第8章・不屈の信念
午前4時過ぎ。
新大島東高校北校舎一階――――――生徒会室。
「…………」
生徒会長レイラ・アルベンハイムは、ドアの対面に置かれた会長専用の艶やかな木製デスクの側で、深みが和らぎ始めた青空を眺めていた。
上下とも、『I・S・S・O』が定めた、海上自衛隊の夏期第二種常装を思わせる黒の正装に身を包み、薄暗がりに染まっても尚浮かび上がるカーネーションピンクの長髪に櫛を入れ、まるで式典を控えているかのような佇まいだ。
両の肩に据えつけられた銅の肩章は、陸上自衛隊の階級では少佐に相当する。
しかし、制服から正装に着替えなければならない行事がこれから起こるわけではない。
これは彼女なりの、“覚悟”の表れだった。
これから会うことになるであろう人物への、せめてもの心構え。
「……師匠」
誰にも聞かれる事のない声。
「私がしている事は、指揮官として、間違っているでしょうか?」
自身が決断し、実行した事に対して、普段は悠然たる態度を崩さないレイラが、自信を欠いた声を零す。
このまま不安に駆られ、憂いに沈んでしまえば、『不幸粒子』に襲われる可能性が上昇する。
学校の上空の天候は『雨』なのだ。
「……」
わかっている。
自分は、“人々を不幸粒子の悪影響から守る”という組織の大義を、それが正義であると信じ、日々を努力し、行動している。
“今回の任務”も、レイラ自身が正義だと信じる組織の命令によるものだ。
自分は正しい事を、忠実に熟している。
だから、自分は正義だ。
それで良いではないか。
「――――ッ」
だが、務めに集中しようとする気持ちに反して、身体の方は正直だった。
レイラの凛とした眼差しの奥が、僅かに揺らぐ。
視界が、なにかで揺らぐ。
(何故――――)
咄嗟に下唇を噛み、拳を握り締める。
脳裏には、涙を流す咲菜美由梨や、苦しみに呻く寿潤人の姿が思い浮かぶ。
(何故、決意が揺らぐのですか?)
自分は、好きでそうしているのだろうか。
“必要な事”という言葉を大義として掲げれば、何をしても“正義”なのか。
「……いけません」
上に立つ者がそんな調子では、生徒会長の名が泣いてしまうと、レイラは小さく首を横に振った。
そして、『ふーっ』と細く息を吐き、腹部に力を込め、自身の気想を放出して体表を結界で覆うと、徐に両の手を胸の前で握り締め、護心呪文を囁くように詠唱する。
「出でよ精神、我が心よ。迷いから意志へ、意志から道へと。主よ、いざそうならしめ給え。エィメン」
次の瞬間。
校内に響き渡るほどの破壊音と共に、生徒会室のドアが破られた。
「――――」
レイラは“彼”が来るのを待っていた。
もし自分が彼の立場なら、そうするだろうと思ったから。
この正装と覚悟は、彼と対話をするためのもの。
レイラは引き締まった腹部に再び力を込め、自身の結界を確かめると、来訪者の名を呼んだ。
「――――思ったより、遅かったですね。寺之城君」
寺之城は罠を警戒し、『衝撃弾』を使って生徒会室のドアを破り、中へと踏み込んだ。
「思ったより、遅かったですね。寺之城君」
薄い粉塵が晴れ、デスクの向こうから、落ち着き払った声が寺之城を迎えた。
「――――後輩の面倒を見るのも、なかなか楽ではないものでね」
答えつつ、S&W・M686を両手で構えたまま室内へ踏み込む。
残弾数は5。
罠の気配は無い。
「……撃たないのですか?」
寺之城はデスクの手前で歩を止めた。レイラの問いに、僅かな間、心が揺らいだのだ。
レイラは、任務である事を理由に手段を選ばず、事を進めている。
自分の学校の後輩達を、駒のように扱っている。
他の小隊の被害。
寿潤人と、リル・オブ・シャーロット・レスターの苦悩。
咲菜美由梨の――――涙。
