第2章・氷獄の竜は現代社会に適応出来るか?
これは、今から1000年以上昔の出来事である。
東欧大陸の果て。
「なんてことだ……!!」
小国を統べる居城の広間。厚く大きなドアを押し開け、一番に駆けつけた騎士団長は、自分が思わず言葉を溢した事にも気付かなかった。
彼は世の終わりを知ったかのような絶望的な色を顔に浮かべ、構えていた剣の切っ先を力なく降ろした。
その瞬間、団長の顔からは武人としての気迫が薄れ、鎧を纏ったただの男になった。
後から続いて入室してきた衛兵たちも、皆同じように気迫を奪われた。
数多の生者の視線が向かう先は、あらゆる幸福も、希望も、闇の底へと引きずり落とす黒い絶望。
――――血の海。
白い大理石の床を蹂躙し、異臭を放つ一面の中心に、その身を血で染めた影が蹲っていた。
影の側には、2つの死骸。
1つは、左胸を突かれ、心の臓を破壊された少女。くたびれた紺のローブは半ば黒く染まり、蒼白な顔に備わる2つの紅い瞳はどこも見てはいない。
1つは、頚動脈を切り裂かれ、自身の温もりを涙と共に枯らした少女。艶やかなブロンドの短髪には飛散した血が呪いのようにこびり付き、黒い地獄が彼女の純白の鎧を髪と同様に汚している。大きく見開かれた虚ろな瞳だけが、悲しみの中で尚、彼女の死を否定しようと抵抗するかのように潤み、ローブ姿の少女の小顔を映し込んでいた。
「……お前か?」
男は低く震える声で、蹲る影に問いかける。
「お前が、やったのか?」
「…………」
蹲った影は石のように動かず、混沌のように静かで、まるで生気が感じられない。むしろ、影の側に横たわる死骸の方が、まだ生きているのではないかという錯誤さえ覚える。
「――――答えろッ! アズロット!!」
男は叫ぶのと同時に丹田に力を込め、1度は打ち拉がれた切っ先を“影”へと向け直す。
「……そうだ」
“影”は、低く唸った。
「気は確かか!? 何故だ!?」
騎士団長の剣――――その煌めく刃が、淡い緑の光を帯び始めた。
彼の左右に並び立ち、他の兵士も剣を構える。
「――――」
“影”がゆっくりと振り返り、衛兵たちの方へと表を上げた。
返り血が痣のようにへばりついた皮膚。
月を映したような、淡い黄の色を帯びた、虚ろな瞳。
大きな口から覗く鋭い歯。
人間とは思えない、野獣のように大きな体躯。
生者とは思えない、覇気の無い“気想”。
『竜人』――――アズロット。
「そうするしかなかったから、やっただけさ」
若さを含みつつも、感情の死に絶えた低い声で答えた彼は、その場で力なく捕らえられた。
広間の血が洗い清められてから数日後の夜。暗い地下牢。
頭上に見える地上との通気口から、寂しげな月明かりが浸透し、『竜人』を取り巻く闇を薄めている。
洞穴のような場所だ。触れれば削れそうなほどにざらついた岩壁へ打ち付けられた杭。その突出部に掛けられた鎖に、アズロットは左右の手首を繋がれていた。肩よりも後ろへ、操り人形のように大きく広げた両腕にすがるようにして項垂れ、ゴツゴツとした地面に膝をついている。
両の肩の関節は外されていた。
湿気を含む淀んだ空気が、僅かに揺らぐ。
ゴツゴツと、メイルブーツの石畳を踏み鳴らす音が響いてきた。
アズロットの正面――――縦に等間隔で並ぶ鉄格子の向こうに、騎士団長が現われた。
“悪竜”が闊歩する時代を打ち破り、小さくも立派な王国を守り抜いたレスター一族に使える近衛騎士団の若きリーダーだ。
凛とした碧眼で、無残な姿の親友を見つめる団長。
「――――聞け。アズロット」
アズロットは項垂れていた顔を持ち上げた。
「……アスティン、ここへ来ることのリスクは考えたのか?」
「いいから聞くんだ。お前は明日、裁判に掛けられる。シャロン様と、その友人であるメリーを殺めた罪状でだ。俺達にとって、2人は幼子の頃からの親しい友だ。4人で育ってきた。俺は、お前がまだ友であると信じたい。今、俺は1人だ。今なら誰にも聞かれない。頼む、本当の事を話してくれ。何があったのだ?」
アスティン団長は仕事に一途な男である。僅かな手抜きも許さない徹底振りは日々の鍛錬にも現れ、彼を王族の近衛騎士団の長まで押し上げた。強い肉体と心構えでできた男だが、そんな彼でも、友を失う事は耐え難かった。 ただでさえ、親しかったシャロンとメリーを失ったのだ。王族であるシャロンには弁えた接し方をしてきたが、それ以上に固く結ばれた友情があった。
それが、もう1人の友であるアズロットの手で奪われたとなっては、怒ることも、悲しむことも判断がつかないでいた。
だから彼はこうして、他の誰にも知られてはならぬと1人忍んでここを訪れ、半ば縋るように、アズロットにもう一度真意を問うのだった。
「答えてくれ。アズロット」
アスティンが思いを揺らがすのは、“罪人はアズロット”という事実に対する、1つの大きな懐疑があったからだ。
「話は無ぇ。全部オレがやったことだ」
親友と目を合わせる事無く、アズロットは答えた。
「俺に、お前の嘘が見抜けないとでも思っているのか?」
「……」
「言ってくれ。黒幕は他に居ると。“魔人”の仕業であると」
「これは、オレの罪だ」
「――――2人の傷を見てすぐにわかった。シャロン様のお命を絶ったのは、お前の剣ではない」
「それ以上は言うな」
「シャロン様の御首の傷には“魔術”の痕跡があった。つまり、あの傷をつけた剣は――――」
「竜の御前に!!」
アズロットがそう叫ぶと同時に、団長の首が、見えない何かで締め上げられた。まるで、太い縄でギリギリと締め付けられるような圧迫感が、力を増しながら襲い掛かる。
アズロットの“気想術”だ。
「ぐッ!? がッ!!」
苦悶に片目を瞑り、しかしアスティンはもう片方で親友を見つめたまま、腰元の柄に手を触れようとはしない。
「アスティン、頼む。オレの罪だ。そうさせて欲しいんだ」
アズロットが掠れそうな声を発すると、“見えない何か”の圧迫も止み、アスティンはその場でよろめいた。
「――――どういう事か、その説明も出来ないと言うのか!?」
首を押さえ、肩で息をする団長が、アズロットを睨む。
「――――先代の王が病で亡くなられ、シャロン様も亡くなられた今、王位継承権を持つのは、御長男のアレク様お1人。数日後に戴冠式だ。それは良い。だが、アレク様は齢14を数えたばかりでまだお若い。シャロン様との共同君主であればまだしも、アレク様お1人では、王国の舵取りは重鎮どもの思うつぼだぞ。今までは悪竜めの討伐のために皆団結して来たが、これを機に王の座を奪おうと、謀反を働く者が居ないとも限らん。現に、不穏な動きを見せている輩が居るのだ。そんな時に、俺とお前がアレク様のお側に居れば、例え謀反があろうとも最悪の事態を防ぐ事が出来る。アレク様は、シャロン様を殺めたお前を心底憎んでおられるだろう。だが、それはお前の無実を証明出来れば――――」
「許してくれアスティン。それはできねぇ。王族殺しの罪は、オレが背負うんだ。そう誓ったんだ。国王の側にはお前がついてやれ。オレはもともとならず者だ。残飯漁りの薄汚い傭兵だ。あんな立派な城で、王族に仕えるなんざ、場違いにもほどがあるってもんだ」
アズロットの言葉に絶句したアスティンの表情は、あの時広間に飛び込んできた際と同様に、絶望で満ちていた。
「お前は、それでいいのか? お前の相棒は――――リュウは、どうなる?」
「そいつの心配は要らねぇよ。2人で決めたことだ。もう一度言う。やったのはオレだ」
「納得など出来るか! 明日の裁判で、黒幕はメリーの、彼女の中に取り憑いた“魔人”だと言うんだ。そうすれば、俺が証言者として名乗り出る! 部下達も後で説得する! だから――――」
「そんなことをしたら、今度はお前まで捕まりかねないぞ? もしそうなれば、国王は誰が守る?」
「――――っ!」
アスティンは、手遅れである事もわかっていた。
家臣団は裁判所にもその手を忍ばせているに違いない。
