの世界にもたらされた存在”というのが適確ね。私と同じような存在は他に5人居て、それぞれが違う性質の力を持っているの。私の場合はそれが、人間の言葉で言うと“魔術”だから、“魔”のつく呼び名は間違いではないけれど、“悪”という文字を付加する事が適当かどうかは、人間一人一人の捉え方次第と言ったところね』

(“すぴりっと”なんて初耳だし、なんだか、“天の(つか)い”とか、話のスケールがとんでもないことになってるんだけど?)

『信じるか信じないかは、貴方の自由よ。でも、私の力は、本当はこの世界の秩序を守るためにあるという事だけは解っていて欲しい。過去の宿主達は皆、私の力を完全には掌握出来ずに一生を終えた。私は、最終的には投げ出す形で継承されたり、宿主が殺されて、別の人間に憑依する事を余儀なくされたりして、同じような事を何度も繰り返して、今日まで存在してきた――――』

 物思いに耽るかのような遠い目で語る少女の白い表情に、陰りが差したように見えた潤人は、口を挟まずに耳を傾ける。

『宿主が変わる度、私はその新しい主に訴えかけた。私を完全に受け入れるよう諭したの。それが、私の力を掌握するのに一番容易な手段だったから。でも、誰も私を受け入れようとはしなかった……どうしてか、わかる?』

 と、その細い首を僅かに傾げる少女。潤人の目に焦点を合わせた彼女の紅い眼は、どこか悲しげだ。

(――――滅びの力、だから?)

 彼女の表情に戸惑いつつ、そう答える潤人に、少女は瞳を閉じて静かに頷いた。

『皆、私を恐れていたわ。私が力を貸すと、その過剰なまでの効力で、人間の道徳で言う“悪の事象”を、敵以外のもの、つまり、宿主の大切なものにまで与えてしまうから。私を完全に受け入れて一体化してしまったら、取り返しのつかない“不幸”を振り撒いてしまうかもしれない、その恐怖が、宿主達を苦しめてきたの……』

 少女の眼から、一筋の紅い滴が零れた。

 白い頬を、深紅が伝い落ちる。

“滅びの力”が流す涙。

 その“紅”は何を意味するのか。

『私が“話す”だけで寒気に襲われ、私が“視野を共有”するだけで恐怖に竦み上がり、私が“力を解放”しようとするだけで、身体が動かなくなる。宿主達は皆その感覚に怯えて、その恐れを捨てきれないまま、止むを得ず不完全な一体化で私の力を使う。不完全な一体化では、力の制御が出来ない。そして、そんな状態で戦った後の状況が、人間達に更なる恐怖を与えたの……』

 震える声を、少女は紡ぐ。

『私は“滅びの力”。諸刃の剣。敵を問答無用で滅ぼす力は、同時に、力を使った人も、その周りのものも、傷つけてしまう』

 潤人の脳裏に、再び“荒野”が広がる。その“荒野”が生まれた理由の中に、恐らくこの少女が居る。しかし、今の話を聞けば、少女が本心から望んでそうしたのでない事は、誰もが察するはず。少女が主に宿した力が、悪意を含んだものではないと、理解し合う事に繋がるはずだ。だが少女はそれを、自分の力が招く誤解のせいで果たせていないのだろう。 

『私にそのつもりは無くても、そうなってしまうの。人間は不完全な存在。“完璧”な人間なんて居ない。だから皆、怯えながら私を使う。怯えながら力を発動すれば、たちまち暴走して、滅びを振りまいてしまう……』

 長い時間を苦しみに埋もれて過ごしてきたであろう少女は、これまで誰にも聞かれずに蓄積してきた思いを吐き出す。

『――――でも、私には、どうする事も出来ない。宿主が力を望めば、私は逆らえない。暴走を止めてあげることも出来ない』

 しゃくり上げ、瞑った目から紅い滴を零しながら。

『怯えて使うくらいなら、私を眠らせて欲しいと願ったところで、私は道具! 道具は命令に従わなければならない! ただ、宿主の視野から、滅んでいくモノを見ている事しか出来ないッ!!』

 少女の血のような涙が、嘆きと共に飛び散った。

 人だろうと、力だろうと、天の遣いの分身だろうと、“心”があるなら、思うことは皆一緒なのではないだろうか。

“痛み”を知ったなら、共に戦う仲間なのではないだろうか。

 平等であるべきではないのか。

 それを、神様は、世界は、理不尽に苦しめる。

 差別する。

 底なしの痛みで追い詰める。

(……ごめんな)