第108小隊の小隊長として、黙っていられるわけがない。
だから、ここへ来た。レイラの“真意”を、確かめるために。
「……どうやら、ボクはまだ君のことを、“仲間”であると信じていたいらしい」
「……」
自身の感情を見極めた寺之城の返答を耳にし、レイラは数瞬の後、ゆっくりと振り返った。
「寿君は屋上ですか?」
寺之城が銃口を向ける先で、真剣な面持ちのレイラが尋ねた。
「恐らくな。本当はボクも一緒に行くはずだったが、途中で咲菜美君の邪魔が入ってね。彼女には目を覚ますように少し説教をして、親切に鍵が開いていた医務室に寝かせて来た所だ。ここまでは全て、君の予測通りかね?」
「――――そうですね。順調に事が運んでいます。もう間もなく終わるでしょうから、ここでお茶でもいかがですか?」
「せっかくの誘いだが、断らせてもらおう。こちらの質問に答えてはくれないかね?」
寺之城は怒りに震える事も無く、冷静にレイラの言葉の意味を探る。
「どうぞ」
「一体、如何な目的でこんな事をするのかね? 『魔人』である寿君を、キミ|達(、)はどうしたいと考えている?」
と、寺之城はレイラに問う。
目的を聞き出したうえで、何をするべきか判断する。
「咲菜美さんから聞いたのですか?」
「質問しているのはこちらだ。答えろ」
「疑義が生じるのも当然ですね。ここまで来てくれたことですし、お話します」
レイラは事実を隠そうとはせず、淡々と語り出した。その目は、嘘ではないと訴えるかのように、真っ直ぐ寺之城を見つめたままだ。
「私自身、当事者である師匠から聞かされた話です。始まりは今から15年前に遡ります。2014年の末、組織の創設者達は、『6人の代行者』の1人である『魔人』を生け捕りにしました。暴れていた『魔人』を、宿主の中に封じ込める事に成功したのです。『東京』が滅びたあの日――――組織の人間の誰もが知る『惨劇』の日に」
「……」
寺之城達訓練生は、『I・S・S・O』の育成カリキュラムにおいて、『最暗部』が保管する“世界の裏の歴史”の一部を学んでおり、件の『惨劇』は、知らぬ者が居ないほどに知れ渡り、術師達の間で“二度と起こしてはならない事”として認識されている。
「『魔人』と実際に交戦したメンバーの生存者である、私の師匠とイーサン・レジェイルの2人は、戦闘後に議論を交わし、『魔人』の宿主である寿君を管理下に置いて利用する計画を立ち上げました。翌年から『I・S・S・O』の組織としての規模が急拡大し、人員や資金、設備等が大量に導入されたことも相成って、その計画は採用、実行に移されました。初めは寿君を、師匠の監視のもとで施設内に閉じ込めていましたが、数年前に精神状態が安定し、彼から放出される『不幸粒子』の濃度も通常の生活が可能なレベルにまで低減したので、計画の次の段階として、施設外での生活をさせ、適応能力や周囲への影響を調査する工程へと移行する事になりました」
レイラはふと、デスク上の万年筆に視線を落とす。
「それが今から4年前。私や貴方が中学2年生の頃です。その時の寿君は意識もはっきりしており、会話も可能だったので、記憶の一部を修正した状態で、当時は中学1年生の咲菜美さんと同じクラスに、“転校生”として入れられました。偶然席が隣で、且つ精密検査で、当初は弱かったものの、肉体的なポテンシャルの伸び代が大いに期待されていた咲菜美さんに、その頃から上の声が掛かり、彼女は“幼馴染”として寿君の日常の監視を始めました。咲菜美さんは本当に優秀な子ですよ。非道的な任務に、今まで耐えてくれていましたから。私が高校に主席で入学し、上層部に抜擢され、彼女を監督する任務を受けてからもずっと――――」