アレク王子の怒りに乗ずる好機がある今、敵に回せば面倒極まりないアズロットを、“王族殺しを裁く”という大義名分まで揃った完璧な状況下で見す見す無罪放免にするわけがない。
「アスティン、お前なら、大丈夫だ。さっき、その気になればお前の剣でオレを斬れたはずだ。それをしなかったのは、人を信じて守る力があったからだ。国王を守るのに必要なのは、剣の腕だけじゃない。お前にはちゃんと揃ってる。絶対にやれるさ」
「アズロット、もう1人の“選ばれし者”であるお前にまで居なくなられたら、俺は――――」
アスティンが口走った“選ばれし者”とは、遠い昔から伝わる伝説の存在の事である。
力の神『阿修羅』が、人間たちに地上の平和を自らの意志で守るよう説いて導くために、『阿修羅』の持つ6つの力を1つずつ与えるべく選んだ6人の人間を指す。
一説では、初めに力を授けられた者は己が生の暮に、後世の者へとその力を与え、世代を重ねて継承が続き、今に至るとされている。
アズロットはその継承者の1人なのだ。
彼が持つ力は、もし敵に回れば脅威である。
家臣団の多くは、そんなアズロットの反乱を影で恐れていた。
今回の裁判は恐らく、善くて終身刑、悪ければ極刑だろう。
家臣団の“陰謀”の障害となるようなものは、全て消し去るのが目的なのだから。
「……残されるお前のために何もしてやれねぇ事を、どうか許してくれ。でもオレは、あのメリーが罪人として語られるのが我慢ならねぇんだ。悪いのは人間じゃないんだ。真実はオレが墓場まで持っていく。もう二度と、同じ悲劇は起こさないって、メリーと約束したんだ」
「……くそ!」
数々の戦場で一度もつくことの無かった膝を、団長は今この場でつき、拳で殴りつけた。
「これは、呪いだ! “魔人”の呪いだ! アズロット、お前までもが、その術に取り込まれてしまったのだ!」
遠くの方で、別の人間の気配が起こる。見張りの衛兵だろうか。
アスティンは歯を食い縛って立ち上がり、
「……お前の思いも、解っているつもりだ。だが、1人で背負おうとするな! せめて、生きてくれ! 極刑を下されたその時は、俺がなんとかする!」
「待てアスティン! 何をやるつもりだ!?」
アズロットはこの時、友が犯した罪を己が背負い、人知れず闇に葬る決意を固めてはいたが、そのために愛する最後の友が巻き添えになる覚悟までは、どうあっても出来そうになかった。
そのアズロットが追い縋るように見つめた先で、アスティンは踵を返し、振り返る事はなかった。
これが2人の最後の会話だった。
アスティンは翌朝、何者かに殺された故である。
凄腕の剣士であり、優れた気想術の使い手であった彼がだ。
事件に関する詳細の記述は残っていない。
そしてその事実は、アズロットの耳には入らなかった。
裁判も、行われなかった。
ただ、人知れず、審議も無ければ感情も無く、刑だけが執行された。
アズロットに下された審判は、呪いを用いた封印による無期懲役。
誰の仕業か、騎士団長はどこに行ったのか、アズロットは問い質す間もなく、複数人の強力な気想術によって肉体の時間を縛られた。
そして時は流れ、もう何度目かわからない、同じ季節を迎えた。
2029年6月25日。
場所は南極点――――――『ストロングホールド』
ここは、南極大陸の中心部に位置する刑務所である。
分厚い壁と結界に覆われ、氷の大地という極寒が周囲を取り囲む天然の要塞だ。
一度入れば最後。脱出不可能と言われている、最強にして最凶の牢獄。
仮に外に出られたとしても、氷点下の世界が行く手を阻み、命を吸い取ってゆく。
収容可能人数は僅か10名。危険極まりない悪党の中で、“気想絡みの事件”に該当する者だけが入れられる。
この『ストロングホールド』は、長い歴史の中で、最後に建造された“術師の刑務所”なのだ。
石造りの城のような外観は、軽い補修の跡すら無く、運用開始から60年以上が過ぎた今でも、建造された当時とほとんど変わらない。それは、外壁を築く石はその1つ1つが気想の込められた『遺失物』であり、物理的衝撃や磨耗に対する強度の飛躍的向上が図られているからだ。
一方で、内部は近代化の改築が施され、常に監視カメラと探知結界によって見張られ、『I・S・S・O』が直轄する完全武装の監視員20名と、卒業した一期生の中から選抜された術師5名によって管理が成されていた。
極めて危険な人物専用の牢獄である。監獄1部屋につき囚人は1人のみで、監獄内部も監視カメラと結界で固めるという、徹底した管理体制だ。
だが、現在10ある監獄の内、9つは無人だった。
新たに収監される者も居ない。
この運用状況は世間的に見れば、刑務所の外どころか予算まで凍結して閉鎖に追い込まれるのかもしれないが、世界に現存する最後の“術師の刑務所”という肩書きは、“脅威に対する保障”の意味を持ち、権限という名の印を握る国連の重鎮達の手を止めるに足る心理効果をもたらしていた。
表社会から忘れ去られていた気想が、ある事件を境に、再び公になってから、今後は気想という力に目をつけ、悪用する犯罪者が発生する事を懸念して、『I・S・S・O』が国連評議会に存続と増設を訴えた結果であった。
『I・S・S・O』としては、今すぐにでも刑務所の規模を拡大したい見解であり、各国に同様の堅牢な刑務所を増設する議案を、国連に提出する準備を進めている状況である。
ただ1人収監されている囚人は、『ストロングホールド』が造られるずっと以前から、英国騎士団の管理下にある特別な刑務所で服役中だった人物で、南極点に刑務所が開設された初日に、ここへと搬送されて今日に至っている。
『ストロングホールド』は一般世間の知る常識が通用しない、気想術を操る輩のための刑務所である。つまり、その刑務所に収監される囚人も、普通の刑務所では抑えきれない者であるという事だ。
例によって、たった一人の囚人も、常軌を逸した人物であった。
この囚人は、遥か昔の時代に無期懲役の判決を受けて以来、10世紀以上に渡って束縛されているにも拘わらず、生きていた。その肉体にはほとんど変化が見られない。
それは、彼が呪いを受けて“時”を止められ、気想を込められた束縛の鎖で体中を縛られ、銀の棺の中で、気の遠くなるような年月の間、肉体の時間ごと封じられていたからである。
そして14年前、その結界をとある“術師”によって解呪され、ここへと移送されてきた。この囚人が封じ込められた棺を発見したのも、呪いを解いた“術師”と同一人物らしい。
巨人のように太い両腕には鋼鉄の手械。首に取り付けられた銀の首輪は鎖で壁に繋がれている。
その囚人は、背丈が2メートルにも及ぶ巨体を監獄備え付けのベッドに預け、まるで岩のように、端から見れば死んでいるかのように、じっと動かずに居た。
囚人番号01。
名はアズロット・アールマティ。
14年前のストロングホールド開設当初に異大陸から連れ込まれ、今日に至るまで、窓も無い一室で過ごしてきた。
容姿は20代半ばといったところだが、実際の年齢は誰にもわからない。彼の“時代”を知る人間が居ないのだ。
引き継がれた警備記録には、“10世紀以上前に起こった未曾有の大破壊の大罪人”とのみ記されていたが、彼の素性を知らない現代の警備兵達には、リアリティの無い存在に見えていた。
彼が一体何年前から生きていたのかすら、誰も知らない。過去に幾度か、“アズロット・アールマティの更なる詳細情報を記した文献の捜索”が行われたらしいが、彼が納められていた銀の棺の他には何も見つかっていないらしく、現代の世間で見れば超常極まりない“気想術”に精通した機関の人間達の前では、既に長い間、突き詰められはしていなかった。
彼は終日無言で、食事や後架、風呂といった行動以外微動だにしないため、関わりを持つ者も居ない。
『――――ねぇ』
アズロットの脳裏に、声が響いた。
(……何だ?)