 潤人は思わず、そう零した。

 自分も、神社で“彼女”の事を恐れた。

 小隊(チーム)の基地でも、“彼女”を恐れた。

 潤人が彼女に全てを委ねようとした時、リルはそれを『だめだ』と言って、止めようとした。

 それは、彼女がリルに対しても、恐怖という悪印象を与えてしまっていたからだ。

“滅びの力”なのだ。当然、『不幸粒子』が絡むのだろう。

 彼女の必死の呼びかけも、怯えた宿主の半端な一体化では、恐怖と悪意に満ちた誘いの声に聴こえてしまう。

 潤人やリルだけではない。恐らく、彼女の存在を知る人全てが、同じように誤解してしまっている。

 潤人は潤人で、そんな彼女を抑えようと、万炎の下に通っては、御札で抑制し、彼女の訴えに耳を貸そうとしなかった。

 宿主と完全に一体化出来ないせいで、“滅びの力”は彼女自身をも蝕んでいるのだ。

『貴方が謝る事は何も無いわ』

 頬を伝う滴を細い指先で払った少女が、小さく微笑む。

『誰が悪いのでもない。私達は皆、不器用なだけなのよ』

(……でも、こんなの、悲しすぎるよ)

 誤解されたまま、それを解くことも出来ず、忌み嫌われ、疫病神のように扱われ、誰からも愛されず、守護のための戦いも、努力も、評価されない。

(こんな理不尽、あってたまるかよ!)

 誰もが皆、相手の置かれた立場、抱いた感情、描いた願望を互いに初めから理解し合えていれば、きっと平和な日常を送れるだろう、と、潤人は思った。

 そんな夢物語は、そのほとんどが夢のまま終わる。

 わかっている。

 この世界は理不尽だ。

 この世界は無慈悲だ。

(“天の遣い”ってヤツは、こんな惨状の世界を見て、なんとも思わないのかよ!)

 やり場の無い怒りが込み上げる。

 その怒りを例え放っても、世界は微動だにせず、何事も無かったかのように、またどこかで誰かを苦しめるだろう。

 そしてその予測から、また怒りが込み上げる。

(なんで、君だけがそんな目に遭わなきゃならないんだよ……備えた力が“滅び”だからって、どうして君だけが酷い思いをしなきゃいけないんだよ)

『確かに、この世界は冷たいわ。でもね、私に世界を憎む資格は無い。これまで私の力が暴走して、人間を大勢苦しめてしまった事実は消せないの。私が償わなければならない罪よ……』

 と、少女は俯く。

 本当は守りたい世界が、自分の力のせいで滅びていく。必死に訴えても理解は得られず、ただ引き起こされる事象を見ている事しか出来ない。彼女にも、宿主にも、悪気など欠片も無い。だが、事実だけが容赦なく積み重なって、呪いのように心に取り憑き、罪の意識で彼女らを蝕む。

(罪ってなんだよ? 世界を守るために生まれた君が、どうして罪を背負う事になってるんだよ!)

『これも、“不幸粒子”を操る私の力の代償なのかもね。不幸粒子を駆使して他人を不幸にした分、自分に返ってきてるのかも』 

 頭をゆっくりと持ち上げた銀の髪の少女は、疲れ果てたようにその眼を細めた。そして、

『ねぇ、潤人。私は貴方に、お願いがあるの』

 潤人の名を呼び、その言葉を口にする。


『――――私を、滅ぼして』


(…………)

 それが、嘆きの果てに彼女が出した選択だというのか。

『方法はあるわ。第1の(つるぎ)を持つ代行者(パワー)なら、私を斬れる(、、、)

 第1の剣。

 恐らく、6本ある剣にはそれぞれ、番号が付けられているのだろう。

 彼女(、、)が何番目かは知らないが、今重要で、必要なのは、その考察ではない。

 潤人が得たいのは、彼女を滅ぼす方法ではないからだ。

『神様も馬鹿よね。世界を守らせるための力なら、こんな姿も、心も、与えなければよかったのに……』

 それは完全な、自己否定。

『心も姿も無ければ、情なんて生まれなかった。ただの道具として使われて、代々引き継がれていれば、宿主が追い詰められる事もなかったのに』

 自重するように、肩を震わせて笑う少女。

 その眼からは、紅い滴が止め処なく零れる。

()が居る意味なんて、無いわ。私だけ(、、、)が滅べば、きっと世界はよくなる』

(――――嫌だ)

 気付くと、潤人はそう答えていた。

 確かに、少女は過去に数え切れないほどの大きな罪を犯してしまったかもしれない。

 一生世界中から恨まれ、呪われて当然なことをしてしまったのかもしれない。

 恐怖しては嘆く。そんな事が永遠に繰り返すくらいなら、いっそ消えてしまった方が楽なのかもしれない。

 悲しみから、憎悪から、罪から、全てから逃げる道を選択した方が、利口なのかもしれない。

 その方が、世界のためになるのかもしれない。

“頑張れば、きっと良い事がある”

“耐えていれば、いつか報われる”

