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第4章・決意を嘲笑う者

「緊急事態だ! 至急、本部に報告するぞ!」

 寺之城が踵を返し、格納庫へと戻っていく。

「――――無理だ」

 潤人は誰に言うでもなく、そう漏らした。

「俺なんかに、戦いなんてできっこない」

「本部! 本部!」

 寺之城が、格納庫内――――車の無線を使って『本部』に呼びかけている。

 銃撃の音は鳴り止まない。時折爆発音も混じっており、その度に港の空が赤く明滅する。

 潤人は、身体の芯から発作のように広がる激しい震えを抑えることが出来ない。

 物心ついた頃から、将来は術師(スキラー)として戦うのだと教え込まれてきた。自分でも、己にそう言い聞かせ、体力作りや座禅に励んできた。

 だが、いざ戦いを前にして、その意気込みは虚しくも押しつぶされていた。

 潤人はまた、自分の不甲斐無さに失望する。

 自ら進んで行動し、戦闘に備えようという意志よりも、この時、この場所に居る事の不安と恐怖の方が大きい事に。

 今自分達に成せる最善の対処を、率先して実行する寺之城の手伝いすら出来ない事に。

(そういえば、今日の『天候』は夕方から“雨”だとか言ってたな)

 潤人は自身でそう思った直後に、

(今のは、『天候』を理由に、自分が何も出来ずに居る事を正当化しようとしたのか? どっちだ?)

 と、自問自答する。

 そうだ、と言えばそうなるし、たまたま今のタイミングで想起されただけとも思える。

(いや、俺は弱い人間だ。今もこうして怯えて、震えを抑えられずに居る時点で、どこかに逃げ道を探しているんだ)

『ソレナラ、私ノチカラヲ使ッテ?』

(――――嫌だ)

 自分で自分を、負の感情の奥へと沈めながら、しかし潤人は抗う。

 季節は夏であるにも拘らず、どうしようもない寒さに反応した身体が本能的に体温を保とうとしているかのように、潤人は震え始めた。

 凍てつくような寒さが、いつからか全身を包み込んでいる。

『スベテヲ私ニ委ネルダケダカラ』

(――――嫌だ)

『ドウシテ?』

(嫌なんだ。何かに頼って、自分の弱さを認めるのが、嫌なんだ!)

『……私トヒトツニナレバ、ソウシテ苦シム必用モ無クナル』

(ダメだ、意識が遠くなる―――)


「潤人!!」


 潤人の震えが弱まり、“寒さ”に呑まれかけていた感覚が呼び覚まされた。

 後ろで、リルが潤人の名を呼んでいた。

 Yシャツの裾を、ぎゅっ、と掴んだまま。

「大丈夫か!? どうしたというのだ?」

 リルが潤人の前に回り込み、顔色を伺ってきた。ブロンドの髪が、はらりと垂れて、真っ白なうなじが覗いた。

 そのリルの姿に、潤人の鼓動は、こんな状況にも拘らず一際高く波打った。それが電気ショック的な役割を果たしてくれたのか、身体の寒さが一気に取り払われた。

 潤人はぼんやりとリルの目を見つめ、次第に戻ってくる思考を回転させる。

(今のは、神社の時と同じ発作か!?)

 潤人の脳裏に、三沢神社で万炎が言った言葉が想起された。


『もしまた出てきたら(、、、、、、、)、わたしを呼んでね?』


 まずい。

 考えれば考えるほど、また不安が押し寄せる。

 瞳の焦点すら揺らがせて、思考に全神経を注ぐ潤人。

(万炎が抑えてくれた悪魔が、また現われた!)

 あの時、万炎は潤人の“中”に、何を感じていたのか。

 何故それをもっと詳しく話してくれなかったのか。

 自分の身体に何が起こっているのか、その手掛かりを見つけるためにも、もっと追求するべきだった。

 

絶対に(、、、)呼んでね(、、、、)?』


 呼ばなければ。

 万炎を今すぐにでも呼ばなければ、次に何が起こるか、自分がどうなるのかわからない。潤人は万全の精神状態で、“リルの身を護る”という、一生に一度あるか無いかの重要任務に当たるべきなのだ。

「……どこか、具合でも悪いの?」

 咲菜美も、気を揉んだ様子で潤人を見つめている。

「いや。だ、大丈夫だ。なんでもない」

「大丈夫なものか! すごく顔色が悪いぞ」

 というリルの指摘に、潤人はどうにか誤魔化せないかと顧慮するが、心境が顔に出てしまっているのだと思うと、頬の辺りが余計に強張る感覚を覚えた。

「それはその、今の状況に若干ビビっちゃってるというか」

「……もう! 情けないわね! 男なんだから、シャキっとしなさいよ」

 咲菜美が呆れたような顔をする。

「はい。仰るとおりだと思います。すみません」

 黒のオープンフィンガーグローブを徐に取り出した咲菜美に、またしてもジト目で睨まれる潤人。

 咲菜美のグローブはワンオフ装備で、格闘技用のグローブを改良し、甲の部分に対衝撃用プロテクターを施したものだ。

「例の“持病”とやらか?」

 と、確信を衝いてきたリルに、

「まあ、そんなところさ。早く診てもらわないと――――」

 潤人はまだ震えが残る手で携帯を取り出し、万炎の携帯をコールする。

「……?」

 通じない。

 この島は随所にアンテナが設置されており、電波の通りはすこぶる良く、画面に表示された電波の本数も3本あるにも拘らずだ。

「くそ! 無線がノイズだらけで本部と連絡がつかん! どうなってる!?」

 どうやら無線も通じなかったらしい寺之城が、苛立たしげに車から降りてきた。

 妙だ。

「携帯も繋がりません」

 と、報告する潤人の隣で、

「あたしのも駄目みたい……」

 携帯の画面を見つめたまま、咲菜美がつぶやいた。

 すぐにでも万炎に会わなければならないのに、肝心な連絡が取れない。

(どうする!? どうしたらいい!?)

 潤人は焦燥感に駆られ、今も赤く明滅する東の空を振り仰ぐ。

 今起こっている戦闘と、通信障害は、何か関係があるのだろうか。

“敵”による妨害なのか。

「あたしが様子を見てきましょうか?」

 と、咲菜美が小隊長に指示を仰ぐ。徒手格闘が主な戦闘スタイルである咲菜美は、グローブという最低限の装備があれば、一先ずは戦闘行為が可能なのだ。

「待ちたまえ、咲菜美君。状況は好ましくない。港で何が行われているのか、情報が全く無いからな。それに、今日の夕方から夜にかけて、『天候』は“雨”というではないか」

 手招きして一同を格納庫内に戻らせ、寺之城は裏口の側に並べられたロッカーの1つを開いた。

「偶然、車の無線が故障し、偶然、寿君と咲菜美君の携帯が繋がらないのだとしても、この緊急時に、まるで見計らったかのように偶然が重なるのは不自然過ぎる。有り得なくはないが、我々にとって都合が悪いようになり過ぎている(、、、、、、、)

 ロッカーの中から、I・S・S・O共通の戦闘用装備として採用された黒いタクティカルベストを取り出して着用しながら、寺之城は持ち前の頭脳で現状を分析する。

「現時刻から見て、『天候』は恐らく、もう“雨”に変わっている頃だ。だとすれば、これは『不幸粒子(ディスティフィア)』による悪影響だと考えた方が懸命だろう」

 潤人にとって、任務を遂行する上で『天候』ほど厄介なものは無い。“晴れ”であった今朝の時点で、1000円札を強風にさらわれたのだ。それが“雨”だと、銃の流れ弾で死ぬかもしれない。

「この島は『幸福粒子(エフティフィア)』の結界で24時間保護されているはずですよね? その状態で、ここまで悪の事象が重なるって事は、実際の『天候』は“雨”よりも、もっとひどいんじゃ?――――」

「その可能性も有り得る。だが寿君、そこまで不安に駆られるな。我々が望まない事象を敢えて引き起こそうとする、それが『不幸粒子』だ。皆が揃って“天候の悪化”を懸念していたら、そこに浸透されて、実際にボク達の周囲の『天候』が悪化しかねん」

 今度はタクティカルブーツを取り出し、スニーカーから履き替えながら、寺之城が言った。

「確かにそうだが、このまま放っておくわけにもいかないだろう? 今港の方で戦っているのは、皆の仲間ではないのか?」

 というリルの意見に、寺之城が頷く。

「勿論だとも。それでも、何の情報も無く、且つ悪天候の中での対応には十分な配慮が必要だ。“悪運に対する備え”が要る」

 寺之城の言う“備え”とは、『I・S・S・O』が『現場』に出動する術師(スキラー)達の必須装備として定めた『護符』の事で、出動前に、各小隊のまとめ役である生徒会から支給されるシステムとなっている。

 島に結界を展開し、交代制で維持している、強力な『結界術師(バリアー)』達の気想が仕込まれた『護符』は、所持者の運を一定の時間、『不幸粒子』からある程度保護して、悪影響を軽減してくれるのだ。潤人のように、気想の総量が少ない者には有り難い代物である。

 もともと、訓練によって一般人よりも気想が強化されている術師は、想像と共に丹田に力を込める要領で体内の気想量を高め、自身で防御結界を構築する事が出来るが、結界の範囲と強度には個人差と限度があるため、『護符』による補助が有るのと無いのとでは、任務遂行の円滑性に大きな違いが出る。

「しかし、ここで一つ問題が挙がる。我々には、その『護符』が無い。ここは結界の中とはいえ、護符の有無で、場合によっては生死が分かれる可能性もある。極端な話ではあるがね――――」

「こんな緊急時に、護符を貰ってないから戦いません、ってわけにはいかないでしょう?」

 と、述べる咲菜美の額にも、じんわりと焦燥の汗が滲み始めていた。

「尤もだね、咲菜美君。動ける者は、何かしらの対処をしなきゃならない。よって、今回は小隊(チーム)を3つに分ける」

 この状況でも、潤人は真っ先に、

(万炎に1秒でも早く会わなきゃならない時に限って、自分が単身で状況確認へ、半ば生贄のような扱いで駆りだされるのは嫌だ)

 と、まだ決まってもいない自分自身の役割の事を考えてしまった。

 自分の中に、いつ、どんな過程を経て宿ったのかわからない『悪魔』を抱え、いつ“発作”が出てもおかしくない状態であるとはいえ、守らなければならない1人の少女の事よりも、己の事情が先に思い浮かんでしまった。

(所詮は、他人のことは二の次なのだろうか?)