アズロットはそう答える際、口を動かす事無く、心で念じた。
部屋に居るのは1人の囚人だけ。
まるで飴玉を舐め転がすような、柔らかいその“声”が聴こえるのも、その囚人だけ。
『もうここへ来て随分経つけど、外の世界はどうなってるんだろ?』
(わからない)
『詳しい情報を何も教えてもらえないのって、堪えるね。私達が封印された後、みんながどうなったのかだけでも知りたいよ……』
無音の監獄内。アズロットの耳だけに、幼い少女の黄色い声が届く。
(……少なくとも、もう生きちゃいねぇさ)
『――――ぐす、ぇふ』
“自分の中の少女”が、代わりに声を上げて泣いた。
無音に等しい、無機質な空間。
伸び生やした黒髪にその表情を隠したアズロットは頑なに口を閉ざす。
10世紀以上の時を封印されたまま過ごしたらしい自分がやるべき事は、今も昔と何ら変わりは無い。
“仲間”を、理不尽な“罪”から守る。
1つの信念を抱くことで、封印から目覚めた後も正気を保ち、若かりし頃の記憶が遠く薄れ、自分自身が何者なのかわからなくなるのをどうにか抑えてきた。
そんなアズロットに、試練が訪れる。
日本時間の6月25日早朝、囚人番号01の監獄が前触れもなく開かれた。電子ロックが解除され、ロケット砲弾の直撃にも耐え得る装甲の二重扉が中央から2つに裂け、黒一色の戦闘服に身を固めた警備達が入室してきた。
『――――な、なに!?』
啜り泣いていた黄色い声が、警戒のそれに変わった。
音、気配、匂いからして、その数は5。皆、鉛の弾を込めた武器を携えており、内の1人が、アズロットの前に何かを広げて置いた。
「…………」
アズロットは僅かに目を開き、垂れ下がった黒髪の隙間からその『何か』を見る。
巻物だった。
警備達は物言わず、巻物を残して部屋を出た。
重々しい扉がゆっくりと閉じられ、再び沈黙が満ちる。
『おはようございます。アズロットさん』
突如、その巻物から少女のものと思われる声が発せられた。
文字の輪郭が僅かに白く発光する文面をよく見ると、そこには術を構成・発動するための術式が描かれ、3枚の札が貼り付けられていた。
声はその内の一枚から聴こえてきた。推察するにその1枚は、念を通して離れた相手と会話するための、太古の気想術の1つ、『念話札』。
もう1枚は、離れた相手の様子を見る『念視札』。最後の1枚は不明だ。
呪文式の主体となっている文字から見て、恐らく東洋の気想術師によるものだろう。
『こうして貴方と会話をするのは初めてですね。聞こえ辛かったら仰って下さい』
「…………」
アズロットは俯いたまま、しかし聴覚に意識を集中させる。
『今日は貴方に、報告とお願いがあるのですが、私は今日本で多忙に追われていて、失礼ながらこのような手段を取らせて頂いた次第です』
形はどうであれ、誰かが来訪するのは久方振りである。
ましてや、自分に直接コンタクトを取る輩など、もう10年以上現れていなかった。
『――――この人は初めて来るお客さんだねぇ。リュウちゃん達に何の御用かな?』
アズロットの脳内では、幼い少女のような黄色い声が、訪問者に対する分析を始めるが、未だ彼は何の反応も示さない。
遠い昔、彼は城の広間で、愛する仲間を手にかけた。それからの彼は、時代の流れから切り離された骨董品のように、ただそこに、“居る”だけの存在になっていた。
囚人が答えない事に関しては何も思う事は無いのか、淑やかな印象を秘めた“少女の声”は続く。
『それでは早速、報告から始めます。これが意味する事については、彼の“大戦”の時代を経験した貴方が一番理解していると思いますが――――』
“少女の声”はここで、囚人の様子を伺うように、ほんの一瞬言葉を止め、
『“魔人”が、復活しました』
『えッ!?』
「ッ!!」
アズロットの俯いた頭部が、僅かに持ち上げられた。
これまでの人生の大半を牢獄で過ごしてきたが、その長すぎる時間を経ても尚、今放たれた『魔人』という言葉はアズロットの記憶に重く、黒く、深く響いた。
『魔人』
それは、忘れ去る事など許されない。アズロットの心に、呪いのように深く染みついた存在。
かつてのアズロットの好き友であり、共に世界を旅した戦士でもある。
名はメリー。
彼女は、古代より伝わる『巫女の予言書』に記された、『神から選定を受けた者』の1人であった。
メリーは力の神『阿修羅』から、あらゆる物を呪い、破滅させる魔の力――――『魔術』と、その力の証であり、この世界に発現させるための変換装置の役割を担う『剣』を与えられた。
『神から選定を受けた者』の力の証である件の剣には、1人の少女の人格が備わっていた。
阿修羅は、人間に与える6つの剣それぞれに少女の姿を模った人格を持たせることで、宿主との間に情を生ませ、信頼関係による幸福粒子の増大を計ったのだ。
だが、その6つの人格の中に、“魔の人格”も存在した。あらゆる物を呪い、破滅させる『魔術』を持った人格が、である。
“魔の人格”を『魔人』、『魔人』の剣を『魔剣』と呼んだ。
メリーは当時、凄腕の傭兵という噂のあったアズロットと行動を共にし、悪竜退治の旅をしていたが、時が経つにつれ、その身に宿された魔術の力に心を蝕まれ、精神が力に侵されていった。
悪竜を退けた頃には、“魔の人格”に心を乗っ取られてしまった。
人間としての心を亡くしたメリーは“魔の人格”に動かされるまま、『魔人』として、その強力な魔術で破壊の限りを尽くそうとした。
仕舞いにはその手で、愛する友を、1人の王女を、殺めてしまった。
彼女に起きた真実を受け入れ、覚悟を決めたアズロットは、死闘の末にこれを討ったのだった。
『リュウちゃんたちがやっつけたあの女が、復活!?』
再びアズロットの耳に、自らを“リュウ”と名乗る少女の声が飛び込んだ。
リュウの言う“あの女”とは、アズロットの友人――――メリーの事ではない。彼女の中に居た『魔人』を指す。
あの光景、あの姿、あの邪悪な気配は、忘れもしない。
常軌を逸した力を持つ『魔人』をアズロットが討ち取れたのは、彼もまた、『阿修羅』によってもたらされた力の継承者の1人だからである。
力の神『阿修羅』が人間に与えた6つの力の第3。
『巫女の予言書』に則り、その名は『竜人』と謳われた。
この刑務所に、この時代に、この事を知る者が居るのかはわからないが、『竜人』という謳い名が持つ意味は言葉の通り、“竜の力をその身に宿す者”である。
竜は太古に存在した聖獣の一種にして、強大な気想と、鋼にも勝る強固な肉体を持ち、人々から聖獣の王と呼ばれ、崇められた存在だ。
時を縛る呪いを秘めた“結界”によって10世紀以上の間、肉体の時を止められていた彼が、その呪縛から目覚めて14年を経ても尚、肉体にほとんど変化が見受けられないのも、竜が持つ、頑丈で長寿な肉体の恩恵を得ているからである。
今、彼の心に宿っている『リュウ』という少女の存在が、その証。
この『竜人』としての力が無ければ、『魔人』を討つことは出来なかっただろう。
そんな強敵が、復活したというのか。
“魔人”を止めるため、宿主である愛する友を殺めたアズロットは、彼女を守れなかった責任は己にあると考え、自ら“被告”を名乗り、彼女に課せられる罪を自分が背負う事で、友が罪人として語り継がれるのを阻止した。
もはやそれしか、自身の存在価値を見出せなかったのだ。
友を殺めた己への嫌悪か、或いは『魔人』の魔術による呪いか、大罪人として捕らえられたアズロットの心は監獄の中で少しずつ弱っていった。
もはや彼の精神を繋ぎ止めるものは、『リュウ』という存在と共に、最も強く、最後まで残った信念のみであった。
そのアズロットが来訪者の言葉にここまで反応を示すのは、『魔人』という言葉がそれほどに危険な意味を持つもので、恐ろしい存在だからだ。
それともう1つ。『リュウ』を除いては、これまで誰も、その言葉を口にした者は居なかったからである。何故なら、『魔人』という概念は、アズロットが自らを『破壊者』と名乗った事で塗り替えられ、『魔人』と化した少女と共に歴史の闇に隠された、霞むほどに遠い過去のものだからだ。現代でその言葉を知る者が居るとは、考えていなかった。