 そう考えて生きていても、その想いを裏切り、突き落とすのがこの世界だ。

 世界は理不尽に出来ている。

不幸粒子(ディスティフィア)』で溢れている。


 でも。

 それでも。


(――――俺たちは、逃げちゃいけない)


 港に行く前の基地の中で、潤人は逃げ道を選ばずに戦う事を進んだが、結局はこうして闇に呑まれてしまった。

 決意を嘲笑うかのように覆され、仲間を守る事が出来なかった。

 

 しかし。


“ダメだったから”と言って逃げてしまえば、今までの自分の戦いが無駄になってしまう。

『不幸粒子』は、人を不幸に陥れようとする。

 ここで逃げたら、“奴ら”の思う壺なのだ。

『逃げるのではないの。これも、世界を守るためにする事なのよ?』

(違う。それじゃ、君が報われない)

『――――言ったでしょう? 私はただの“力”なの! 道具なの! そうあるべきなのよ!』

(君は道具なんかじゃない!)

 潤人は叫ぶ。

(何でもマイナスに考えさせて、何でも悪い方へ事を運ぼうとするのが『不幸粒子(ディスティフィア)』だろ? 確かに世界は不条理だ。だけど、物事全部が『不幸粒子』に支配されているわけじゃない! 『不幸粒子』が何もかも正しいんじゃない! 俺たちの意志を左右する権利は俺たちのものだろ? 『不幸粒子(あいつら)』なんかに、どうこうする権利なんて無いんだよ!)

『――――そうだとしても、私は滅びなきゃいけないの! 罪を償うべきなのよ!』

(だったら、俺と一体になって、戦って、一緒に仲間を助けてくれよ! 俺にもう1度だけ、力を貸してくれ! 俺にも、君を恐れてしまった罪がある。だから俺も、君の罪を背負う!)

『――――そんなの、ダメよ。私がここに存在していたら、またいつ“滅び”を振り撒いてしまうかわからない。その危険な私が、“世界を守る力”としてここに居る事自体が、場違いなのよ!』

(なら、振り撒かなければいい!)

 少女が犯してきた星の数に等しい罪を、ちっぽけな存在である自分が背負う事が、どれだけ罰当たりで徒疎(あだおろそ)かな行為か、考えただけで未来が真っ暗になる。

 それでも尚、潤人は強く想う。

 これ以上、『不幸粒子』の好きにはさせない、と。

 これ以上、誰も傷付けさせはしない、と。

(俺と一緒に戦って世界を守ることで、これまでの罪を償っていけばいいじゃないか! 『不幸粒子』を操って、敵を滅ぼすんだろ? その君が、『不幸粒子』に追い詰められてどうするんだよ!)

『私は、貴方にも、これ以上苦しんで欲しくないの!』

(苦しまない人間なんて居ない! 形はどうであれ、誰だって苦しんでる! この世界は甘くないから、君が『不幸粒子』に陥れられて滅んだとしても、何も変わらない。誰も助からない!)

『――――ッ!』

 少女の眼からは、拭っても拭っても、血の涙が溢れてくる。

 まるで、彼女の中の慟哭が、救いを求めているかのように。

 少女も、本当はわかっているのだ。

 自分が消えても、消えなくても、苦しみは世界から無くならない事を。

 そうでなければ、これほど悲しみに満ちた表情は出来ない。

(俺はもう二度と、君を恐れたりなんかしない。俺は君を受け入れる。だから、滅びるなんて選択は止めるんだ)

『でも、うまくいく確証なんて――――』

(それでも、挑むんだ!)

 潤人は、基地で咲菜美を説得した時の事を思い出す。

 あの時も、確かな覚悟で一歩を踏み出した。しかし結果はついて来なかった。

 今回はどうか。

 少女の言う通り、確証なんてどこにも無い。

 でも、それは当然(、、)だ。

 この世界に、“絶対”なんて概念は通用しないのだから。 

 自分達は、全能の神ではなく、有限の存在なのだから。

 なら、確証が持てないからと言って恐れる事もないではないか。

 そうだ。

 恐れることはない。

(何度でも抗ってやろう! 俺と一緒に最後まで! だからお願いだ! もう1度、力を貸してくれ!!)

『……』

 僅かに俯く少女の顔には、逡巡(しゅんじゅん)の色が見て取れた。


 自分には、まだ存在し続ける資格と価値が、本当にあるのか。

 自分が“残る”事で、逆に潤人たちを更なる窮地に追いやってしまうのではないか。

  

 少女の中では、彼女が持つ恐れが渦巻いているに違いない。

 それを振り払えるのは、少女だけだ。

 その恐れを乗り越えられるのは、潤人でも、リルでも、咲菜美でも、寺之城でもない。

 少女だけなのだ。

 その事に、自身で気付いて欲しい。

 負けないで欲しい。

 潤人は、神様に祈る思いだった。


読んで下さった方、ありがとうございました。

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