「キミ達がそうさせていたんだろうが! 人の心を弄ぶ行為は、果たして正義と呼べるのかね? ボクはどうしてもそうは思えんぞ?」
「あなたがそう言うのも解ります。正義という概念を、1つの共通認識に置き換える事はとても困難ですから、人の数だけ、相違が生まれるのは否めません」
レイラによって語られる、考えもしなかった過去の真実が、寺之城の記憶を覆っていく。
寺之城はかつて、校舎裏でいじめを受けていた2人を助けた。寿潤人はその頃、1人で遅くまで修行を続けていて、寺之城はそんな努力家の彼に一目置いていたのだ。
その寿潤人が、クラスメイトの女の子を助けるべく、男子生徒達に向かっていくところをたまたま目撃した寺之城は、助けない手は無いと思い、校舎の窓から身を乗り出して援護射撃を行った。
当時の事は、今でも鮮明に覚えている。
あの時から、この陰謀は始まっていたというのか。
咲菜美由梨は、その頃から偽りの幼馴染を演じ、“ともだち”を欺く事への罪悪と、『魔人』と共に過ごす恐怖を背負い、それでも尚、寿潤人のために戦っていたというのか。
レイラは寿潤人の話を続ける。
「寿君は、『魔人』をものともせず、前向きな趣意で、自分のため、仲間のために頑張っていました。そんな寿君を見て感化される者も居たくらいです。組織はその時、寿君が『魔人』による『不幸粒子』の影響を受けながらも、健全な“心”を保っていられる理由に着目し始めました。そして判明したのです。本人を含め、誰もが知らぬ間に水面下で発現していた、寿君自身の気想術が――――」
確かに、あの頃の寿潤人は前向きな思考で、強い意志を持っていた。
もし彼の中に、“不幸を呼び寄せる存在”とされる『魔人』が居たのであれば、彼が正気を保っているという事実に疑問が生じる。
何故、なんの悪意も、負の感情も抱かないのか。
何故、前向きでいられるのか。
「――――それは『魔人』による力ではなく、寿君自身に元々あった力という事か?」
という寺之城の問いに、レイラは頷く。
「はい。寿君の能力です。第一発見者である師匠はそれを、『究極気想』と読んでいます」
『究極気想』
初めて聞く術名だ。
「日本語で、“究極気想”と書きます」
「――――どういう意味なのかね?」
「私達人類には、本来なら“絶対”という概念は適用されません。人は、神とは違って、不完全な存在だからです。ですが寿君には、その定理を覆す気想が備わっているのです。『不幸粒子』に翻弄されない、不屈の精神――――何にも侵されない、“絶対的な気想”が」
「それで、“究極気想”か」
「師匠がそう名付けました。彼は世界中を旅して回り、様々な気想術や事象を目にしてきた人ですが、その彼が、“見たことも聞いたこともない”と言っていましたから、寿君は『I・S・S・O』が始まって以来の、特殊な気想術師という事になります」
寺之城の中で、驚きとは別の感情が燻ぶり始める。
「――――ですが、近年の寿君の精神は負の感情へと傾き気味で、年を負う毎に悪化しています。組織はこの事象を、魔人による不幸粒子がついに寿君の精神を圧迫し、侵食を始めたのだと推測しました。例え寿君に備わった能力が“絶対的なもの”でも、それを扱う寿君は“人間”ですから、あり得ない話ではありません。この事態を受けて、上層部では彼の処分が検討されました。ですがこの頃に、ウィンザー城での事故死によって『霊人』となっていたリル王女の存在が発覚したのです。彼女が『霊人』として目覚めた際に発現した能力が、これもまた異例のもので、今回の“決闘計画”が立ち上がるきっかけになりました」
「『霊人』という存在については、リル君から直接聞いている。リル君の持つ“能力”と、“決闘計画”について話してくれ」
寺之城の要求に、ふとレイラは天井を見上げ、