『“魔人”の抹殺』
“少女の声”が、無機質な部屋を緊張感で満たしていく。
『それを、貴方にお願いしたいのです。“6人の代行者”の1人である貴方に」
常人のレベルを遥かに凌駕する力を宿した計6人の人間達は、巫女の予言書にある、“神の選定を受け、阿修羅の力を与えられた者”であるとされ、神に代わり、世界を審判する者――――即ち『6人の代行者』と呼ばれた。彼らは世界の気想均衡を制御する者として、ある者は讃えられ、ある者は恐れられてきた。
「――――『魔人』はまだ、生きていたのか?」
アズロットは渇ききった喉を震わせ、初めて言葉を発した。
その風貌から、声も猛獣のように低いかと想像した者は過去に幾人も居たが、実際はそうでもなく、随分と若さのある、少々野太い程度の声だった。
『はい。正確には、“宿主を変えて”ですが』
「……お前は、何者だ? どこでその事を知った?」
アズロットの問いに、少しの沈黙が流れる。
『申し遅れました。私は、国際気想抑制機関、通称“I・S・S・O”の者です』
「――――」
『以前、先進国には“最暗部”と呼称される諜報組織が存在していました。彼らは“魔人”の事も、貴方の事も含め、世界の歴史の闇を秘め、引き継いで保持してきた存在です。私が今、こうして貴方にコンタクトを取れているのも、世界の情報を、その裏側で制した“最暗部”が合併して生まれた、“国際気想抑制機関”の根回しのおかげと言えます』
“気想抑制機関”。
『リュウちゃん達が初めて聞く組織だねぇ……』
気想が生活の基盤となっていた時代を知るアズロットにとっては、気掛かりな言葉だ。
「気想抑制機関だと?」
『はい。簡単に言えば、人を不幸粒子の悪影響から守る組織です。私は上層部の指示で、貴方を呼びに来ました――――私の本体は、そちらにはおりませんが』
「……今は何年だ? 外で何が起こってる?」
『魔人』という言葉が出た時点で、ただ事でないのは解る。気掛かりなのは、何の因果でその言葉が発せられたのかであった。
『今年は西暦2029年です。外の状況を順を追って説明させて頂きますと、事の始まりは、今から15年前に遡ります』
“少女の声”は、アズロットが知らない現代の世界についてを簡単に話し始める。
『15年前、組織の最初期メンバーにあたる術師達は、日本――――かつての日ノ本に突如現れた“魔人”と交戦し、これを押さえ込む事に成功しました。日ノ本の首都と引き換えに』
「――――!?」
アズロットの頭が完全に持ち上がる。
日ノ本とは、アズロットの時代から存在した島国で、現代の日本を指す。
日本の首都『東京』は、その東半分が、15年前の『惨劇』によって壊滅していた。
残った西の半分も、高濃度の『不幸粒子』によって汚染され、立ち入り禁止区域となっている。
事実上の、消滅である。
今では、別の場所に首都が移され、『新東京』として機能している状況だ。
その『惨劇』が、気想を再び世に知らしめ、『I・S・S・O』設立の決め手となった出来事である。
『“魔人”と対峙したのが、組織の初陣でした。荒野の廃都と成り果てた東京へ駆け付けた術師達は、死闘の末に、彼の者を沈黙させたのです。“今回の魔人”は幼い子供でした。先代が誰だったのかも、どの方法で継承されたのかも、魔人化の因果も、全て不明なままです』
「……暴走するのは当然だ。先代の力が子供に託されたなら、その子供はあっという間に心を侵食されて、“魔人”の操り人形になっちまう。何の訓練も積んでいない人間――――特に子供は、“奴”の強すぎる気想を抑えきれずに、暴走しちまうんだ」
『魔人』を含め、『代行者』の持つ力は、その者が任意で継承するか、もしくはその者が死亡した際に、近くに居た者の中で最も“素質”のある者に受け継がれる事が、『惨劇』後の研究で明らかになった。
アズロットが生きた時代ではまだ知られていなかった事である。
そうして、世界の平和を支える『6人の代行者』は現代でも尚、その力を残しているのだが、素質さえあれば誰でも継承が可能というわけではない。
“近くに居た人間の中で最も素質のある者”とは、言い換えれば“限られた狭い範囲の中から一番マシな人間という事にもなる。
“先代”はよほど心無い人物だったのだろうか。“代行者”は、本来なら自身に宿る力が常人のそれではない事は承知しているはずである。その力を、まだ精神面も気想術面も未成熟な子供に宿せばどうなるか、考えずとも解るはずだ。
その子供は自ら望んで『魔人』を受け継いだのだろうか。
それとも――――。
詳しい情報が何一つ無いのが遣る瀬無い。
「……何人、犠牲になった?」
かつて、『魔人』と戦ったアズロットは当時の苦い記憶を思い出し、顔を顰める。
『おおよそですが、東京の総人口の約8割に相当する、1000万人です――――その大多数が、遺体の一部すら見つかっておらず、表向きは“行方不明”で処理されました』
「……」
『――――ヒドイ』
彼の生きた“大戦の時代”ですら、戦でそれほどの犠牲者が出ることはなかった。被害のあまりの重さに、アズロットは言葉を失った。
“少女の声”は続く。
『私達は戦いの後、国々の援助を得て、“I・S・S・O”を設立し、“惨劇”によって生まれた多くの孤児を集め、組織の養護施設で“戦力”として育成して来ました。これらの処置は全て、“ある計画”に則ったものです』
計画。
それは、『I・S・S・O』が秘密裏に進める最重要行動方針。
『その計画とは、不幸粒子の権化とも言える“魔人”を人為的に制御し、その力を幸福・不幸両粒子の均衡の維持に利用するというものでした。そのために、東京に現れた“魔人”は組織が回収し、他の子供達と同様に、施設で管理してきたのですが――――』
『なんだか、凄い極秘事項を暴露されちゃってる感が否めないよ』
と、リュウが言うように、組織の中でもある程度の権限を持った極一部の人間しか知らされていない計画を、“少女の声”はアズロットに開示していた。
『――――近年、その子供の人格が急激に衰退しており、“魔人”の人格が目覚める懸念が増加してきました。この事を受け、“魔人”の保有は、計画のためとはいえリスクが高すぎるという結論に至ったため、組織は今回、これを“保護観察対象”から“殲滅対象”に移行し、殺処分を決定した次第です』
もともとリスクが高い事を理解したうえで、それなりの対策を用意した状態からの立案のはずだ。
にも拘らず、機密を教えてまで、組織はアズロットという傭兵崩れの囚人に、力を求めていた。
それほどまで、組織は追い詰められているのだろうか。
15年前の東京で1度魔人化した子供を押さえ込み、組織の管理下でその状態を保ったまま、今まで育てて来れたのは『幸福粒子』が味方したからか。それとも、『魔人』を秘めた子供が、成長と共に強い精神を身に付けた事によるのか、現状で定かには出来ないが、どちらにせよ、アズロットからすれば奇跡に等しい行為だ。
だが、その子供の人格がここ数年で弱まっているという。
『不幸粒子』の権化である『魔人』の影響を深く受けている可能性が高い。
子供の精神が耐えられなくなれば、再び魔人化して暴れるというシナリオも描かざるを得ないだろう。
『I・S・S・Oは“魔人”の処分を、アズロット、貴方に要請します』
「――――その前に、聞いてもいいか?」
『何でしょう?』
アズロットは自分の脳裏に、独りでに沸き上がる考えを、言葉にしていく。
「お前らにとっての、“敵”とは何だ?」
『私達が対峙する敵は、不幸粒子そのもの。そして、気想術を悪用する人間です』
「なら、その人間を、欲望やら復讐やらの悪意で侵して、そういう行為に走らせてるのは不幸粒子って事になるよな?」
『そうです。だから私達には、常に各地で気想粒子の濃度を監視する義務があります』
気想粒子濃度の監視は『I・S・S・O』にとって、対抗手段の選択に必要不可欠なものだ。それを疎かにしていては、いざという時に正確で素早い対処をする事は出来ないだろう。
「なら、その子供に罪は無い。違うか?」