 自問するが、答えは出ない。いや、出したくない。

“自分の事を優先して思考した”という消えない事実だけが、潤人の心の傷をじわじわと広げていくようだった。

「まず、リル君の身の安全を守るのが我々の任務だ。というわけで、寿君とリル君は“本部”まで退避してもらう。“本部”に着いたら、この事を報告してくれ。次に咲菜美君、君はここに留まり、無線の番を頼みたい。機械オンチなのは解っているから直せとは言わん。要は無線の前で待機して、外部から入電があった場合に備えて欲しいのだ。そして港の偵察にはボクが行く」

 言いながら、両の手に黒のリストガードをはめ込んだ寺之城は、手首を軽く捻って感触を確かめている。手首から甲にかけてを覆うリストガードは、アルミステーの枚数で固定力の調整が出来る仕様で、スポーツ選手が関節に巻きつけるサポーターのような、緩衝材の役割を果たす。寺之城が戦闘時に愛用しているものだ。

「異論は無いね?」

 と、寺之城は確認を取る。港の状況がわからない以上、どんな戦闘が起こっても対処可能な人物が行く事が望ましい。潤人は無論、近接戦闘タイプの咲菜美も向かない。となれば、近距離にも遠距離にも柔軟に対応出来る銃使い(ガンナー)の寺之城が適任だろう。

 しかしである。

「それでは、寺之城に何があるかわからないぞ」

 リルが、首を横に振った。

 せっかく友達になれた人を、危険な目に合わせたくないのだろう。

 彼女と丸1日共に過ごした潤人はそう悟るが、『全員で一緒に避難する』という案は発言出来ない。

 この島には、潤人達の他にも、志を共にする学生が大勢暮らしている。港で戦っているであろう仲間もそうだ。仲間に危険を及ぼすものは排除しなければならない。それを成し遂げる可能性を少しでも持っている者は、行動しなければならない。

 命令通りに、リルの身柄を守る事のみを考えれば、第108小隊全員でリルをガードしつつ後退する選択肢も取れるだろう。だが、今この瞬間、港で島の仲間が戦い、危険に身を曝している。

 リルが抱く想いは、きっと寺之城も抱いているのだ。港の仲間へ向けて。

 だからこその、役割分担なのだ。

「危険は承知の上だ、リル君。ボクは最上級生だし、この小隊(チーム)のリーダーなのだよ。先輩が後輩のことを守るのは当然の事だ」

「1人で行くというのか? 無謀というものではないのか? 相手が大人数だったらどうするつもりだ? 全員で避難するという考えは望めないのか?」

 リルはどうしても納得がいかないらしく、まだ食い下がる。

「……キミ達が足手まといだとか、そういう実力云々の話をしているのでもない。音を聞く限り、港には複数の仲間が居るはずだ。彼らと合流して戦うから、単騎というわけでもないさ」

「――――っ」

 それ以上言葉を紡ぐ事が出来ないリルは、まるで助けを求めるかのように、潤人に顔を向ける。

(よしてくれよ、リル)

(自分の事を一番に考えた俺なんかに、目を向けないでくれよ)

(俺は、何も言えない。何も、してやれない)

「――――リル」

 リルの視線に耐え切れなくなり、潤人は粘着質な唾を飲み込んでから、言い紡ぐ。

「――――寺之城先輩の指示に従うべきだ」

「……わかった」

 潤人の言葉に、リルは目の前が暗くなったかのように俯いた。

 そのやり取りを見ていた寺之城は、潤人達を労うように見つめた。

「そんな顔をしてくれるな。まだ、本当に“敵”が襲ってきていると決まったわけじゃない。もしかすると、情報が伝わっていないだけで、どこかの小隊が射撃訓練をしているだけかもしれん」

 そして、寺之城は潤人の背中を叩く。

「キミがリル君を守ってあげたまえよ? こういう時こそ男の出番というものだ。気合いを入れたまえ!」

「はい……」

 潤人は今日、寺之城から言われた事を思い出した。

 

『自分の力で、己の取り柄を見つけたまえ!』


『キミは既に、誰にも負けないものを持っている!』


 まだ潤人は、寺之城から受けた“小隊長命令”を、達成出来ていない。

 自分の取り柄を、見つけていない。

“誰にも負けないもの”とは、果たして何なのか。考えても、思い浮かぶのは“運の悪さ”くらいで、それは取り柄でも何でもない。ただの卑下だ。

 変われないままでいる潤人を、しかし寺之城は失望するどころか、いつも通りの、歌うように高らかな声で鼓舞してくれた。


(……すごく、申し訳ない)


 潤人は謝意に駆られた。

 何をやっても最底辺な自分の螺子を巻こうと、気に掛けてくれている人に。

 報われない運命である自分を、支えようとしてくれている人に。

 先の見えない、真っ暗な人生。“何が起こるかわからない。努力すればいつか報われるかもしれない”と考え、今まで生きてきたが、些細な事でも気になって不安に感じてしまう潤人の精神は、疲れきっていた。

 そうして潤人は行き着いたのだ。“先を決めるのは『運』だ”という境地に。

 世界を支配しているのは『幸福粒子(エフティフィア)』と『不幸粒子(ディスティフィア)』なのだ。世界を牛耳る存在の気まぐれで生かされている人間には、到底抗えない。『運』に怯えて生きていくしかない。それが、この世界の理。

 それをわかっていてもなお、寺之城は潤人に、“取り柄を見つけよ”と命じたというのか。

 あるいは、“報われている”寺之城は、潤人とは違う考えなのだろうか。

 世界の理に、気付けていないのだろうか。

 その“報い”も、その“努力”も、世界は気分次第で簡単に裏切ってしまうというのに。

 光を見せた後で、奈落に突き落とす――――そんな不条理で溢れる世界に気付けていないのは、逆に危険かもしれない。気の毒というものだ。

“報われ続ける”事で、出る杭は打たれるように、“世界”に目を付けられ、ある日突然命を奪われるかもしれない。

 不慮な事故。

 災害。

 病。

 狂気。

 考えればきりがないほどに、死の可能性は溢れている。

「目を覚ましてください。先輩はこの世界の理に気付いていないんだ!」

 と、潤人は寺之城に言うべきなのかもしれないが、言えない。

 話がまとまり、励ましてもらった後でそんな事を言って、皆の士気を下げれば、“空気の読めない奴”、“恩知らず”、“救いようのない悲観主義者”、などといった感情を抱かれ、今度こそ嫌われ、見放されてしまうだろう。

 今の判断も結局、潤人自身のための決断だ。

 人のためではない。

 他者の事を最優先に考える事の出来ない人間が、そもそも護衛などやるべきではないのにも拘らず、『運』は潤人を逃がさず、理不尽に繋ぎ止める。

「では各員、行動開始だ!」

 マグナム弾がズラリとはめ込まれた弾帯を腰に巻きつけた寺之城は、そう言い残して港へと駆けていった。

 格納庫には、潤人、リル、咲菜美の三人。

「……さあ、あなた達は本部へ行きなさい」

 潤人に一瞥を投げ、車に向かう咲菜美。

 本部――――通称『アースガルズ』

『I・S・S・O』が誇る、世界有数の地下要塞だ。

 収容可能人員数1万。寝室、食堂といった居住スペースや、多数のミーティングルームを有し、兵器庫、航空艦(F・B・S)用大容量格納ドック、自家発電設備の他、兵器開発エリアや遺失物(アーティファクト)研究エリアを完備し、『最深部(イザヴェル)』と呼ばれるフロアから放出される強力な結界によって防御された、同組織最大の砦である。

 そこに逃げ込めば、まず安全だろう。核弾頭が直撃したとしても動じる必用は無い。

 地下要塞へは、三沢山の北の斜面に築かれた、分厚く巨大な鋼鉄の正門から入るもよし。街の数箇所に設けられた隠し扉から、蜘蛛の巣のように張り巡らされた地下道を通って入るもよしだ。

 これでリルと自分は助かる。

 任務は果たされ、潤人自身の命も守られる。

「……」

 しかし。

「……」

“イエス”と言って、リルを連れて立ち去れば、後は安泰の道を歩めばいいだけなのに。

 声が出ない。身体も動こうとしない。

 状況――――葛藤。

 潤人の脳裏には、寺之城の姿が思い浮かんでいた。

 寺之城は、潤人達を危険な状況には極力置くまいと、単身で戦場へ向かっていった。彼の言動は頻繁に中二病を発症し、まるで舞台の上で歌うかのような高らかな声で話し、素なのかふざけているのか判断に迷う時もある。だが、そんな寺之城でも、後輩に弱みを見せない先輩であっても、同じ人間だ。神様でも人形でもない、志を共有する仲間だ。恐くないはずがない。

 それでも、寺之城和馬という男は、影の無い笑みを絶やさなかった。

「くそ――――!」

 今の潤人の中に、『迷い』という名の敵が居た。

“逃げ出したい”という願望と、“仲間が辛い目に遭うのは嫌だ”という恐怖。

“リルの事を何としても守らなければならない”という使命感への不安と焦り。

“仲間を助けたい”という願望と、“死”への恐怖。

正の感情と負の感情のせめぎ合いが『迷い』となり、潤人の判断を躊躇わせていた。

(そういえば、前にも、似たような状況を経験した覚えがある)

 潤人の中で、過去の記憶が想起される。

(あれは、俺がまだ中学に上がったばかりで、咲菜美と一緒に養護施設から学校に通っていた時だ)

 目を閉じると、想起した記憶がぼんやりと映し出された。

 



 咲菜美は昔、身体の弱い女の子だった。

 新大島の学校教育では、中学校から、一般的な学問5時限の他に、隊員育成のための訓練が2時限組まれ、トータル7時限のカリキュラムとなっていて、その2時間の訓練の中で、生徒達は基本的な護身術や銃火器の取り扱いと、それらの基本知識を学ぶ。

 時には、いくつかのチームに分かれて模擬戦闘訓練が行われたのだが、その時、咲菜美は周囲の生徒達の動きについて行けず、チームメイトの足を引っ張ってばかりいた。

 模擬戦闘訓練における評価は、チーム毎の連帯制。相手のチームを倒せば高評価、負ければ居残りでトレーニングをさせられるというものだった。

 咲菜美の居るチームは、毎回のように敗北し、連帯責任として全員が居残りをさせられていた。

 中学1年生という齢の子供は、多感な成長期であると言えば、愛らしく、どことなく聴こえは良いが、飽く迄、成長の初期段階なのだ。心身ともに未成熟で、経験や知識も乏しい。当然、“寛容さ”も不十分である。

 そこに、“皆の足を引っ張る1人の生徒”と、“連帯責任”という2つの要素が投げ込まれたら、子供の集団心理がどう働くか。

 想像は容易いはずだ。大の大人ならば、容易かったはずなのだ。

 だが、不幸粒子は無慈悲に、集団心理を闇へと誘った。

“闇”は咲菜美を取り囲み、攻め立て、傷つけ始めた。

 咲菜美は孤立と被虐の日々に見舞われた。にも拘らず、大人達は何もしなかった。

 見なかった。

 見ようとしなかった。

 声を掛けなかった。

 手を差し伸べなかった。

 2015年の『第1次日本技術革命』以来、様々な事が発展途中だった当時は、何もかもが急がれ、遅れ、焦り、大人達の余裕と視野は磨耗していたのかもしれない。

 不幸粒子の深みに、皆が陥っていたのかもしれない。

 だが、潤人にとっては、そんな理由など関係無かった。

 着目すべき問題は一つ。

 それは不幸粒子の濃度でも、皆の心理状況でもない。

 

『仲間がいじめを受けている』

 

 分析で得た言い訳に隠され、やがて隅に追いやられて有耶無耶にされてしまうモノ――――『真実』だった。

 咲菜美の噂を聞きつけた当時の潤人は、放課後、校舎の片隅へ急行した。そして、初めてその光景を目撃し、付き纏う葛藤を振り払い、割って入った。

 咲菜美は校舎の絶壁に追いやられ、複数の男子生徒に囲まれ、押し倒されて、腹部を蹴りつけられていたのだ。

 状況――――1対5。

 少し考えれば、潤人1人が殴り込んだところで、覆せる人数でない事は一目瞭然。

 下手をすれば返り討ちに遭い、潤人自身も、“いじめの対象”にされていたかもしれない。

 それでも、潤人は一歩を踏み出した。

 幼馴染を守りたい一心で、恐れを突き破り、『闇』に立ち向かった。


 

 