「ごめんなさい。彼女の能力については、万が一、いえ、億が一、敵による妨害が起こる可能性を考慮して、“大まかな開示”とさせて下さい。決闘計画についてはお話します」
「……リル君の能力は、寿君にとって害となり得るものなのか?」
「その質問には、“否”とだけ」
「……いいだろう。では、“決闘計画”とやらを聞かせてもらおう」
レイラの言う“敵”とは何か、これも後で問いたいところではあるが、目的を聞き出すのが最優先。何故なら、彼女に対する処置(このまま彼女の務めを遂行させるべきか、力ずくでも中断させ、『風紀団』に突き出すか)を、早急に決める必要があるからだ。
突き出すと言っても、『四天王』の一角であるレイラを寺之城1人で押さえられたらの話だが。
「――――リル王女が寿君に憑依する事で、彼の精神状態は安定します。組織の計画は、彼女の能力を使って寿君の精神を安定させ、『魔人』を制御する事。寿君の人格を壊させはせずに、『魔人』の“力”のみを引き出し、今後の“敵”との戦いに利用出来れば、『I・S・S・O』の強力な戦力となり得るでしょう。私はその計画を成功させるために動いています。リル王女を憑依させ、寿君の精神を安定させたうえで、アズロットを使って敢えて寿君を追い詰め、『魔人』の力を使わせる。そこで寿君が“侵食”に耐え抜き、『魔人』の力のみを意のままに操れれば成功。操れなければ、そのままアズロットに殺処分させます。今、まさにその可否を測っている最中です」
「殺処分、だと?」
「そうです」
寺之城が驚愕に瞳を揺るがすのに対し、レイラは無表情なまま、淡々と答える。
「何故殺す必要があるんだ? 無理なら、元の監視状態に戻せば良いではないか」
「それは出来ません。忘れたのですか? 『不幸粒子』には、我々が恐れる事柄を招き寄せる性質がある事を」
「寿君は、ボク達の仲間なんだぞ?」
「15年前に首都を壊滅させたという事実と恐れが我々の中にある以上、今回の計画に失敗すれば、その我々の恐れを『魔人』に汲み取られ、また同じような大破壊が起きるかもしれません。そんな危険な存在を生かしておくわけにはいかないと、上層部は考えたのでしょう」
「それで、アズロットは電話で“決闘”と言っていたのか。“人質”を取ったというのは本当かね?」
「あら? 貴方も、寿君の家へ行ったのですか?」
「ああ。キミがボクを泳がせたおかげでな――――?」
「……」
寺之城の言葉に、レイラが僅かに反応を示す。
その視線を、寺之城の目から下へ逸らしたのだ
「何故、ボクを野放しにしたのかね? キミがその気になれば、ものの数分で捕らえられたはずだ」
「……何の事でしょう? ちなみに、人質の件は嘘です。寿君は優しい子ですから、そう脅せば必ず来ると思っていましたので」
レイラは人質についての返答を後から加える事で、それとなく“野放し”への注意を逸らそうとして平静を装うが、ナイトブルーの瞳が揺らでいる。
そんな彼女の様子を見た寺之城は、険の晴れた穏健な表情で目を閉じ、薄く笑った。
「やはりか。寿君の家でそれを聞いた時はボクも焦ったがね、キミが計らった結界で、普段よりも強力に防御された学校内に入ってから、少し落ち着いてものを考える事が出来てな。キミの細かい言動を思い返してみたら、気になる点がいくつかある事に気付いたのだよ。立場上、仕方がないのも解るが、キミも素直じゃないな――――いや、失敬。かわいい所もあるのだなと思ってね」
「ッ!」
微笑しつつ話す寺之城を、レイラはキッと睨みつける。彼女の紅潮した頬が、ほんの少し膨れた。
「電撃を見舞われた時は、キミ自身の考えはどうなのかわからなかったが、今思えばあの電撃も、ボクが時間経過で動けるように加減されていたしな。キミの本心は、そういう事なのだろう?」