『それは間違いではありませんが、“魔人”によってもたらされる惨劇は、二度と起こすわけにはいきません』
“少女の声”が言っているのは、アズロットが誓った事と同じだった。
確かに、『魔人』は脅威だ。二度と、同じ惨劇は起こさない。
しかし。
かといって、世界中の人々の命と1人の幼い子供の命を天秤にかける権限など、誰にも無い。
そのままでは何も変わらない。
世の理に怯え、支配されて生きていくことになる。
「――――魔人よりも強力且つ精密に、不幸粒子を意図的に増幅させ、気想の均衡を乱す“元凶”が存在するとしたら?」
アズロットは、ここまで自身で発したいくつかの台詞に違和感を覚えた。
気想濃度を科学的に観測する技術が開発される前の時代を生きた自分が、誰に教わるでも無しに、『不幸粒子』という言葉を認識し、概念を理解している事に。
そして、“意図的に不幸粒子の濃度を増やし、気想の均衡を乱す元凶”という、自分で考えた事も無いはずの発想が、無意識のうちに口を衝いて出た事に。
『アズロット? どうしたの? あなたの中に、リュウちゃんの知らない人の気配がするよ?』
リュウも異変を察知して警戒中なのか、少しだけトーンを落とした声を発する。
過去に耳にした事が、ただ単に自分の記憶に蓄積されていただけだとしても、妙だ。それと思しき心当たりが欠片も無い。口うるさいリュウから聞いた話というわけでもない。『不幸粒子』という言葉自体、さほど遠い時代のものではないのだから、記憶には新しいはずなのだ。
例えるなら、己の意識がはっきりした状態で、その半分を何者かに乗っ取られ、自身が発言している事だという自覚はあるものの、自分の記憶には存在しないはずの専門知識が音声ガイダンスのようにスラスラと流れていくような感覚だ。
『……どういう事ですか?』
“少女の声”が問う。
「そのままの意味だ。不幸粒子を意図的に増幅させ、世界を負の事象で満たそうと企んでる元凶が居るとしたらどうする? あの『魔人』ですら、手駒として利用されているに過ぎないとしたら? 行き過ぎた惨劇は偶然ではなく、必然だとしたら?」
『……』
“少女の声”が沈黙する。
アズロット自身にも解らないような考えが、彼の口を通して、まるで以前から己の知識として存在していたかのように、言葉に詰まる事なく発せられた。
「大昔から人間が認識してきた理が、覆えろうとしてるんだよ。不幸粒子の侵食はもう始まってる。気想の均衡が狂い始めてるんだ」
『……これまでは、気想濃度がどちらかへ極度に傾く度、奇跡や奇禍が起こって均衡が保たれてきましたが、それだけでは済まなくなるという事ですか?』
「そういう事だ。これが誰の差し金なのかまではわからねぇが、このまま放って置くと、転び方次第ではヤバイ事になる」
不幸粒子が過剰に増え、幸福粒子よりも有利に事象を左右出来るようになる事で、今まで世界の気想均衡を保ってきたシステムが崩壊してしまう恐れがあるのだ――――と、アズロットは自身で言った言葉に驚きながらも、不思議と共感が持てた。
自分自身で言い放ったのだから、それに共感した事を不思議に思うのも変な話だが、この瞬間に開花するように植えつけられでもしたかのように、考えが溢れてくるのだ。
『何を根拠に、その考えを?』
「竜の能力の一つに、“肌で気想を感じ取る”というものがある」
アズロットが、先ほど自身の口から言い放った考えに不思議と共感を持つことが出来た理由が見つかった。
『竜人』の能力の一つに、自身に触れた気想を触覚で感知し、感覚的ではあるが、それが自分にとって都合の良い気想か、悪い気想か、更には、その相手が見知った人物であれば、誰の気想か識別出来る、というものがあるのだ。嗅覚に優れる犬のように。
アズロットは“不幸粒子の増加”を、知らぬ間にその肌で触覚的に捉えていたのである。
得体の知れない、“違和感”として。
その“違和感”は、年々増してきていた。いつから始まったのかまではわからないが、この“氷獄”に入れられてから、いつの間にか体表に沸々と、まるで無数の蜘蛛の糸が纏わりつくかのような感覚が生まれていたのだ。
『今のお話にあった“元凶”が、私達の本当の“敵”であると?』
「ああ。それは目に見えるものなのか、形を持つのか、人なのか、モノなのか、手がかりは無ぇ。だけど、確かにそいつは存在してる」
――――。
ようやくだ。
まるで何者かに操作されでもしたかのように、アズロットの脳裏に浮かび続けた台詞が、止まった。
(リュウよ、今のは、一体何だ?)
『リュウちゃんにも、わからない』
知らないはずの情報を、自分はどこから入手したのかと、己の過去を探るアズロットだったが、突如激しい頭痛に襲われ、それ以上の詮索を阻まれてしまった。
「――――ッ!?」
『ッ!?』
脳が締め付けられるような痛みに、アズロットは髭にまみれた顔を顰める。
同時に、一心同体であるリュウも吃驚して黙り込んだ。
『どうしました?』
「いや、何でもない」
アズロットは気付いた。
自分の脳に、己のものではない、何者かの『気想』がいつの間にか現れ、紛れている事に。
感覚からして、札の向こうに居る少女のものではない。
恐らく、自分が過去に会った事のある“誰か”によって仕込まれた気想だ。だが、思い出せない。その事について考えようとすると、先の激しい頭痛に阻まれる。
『“今のヤツ”たぶん幻術の類だね。それも、かなり強い。このリュウちゃんの力でも、どうにも出来ない』
(――――そういうことか)
何者かに、脳内の記憶を弄られ、一種の洗脳状態にあると、アズロットは推測した。
古来の強力な洗脳術が持つ力の一端として存在する、“術者にとって都合の悪い事を、被術者が考えようとすると頭痛が走る”という効力と、自分の今の状況が酷似しているからだ。
しかし、アズロットは大して動じた様子は見せなかった。
何故か、その気想には何の悪意も、危険も感じられなかったからだ。
そして、根拠は無いが、その術者とは近い内に会える――――そんな気がした。
今、アズロットの脳裏には、可愛らしい微笑みを浮かべる古き友が居た。
『魔人』となってしまった彼女が味わったような惨劇を、もう二度と、生み出してはならない。
(オレが、阻止する)
それが、友へのもう一つの贖罪。
揺ぎ無い、アズロットの決意。
牢獄での果てしない日々を支えてきた最後の信念。
「その子供を殺すのは待たないか? 魔人がまだ眠ってるなら、無理に始末する事は無ぇだろう。過去にたくさんの犠牲を出したからという理由があれば、ガキ一人の命は安いか? “目先の敵”ばかりに気を取られてると、その本元に裏をかかれる事になるかもしれねぇ」
例え、世界の命運の掛かった深刻な依頼だからといって、見ず知らずの、しかも子供を、殺せるものか。
『言葉を返すようですが、10世紀以上を生きた貴方からそのような考えを聞かされるとは思いませんでした。世界には時に、犠牲を払わなければ守れないものもあります。組織の決定に対して、貴方に干渉する権限はありません。YESかNO、どちらかを答えて頂きたいのです』
最後の方は強引だったが、少女の声=組織の言い分は間違いではない。だが、今までの“経験”を理由に、“理”に背こうとしていないのだ。それは守る一方で、変えることにはならない。
「権限ねぇ……組織の決定とか言う話だが、お前も、そう思うのか?」
『はい。必要で適確な決断であると思います』
「いつから世の中はそんなに廃れちまったんだ――――?」
そう言って、アズロットは自嘲の笑みを浮かべた。
その昔、世界には、飢えた悪竜から大勢の民を救うために、王子が自ら生贄となって悪竜に捕らえられたり、たった一人の王子のために、剣を取った王女とその仲間達が生涯を捧げる覚悟で旅をしたりと、“1人は皆のために、皆は1人のために”という至高の精神のようなものが満ちていた。
それが今では、“大勢のために、1人を切り捨てる”という思想が正義として君臨している。
“言い方が違うだけで意味は同じ”と言って納得するには、あまりにも“心”が無い。