 その潤人が、今はどうか。

 一歩を踏み出せないでいる。

 それどころか、今にも逃げ道を歩もうとしている。

 自分の安全を優先しようとしている。

 そのための言い訳を探している。

「…………」 

 仲間が海岸で戦っている。

 その身を危険に曝し、島を守るために戦っている。

 もしかすると、敵が優勢で、仲間が追い詰められているかもしれない。

「…………」

 でも、海岸には寺之城が向かってくれたから大丈夫だろう。

 自分はリルの安全を守る任務を負っている。そちらを優先するのは当然の選択だ。

 自分は、何も間違った事はしていない。何も恥じることはない。

「――――ッ」

 なのに。

 足はまだ動かない。

 理由は見つけた。

 後は逃げるだけなのに。

 それが、自分のどこかで許せなかった。

 自分の事ばかり考えてしまっていた。

 自分のための、理屈を探していた。

 ここで逃げてしまったら、自分の全てを否定するようで。

“自分は、命令のままに動く機械のように、仲間の事をこれっぽっちも気に掛けない、心無き人間です”と言っているようで。

 自分の弱さが、悔しかった。

 逃げてしまえば、一生続く後悔を背負う事になる気がした。

 昔は、ここまで考えずとも、身体が動いていた。

 昔は在った強さを、今の潤人はどこかへ失くしてしまっていた。

 それが嫌だった。

 リルも、寺之城も、咲菜美も、大切な仲間なのだ。

 仲間が虐められていて、誰が放っておけるものか。

 仲間が傷ついて、誰が平気なものか。

 仲間が命を取られるなど、誰が許せるものか。

 誰1人失って、たまるものか。

 ここで、誰かの命が消えるのは嫌だ。

 何かが終わってしまうのが、嫌だった。

「ダメだ――――」

 そう漏らし、俯き、足元の無機質なコンクリートで視野を染める潤人。その潤人の右手を、リルがそっと握り締める。

「――――終わらせるもんか!」

 潤人の手が、リルの手を握り返す。

 リルは今、ここに居る。

 リルの身は、ここなら安全だ。

 ここには咲菜美も居る。

 リルは独りぼっちにはならない。


『正しいと信じた選択をするのだ、潤人』


 潤人の脳内に、リルの声が響いた――――ような気がした。

 自分の意志をどうにか鼓舞したいと思うあまり、とうとうそんな妄想までしてしまったか。


『潤人の意思は、とっくに決まっているだろう?』


 そうだ。

 もう決まっている。

 どの選択肢が正解かなど、神でもない人間にはわからない。

 それでも、正しいものはどれか自分なりに考えて、選ぶことは出来る。

 簡単だ。

 昔は、難なくやれていた事なのだから。

「――――咲菜美」

 潤人は勇断者の如く顔を上げた。

「な、なに?」

 これまで俯いてばかりだった潤人の表情が打って変わった事に驚きを隠せない様子で、咲菜美は潤人の目を見つめる。

「リルを頼む」

「ええ!?」

「俺の任務はリルを守ることだ。だから、危険に近づけるわけにはいかない。だけど、危険はすぐそこだ。なら、その危険を鎮圧して、リルの身を脅かす元凶を無くせばいい」

「待ちなさいよ。それだったら、あたしが代わりに――――」

「咲菜美!」

 潤人は、幼馴染の目を真っ直ぐに見つめ、

「いつもはモヤシでもかまわない。でも、今だけでいいから」

“格好つけて、モヤシが何を言っているのか”と、冷やかす自分も居た。

 でも、そんなちっぽけな邪念は捨てる。 

 自分には発言する資格など無いと思っていた言葉。

 その言葉を、潤人は口にする。


「――――俺を、信じてくれ」


「――――うん」

 じっと潤人を見つめていた咲菜美は、頭を小さく縦に動かした。

 いつも、潤人を叱咤激励し、彼の保護者のような振る舞いをしてくれていた咲菜美。潤人としては、どんな説教が飛んでくるかとヒヤヒヤしていたが、思いのほかすんなり了承してくれた。

「しばらくここで待っててくれるか?」

 潤人はリルに顔を向ける。

 するとリルは、悲しみに暮れたような表情を和らげ、静かに頷いた。

 潤人は倉庫の奥――――自分のロッカーを開く。中には、島の生徒に共通して支給される黒い戦闘服と拳銃(ハンドガン)

 急を要するので、制服の上からタクティカルベストのみを着込むと、この時期は非常に暑苦しいうえに不格好だが、そんな事まで気にしてはいられない。

 弾装は、咲菜美の分も分けてもらったおかげで計6本。

 これだけあれば、ある程度の銃撃戦になら参加出来るだろう。

「潤人」

「――――?」

 後ろから、リルの柔らかい声がしたので、潤人が振り返ると、

「ッ!?」

 リルが潤人の胸に、ふわりと、舞い込んできた。

 顔を胸に埋めて、きゅっ、と抱きしめてくる。

 咲菜美がその顔をトマトみたいに真っ赤にしているが、潤人はそれに気付かない。

「り、リルさん!? どうしたのでしょうか!?」

 と、打って変わって情けなくオタオタする潤人に、

「――――潤人が強くなるおまじないだ」

 リルは上目遣いで頬を赤らめ、そう言った。

 リルの仄かに甘い吐息が香る。

「お、おう! あ、ありがとう!」

“女子に抱きつかれる”という経験など皆無な潤人は、全身を熱気に掻きまわされるような恥ずかしさの中、リルの頭を撫でてやった。

 そして潤人は、撫でられた頭を両手で押さえ、更に顔を真っ赤にするリルを視野に入れる余裕すらなく、オタオタと開け放たれたシャッターの下をくぐり、

「い、行って来りゅ」

「……」

 一度伸ばそうとした手を胸元で握り締め、今にも泣き出しそうな様子の咲菜美に頷き、潤人は寺之城を追って格納庫を飛び出した。

(……リル)

 去り際に、潤人は1人の王女を、王女としてではなく、守りたい友として、心に掛ける。

(ここでも、恐い思いをさせてごめんな。俺に何が出来るかわからないけど、俺なりのやり方で、リルを護衛させてもらうよ)

 潤人の運動神経は壊滅的に悪い。

 射撃の腕前はクラスで最下位だ。

 備わる気想の総量も平均を下回っている。

『天候』は雨だ。

 下手をすれば、怪我では済まないだろう。

 それでも潤人は前を見据え、駆ける足を止めようとはしない。

 寺之城が見せた背中を追うように、潤人は力強く走る。


“モヤシ”にだって、何か出来ることがあるはずだ。




 着岸ポートに立ち込めた黒煙が潮風に流され、着弾点の状況が徐々に見えてくる。

 無人機からのミサイルは、“侵入者”のすぐ側に着弾、爆発した。

 人間1人にミサイルを使う事は相応なのか、戦術的にも道徳的にも疑問が上るとはいえ、“あらゆる火力を用いて侵入者を確実に排除せよ”という命令には従わざるを得ない。

 これが初陣なのだ。念には念を入れ、初めから全力で行くという、満場一致の判断である。

「ミサイル着弾。第103小隊は前進し、状況を確認しろ」

103(イチマルサン)了解。皆、護符を離すなよ? ここらの『天候』は“雨”だからな――――」

 迎撃部隊を指揮する3年生からの無線を受け、遠藤良汰(えんどうりょうた)は、上平大樹(うえひらだいき)と他4人の小隊(チーム)メンバーと共に、倉庫郡の物陰から船着場へと前進した。

 全員が黒の戦闘服で身を屈め、小隊内で統一して採用したアサルトライフルを構える。

 第103小隊は、近接戦闘を得意とする5人の男女を、補助(サポート)系の術師(スキラー)である上平が後方支援するスタイルが特徴である。いずれの者も、今回が初陣の高校2年生だ。

「上平、(スキル)の方は問題無いな?」

 小隊長(チームリーダー)を務める遠藤が、自身の数メートル後方を進む上平に無線で囁く。

「大丈夫。絶賛発動中だぉ」

 相変わらずの膨れたような声で、上平が答える。

 上平の補助術(サポートスキル)は、彼自身と、彼が触れた人間の周囲を、最大6人まで不可視結界で包み込み、上平以外(、、、、)の人間からは姿を見えなくするというもので、現在第103小隊の面々は全員、この上平の不可視結界に包まれ、肉眼では見えない透明人間の状態となっている。術を掛けた上平本人以外には、術を受けた者の姿が見えないというのは、即ち、遠藤を始め、上平を先行して進む5人の隊員達は互いの姿を視認出来ないという事だ。敵がこちらの姿を目視出来ないのは良いが、味方同士でも互いの姿が見えないのでは、連携行動が難しくなる。ましてや、近接戦が主な小隊だ。互いに見えなくては、敵の側で同士討ちも起こり得る。これは、上平の術の欠点と言える部分だ。

 それを補うべく、上平を除く遠藤達5人は、熱探知(サーマル)ゴーグルを着用し、互いの位置を把握し合っている。

 その彼らの熱探知ゴーグルが、着弾点において熱源を探知した。

 爆炎の余熱で不鮮明だった、赤や黄色で表示される熱源が、人の形へと変化していく。

「た、対象、未だ健在!!」

 ミサイル攻撃を受けたにも拘らず、未だに形を維持している“侵入者”。 指揮官に無線で状況を伝える遠藤は、動揺を隠せない。 

「――――落ち着け。この島に単独で乗り込んでくる時点でタダ者じゃない。何らかの(スキル)を扱う事が出来ると考えていい。慎重に接近し、ある程度距離を詰めたら、突撃態勢で待機しろ。こちらが先に、ミサイルの第2射を試みる」

「了解」

 遠藤は答え、額の汗を拭った。




 正直な事を言うと、アズロットはかなり驚いた。

 突如現われた黒い“ヒコウキ”から放たれた矢のような何かは、目の前の地面に突っ込んで、太古の竜が吐き出す火炎弾のような大爆発を引き起こした。その衝撃がとにかく凄かったのだ。

 咄嗟に剣を地に突き立て、足元に気想を集中して思い切り踏ん張らなければ、アズロットの巨体でも容易く吹き飛ばされてしまっていただろう。

 今、アズロットの両足は、白いコンクリートに深々とめり込み、目の前の地面は“矢”の直撃で大きく抉れている。対する衝撃が、それほどのものだったのだ。

 大地に根を張る想像(イメージ)で踏ん張るために、気想を下半身に集中したせいで、上半身の体表防御がやや薄れ、上着類は完全に焼け飛んでいた。皮膚からは今も白煙が上がっている。

 それでも、アズロットは倒れない。

『――――びっくらこいたぁー』

『竜人』は、己の身体を竜に変化(トランス)させる事が出来る。

 アズロットは、自分の体表を鋼並みの硬度を誇る竜の皮膚に変化させる事で、超人的な物理防御能力を得たのだ。その証拠に、今のアズロットの体表は竜のそれと同じ、赤銅(しゃくどう)と灰が迷彩のように織り交ざったものに変色している。

 反射的に頭部も気想で守ったらしく、顔や髪の毛は無事だった。ついでに首輪も。

 大剣『竜牙(エルド・スクーガ)』は微塵の刃こぼれすら無く、その分厚い刃を地に食い込ませ、何事も無かったかのように鎮座している。

(一体、何が起こってんだ?)

『いきなり攻撃されたけど、“あの女”の仕業じゃないのは確かだね。気配が無いもん。依頼主の子が言ってた話と違ってない?』 

『魔人』と戦うべくやってきた島。

 しかし、肝心の『魔人』が見当たらず、その代わりと言わんばかりに、正体不明の相手から攻撃を受けた。今、何となくわかっているのは、アズロットに害を及ぼそうとする存在が『魔人』だけではないという事と、『天候』が予想より早く悪化してしまっている事くらいだ。

 念話札は突然音信不通に陥ったというか、もう、上着と一緒に消し飛んだ。

 今の格好のままでいると、“フシンシャ”と見なされて捕まるらしい。

 困った。

『天候』が悪化してしまっては、『依頼』遂行に支障が出易い。今はもう、恐らく『雨』だろう。

「――――!?」

 アズロットは、数人の人間が前方の倉庫郡から現われたのを感知した(、、、、)

 相手と自分の間に遮蔽物が無くなった事で、よりはっきりと相手の気想を感じ取る事が出来るようになったからだ。

 ところが、物陰から現われたはずの敵の姿が見えない。確かに目で見える位置に居るはずなのに、どこにも見当たらないのだ。

(こいつは、何かの術で姿を隠してやがるな?)