レイラはその目を閉じ、自嘲するかのように口元を綻ばせた。
「……貴方のご想像にお任せします」
「万が一、あの大男が寿君を殺処分しようとした時に、ボクは止めに入るが、出来ればそれを邪魔しないでいてくれると嬉しいんだが?」
「――――それは、どうでしょうね?」
レイラはしばしの間考えるフリをして、そう返す。
彼女は今、安堵に満たされていた。
自分の中に溜まっていたものを、寺之城が鏡となって吐き出してくれたからだ。
彼のおかげで、自問自答をする事が出来た。
レイラ自身、本当は気付いていた。
自分の本心に。
だが、指揮官という立場上、表立っての私情は挟めない。
だから、託したのだ。
自分の本心を、仲間である寺之城に。
自分を止めるために、動いてくれる相手へ。
寺之城は、ちゃんと気付いてくれた。
解ってくれた。
彼が居てくれれば、もしもの時、心置きなく仕事が出来る。
自分の務めを全うするために、全力を尽くす事が出来る。
彼になら、この心臓を撃たれてもいいと、そう思えた。
だから、
今の、この自分は――――、
寺之城達にとっての、“悪”でいい。
レイラは微少を最後に、嬉しさと優しさに別れを告げ、閉じていた目を、ゆっくりと開く。
そのナイルブルーの瞳に、先ほどの揺らぎは無い。
光すら、無い。
まるで、心の無い人形のような、命令だけに忠実な機械のような、暗く沈んだ瞳。
「もしもその時があれば、私は私の務めを果たします。貴方がどう動こうと構いませんが、私は決して手を抜いたりしませんので、そのつもりで」
レイラは決意を胸に秘め、徐にデスクの万年筆を右手で掴み、鋭い目つきで、寺之城を射抜く。
そして――――。
秒針が次の時を刻む前に、
一瞬にして寺之城の目の前に迫った。
「ッ!?」
たった今、目の前で起こった事に瞬きをするのも忘れて、両目を見開く小隊長。
レイラは上目遣いで、そんな寺之城の右胸に左手を触れる。
僅かに首を傾げ、万年筆の先端を、彼の左胸に宛がう仕草をして見せ――――。
その胸ポケットに、そっと挿し込んだ。
彼女の背から、小さな放電が迸る。
彼女の髪は今、艶やかなカーネーションピンクから、眩い輝きを放つ金色へと変質していた。
互いの目と目が合い、顔と顔があと少しで触れ合うほどに近づき、端から見ればキスを待っているようにも見える距離。
レイラは、その視線を寺之城の双眸から口元へ、そこから再び双眸へとゆっくり流し、
「……ね? 和馬クン?」
彼の耳元で囁くように、甘い吐息を吹きかけた。
そうして、寺之城が驚愕に縛られている間に、レイラは破壊された出口へと、颯爽と歩いていく。
皮靴の音を響かせて。
(――――驚いた顔も、可愛いのですね)
静まり返った生徒会室で、寺之城は金縛りに遭ったかのように固まっていた。
(あの動き……)
咲菜美の体術も、アズロットの突進も見切った寺之城の目が、追いつけなかった。
目測3メートルという短い距離とはいえ、完全に、手も足も出なかった。
速い、なんてものではない。
あれは、刹那に等しい。
呪縛から解放された寺之城は、胸ポケットに挿し込まれた万年筆を見つめる。
彼女がその気なら、この万年筆は今頃――――。
(東の猛剣、か……)
鋭さの中でも、時折懇篤を見せる瞳。
鼻腔を擽る幽香。
異性を惑わす甘い吐息。
脅嚇するかのような、金色の長髪。
棘に、優しさに、美しさを備えた、まるで薔薇のような少女。
彼女の全てが目に焼きついて、離れはしない。
(レイラめ、全部ボクに甘えるつもりだな?)
もっと大きく距離が開いていればまだ反応出来るかもしれないが、彼女を止めるとなると、至難以外の何物でもないだろう。
(寿君には、なんとしても勝ってもらわねばな!)