一方で、かつては悪竜退治の英雄と呼ばれた事もある男が、仲間1人救えず、心も誇りも地に堕ちて牢に縛られた。
自嘲の笑みは止まらなかった。
地に堕ちた意味では、世界も、自分も、同じではないか、と。
「もうちょっとこう、良い方に考えられないもんかねぇ?」
ここで『YES』と頷いて、外の世界へ行き、いざ『魔人』を前にした際、契約を無視して対象を殺さなかったとしたら、アズロットは抹殺されるか、余生もここで過ごす事になるかもしれない。だが、そんな事はどうでもいい。
重要なのは、“同じ惨劇を繰り返さない事”だ。これはアズロットの過去にも、15年前に『惨劇』を経験した人物達の過去にも当てはまる事である。
“形”などは、考慮の範疇ではない。
『なんだかリュウちゃん、I・S・S・Oって連中の考え方、あんまり気に入らないかも』
「傭兵は、金さえ払えばなんでもやると思ってねぇか? いくら報酬を弾もうが、オレは殺し屋とは違うぜ?」
『依頼は飽く迄抹殺です。魔人に、容赦は必要ありません。あらゆる懸念をもって臨んでください。何故なら、私達が最も恐れる事象を引き起こそうとするのが不幸粒子であり、その権化ともいえる魔人を宿した子供が、既に心を乗っ取られ、平常なフリをしているだけという事も考えられるからです』
「……疑心暗鬼って、知ってるか?」
『それがなにか?』
「“不幸粒子”が持つイヤらしい力の1つだよ」
『上層部が疑心暗鬼に囚われているとでも? 私は、真面目な話をしています。貴方にしか頼めない依頼なのです』
(――――恐らくオレはまだ、元凶に干渉されてはいないはずだ)
(それなら、誰もが苦しまずに済む解決策を、俺が見つければ良い)
そのためにも、アズロットは探りを入れる。
「1つ気になったんだが、15年前はお前らだけで魔人を封じたんだよな? 今回は出来ないのか?」
『魔人と交戦したのは、組織創設時のメンバーですが、この15年の間に、内の1人は死亡、1人は行方不明、残っている者達も散り散りになって、各々が他国での任務に就いており、帰還は困難です。今のところ、当時のそれに匹敵する代用戦力はありません』
「世界の命運に関わるほどの問題だってのに、他のいざこざに戦力を割いちまって余裕が無いとは、大した組織だな」
表面上、アズロットはそう皮肉るが、得た情報は分析し、有効に活かす。
“組織の最高戦力が削がれる”という、こちらにとっては“好ましくない事象”が、既に起こっている。
アズロットが『魔人』を打ち破った時は、友を失い、己の精神が壊れかけた。
果たして、偶然と言えるのか。
アズロットの脳裏で、『魔人』が持つ能力の1つとされる、『呪い』の懸念が増大する。
かつて、親友であるアスティンもこう言い放っていた。
『これは呪いだ――――お前までもが、その術に取り込まれてしまったのだ』
(仮にもし、オレが今回も『魔人』を倒しちまったら、3度目の『呪い』が来るリスクがあるわけか)
『――――ですから、私達は貴方に依頼をしているのです』
ここでアズロットは、1つの考えを胸に潜める。
「考えてやるよ。ただし、引き受けたとすれば徹底的にやる。その時の後始末まで気を配る余裕は無いと、あらかじめ言っておくぜ?」
『安心してください。組織をあげて事後処理はサポートします』
「それから、報酬は何だ?」
『高価な見返りをお望みですか?』
「オレは腐っても傭兵なんだぜ? 食っていくには、最低限の報酬が要る」
もし外の世界に行くとしても、金銭が無ければ何かと困るだろう。
『ちゃんとご用意してあります』
「言ってみな」
『依頼を引き受け、そして達成すれば、貴方の懲役を抹消し、自由の身に出来ます。生活費も保障します。ただし――――』
相手の声色が、ほんの少しだけ低められた。
『お力添え頂けないのであれば、ここから一生出られません』
「脅せ、とでも言われたか? 札から流れてくるお前の気想、落ち着いてたさっきより、ちょっと波長が揺らいでる気がするぜ?」
『――――!?』
『おや、この“揺らぎ”は、ちょっぴり動揺してますなぁ』
と言うリュウの読み通りなのか、“少女の声”は黙ってしまった。
「一応、世間の歴史上、オレは大悪党って事になってるからな。いくらお前が歴史の闇をいろいろ見聞きしているとはいえ、恐いのは解らなくもない。声色だけじゃ、お前が怯えてるなんてちっともわからな――――」
アズロットの声を、“少女の声”の咳払いが遮った。
『私はこれでも、気想術師訓練学校の長を務めていますから、上に立つ者として、例え貴方を目の前にしても、そのような感情は微塵も抱きません』
「……わかったよ」
アズロットはそう返した。殺すのは飽く迄、それ以外に手段が無い時だ。
件の子供がどんな人間なのかは、実際に接してみなければわからない。だからまずは依頼を引き受け、その子供に会う。そこから先は、後で決めるのだ。
「そのなんとかガッコウとやらはよく知らんが、依頼は受けてやる。それにしても、オレの懲役を抹消とは、お前らの組織は裁判所よりも強い権限を持ってるのか?」
『下手をすれば、世界の命運に関わる重大な任務ですから。この場合、司法は二の次です』
「さすがは裏組織とでも言うべきか。組織の上の連中が根回しを?」
『貴方がそこまで気にする必要は有りません』
「大丈夫なんだろうな? 後でオレが脱走したみたいになって、また連れ戻されるなんて事は――――」
『心配要りません。それから、貴方にこれをお返ししておきます』
アズロットが言い終える前に、“少女の声”が割り込んだ。
『何か、即答すぎない!? リュウちゃん、なんだか怪しくなってきたよ?』
“少女の声”がアズロットの不安を即答で流した次の瞬間、広げられた巻物の、三枚目の札が青白く発光し始めた。
そして、発光する札の上方――――無機質な部屋の虚空に、巨大な何かが音も無く出現する。それは岩のように図太い、一振りの大剣だった。
「――――!!」
『あーっ!! リュウちゃんの抜け殻ァァァ!!』
アズロットはその目を大きく見開き、その大剣を凝視する。
金属というより、平らに加工された巨大な骨のようなそれは、まさに竜の骨から鍛えられた物だ。
所々刃が欠け落ち、小さな亀裂も見られるが、正真正銘、かつてアズロットが愛用していた大剣である。それが今、虚空から静かに床へと降下し、重量感のある音を響かせて沈黙した。
「最後に見たのは、嬢ちゃんが生まれるよりも大分前だな。博物館にでも飾ってたのか?」
3枚目の札――――『召喚札』によって召喚された剣を、懐かしみを込めて見つめながら、アズロットは尋ねた。
『その剣が長きに渡って英国で保管されていたのを、“I・S・S・O”が引き継いだのです』
『6人の代行者』の下には、神の力を世界に変換する装置として、剣が現れる。アズロットの剣は、この『竜牙』であった。
彼が仕事で立ち寄ったかつての日ノ本では、“竜牙”と書いて、『リュウガ』と呼ばれていた。
アズロットに宿った少女の名は、日ノ本での剣の呼び名から彼女が捩り、自らを『リュウ』と呼び始めた事による。
力の神『阿修羅』が、6つの腕に1本ずつ持つとされる、『阿修羅六大剣』の1つ。
アズロットの時代の言葉で、『竜の牙』の意味合いを持つ。
そして、剣と共に現われ、その所持者に憑く少女は『聖霊』
と呼ばれている。
“リュウ”の存在が、まさにそれだ。
彼女ら『聖霊』の役割は、剣――――即ち力の所持者達に、件の力の制御方法を教え、情に訴えかけて精神状況のケアを行ったり、戦闘時のサポートをする事である。
故に、彼女らは“人格”を持っているのである。
『魔人と戦うに当たって、この剣が必要だと聞いておりましたので』
「ああ。ヤツを相手取るのに、その辺の武器じゃ話にならないからな」
パキン、という音を立て、アズロットの両腕を拘束していた鋼鉄の手械が2つに割れ、首輪も外れた。これらの拘束具も術師の気想術によって管理されていたはずだが、恐らくは拘束の術を解いたのだろう。
アズロットは、長年の間肌と一体の感触になっていた拘束具から開放され、何度か肩を回しつつ、ゆっくりと立ち上がる。
『わぁーい! おかえりぃー! リュウちゃんの身体ァー!!』