 戦士達が睨み合い、神経が極限まで研ぎ澄まされる、張り詰めた状況。

 その懐かしい空気に舌舐めずりをしながら、古参の傭兵は前方に目を走らせる。

『姿を隠しながら包囲を固めて、それでもって徐々に距離を詰めるつもりかな? 普通の(、、、)相手に対してなら、結構良い初手だね』

 と、リュウが舌を巻く。

 アズロットは、その大剣を大げさな身振りで振り上げ、その小山のような肩に担ぐ。その重みは足から地面に伝わり、『ズン』と、重量感のある音を立てた。

(残念なことに、竜は嗅覚も聴覚も、触覚もよく効く(たち)でね)

『お、アズロット、それってリュウちゃんの事褒めてくれてる?』

(お前も少し真面目にやれ)

 接近してくる人間達は、身体の表面を滞留する気想の流れに乱れが出ている。

 戦を前に、心が揺らぐ者がよく陥る現象だ。気想の乱れは心の乱れ。心の乱れは、気想術の乱れに繋がる。

(プラスに解釈して、本番前の準備運動代わりになるかとも思ったが、連中は不慣れの新兵ってとこか――――)

 アズロットはため息混じりに、剣を担いだ肩を回す。皮膚が焼けどでヒリヒリ痛んだ。

(しかし、何でまた急に。こんな話、聞いてなかったぜ? 嬢ちゃん)

 そう毒突いても仕方ないか。と、アズロットは深く息を吐き前方に集中する。

 相手が『魔人』でないだけ、まだマシというものだ。

『どうする?』

(今考えてる所さ)

 リュウの問いかけに、アズロットは少しの間、思考を巡らす。

 一先ず、今目の前に居る相手の正体を暴き、情報を集める必要がある。

「おい、そこの野郎共!」

 アズロットは、無人地帯に見える(、、、)着岸ポートで、そう言い放った。

「オレは怪しいもんじゃねぇ。ちょいと大事な仕事があってこの島に来た。何もしねぇから、話をしてみねぇか?」

『大剣という凶器を担いだ上半身裸の大男が身の潔白を唱えても説得力に欠けるねー』

(うるさい)

 不審者の呼びかけに、接近中だった一団がその歩を止めた。だが、先ほどの黒い“ヒコウキ”が、旋回して再びこちらに向かってくるのが目に入る。

 恐らく、またあの“矢”を放つつもりだろう。

(――――聞いちゃくれない、か)

『見て見て! さっきのヒコウキがまた戻って来るよ!? 絵本で見たやつ!』

(わかってるよ! ていうか絵本から離れろ! これじゃまるで俺がちっちゃい子みたいじゃねぇか!!)

 アズロットは首を左右に振って意識を戦場へと戻す。 

『魔人』との対決が控えている状況で、2発続けて被弾するのはさすがにキツイ。

(悪いが、仕事の邪魔をするってんなら、落とさせてもらうぜ?)

 アズロットはその目で、飛来する敵を捉えたまま逃がさず、『竜牙』を担いだ状態で両の足を大きく開いた。

 次に重心を落とすと、空いている左手を握り締め、腰だめに構える。

『お、やる?』

(おう! 頼む!) 

“念法”で気想を練り上げ、『想像と創造』の過程として、上半身を逸らしつつ大きく息を吸い込む。

 アズロットの口内が、赤い輝きを放ち始めた。同時に、彼の体温が急上昇し、蜃気楼が周囲を包み始める。

 肺に溜め込んだ空気を、アズロットは“想像と創造”によって、口内から吐き出す際に『溶岩』へと変換し、その超人的な肺活量で主砲弾のように撃ち出した。

溶炎弾(エルド・メルトヘルム)!!』

 高粘度を帯びた灼熱の液体が、レーザー光線の如く真っ直ぐにヒコウキへと突進した。

 凄まじい速力で吐き出された溶岩は、見事にヒコウキと正面衝突する。

 空の敵は衝突によって機体前部が歪んで原型を失い、飛行バランスを保てずに墜落を開始。耳を劈くような轟音を周囲に撒き散らして海へと落下し、水飛沫と共に姿を消した。

『お見事ー!』

「くそ、これを出すのも久しぶり過ぎて、口の粘膜が弱り切ってやがるな」

 口から白い煙を上げながら、アズロットは顔を顰める。口内の至る所を火傷してしまったのだ。

 とりあえず、喧しいのは落とした。

 次は周囲に展開する“目に見えない”相手に集中するアズロット。

「話を聞く気にはならねぇか?」

 もう一度問うが、返事は無い。どの者も、完全に気想が乱れていた。

「1つ忠告しとくけどな、恐いんなら、今の内に逃げる事だ。オレは手加減が苦手なんでね。それでも向かってくるってんなら遊んでやるけど、まだケツも青いんだから、粗末に死ぬもんじゃねぇぞ?」

 この島では、成人に満たない子供達が組織の戦闘員として訓練を受けていると、『少女の声』は言っていた。

 だとすれば、今対峙している素人丸出しの術師達は、その中から選ばれた子供達であろう。

 そう読んだアズロットは、出来る事なら戦わずに誤解を解きたいと考えていた。

 しかし、その心配(、、)が、相手の心理に火を着けた。

『何か変なニオイがするよ?』

(――――これは、火薬の臭いッ!)

 アズロットが、自分に向けられた銃口の奥に潜むモノの正体に気付いた時には、もう集中砲火が始まっていた。

 計5箇所の虚空が突如白く瞬き、無数の鉛弾がアズロットの巨体に突き刺さる。

「ッ!?」

『バチバチッ』という、鋭利な弾丸が硬化した皮膚にぶつかる生々しい音と共に、アズロットの体表に真っ赤な痣が付けられていく。

 更に、石のような物が投擲され、爆発する。

 剣を斜に構え、その刀身である程度の弾を弾き、爆風と反動に押された身体が仰け反りそうになるのをどうにか抑える。

(これが、この時代の武器か!!)

 全身を点状にくまなく打ちのめす、突き刺すような痛みに耐えるアズロット。

 だが、それだけだった(、、、、、、、)

「痛ッてぇな! 畜生!」

『大丈夫!?』

(この程度ならな)

 集中砲火が止んでも、アズロットはまだそこに立っていた。

 竜特有の、鋼以上の硬度を持つ皮膚は、そう容易く貫けはしない。

 竜の聴力が、相手の一人であろう少女の、息を呑む音を感じ取る。

 相手には恐らく、アズロットはあらゆる攻撃が通じない“不死身”のイメージがついたに違いない。それに恐怖して戦意を失い、大人しく家に戻ってくれれば、こちらとしては余計な消耗をせずに済んで楽なのだが。

 アズロットは天を睨む。

 天候は『雨』。嫌な空気だ。

 その時である。

 まるで、アズロットにとって好ましくない事を意識し、狙うかのように、前方を取り囲んでいた計5人の人間が、一斉に突撃してきた。

「!?」

 相手は全員、目には見えない。

 アズロットは両目を閉じ、他の感覚に意識を集中する。

 小刻みに呼吸を整え、リズムを計る。

(リュウ! わかってるな!?)

『はいよー。攻撃力90%オフ!』

 相手の気迫、息遣い、足音のリズムにタイミングを合わせ、大剣『竜牙(エルド・スクーガ)』――――その()を、横薙ぎに振るう。

『竜牙』は、先頭を切って飛び掛って来た男二人を捉え、その図太い刀身でこれを打ち払った。

 放たれる叫び声は、剣に打ち払われた男のものだ。

 二人の男はバットで打たれた野球ボールの如く、凄まじい勢いで着岸ポートから投げ出され、海面へと激突する。

 残った相手は3人。正確には、後方で動かずに居るもう1人を含め4人だが、今は目の前に迫った3人に対処する。

 仲間がやられた事に動じながらも、動きを緩めないところを見るに、それなりの状況を踏まえた訓練を積んでいるのだろう。

『ふむふむ。全くの素人ちゃんってわけでもなさそうだねぇ』

(勇敢なヤツらだ。嫌いじゃないぜ?)

 剣を横薙ぎに振るったことで、胴がガラ空きになったアズロットの腹部目掛け、若き戦士達は向かってくる。

 アズロットはこの時点で肺に半分ほど息を溜め終えており、先ほどと同じ要領で踏ん張ると、一気に吐き出した。

 ポートが轟き、粉塵が舞い、虚空が震えるその咆哮は、アズロットの体内で“想像”し、“創造”されて吐き出された暴風波――――『竜の激昂(エルド・アルハッラ)』。木をも根こそぎ倒す巨竜の息吹だ。

 とはいえ、出来る限りの加減はした。

 その証拠に、3人目の男1人が10メートル後方――――ある程度の距離を取って動かずにいたもう1人の所まで吹き飛んだだけで、残りの者は反り返って転倒するに止まった。

 倒れた2人は、鍛えた運動能力で両足を素早く胸の前まで持ち上げ、反動と筋力を駆使して一瞬の内に跳ね起き、体勢を立て直す。

 間合いに居るのは、その二人だけ。いずれも女だ。

 内の1人が何かを抜刀したらしく、刃の擦れる音が僅かに響き渡る。

『グググ』と、2人目が拳を強く握り締める音。

 刃物と素手。

「オーケー。ならオレも素手だ」

 剣を再び地に突き立て、アズロットは両の拳をボクサーの如く構えた。

 ふと目を開けてみると、いつの間にか、透明なはずの人間達の姿が顕になっていた。

 後方では、先ほど吹き飛ばした男と、動かずに居たもう1人の男がぶつかり、2人とも倒れ伏している。どうやら、姿が見えなくなる能力は2人の男のどちらかが担っていたらしい。術者が倒れた事で、その術が解けたのだ。

(嬢ちゃん達、悪いことは言わねぇ。悲鳴の1つでもあげて逃げるか、その場に尻餅でもついてくれりゃ、オレも適当に芝居打って見逃してやるから!)

 なんて事言っても逆効果だろうしなぁ、と、アズロットは内心で肩を窄める。

 2人の少女は、互いの目を見合わせて頷き合うと、同時に地を蹴った。

 真正面から直進してくる相手にアズロットが意を決した瞬間、少女達は突如として軌道を変えた。

 ――――アズロットを左右から挟撃するつもりだ。

『良いチームワークだね!』

(やるな!)

 アズロットの対応も早い。

 アズロットの正面から左右に逸れ、視界から外れつつある少女達を、しかし竜が誇る全ての感覚で常に捉えるアズロットは、左右の手を、手首を上向けた状態で腰だめに構え、挟撃してくるであろう少女達それぞれに、捻りを加えた掌打を放とうと身構えた――――だが。

 少女達はここへ来て、更に軌道を変えた。アズロットの正面へと。

 2人の軌道はアズロットの前でひし形を描き、再び正面からアズロットの胴を狙って来た。 

 ダブルフェイクだ。

(――――なにぃッ!?)

 どうやら、鈍っているのは身体だけではないらしい。

 更に悪いことに、アズロットの腹目掛けて今まさに繰り出された拳とナイフは、それぞれが気想を帯びていた(、、、、、)

 これは、少女達が格闘術に長け、“具術”を発動している証。

 解るのはそこまでだ。その術の効力は、実際に喰らってみなければ察しがつかない。

 だが、少女達の攻撃がアズロットに届くことはなかった。

 アズロットは、腰に添えていた両手を、その強靭な筋力を使って亜音速の勢いで正面へスライドさせ、向かってきた拳と刃の刀身を一緒に挟み込み、(すんで)の所で、真剣白羽取りの要領で受け止めたのだ。

 刀身とアズロットの手のひらに圧迫され、少女の拳が砕ける。

 少女達は完全に勢いを失い、痛みと驚愕に怯んでいる。

 その頬に、アズロットは軽く裏拳を放った。

「キャッ!!」

 短い悲鳴を上げ、2人の少女はポートの端ギリギリの所に倒れこんだ。

「惜しかったな」

 刀身の毒を払うように、両手を(はた)きながら、アズロットは呻く少女達を見下ろす。

『リュウちゃん、一瞬ヒヤッとさせられたよ』

(久方ぶりのスリルをとくと味わえ。まぁ俺は、大抵の毒は効かないけどな)

「――――とりあえず、これで全部か」

 そうつぶやいて両の肩を回し、一旦警戒を解いたアズロットの頬に、鋭い痛みと“熱”が迸った。

 直後に響き渡る、一発の銃声。

「!?」

 アズロットは手の甲で、頬の“熱い部分”を拭う。

 ――――血だ。

 この島へ来て初めて、アズロットは血を流した。

 遥か前方。

 倉庫郡の一部が開け、内陸へと至る通り道。

 1人の青年が、立っていた。

「済まない。歓迎したつもりが、ここの天候のせいで狙いを少し外してしまったらしい」

 まるで、演劇の旅団員が舞台の上で発声しているかのような、テノール調の声。

「この島の連中は随分と血の気の多い歓迎をするんだな」

気想弾(ソウルバレット)を喰らうのは初めてか?」

 もともと肺活量が大きいのか、やたらと遠くまで響くその特徴的な声は、人間離れした聴覚を持つアズロットには、この距離でも十分に聴き取れた。

『……ふぅーん。少し楽しめそうなヤツが来たじゃん』

(驚いたぜ。俺に血を出させる奴が『魔人』より先に現われやがるとは)