その時、寺之城の中で燻ぶっていた感情が溢れ出し、不安も、驚愕も超えて塗りつぶした。
「――――フ、フハハ、ッハーッハッハッハッハッハッ!!」
高らかな笑い声が、廊下まで響き渡る。
それは、歓喜だった。
寺之城は近年、寿潤人の精神面の落ち込みが気掛かりで、どうにかしてやる事は出来ないものかと、思案に暮れていた。
寺之城は、寿潤人という少年が持つ“取り柄”が何なのか、自分なりの回答を、知り合って間もない頃から既に持っていたが、その“取り柄”に当の本人が気付いておらず、心苦しい思いで居た。
彼が自身で“取り柄”に気付くか、自分なりの“取り柄”を見つける事で、精神的な面で持ち直してくれないだろうかと、秘めやかに期待し、それとなく誘うような言葉を掛けてみたりもした。
そうして気に掛けていた後輩が、とんでもなく大きなスケールの話の真っ只中に居るというではないか。
レイラの話を聞いて、笑わずには居られなかった。
(寿君。全くキミという男は、何をそんなに悩んでいるのかね? 凹んでいるのかね? 卑下しているのかね? 恐れているのかね? 憎んでいるのかね? まだキミの人生は続いているのだぞ? 幕は降りていないのだぞ? キミは、こんな小さな島の中で縮こまっているべき存在ではない。キミは、過去の経験に溺れている場合でもない。アズロット? そんなデカブツとっととぶちのめして、その先へ行くのだ! キミは自分を弱いと思っているのであろう? それは大きな間違いだ。キミは痛みを知っている。他人の痛みを理解して、助ける事が出来る。本当の『強者』は、そういう人間の事を言うのだ!)
「――――なんて、恐らくボク以外の面々も思っているのではないかな?」
と、独り言ちる寺之城は徐に天井を見上げ、耳を澄ます。
(自分を信じるんだ。寿君!)
潤人は勢いよくドアを開け放ち、屋上へと一歩を踏み出した。
電話で言っていた通り、そこにアズロットが居た。
黒いブーツに紺色のジーンズ、裸の上半身には朽ちたマントのようなものを羽織り、巨大な白い剣を担いで。
風が吹く度にマントがひるがえり、その強靭な肉体が露になる。
『私がこの一帯を“不幸粒子”で染めるまでの間、少し時間を稼いで頂戴?』
と、ローズ。
中央校舎の南端――――南校舎側にアズロットが立っているのを視認し、そちらを警戒しつつ、潤人は対面の北校舎寄りに立つ。
中央校舎は、“コの字型”に聳える校舎の縦棒の部分で、2人はその北側と南側にそれぞれ陣取った形だ。
向かい合う2人の直線距離は、およそ30メートル。
『よく来たな、ウルト』
肉声ではない、『念話』で、アズロットが切り出す。
『万炎はどこだ?』
『安心しろ。人質の件は、お前を呼び出すためのハッタリだ』
『なんだって!?』
アズロットにまんまと騙された感が否めない潤人は、右へ、左へと周囲を見回し、自分達以外には誰も居ない事を確認する。
『ハッタリで良かったな!』
脳内でリルが囁いた。
人質の話が本当に嘘なら、幾分重圧が軽くなる。
『本当に、誰も人質には取っていないんだな?』
『オレはお前と勝負がしたい。ただそれだけだ。ルールは簡単。どちらかが戦闘不能になれば、それで終わりだ』
潤人の問いにスラスラと答えるアズロットが嘘をついているようには思えない。
『俺を含め、この島の皆の記憶に細工をしたのはあんたか?』
『……違うな。俺も“ソイツ”を探しているからだ』
潤人の予想とは違う答えが返された。
・記憶を操作したのはアズロットではない。
・アズロットも、その人物を探している。
2つの事実から導き出されるのは、
『――――あんたも、記憶の一部が無いのか?』
『ああ。この気想の感じから察するに、お前らもだな? という事は、この組織と、この島に深く干渉出来る野郎の仕業って事になるな。まぁ、ソイツの居場所はなんとなく察しがついてるがな』
『ッ!? どこに居るんだ!?』
『こっちが探して見つかる相手じゃねぇ。かなりの使い手だ』
『どこに居るのか答えろ!』
“誰か”の居場所を察したと言うアズロットに、思わず声を荒げる潤人。
『……俺との勝負が終わったあとで、教えてやるよ。知りたかったら、俺と戦うこった』
『――――ふざけやがって』
目的の詳細は一切不明だが、どうやらアズロットは、是が非でも潤人と戦いたいらしい。
(ローズ、『不幸粒子』の濃度はどんな感じだ?)