リュウは歓喜の声を上げ、アズロットの視界に、久々にその姿を見せた。
『代行者』に宿った『聖霊』が見えるのは、同じ『代行者』か、それに近い存在の者だけと言われている。
リュウの声や姿に、“少女の声”が何の反応も示さないのは、感知出来ていないという事だ。
アズロットの胸元から、彼の体表をすり抜けるようにして視界へと現われたリュウは、その可愛らしい声を体現したような美少女である。
ビーチで日に焼けたかのような褐色の肌に、丁寧に編まれた藁を胸と腰に巻き、ブラウンの長髪は肩まで伸び、淡い黄の瞳に、細く形の良い眉が強気な印象を与えている。小さな口からは白い犬歯が覗き、3本の爪とふわふわしたブラウンの毛に隠れた手足はまさに獣のそれだ。締まったお尻からは、鋭利な銀の羽がいくつも重なり、連なって生えたような“竜の尾”が飛び出していた。
『しばらく見ない内に随分朽ちちゃったねぇ。今リュウちゃんが元通りにしてあげるよん』
そう言って、リュウは目を閉じ、“念法”で何かを唱える。
すると、彼女の身体が黄色い発光体に包まれ、床に横たわる大剣へと吸い込まれた。
そしてリュウが宣言した通りに、剣はその刃こぼれも、亀裂も、汚れも全て自己修復した。まるで時間が巻き戻るかのように、傷や汚れがじんわりと消失したのだ。
かつて共に戦った愛剣を見下ろし、ほんの僅かな間、当時の記憶に浸ったアズロットは、
「オレは世界に置いていかれた身だ。今更帰る場所なんて無ぇが……」
そうつぶやき、人間1人ではとても持てそうにない『竜の牙』を軽々と持ち上げた。
「行けるとこまで、行ってみるとするか」
柄を握り締めるアズロットの上腕筋が、ミシミシと音を立てる。凄まじい力が込められていた。
『任務開始は5日後の早朝です。貴方にはそれまでの間、剣と気想術の感覚を取り戻すリハビリと、現代社会について、必要最低限の知識を身につけて頂きます』
と、“少女の声”が今後のスケジュールの説明に移る。
成る程、とアズロットは納得せざるを得なかった。現代の文化が蔓延る場所に赴き、魔人を見つけ出して排除するには、どちらも必要な事だ。
「……檻を出られたと思ったらお勉強か」
『今の世界は果たしてどうなっているのか!? リュウちゃんは楽しみだよ!』
『現代の日ノ本では、勉強する施設をガッコウと言います』
「ここは刑務所だぜ?」
『勉強をする気が起きないなら、電気椅子にでも掛かって気持ちを切り替えてみてはいかがですか?』
「寝言を言うなら寝ろよ」
大剣を肩に担いだアズロットは、念話札を拾い上げ、永遠のような日々を過ごした監獄を出て行く。
自分が成すべき事は何を意味するのか。
失敗は何を意味するのか。
アズロットは物言う事なく、自問自答を繰り返した。
6月30日。早朝。
『ひゃっほーー!! 気持ちいぃーー!』
不幸粒子の濃度は薄く、『天候』の安定したストロングホールドの上空。
肌を締め付けるかのように凍てつく大気を、黄色い声と共に熱風が切り裂いた。
黒のブーツを履き、クラシカルな紺のジーンズ、黒いシャツの上に紺のダウンベストという、この極寒の大陸では常軌を逸した姿で、アズロット・アールマティは陽光の差さない闇の大地に目を細める。
顔を覆っていた髭は剃られ、伸び放題だった、猛獣を思わせる灰色の長髪は、しかし手入れをされただけに止まった。
一度カットされたが、翌日には元の長さまで生え揃ってしまうためだ。
鞘の無い大剣――――リュウこと『竜牙』は、刑務所内の鎖で強引に縛り、背中に背負う形で所持しているが、少々飛び辛い。
今、アズロットの背中には、褐色の翼が存在していた。
両の肩甲骨辺りからコウモリのそれの如く、吊り上がるように伸び広げられた大きな翼の先には、牙とも見て取れる頑丈な鉤爪が生えている。
アズロットの飛行術――――『竜翼』である。
『竜人』は『6人の代行者』の中でも、『身体変化』の能力に長けており、気想と体力の多量消費を覚悟した上であるなら、その気になれば全身を巨竜の姿に変化させる事も可能だ。
『身体の調子はいかがですか?』
ベストの胸ポケットに押し込んだ念話札から、“少女の声”がした。
周囲を吹き荒れる豪風のなかでも、『竜人』の聴覚は正確に声を聞き分ける事が出来た。
「いつ最後に飛んだのかはもう昔過ぎて忘れちまったが、身体の方はまだ覚えていやがったみたいだな。こいつはオレも驚きだ!」
もはや、聴いた者の鼓膜にダメージが及ぶレベルの大音響で返事をするアズロット。その肺活量も、人のそれを凌駕する。
数世紀に渡って監獄生活が続き、身体も著しく弱っているものと予想されたが、思いのほか元気のようであった。
この5日間、刑務所内にて、アズロットが『依頼』遂行のためにこれから赴く異国の文化や、必要最低限の一般常識を学び、更に、現役時代の勘をある程度取り戻すためのトレーニングを行った甲斐があったのかもしれない。
当然、全盛期時代に比べれば衰えているのだろうが、たった5日で自由に飛びまわれるほどの体力が戻ったのは、さすが『竜人』としか言いようがなかった。
『竜人』は、その身体の外も中身も人間の数百倍は頑丈に出来ており、熱さにも寒さにも強く、軽い銃火器の弾丸はほとんど通さない。直撃しても、モデルガンで撃たれた程度にしか感じない。鋭い刃物で斬りつけても、軽い切り傷がつく程度である。そのうえ、体力の回復も早い。
『それならひと安心と言ったところでしょうが、本当に宜しいのですか?』
“少女の声”はアズロットの身を案じて、そう尋ねた。
ここから目的の島には、およそ14000キロの距離があるため、当初はアズロットを航空機に乗せて移動させる計画だったらしいのだが、アズロットはそれを断ったのである。
「ああ。お前達のでかい鳥にも興味はあるが、今は自分の羽で飛びたい気分なんでね。昔はよく国から国へ飛び回ったもんだ。さすがに現役の頃ほど速くは飛べないが、心配は要らないぜ?」
『竜は世界で最も速く空を飛んだと聞いています。ここはお手並み拝見という事で良しとしますが、くれぐれも無理はしないで下さい。魔人を前に疲労困憊されては本末転倒ですから』
「そのくらいの元気は残しておくさ。年寄り扱いしないでくれ」
アズロットは、全長6メートルはあろうかという巨大な翼を、準備運動とばかりに大きくはためかせる。
『では、手筈通りに事を進めて下さい。イレギュラーな状況が発生した場合、こちらの方でいろいろと支援はしますので』
「頼んだぜ?」
アズロットは、外界の空気を胸一杯に吸い込む。極寒の大気も、『竜人』には何ともない。
外の世界を己の目で眺め、その身体で感じる事自体が、本当に久しぶりであった。
この広大な空間は、かつて友と肩を並べ、苦しみと喜びを分かちながら歩んだ世界。幾度となく共に見上げた空が広がる故郷。
アズロットは一度、世界最凶の監獄を眼下に収める。
数世紀にも渡って、アズロットの『時』は牢獄の中で止まっていた。
それが今、過去の柵を断ち切り、新たな一歩を踏み出すチャンスとなって、アズロットを世界へと返したのだ。
「――――やってやるさ」
頭部に掛けていたゴーグルをその目にかぶせ、誰に言うわけでもなく、アズロットはつぶやく。
脳裏には、遥か遠い友の記憶が蘇っていた。
太古の時代を生きてきた男。
一人の『竜』が、現代世界の空を突き進む。
広げた翼は力強く羽ばたき、その巨体を目的地へと飛ばしていく。
――――日本へと。
かつて、世界の空を支配し、聖獣の王と呼ばれた竜。
その王の力を授かりし『竜人』の飛行速度は、音速の壁を越えた。
『あ、一つ言い忘れていました。お渡ししたその首輪なのですが』
アズロットが風を切り裂く中、唐突に“少女の声”が切り出した。
「首輪が何だ?」
胸元に聴覚を集中するアズロット。彼の首をよく見ると、闇の中で淡い銀に煌めく首輪が付けられている。この首輪は先ほど、刑務所の人間に装着させられたものだ。
『貴方がもし、依頼を投げ出して逃げようとするような事があれば、その首輪が爆発しますので』
「――――ん?」
(おかしいな)
(今、変な幻聴が聴こえたぞ?)