「自分の血を見たのは久方ぶりだ。そういえば、竜の血も赤だったな――――」

 そう呑気につぶやきながらも、その目は新参者を警戒しつつ、アズロットは血痕のついた手の甲を舐める。

「ようこそ新大島へ。観光が目的か? ――――そうは見えんな」

 青年は“銃”と呼ばれるものを片手で構え、こちらへと歩いて来た。

「というわけで、お宅はこれから罰せられる事になる。当然、理由は解っているな?」

 距離にして、20メートル。

 2人の男が対峙する。

「オレは怪しいモンじゃない。こいつらにもさっきそう言ったんだがな」

 両手を肩の高さまで掲げ、“戦意は無い”という意思表示を返すアズロット。

「怪しかろうが、怪しくなかろうが、然したる関係は無いな。ボクにはお宅をぶちのめすための理由がある。たった今出来上がった」

 青年は眼鏡をズリ上げ、その戦意に満ちた眼差しをアズロットに向ける。

 先ほどの面々とは違い、落ち着いている。

 目立った気想の乱れは無い。

 余興としては丁度良いかもしれない、と、戦いを好むアズロットの血が騒ぐが、今回ばかりは目的が違う。

 無駄な戦いは避けたい。

『あの美少年クン、仲間をやられてお怒りみたいだね。想定外な事が連続で、リュウちゃんも困っちゃうよ』

「こいつらの事か? なら謝る。悪かったよ」

 海に叩き落した男子生徒達が、タラップが聳えるポートの方へ自力で這い上がっているのを横目に、アズロットは言う。

「謝罪を述べたところ悪いが、野郎共はともかく、女の子にまで手を上げたお宅を、ボクの紳士魂(ジェントルソウル)が許そうとしなくてな。覚悟を決めてもらおう」

 青年は、銃を構える左手にもう一方の手を添え、言い放つ。

「これは紳士の、紳士による、次元を超越した、女の子のための、仇討ちだッ!!」




 外周道路を横断し、錆びにまみれた倉庫郡が囲む港エリアへと足を踏み入れた潤人は、ここへ来て()を止めた。

 それまで響いていた銃声が、一際大きい一発を最後に途切れたのだ。

「――――!?」

 銃声の沈黙は何を意味するのか。

 考えれば考えるほど“都合の悪い事態”ばかりを想像してしまう。

 潤人はぎゅっと目を瞑って首を横に振ると、ベレッタを目線の位置まで持ち上げ、訓練通りに、両手で構えた発砲姿勢で前進を再会する。

(落ち着け。前向きに考えるよう意識するんだ!)

 コンテナ郡を切り隔てる運搬通路の中を進みつつ、心の中で自分にそう言い聞かせ、潤人は前方――――着岸ポートのある広場に目を向けた。

 トラックが一台なら優に通過出来る、横幅7メートルほどの通路からでは、左右のコンテナの壁面が潤人の向かう先まで連なっていて、広場全体を見渡す事は出来ない。ここから見えるのは、3つある着岸ポートの内、中央1つのみ。と言っても、視力も悪い潤人には、鮮明には見えない。

(今でも遅くはない)

(まだ引き返せる)

 沸々と起こる感情をどうにか抑え、潤人は目を凝らし、耳を澄ます。

 聴こえるのは、震える息遣いと、コンテナ郡に短く反響する靴音。

「――――!」

 着岸ポート広場に足を踏み入れた潤人は、広場の光景に言葉を失った。

 広場には、戦闘服に身を包んだ隊員2人が横たわっていた。どこの小隊かは不明だが、管轄エリアは恐らく東側。詰まる所、新大島東高校の生徒だろう。

 倒れた2人から視線を上向け、広場の先――――海に突き出た3つの着岸ポートへと目を遣る潤人は、中央のポートに2つの人影を見出した。

 手前に立ち、こちらに背を向けているのは寺之城だ。

 彼はどうやら無事らしい。

 その寺之城が対するもう1つの大柄な影は誰なのか、ここからではよくわからない。

 その大柄な影の足元にも、人が2人倒れているのが見えた。 

「くそ――――」

 潤人は一先ず、自分から一番近い場所――――広場の中ほどで重なるようにして倒れている2人の隊員に駆け寄る。

「ッ!?」

 息を確かめようと、重なった二人の身体をごろりと仰向け、着けていたゴーグルを外した潤人は、この世の不条理を呪ってやりたいと思った。

 倒れていたのは、遠藤と上平だ。

「なんで、お前らが――――」

 夕方までは男子寮におり、潤人に米を分けてくれた2人が何故、ここで倒れているのか。

 疑問、嘆き、憮然と義憤。潤人の中で次々に巡る感情が、この戦場で巻き起こる事象に対する“恐怖”を、幸いにも有耶無耶にした。

 深呼吸した潤人がもう一度、友人達に目立つ外傷は無いかと観察すると、遠藤と上平の胸部はゆっくりと上下運動を繰り返しているのが見受けられた。命は無事のようだ。

「……」

 倒された仲間。

 銃を構えた寺之城と対峙する巨体の影。

 恐らく、この惨状の元凶はあの影だ。

 初陣の相手――――“敵”だ。

 遠藤達の小隊を1人で相手取ったのだ。寺之城が単独でどうこう出来る相手であるとは思えない。

 行かなければ。

 寺之城を、援護するのだ。

「先輩!」

 潤人はそう呼ばわり、手汗で滑りそうな拳銃を握り直して前進する。

 寺之城は、はっとしたように、ほんの僅かに身体を震わせたが、その顔は対峙する敵へと向け続けている。

「寿君! 何故来たのだ!? リル君を連れて逃げろと言ったはずだ!」

 叫ぶように返す寺之城の緊迫した声は、事の深刻さを語るかのようだ。

「リルは咲菜美と一緒なので心配ないです。命令を聞かなかった事は謝ります。でも、先輩を見殺しには出来ません」

 そう答え、潤人は寺之城の横に並ぶ。

 戦う覚悟を抱き、銃を構えた後輩を横目でチラリと見遣った寺之城は、

「――――まったく、ボクはキミをそこまで命知らずにした覚えは無いぞ?」

 やれやれ、とでも言うかのように肩を竦めた。

 仲間を傷つけ、リルを怯えさせた“敵”を、潤人は睨む。

 ここへ来てようやく、その姿が確認出来た。

 2メートルはあろうかという背丈、人の域を超えた強靭な肉体、目を疑うほどに巨大な剣。

 その皮膚は迷彩色。

 その瞳は満月のような薄黄色。

 どこか超人的なオーラが漂い、あらゆる素粒子達が固唾を呑んでいるかのように、周囲は静まり返っていた。

 時折吹く潮風だけが頬を撫で、大男の伸び広がった長髪を揺らす。

(あんなにデカイ剣で斬撃なんかされたら――――)

 潤人は、自身が抱く驚愕が恐怖へと変わっていくのに気付くが、どうにも出来ない。

 勇気を振り絞ってここまで来た。

 今、ここで目の前の敵と戦えるのは、自分と寺之城だけだ。

 通信も麻痺している。

 自分達だけで、やるしかない。

 やらなければ、港は陥落してしまう。

「……」

 唾をゴクリと飲み込むが、乾いた喉は通りが悪かった。

 恐怖と戦いながら、どうにか覚悟を固め直す潤人とは裏腹に、

「寿君、落ち着いて聞いてくれ」

“敵”を見たままの寺之城が、小声でこう言い放った。

「ボクは、ノープラン(、、、、、)だ」

 張り詰めた沈黙が包む中、頼り甲斐満載(、、、、、、)の先輩を、潤人は思わず二度見した。




(おっと――――更にお客さんか……?)

『子供を戦力として育成してるって話だけど、ホントに子供しか出てこないねぇ。大人達は何してるわけ?』

 と、リュウが呟いた通り、 眼鏡を掛けた青年に続いて、今度はどことなく青くさい少年が現われた。

 その身を恐怖と緊張に震わせながらも、こちらを睨んでくる。

 さっぱりとした黒髪。

 黒い双眸。

 この青二才は、これまでの子供達と違い、身体を取り巻く気想がかなり弱く、不安定だった。

(いかにも、“伸び悩んで困ってます”って感じのヤツだな。相当苦労してるだろうに。組織の連中は、こんな小僧まで前線に放ってよこしやがるのか? いくらなんでも酷すぎるってもんだ――――)

 アズロットは警戒心を再び強め、丹田に力を込める行為で、全身を気想で包み込む。

(とはいえ、こういう不安定なタイプは、不幸粒子の働き次第ではとんでもない事象を起こすケースが稀にあるから、気は抜けねぇんだよな)

 状況――――1対2。

 然程の問題ではないが、この島には数千人の気想術師が居ると聞く。もし、何らかの手段で更に増援を呼ばれたら厄介だ。

 さすがのアズロットも、数千人もの気想術師が相手では、魔人どころではなくなってしまう。

 これ以上仲間を呼ばせないためにも、目の前の2人を早急に黙らせなければならない。

 アズロットはチラリと、先ほどコンクリートに突き立てた愛剣に目を遣り、

「お前らが仇を討ちたいのはわかるが、多分無理だぜ?」

 顔を少し上向け、わざと見下すような目線を少年達に投げつける。

 狙いは勿論、挑発。“怒り”による判断力の乱れ。気想の乱れ。

「大層な物言いじゃないか。数人を倒した程度で調子に乗っちゃってないかね?」

 と、眼鏡の青年は返してくるが、そのこめかみの辺りには、狼狽と緊張の汗が滲み始めている。

「お前らが黙って引き下がるなら、そこで寝てる嬢ちゃん達には何もしないでおいてやるよ」

「紳士が脅しに慄くとでも?」

「あんたは何者だ!? 何しに来たんだ!?」

 青年の横から青くさい少年が、そう問いかけてきた。自覚はあるのか定かではないが、気想は依然として不安定だ。本番に弱く、普段の能力を全開で発揮できないタイプだろう。

 ――――頃合いだ。

 準備運動は手早く済ませて、“本命”を見つけて倒す。

 後は、『不幸粒子(ディスティフィア)』がこちらの邪魔をしない事を祈るのみ。

「オレの名前はアズロット。人に雇われた傭兵さ――――」

 アズロットは答え、次の瞬間に地を蹴った。あえて剣は掴まず、その大木のような大腿部の持つ瞬発力で、一気に2人との距離を詰めた。




『来たあああああああ!!』

 と、堪らず悲鳴を上げてしまったと思う潤人だが、それは突発的過ぎる事態に気が動転しただけで、実際には何の行為も出来ずに、アズロットに喉を鷲掴みにされていた。

 実に頼りがいのある先輩が“ノープラン”だとか言うので、咄嗟に会話をして時間を稼ぎつつ戦術を考えてはいた。

「――――ッ!?」

 出かかった悲鳴が、喉の奥で詰まる。

 寺之城はと言えば、銃使い(ガンマン)得意の動体視力でアズロットの突進を見切り、“上”へと回避していた。

 寺之城は、自身の気想を弾に込めて特殊な効力を持たせた『気想弾(ソウルバレット)』を使用している。アズロットが向かってきた際、彼は二丁のM29を足元に向けて発砲し、その反動と風圧で自身の身体を数メートル上空へ吹き飛ばしたのだ。

 端から見れば大した技には見えないが、風圧と反動を受けて身体が持ち上がる瞬間に、手首から全身へと駆け巡る衝撃は内臓にまで及び、見掛け以上に己がダメージを受ける。寺之城が戦闘時に手首のサポーターを装備するのは、こういったアクロバットな戦術を行使する際に一番負荷が掛かる手首の負担を緩和するためだ。

 寺之城が放った弾丸――――もとい『衝撃弾』は、彼が立っていた場所を薄く陥没させている。

 そんな威力の弾が自分のすぐ側に着弾した潤人は、『衝撃弾』が生み出す衝撃波をちゃっかり身体の左側面に貰い受け、吹き飛び掛けた所をアズロットに掴まれるという、散々な事態に見舞われた次第である。

 1撃目(、、、)――――寺之城(、、、)

 2撃目――――アズロット。

 気も動転するわけだ。

 こういうのを、大乱闘スマッシュ格闘ゲーム系等では“リンチ”と呼ぶのではなかろうか。

 例え『護符』を持っていたとしても、今のリンチを防げるとは思えなかった。

喉の閉塞感に表情を歪ませながらも、潤人は眼前まで迫った大男の顔を睨む。

 しこぶちな皮膚は赤と黒が斑になったような色。

 満月を映したような黄色の相貌は、獲物を見定めた猛獣のように鋭い。

 どう見ても普通じゃない。

 重量級の肉体が恐ろしいほどの瞬発力を持って、速力的には身軽で有利なはずの潤人を圧倒した。

 大型トラックがバイク並みのスタートダッシュをかましたら誰でも目を見開く。

 常人の気配など微塵もない。

(――――何なんだ!? コイツ!!)

 気付けば潤人は、地から足が離れていた。

 アズロットの強靭な筋力を備えた右腕が、潤人を悠々と持ち上げている。

 その鉄のような腕に両腕でしがみつく潤人は抵抗を試みるが、喉へと勢いを増す苦しみのあまり、足をバタつかせる事すら叶わない。

 上空へと難を逃れた寺之城は、空中で身を捻り、その手に握るM29の銃口をアズロットへ定め、


飛ぶ都度、白熱せよ(フライ・ド・ポテト)!!」

 

 発声法で気想弾(ソウルバレット)を放った。

 耳を疑いたくなるような台詞で放たれた計6発の気想弾は、まるで曳光弾(えいこうだん)のような白い光を放ち、潤人の首を掴む敵の腕に突き刺さる。

 落下を始めていた寺之城は、上空で風圧弾をもう2発放ち、身体をバク宙の状態に持ち込み、一回転して勢いを殺しつつ、潤人の真後ろに着地した。

「熱ッ!」

 情けなく叫んで、潤人から右手を離すアズロット。その右腕の上腕部には、複数の弾丸がべっとりと貼りつき(、、、、、、、、、)、細い白煙を上げている。

 寺之城の『飛ぶ都度、白熱せよ(フライ・ド・ポテト)』なる呪文で放たれた弾丸は、およそ800℃の高熱を持って溶解し、命中した部位を焼き、激痛を与え続ける効果を仕込まれた(、、、、、)ものだ。

「げほッ!」

 潤人は崩れるように座り込んで喘ぎながら、取り落としていた拳銃を拾う。

「大丈夫かね!? 寿君!」

「半分は俺の運動オンチのせい。もう半分は先輩のせいだと思います」

「話す余裕があれば問題ないな。初陣にしては、良いメンタルだ」

 悪びれる様子も、心配する様子も全く無い寺之城は、弾帯から片手で同時に3発の弾丸を抜き取り、素早くシリンダーに装填(リロード)する。

「ガキにしちゃ、なかなか味な真似をしやがるじゃねぇか」

 不敵に笑みを見せながら、大男は被弾した右腕に力を込める。すると、筋肉が一気に凝縮され、その覇気も相成って、貼りついていた弾丸が弾け飛んだ。

 それを見た寺之城が、

「『飛ぶ都度、白熱せよ(フライド・ポテト)』でも、あまり効果は見られない、か」

 と、舌打ちしつつ、更にもう3発装填する。

「銃は弓より有利な飛び道具ってところだな。でも残念なことに、竜の体細胞は、熱にも冷気にも打撃にも、べらぼうに強いのさ」 

「“竜”だと?」

「さすがに知らねえか。この時代じゃ」

「――――お宅も、厨2病だったのか?」

「あぁん?」

 アズロットと名乗る男と、寺之城の会話に“竜”というフレーズが出てくるとは、潤人も予想していなかった。

 アズロットの持つ能力に深い関係性があるものだという事は何となく解るのだが、神話や映画の中でしか見た事のない、空想上の存在でしかないはずの“竜”を想像(イメージ)の素体にしているにも拘らず、術の一つ一つが明確且つ、強力であるのは、俄かには信じ難い事であった。

 気想術を発動するうえで必要なのは、“想像と創造”。

 創造するものが、感覚的な情報に乏しい空想的なものであるのと、己自身で目にし、触り、感じた、実在するものであるのとでは、術の精度に違いが出る。

 空想的であればあるほど、気想の具現化は難しく、更に脆く、信頼性に欠ける。それこそ、よほどの天才的な技能や体質でもない限り、不可能に近いはずだ。

 それを、しかし目の前の大男は平然と成し、事も無げに語った。

 やはり、普通ではない。

 遠藤達を相手に交戦して、息も切らさず、大した手負いが無い時点で、常軌を逸している。

 まるで“超人”だ。

「まずいですよ、先輩」

 喉を擦りながら、潤人は荒い呼吸の中で声を絞る。

「――――あいつは“9人の精鋭(ナイン・エース)”並かそれ以上の術師(スキラー)かもしれません。もっと増援を呼ばないと」

「通信機器が言う事を聞かない今の状況では、伝令を走らせる他あるまい。タラップの方に、まだ残っている者が居るはずだから、彼らに頼んで――――!?」

 寺之城は言い終える前にその身を屈め、再び襲ってきたアズロットの攻撃をかわす。

 さすがに、悠長な会話をする隙は与えてくれそうにない。

 アズロットが放った右ストレートを間一髪のところでかわした寺之城は、カウンターでアズロットの腹部に右手でゼロ距離射撃を見舞おうとするが――――――。

 銃弾が、発射されない。

「ッ!?」

 弾詰まり(ジャム)だ。

 銃使い(ガンマン)である寺之城は、愛銃の整備は欠かさず行っていたし、回転式拳銃(リボルバー)自体も単純な構造であることから、弾詰まりはほぼ無いとされていた。にも拘らず、この生死を分けようというタイミングで、それが起こった。

 この一瞬の間に、アズロットは寺之城の右手に手刀を打ち込んで対処してきた。

「くッ!」

 手刀の薙ぎ落とすような一撃を食らった寺之城は、衝撃にM29をさらわれ、取り落としてしまった。

「先輩!」

 寺之城の代わりにと、潤人が自分の銃をアズロットに向ける。

(散々してきた訓練通りにやるんだ! 無駄な力は抜いて――――)

「!?」

 まただ。

 潤人のベレッタも、このタイミング(、、、、、、、)で弾詰まりを起こしたのだ。

「おいおい、その武器は格好だけなのか?」

 アズロットは呆れたように言い捨て、

「――――ッ」

 寺之城の首に手刀を打ち込み、意識を奪った。

 そのあまりの早技を前に、潤人は愕然とする。

「どうする? もうお前だけだ。逃げるなら追わないぜ?」

 両の拳を鳴らし、警告してくるアズロット。

“逃げるなら追わない”

 その言葉が、潤人の脳にこびり付くかのようで、潤人は自分に嫌気が差しそうだった。

「逃げるくらいなら、いっそあんたに特攻した方がマシさ」

 暗く、沈みきった表情の潤人。自分でも、何故急にこんなにも気持ちが落ち込むのかわからなかった。

「さっきの男前な顔はどうした? 一気にげんなりしやがって」

「あんたみたいな出来るヤツ(、、、、、)に、“もやし”の何を語ってもわかるわけない」

「……お前、(スキル)使えないだろ?」

 潤人は、突如自分の裏の事情(、、、、)を見抜かれ、言葉に詰まった。

「周りの奴らに置いていかれて、毎日『不幸粒子』に悩んで、卑屈になってるんだろ?」

「――――だからって、背を向けるわけにはいかないんだよ。あんたみたいに、努力が報われて強くなったヤツにはわからないだろうけど、俺だって、好きで、弱いままで居るわけじゃない。戦う時のために、人一倍悩んで、苦労して、我慢して、修行してきたんだ。それを否定して逃げるくらいなら、ここで死んでやる!」

 弾が詰まったままの銃を向けても、もはや脅しにすらならないだろう。わかってはいるが、寺之城が取り落としたマグナムへはとても辿り着けそうにない。

「悔しいか?」

「うるさい!」

「悔しけりゃ、お前の信念でどうにかするんだな。言っとくが、嘆いてるだけじゃ、『不幸粒子』を呼び寄せるだけだぜ?」

「……」

 アズロットの言葉は、何も間違っていない。

 頑張っても『運』に見放され、一向に満たされず、祝福されない自分の境遇を潤人は何度も嘆き、世の中を恨む。それでも、結局は進むしかないのだ。どれだけ哀れで、惨めであろうとも。

“敵”の言葉ですら否定出来ず、認めざるを得ない自分が恥ずかしく、悔しかった。

 潤人の心を、『劣等感』が包み込んでいく。

「――――ッ!」

 溢れ零れる感情に言葉がついて来ない。

 言いようのない怒りをぶつけるかのように、潤人はその手に握っていた銃をアズロットの顔目掛け、力任せに投げつけた。

 が、狙いが初めから悪かったらしく、銃はアズロットの頭上を虚しく通過。

「うぁあああああああああああ!」

 潤人は壊滅的な運動音痴の身体に鞭打って、徒手格闘を挑む。

 その瞬間、竦みがちだった足がもつれ、前のめりにバランスを崩してしまった。

 そんな潤人の頭を片手で鷲掴みにして、突進の勢いを完全に奪うアズロット。

「ダメだな。まるで成ってない」

 アズロットは潤人の頭を押し返す。

「ぐあ!!」

 一見地味に見えるが、『竜人』の力が込められたそれの威力は、人間の常識が及ばないものだった。

 後方に勢いよく仰け反った潤人は後頭部から倒れこみ、頭をコンクリートに打ち付ける鈍い音と共に悶絶した。

 頭を押さえた手のひらには血が付着している。

(皆は、ちゃんと“戦った”。使命を全うした)

(自分のは何だ?)

(こんなの、戦いじゃない。ただ敵に弄ばれているだけじゃないか)

「そんな顔をするなよ。お前は逃がしてやるから、もっとしっかりして出直して来い。オレの“仕事”が片付いて、且つオレの首が繋がってて、それでもって気が向いたら、また相手になってやる」

 アズロットの目的は何なのか。敵なのか、そうではないのか。

 情報が全く無い今は判断のしようがなかったが、アズロットの今の言葉は、潤人には、弱者を見下した言葉にしか聞き取れなかった。

“お前など、倒す価値も無い”

“掛かる手間が無駄だ”

 言われてもいない言葉までもが、潤人の脳内を渦巻き、冷静さを奪っていく。

「弱者を――――」

 ふらつきながら立ち上がる潤人は――――。

「痛い目を見ないとわからねぇか?」

 身を低く構えるアズロットに、ニ度(にたび)突っ込む。

「――――弱者を、馬鹿にするな!」

 しかし、潤人の特攻が届く事はなかった。

 今度は、先の戦闘で亀裂が生じていたコンクリートの段差(、、)に足を取られてしまったのだ。

(くそ!!)

「ッ!!」

 潤人は、アズロットが放った“何か”に、気絶したままの寺之城と共に吹き飛ばされてしまった。

 潤人と寺之城の身体は軽々と宙を舞わされ、ポートから外れて海の上へと飛ばされたうえ、そこに追い討ちを掛けるように、呼吸が圧迫されるほどの強烈な暴風波が追突した。

 2人は、これまで味わった事がないほどの暴風に息が出来ぬまま、飛びに飛んで、端の着岸ポート――――そこに建つタラップに激突。

 タラップは数十段の階段に2つの踊り場を挟んでおり、3階建てに匹敵する高さを持っていて、寺之城はその最上部、即ち船から初めに降り立つ踊り場に頭から墜落し、潤人はその最上部の踊り場を囲む、落下防止の柵に背中を打ちつけた。

「ぐえッ!」

 やられ役にぴったりな呻き声が上がる。 

 タラップの最上部。地上3階。

 極限の状況下、苦しみに勝る勢いで頭が回り、自分の状況を理解した潤人は、しかし既に自由落下を始めていた。

 正方形の床と呼べる場所に落ちた寺之城と違い、潤人はその壁面と呼ぶべき柵にぶつかったのだから、その後は重力に引かれるまま落下するのは当然の現象である。

 柵に張り付いていた潤人の背中がズルズルとスライドしていく。

「――――!?」

 何も声に出来ない代わりに、地獄へと続く下方に目を見開く潤人は反射的に手を動かすが、どこにも摑まれない。

(落ちる――――!!)