(俺は昔やってた職業柄、日ノ本の言葉にはそこそこ詳しいつもりなんだが)
『聞こえませんでしたか? 貴方に差し上げた首輪、爆弾になっておりますので』
幻聴ではなかった。
「なんだそりゃあ!?そんな事一言も聞いてねぇぞ!?」
アズロットは吠えた。
『ですから、申し訳ありません。わたしとしたことが、言いワスレテイマシタ』
「そこ! 何で最後だけ棒読みなんだよ!? 冗談じゃねえ! どこにも逃げたりしねぇよ! だからこの首輪、今すぐ外す!」
『あ、待ってください。無理に外そうとしても爆発します。あなたには都合が悪いように出来ているんですよ』
「――――ッ!?」
さすがの『竜人』でもひょっとしたらひょっとするかもしれない殺傷兵器を着けさせておきながら、この軽い口調。
(確信犯じゃねぇか。いつの時代も、男は女に誑かされるのか)
「オレがお前達の依頼を果たしたら、そっちも約束どおり、オレを自由にしてくれるんだろうな?」
既に騙され、いいように使われ始めてる感がハンパないアズロットは、返答次第で相手の真意を見抜いてやろうと、必死に感覚を研ぎ澄ます。
『それは、私の命に代えても、お約束します』
返ってきたのは、先ほどとは打って変わって、落ち着いた、まっすぐな声だった。
『今回の依頼には、私の命だけならまだしも、世界中の人たちの命が掛かっているのです。作戦が成功したなら、感謝してもしきれません。私達は貴方を英雄と讃えるでしょう。今はまだ、完全に信頼して頂くのは難しいかと思います。“ストロングホールド”の領有・監督権は、“アムンゼン・スコット”を刑務所のベースとして提供した米国政府が所持していて、一度司法で裁かれた者を引っ張り出すのに、かなりの荒療治が必要だったのです。首の爆弾も、危険人物としての認識が強い貴方の、仮釈放の許しを得るための条件の一つと考えて頂きたいです』
自分の命は二の次に考え、他者の命を気に掛ける少女の言葉が、嘘であるとは到底思えなかった。
それに、こういう扱いには慣れている。
『もし、貴方が役目を果たしたにも拘らず、約束が破られた場合は、その大剣で私の首を落として頂いて構いません』
成人にも満たないような少女の声。本来、男に守られる側に立つべき存在なはずの彼女が、高い身分の上層部が掲げた大義のためなら命を惜しまない、そんな理不尽な時代が変わることなく、今も健在しているらしい。
「オレがお前の居場所を突き止めて首を取りにいくのと、お前がオレの首輪を弾くのと、どっちが早いかねぇ?」
そう皮肉った後で、アズロットは初めて、この時代を薄く笑った。
「まぁ一応、信じておく。それと、一つ言っとくが――――」
『――――?』
札の向こう側が静かになる。
「自分の命は自分のものだろう? 他の誰にも渡していい物じゃねぇんだぜ?」
とはいえ、少女に説教をかますアズロットも、逃げれば死。魔人を倒せなくても死。久方ぶりの傭兵業も、簡単ではない。
『I・S・S・O』という組織がどんなものなのか、深かったり浅かったりする一部の情報しか与えられていないが、導火線もなく、火薬の匂いもしない首輪型の爆弾を作るのだから、それなりの高い技術を持ち合わせているはずだ。
アズロットがその身を拘束され、外の世界から切り離される少し前に、火薬なるものが発明され、爆発物が世に出回っていたが、当時はもっとサイズが大きく、形においても、円筒形や箱型など、数えられるパターンしか無かった。
皮肉にも、人間は破壊兵器の技術も進化・発展させていたというわけか。
(そうやって、気想術を使わない新発明が生まれる度に、気想術は弱っていったのか)
この5日間で、ある時は念話札を通じ、ある時は刑務所の人間を通じて、大雑把ではあるが、世界の歴史や文化、物や言葉の意味、使い方などの知識を覚えたアズロットは、
「組織の構成員のほとんどが、気想術を訓練している子供だそうだが、戦争も知らないような若い連中に、世界の命運を左右するような任務が今後降りかかるわけだろ? 大丈夫なのか?」
と、学校の生徒の中で1番偉い地位に居るらしい声の主に聞いてみた。
『今の質問に、単刀直入な回答をするのであれば、“否”でしょう』
“私達は子供といえど、プロの意識とプライドをもって――――”などと言って怒り出すかと思っていたアズロットだが、自分達の脆さを、“少女の声”はあっさりと認めた。
『これは私の個人的な意見ですが、社会経験の少ない子供達が、社会の秩序を乱さないよう、“不幸粒子”のもたらす惨劇から人々を守るには、いくら政府が用意した大人達や施設の支援があるとはいえ、荷が重いと考えています。かといって、誰かがやらなければならない事を誰もが拒めば、“平和”という理想は崩れてしまいます。気想術を操る事が出来るのは、今の時代では、幼い頃から訓練を積んできた私達しか居ません。ですから、持てる力の全てを出し切って、私達がやるのです』
「気想術はそこまで廃れちまったのか?」
『残念ですが、貴方が知る気想術に溢れた世界は、人々の記憶から抹消された、遠い過去のものです』
「……」
改めて、時代から切り離されていた事をひしひしとその心に感じたアズロットは押し黙った。
“少女の声”の考えは、現実を視野に入れたものであった。
きっと、彼女と同じような確固たる意思を持って組織に尽くしている者は少なくないだろう。
「やるしかない、じゃなくて、やるんだな。そういう根性は、嫌いじゃないぜ?」
『これで多少は、信用して頂けますか?』
「首の輪っかが気にはなるけどな」
アズロットは、1度引き受けた依頼を投げた事は無かった。
それは今でも変わらない。
『目的地は、貴方が持っている端末のモニタに表示されている通りです。ストロングホールドからの距離はおおよそ14000キロですが、今日の夕方頃までに到着して下さい。多少前後しても構いません』
「途中、何度か最寄の島に降りて休みながら行くが、予定の時間には間に合わせるさ。例の不幸粒子が心配なんだろう?」
アズロットは降りられそうな島を探そうと、ズボンのポケットから手のひらサイズの液晶端末を取り出し、画面に表示された地図を確認する。
今日――――6月30日は、『予見師』が本部の中枢=『最深部』から発信した情報によると、夜から『天候』が崩れ始め、“雨”に陥る可能性があるらしいのだ。
『はい。“最深部”の事前の情報をもとに今回の作戦が立てられたのですが、不幸粒子による影響が少ない内に、事を済ませてしまいたいのです』
“雨”等の悪天候は、任務達成を望む隊員達の行動にどんな支障を来すかわからない。そんな状況下で作戦を進めるのは無謀というものだ。
特に今回は、『魔人』が相手なのだから。
『東京』での一戦で、『魔人』は『天候』の影響を受けずに行動可能で、『幸福粒子』を吸い取り、『不幸粒子』を振り撒く事がわかっている。
対する側にはとことん不利な状況を生み出す。まさに不幸の権化である。
そのエリアの天候が“雨”でも、『幸福粒子』が全く無いわけではない。濃度が薄いだけで、存在はしている。
『魔人』はその僅かな『幸福粒子』さえも吸い取り、『不幸粒子』を増やしてしまう。それは、『魔人』を中心にした一定のエリアの天候が、更に悪化していく事を意味する。
そんな相手と戦うなら、極力、『幸福粒子』の濃度が高いエリアを選ぶのが最低条件だ。
それに、戦闘が長引けば長引くほど『天候』は悪化していくため、早い段階で決着を付ける必要もある。
「ヤツとやり合う時は、邪魔が入らないように、そっちで手回しはしてくれるんだよな?」
『任せて下さい。細かな配慮も、作戦の中に含まれていますので』
「――――任せるからな?」
(あとは、オレの決着次第って事か――――)
アズロットの脳裏に、再び過去の悪夢が蘇る。
愛する友をこの手にかけた罪は、アズロットの心から消えることは無い。
だが、道は進むためにあるものだ。
いつまでも立ち止まっているわけにもいかない。
それに気付く事が出来た自分は恵まれていると、アズロットは思っていた。
恵みを貰えたのだから、その幸運に報いる働きが必要だろう。
(お前も、そう思わないか?)
アズロットは友を想いながら、問いかける。
今の自分が『魔人』とぶつかれば、絶対に無事では済まないだろう。
だが、“敗れる”という懸念は、今この瞬間で捨てねばならない。でなければ、『魔人』を前にした際、この懸念に不幸粒子が浸け込み、感情を乱される可能性がある。
誰もが苦しまずに済む、そんな甘い解決策など、見つかる保障は無い。
見つけられなければ、今回も、殺すしかなくなる。
そうなれば、3度目の『呪い』が来るかもしれない。
それでも、逃げるという選択肢は端から無い。
己が道を再び歩むための試練だとすれば、立ち向かう。
(――――見ていてくれ)
アズロットは己が信念を再度認識し、その翼を強く羽ばたかせた。
ここまで読んで下さり、ありがとうございます。
お話はまだ続いていきますので、良かったら暇つぶしにでもどうぞ。