「寿君!!」

 手遅れになる寸前、目を覚まして咄嗟に起き上がったらしい寺之城から伸びた左手が、潤人のYシャツの襟を辛うじて掴んだ。

 寺之城は左手で潤人の襟を掴み、左脇で柵を挟み込む形で寄りかかり、柵が左脇に食い込む痛みと戦いながらも、潤人を空中に(とど)める事に成功する。

「せ、先輩!」

「脇が痛いッ!!」

 もし潤人を捕まえてくれた人物が咲菜美であれば、その肉体強化術で容易く引っ張り上げる事も可能であっただろうが、そういった強化系の術を持たない生身の人間では、例え男子であっても、人一人を片手で引っ張り上げるのは至難である。

 潤人は軽量化のために、Yシャツの上に着込んだタクティカルベストを脱ごうとバックルを掴むが、思うように外せない。

「ど、どど、どうしてボク達はこんなとこにワープしてるんだね?!」

「よくわかりません!!」

 襟を掴まれたYシャツが、両脇や喉元まで食い込み、命綱の役割を担っている状況の潤人は必然的に、中央のポート――――アズロットが立つ場所に顔を向ける形となり、大男の“変化”を見た。

 ポートからこちらを見上げるアズロット。その背には、まるでコウモリのような翼が出現していた。

 先ほど潤人達を吹き飛ばして暴風を見舞ってきたのは、恐らくあの翼だろう。

(まさか、変化(トランス)能力者!?)

 潤人がそう分析したのも束の間。

 アズロットはその巨大な翼を振るい、更なる一撃を放ってきた。

 それは、視認できる程に濃く圧縮された気想の渦。

 それは、風の刃を含んだ(、、、)衝撃波。

「手を離して逃げて下さい!」

 潤人は上に向けて叫ぶ。

「馬鹿を言うな! 仲間を見捨てて逃げられるか!」

 先ほどの激突で顔を打ったのか、鼻血を滴らせながら、潤人を放すまいと歯を食いしばる寺之城は、アズロットの変化にまで意識が及んでいない。

(あの衝撃波を喰らったらだめだ!今度こそ助からない!)

 わかってはいても、潤人はただ、眼前から迫り来る止めの一撃を待つことしか出来ない。

 俺を信じろ、なんて事を言って飛び出しはしたが、結局仲間を救う事は出来ず、むしろ今こうして足を引っ張っている己の情けなさを嘆く余裕も無い。

 下方では、遠藤達の小隊の生き残りであろう男子2人が潤人に向かってしきりに何かを叫んでいるが、視界が走馬灯のように遅く流れる潤人には聞き取る事が出来なかった。

 あらゆる希望、幸運が弱まった“雨”の中。

 衝撃波は、粉塵を巻き込みながらタラップ下部、鉄骨で組まれた支柱を吹き荒らし、タラップをも持ち上げ兼ねない暴風で、下の隊員達を紙くずのように吹き飛ばす。

「「――――!?」」

 タラップ全体を激震が駆け巡り、金属という金属が、悲鳴を上げるかのように反響した。

 風の刃は、束ねられた竹を両断する刀のように、易々とタラップの支柱を斜めに切断し、自重でバランスを崩したタラップは根元を残して倒壊を始める――――海へと。

「なんだかタラップが傾いているように思えるんだが気のせいかね!?」

「気のせいじゃないと思いますッ!」

 タラップが段々と傾きを増していくにつれ、重力も変化する。

 内臓が竦み上がる。

「風で鉄製の支柱を切断したというのか!?」

 寺之城も、流れてゆく視野の中に、翼を生やしたアズロットを収め、驚愕に目を見開いている。

 変化(トランス)という上級(スキル)を会得し、想定以上の大技を連発する人物が相手である時点で、自分達だけで対処するのは無謀だったのだ。

 ただ一方的にやられるしか(すべ)が無い。

 心の隅ではそれを予感していて、しかしそれでも尚、仲間を守るために戦った潤人と寺之城の心を、悔しさと絶望が包み込む。

 丁度、端のポートと中央のポートの間に最上部が落下する形で、タラップは倒壊した。

 幸福粒子がもたらす加護など、どこにも無かった。




「――――ちょっとやり過ぎたか」

 海面を貪るように倒れ込むタラップ。浴槽をひっくり返したような水飛沫を被り、アズロットは独り言る。

 こういう事を、日ノ本では“後の祭り”というらしい。

 ポート上に居た2人と、タラップにしがみついていた2人。

 眼鏡の青年は年も年長なのか、一番落ち着いて見えた。

 彼は面倒見が良く、仲間思いの人間だった。

 それから、後から来た青二才。

(今の一撃は、その卑屈な精神に活を入れるためだ。せっかくイイ目つきをしていたんだ。簡単に捨てるもんじゃねぇ)

 と、アズロットは薄く惜しむ。

 あの“目つき”は、悩み抜いた人間が、相応の覚悟を持って意を決した時のものだ。

 嫌いなタイプではない。

(このクソッタレな仕事さえなけりゃ、先人として術の手解きをしてやっても良かったんだが――――)

 アズロットは此度の己の立場を、初めて悔やんだ。

(今回ばかりは、仕事が仕事だからな。悪いが、排させてもらったぜ。死なない程度には加減したつもりだ)

 と、内心でつぶやくアズロットは、『変化』を解いて翼を消し、後ろ頭を掻きながら考える。

 彼らを、どうにかして海中から引っ張り上げてやる必要があるのだ。

 戦いは、ただ派手にやればいいわけではない。

 久しぶりの戦闘に、好戦的な傭兵の血が騒ぎ、ついはしゃいでしまった。

「これじゃ、どっちが子供(ガキ)なんだかな」

 そう皮肉るアズロットが、さてどうしたものか、と腕組みして海面を見つめる。

 すると、大きく揺れる海面に、小さな泡が沸々と上がってきているのが目に入った。

 泡の勢いは次第に増し、海中から黒い影が現われる。

(気想術が廃れても、タフな奴は居るもんだな。これで助ける手間が減る)

 海中から上がってくる者の気想を早くも感じ取ったアズロットは、着岸ポートの淵から数歩下がる。

 あえて足場を用意し、相手を陸に上げさせてやり、そこで止めを刺す。

『アズロット、左!』

「ん?」

 リュウに呼ばれ、アズロットは先ほど倒した2人の少女が隙を見て移動し、倒れた仲間をそれぞれ1ずつ担ぎ上げ、退却していくのを見た。

『逃げていくけど、どうする?』

(放っておく。ここは後で“ヤツ”と戦う場所になるかもしれないわけだからな。巻き添えは居ない方がいい。増援を呼ばれたら厄介だが、ヒコウキはここには降りられないだろうし、馬を使ったとしても、連中の要塞は山の地下にあるって話だから、すぐには来れないだろう)

 近代兵器の全てを網羅しているわけではないアズロットはそう推測し、海へ意識を戻す。

 すると、誰かが海面から顔を突き出し、喘ぐ声が聴こえた。

 1人だけだ。その1人をポートの上で気絶させ、残りの3人を引っ張り上げる。

 そうして早い内に障害を取り除かなければ、『本命』と戦う際にやり辛くなってしまう。

 算段し、三度(みたび)丹田に力を込めるアズロットだったが、ここで予想だにしない事が起こった。

 ポートの淵。1人の少年が這い上がるであろう場所に、突如として、1人の少女が現われたのだ。

 いや、現われたという表現が正確であるかどうかはわからない。

 どこからともなく現われた無数の光の粒が舞い集い、人の形を創り――――。

 驚いたアズロットが瞬きをした次の瞬間、そこに少女が立っていたのだ。

 セミロングの金髪。人形のように整った、気品漂う容姿。

「やめろ!!」

 少女は、まだ幼さの残る声でそう言い放ち、両の手を広げ、仁王立ちする。

「――――ッ!?」

 アズロットは一驚(いっきょう)して目を見開いた。だが、その少女が音も気配も無く現われた事に対して、ではない(、、、、)

「お前は――――何だ(、、)?」

 その少女の正体(、、)に、である。

「わたしは、大英王国女王の娘、リル・オブ・シャーロット・レスター。第一王女だ! わたしの前で、これ以上の乱暴は許さんぞ!」

「王女、だと!?」

 アズロットの脳裏に、遥か遠い、若かりし頃の記憶が薄い情景となって想起される。

 英国王女。

 その懐かしい響きに、アズロットは瞳を閉じた。

 現役の傭兵だったアズロットは、“『悪竜』に囚われた王子を救い出す旅に出る王女”を守るために、王室によって正式に雇われた経験があった。

 戦う乙女――――『英国王女シャロン』の血統が、今この場所で、目の前に立っている。

 それも、人間としてではなく(、、、、、、、、、)

「――――そうだ。この、ロウゼキもの」

 アズロットの問いを肯定する事に何らかの抵抗があったのか、僅かな沈黙を挟んだリルは、静かに唸った。

 しかしアズロットにとって、彼女の存在は哀切でしかなかった。

 痛ましいほどの、悲哀。

 不遇な運命。

 目も当てられない、慟哭。

 ふと気がつけば、『不幸粒子』の濃度が更に濃くなっていた。

 悪質な雰囲気が、誰も逃がすまいと、港全体を包んで閉じ込めていくようだ。

「……何故だ?」

 どっしりと構えていた余裕は消え去り、力の失せた声を漏らすアズロット。

「何故、その道を選んだ?」

 静かに紡がれるアズロットの言葉に、リルは目を見開き、腕を力なく下ろした。

「お前は、わたしの正体(、、)がわかるのか?」

「聞いてるのはこっちだ」

 アズロットはその目を鋭く細め、リルを見下ろす。

当時(、、)の事は、よく覚えていない。その時の記憶は、どこかへ行ってしまった」

 潤人のアパートで、リルが僅かに陰らせた愁いの眼差し。それが今、アズロットを射貫く。

「自分の意思なのか、そうでないのかすら、覚えてねぇのか!?」

「……わたしには、選択肢など無かったのだ」

「詳しい事情は知らないが、お前はそれで満足なのか? そんな姿になってまで、何を望む?」

「わたしは、仲間と居られれば、それでいい。他の事は考えたくない」

「――――いいか? 聞くんだ。今、世界に異変が起こってる。お前の身に起きた異変も、その一旦かもしれねぇ。それを判断するには、真意を知る必要があるんだ。思い出してくれ」

「それ以上、なにも言うな。よく思い出せないのだ」

 リルは、その白く細い両手で自分の肩を抱き、何かに耐えるかのように俯いた。

 アズロットは彼女の気想を感じ、察する。

 リルという少女の心は、偽りに塗り固められていない、とても純粋な心だ。

 恐らくリルは、自ら望んでそうなった(、、、、、)わけではない。

 辛く、悲しい記憶の断片が、はっきりとした形を成さないまま、彼女の精神を突き刺しているのだろう。

 そうでなければ、悲しみに満ちた気想を放ちはしない。

「――――くそッ!」

 アズロットは歯を食いしばり、中央に聳える山を睨む。

 その目に宿るのは怒り。

 自分達の記憶に侵入し、操作した術者に対する怒りだ。

(術者の野郎! お前は、一体何が目的でこんな回りくどい事をしやがる?)

 肩を小さく震わせ、嗚咽を漏らすリル。

(この子の状態を知っていて尚、利用するなんざ、正気の人間がやることじゃねぇ。この子に、これほどの仕打ちをした理由はなんだ?)

 相手は、複数の人間の記憶を改竄出来るほどの力を持つ者なのだ。アズロットが今ここで思った事を、脳内に仕込んだ気想を介して読み取っていても不思議はない。

(お前は、魔人とどういう繋がりがあるのか知らねぇが、今回の仕事が済んだら、面を拝みに行ってやるからな!)

 アズロットは俯くリルに視線を戻すと、深呼吸して意識を手中する。

「……お前に同情はしない。だけど、お前を襲った運命は残酷すぎる」

「わたしは、今の暮らしが続いてくれれば、それでいい……」

 リルの華奢な肩が、小さく震える。

「お前は、これから先で待ってる運命を、全部受け入れる覚悟をしなくちゃならねぇ。今の暮らしが大切なら、逃げちゃダメだ」

「立ち向かっても、わたしにはどうにも出来ない。でも、逃げれば――――逃げ続けていれば、それ以上悪くはならない!」

「今のお前は1人なのか?」

 アズロットのその言葉が、リルの震えを止めた。

(多分、さっきの、尻の青い小僧と関係があるな。この小娘の気想は、あいつのものだ(、、、、、、、)

「わたしには、潤人が居る」

「“ウルト”ってのが、今海に落ちた野郎の1人か?」

「そうだ。潤人が居てくれれば、それでいい。だから、もう、乱暴しないで……」

「安心しろ。野郎共は殺しちゃいねぇ。大丈夫だ」

 アズロットは身を屈め、リルの顔を覗くようにして、再び目を合わせる。

「こうしねぇか?」

 リルの頬を伝う涙を、アズロットはその太い指で払う。

「お前はウルトと力を合わせて、これから来る困難と戦うんだ。逃げちゃいけねぇ。苦しい時ってのはな、強くなるチャンスなんだぜ?」

「わたしと潤人で、強くなる?」

「そうだ。お前は、ここに(、、、)居たいんだろう?」

「――――うむ。わたしは、ここに居たい」

「よし。なら決まりだ」 

 彼は、大剣――――『竜牙』に目を向け、

「気想は練り終えた。一か八かだが、試させてもらうぜ」

 ポートに突き立てた愛剣を、左手で引き抜く。

「失敗したらしたで、お前にはウルトが居る。大丈夫だ。きっとうまくやれる」

 そう言って、アズロットは右手で刀印を構えつつ、リルへと歩み寄った。




 倒壊したタラップと共に、潤人と寺之城は海面へ叩きつけられた。

 全身を襲う、痺れるような痛み。その耳に一気に海水が入り、鼓膜を圧迫する。倒壊の最中、咄嗟に息を吸い込んではいたが、海面を突き破った衝撃でほとんど吐き出してしまった。

 呼吸を求め、必死に浮上を試みる潤人は、タクティカルベストやホルスターを外し、なんとか海面に顔を出す事に成功する。

「がはッ!」

 泳ぎもあまり得意ではない潤人は、波に遊ばれて何度も海水を飲みながらも、はぐれた寺之城の姿を探す。

 だが、浮上したのは潤人1人だけだ。

(――――先輩!)

 潤人はどうにかして寺之城を引っ張り上げられないかと、焦りの心拍の中で考え始める。

 その時。

「やめろ!」

 ポートの上から声が響いてきた。その聞き覚えのある声に、潤人の表情は恐怖で引きつっていく。

(――――ッ!? こんな時に、どうしてお前が居るんだ!?)

『不幸粒子』は、そこまでして、潤人達の帳尻を狂わせたいのか。

 潤人は、あまりにも好ましくない状況を恨んだ。

 今日1日を共に過ごし、互いの事を話し合い、護衛を約束した少女。

 彼女と仲間を守るためならばと、尻込みする身体に鞭打ってここまで来た。

 だが状況は、そんな潤人の葛藤と決意を嘲笑うかのように、悪化する一方だった。

 仲間を助けることは叶わなかったうえ、命に代えても守るべき者までもが、たった今失われようとしている。

 それだけは、させてはならない。

 彼女だけは、敵にも、不幸粒子にも、好きにさせてはならない。

(リル!)

 潤人は波がポートにぶつかるタイミングに合わせ、ポートの側面にしがみつく。

(せめて、リルだけでも!)

 波に攫われぬよう、歯を食い縛ってよじ登り、筋を痛めるほど必死に伸ばした右手が、どうにかポートの淵を掴んだ。

 そして唸りながら、やっとの思いでポート上に這い上がった潤人は、その瞬間を見た。

 まるで、『不幸粒子』が仕向けた悪運の生み出す、あらゆる因果が潤人にタイミングを合わせでもしたかのように、その光景は彼の目に深く、深く、焼き付けられる。

 アズロットが振るう、その強大な刃が容赦なくリルの首を喰らい、


 ――――薙ぎ飛ばした。

 

 理不尽な世界が、罪の無い命を奪っていった。

 潤人は断腸の思いで、その光景を見つめるしかなかった。

 金色の美しい髪を靡かせる少女は、潤人の目と鼻の先で、その生涯を絶たれた。

 侵入者アズロット・アールマティの、無慈悲な斬撃によって。

 守ると誓った人を、守る事が出来なかった。

 この悲しみと絶望は、言葉で言い足りるものなどではない。

 リルは首を刎ねられた。

 寺之城は海中から戻らなかった。

 他の仲間達も倒された。

 潤人は、誰1人助ける事が出来なかった。

“それ以上、嘆いてはだめだ!”

 今、心の記憶に残ったリルが、潤人にそう言ったかもしれない。しかし、彼女の“死”を目の当たりにした潤人には、響かなかった。

 寺之城の指示通り、リルを連れて本部まで退避してさえいれば、彼女の死は防げたはずだ。

 柄にもない勇気を、在りもしない希望を、果たせもしない決意を抱いたせいで、人を死なせてしまった。

「!?」

 打ちひしがれた潤人の瞳が、再び大きく見開かれる。

 首を刎ねられ、崩れ落ちるはずのリルの身体が突如、瞬く星のような輝きを放ち、まるで風に攫われる砂の如く虚空へと舞い散ったのだ。

 落下を待つのみであったその首も、宙を舞う中で輝きを放ちながら、煙のように雲散霧消する。

「――――リル?」

 潤人は彼女が立っていた虚空へと手を伸ばし、最悪な幻術か何かである事を願ってリルを探す。

「うまく事が運べばいいんだがな――――」

 牙のような乳白色の大剣を肩に担ぎ直したアズロットが、そう呟いた。

 自身の震える手と、アズロットを交互に見つめる潤人の事を哀れと思ったのか、“竜”と名乗った大男は少年の側まで歩み寄り、

「受け入れ難いだろうが、これが現実だ。お前は悪夢を見ていたのさ」

 その目で、潤人を見下ろしてきた。

「この、人殺しめ!!」

 マグマのように込み上げる怒りに全身を震わせ、きつく目を瞑り、潤人は深い悲しみと、止む事の無い絶望と、底知れぬ批難を叫んだ。

「――――そいつは違うぜ?」

 アズロットの答えは、潤人には想像もつかないものだった。


「彼女は、()っくの昔に死んだ人間だ(、、、、、、)


 潤人には、その言葉を把捉する事は出来なかった。  

(リルは、死んでいた?)

 そんなはずはない。

(今朝、転校生として紹介されて、一緒に学校を見て回ったじゃないか)

(部屋のベッドで、あんなに気持ち良さそうに眠っていたじゃないか)

(頭を撫でた)

(蹴られもした)

(皆と会話もした)

(目に見えていた)

(認識していた)

(――――基地で、抱きしめてくれた)

 考えれば考えるほど、呑み込めなくなっていく。

 脳裏には、眩しいほどに美しく、可憐に微笑むリルの姿が浮かぶ。

 潮風に揺れる髪。

 明るく澄んだ瞳

 その身を包む、清楚で高貴なオーラ。

 誰もが思わず見とれてしまう、佳麗な容姿。

 まだ幼さの残る、愛らしい声。

 一見気が強そうに見えて、実は照れ屋さんで、素直で、思いやりのある優しい少女。

 リルという少女の全てが、その魅力全てが、幻だったとでも言うのか。

「オレは他に用がある。重要な仕事だ。これ以上邪魔しないなら、見逃してやる。彼女の事は、お前らのお偉いさんに聞くんだな」

(この男は、リルにした事を気にも留めていないのか? 何故、そんなに冷静で居られるんだ?)

(どうしてリルが、こんな目に遭わなきゃならなかったんだ?)

 たった今までリルが立っていた虚空を、空っぽの瞳で見つめる潤人。

(彼女は、救いを求めてここまでやって来た。罰を受けるようなことなんて、何ひとつしていない。なのに、どうしてこんな事に?)

 潤人の中で、世界が豹変していく。

(こんな質の悪い幻術はたくさんだ)

(早く解けてくれ!)

 潤人の周囲が全て、誰かの『眼』で埋め尽くされた。

 瞬くことのないそれらの眼が、全方位から潤人を囲んで閉じ込めた。

 見られている。全てを、見抜かれている。

“悪魔”が、自分を見ていた。

『私二全テヲ委ネレバ、苦シマナクテモイイ』

 声質は少女のもの。しかしどこか妖艶な響きを含んだ、聞き手を誘う様な声音が、潤人の脳内で囁く。

 潤人は失敗した。

 決断し、行動した結果、何も成せなかった。

 仲間を救えず、リルも守れなかった。

 戦闘の際の潤人は足を引っ張っていた。

 戦ったのは主に寺之城。潤人は翻弄され、何も出来ずに巻き込まれ、タラップでは寺之城が潤人を摑まえたおかげで事無きを得た。

 結局、モヤシに出来ることなど、何一つ無かったのだ。

 なんと情けない事か。

 咲菜美も、潤人のこの様を見れば、失望し、呆れ、憎悪の目を向けるに違いない。

『敵カラ、皆ヲ助ケタイノデショウ?』

 甘く誘うような声色。彼女の声以外に、聴こえるものはなくなった。

 思えば、これまでの人生で、潤人はどんなに耐え忍んで努力しようが、何も得ることはなかった。

 結果に尽く裏切られ、蹴落とされてきた。

 世界は理不尽に出来ている。

 そうだ。前からわかっていた事だ。

 世界は、自分の敵なのだ。

 世界は自分の事を見下し、嘲笑っているのだ。

 そうでなければ、これほど災難にまみれ、報いの無い人生などあるわけがない。

(この世界は理不尽ダ。腐りきっテル)

 世界への、底知れぬ怒りと憎しみが、潤人の精神を埋め尽くす。

(いくら頑張ッテモ、イくら願ッテモ、何モ起こらナイ。誰モ、助けてくれナイ)

 自分のものではない、何者かの意識が心の中に入り込み、絵を黒く塗りつぶすように、感情を憎悪で満たしていく。

 次の瞬間、全身を『熱』が駆け巡った。

 心臓から熱湯が流れ始めたかのように、激しい『熱』が、胴から首へ、足先へ、眼球の奥へ、隅々まで行き渡る。

 痛みが遠退き、活力が漲っていくのを感じる。

 この時潤人は本能的に、自身の中に強い『気想』が生じた事を悟った。

“怒り”と“悪意”。そしてもう1つ、何かの感情が込められた、膨大な量の気想を、感覚で捉えたのだ。

(今の自分には、何人をも凌駕する『力』が宿っている)

“確証の無い確信”を、潤人は抱いていた。

(このチカラがアレバ――――)

 脈打つ鼓動が、徐々に早まっていく。

(リルを殺シタ者に、この世界に、復讐スル事がデキル)

『オ願イダカラ、私ニ委ネテ。助ケテアゲルカラ』

(誰だか知ラナイけど、邪魔ヲしないでクレ!)

『……ッ』

 潤人がそう返した瞬間、全身の疲労が抜け、胸にこみ上げる重圧が霧消し、まるで悪夢から覚めたかのような解放感に包まれた。

(コノチカラデ……)

 意識が遠のいていく。

(理不尽ナ世界ニ、復讐ヲ)

 視界が真っ暗になり、潤人の精神は完全に、闇へと呑み込まれる。

 だがその刹那。

 潤人は『気想』へ込められた三つ目の感情に気付いた。

 それは――――、


 ――――“悲しみ”だった。




ここまで読んで下さり、ありがとうございます。

また良かったら見に来て下さい。

宜しくお願いします。

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