『あと少し待って。あの男の周りが、なかなか染められないの』
潤人が目を閉じると、闇の中でローズが口をきつく結び、両の目を思い切り瞑って唸っている光景が浮かぶ。憑依されている人間は、どうやら目を閉じることで、“自分の中の存在”の様子を垣間見る事が出来るようだ。
眠っている際に彼女達の姿が絶えず見えていたのも、ずっと目を閉じていたからだろう。
『染められないのは、アズロットの放つ気想が“幸福粒子”を帯びているからであろう。人が生み出した気想は、それが善行か悪行かで、帯びる粒子が変わるからな』
リルが小難しい事を言っているが、
(要は、あいつが持つエネルギーが強くて、ローズのエネルギーが侵食出来ないって事だろ?)
『否定はしないけど、時間さえあれば、やれなくもないのよ?』
と、少し不貞気味に言って、再び唸りだすローズ。
例えローズのサポートを十分には受けられなくても、アズロットに“誰か”の居場所を言わせるために、潤人は戦わなくてはならない。
『ところでウルト。お前、そいつを出せるようになったのか?』
遠くでこちらの様子を探っていたアズロットが、不意にそう尋ねてきた。
『魔剣だったな』
アズロットが、どこの言語かわからない言葉を呟く。
『なんだ? それ?』
『お前が持ってる剣の名前だ。この国では“マケン”って言ったか? まぁ何にせよ、あまり肉声には出さないほうが身のためだぜ? 不吉な言葉は、不幸を呼び易いからな』
潤人の問いに、アズロットは忠告を加えた。
『――――魔の剣と書いて、魔剣よ。んーー』
唸りに解説を挟んでくれるローズは日本語にかなり詳しいようだ。
『その女とも、ずいぶん仲良くなったみたいだな?』
『――――!? あんたには、俺の中に居る存在が見えてるのか?』
『オレとお前は同じ“代行者”だからな。悪いが会話も丸聞こえだぜ?』
世界に全部で6人居るらしい『代行者』は、互いの『聖霊』を視認して、会話も出来るようだ。
(待てよ?)
潤人は目を擦り、再度アズロットを観察する。
――――見えない。
アズロットの『聖霊』が、見えない。
『――――ちょっと待って、潤人。目を閉じて?』
ローズがそう言うので、潤人は言われた通りに目を瞑る。その状態で自分の背後を見下ろすように上半身を捻ると、ローズとリルがそれぞれ、潤人の両脇からアズロットの方をそろりと覗くようなポーズでしゃがんでいるのが見えた。
(どうしたんだ?)
潤人が聞くと、
『――――はい。もう、目を、開けていいわよ』
『聖霊』も疲れる事はあるのか、息も絶え絶えのローズがそう返した。
何をされたのかわからない潤人が一先ず目を開けると、
――――見える。
アズロットの背後から身体の縦半分を覗かせてこちらを睨む『聖霊』が。
小柄な少女の姿だ。日に焼けたような褐色の肌、胸と腰を覆う藁と思しき着衣、肩まであるブラウンの長髪、3本の爪とふわふわした毛に隠れた手足はライオンを連想させ、お尻からは棘が連なって生えたような、見たこともない尻尾が飛び出していた。
『がるるるるるるるる!!』
巻き舌で唸るような黄色い声を発する少女の口からは、可愛らしい小さな犬歯が覗いている。
「こ、コスプレイヤーさん!?」
第一印象が予想外だったので、思わず肉声で漏らす潤人。
『なんだかよくわからないけど、それバカにしてるでしょ!? ワタシの名前はリュウだ!』
「そ、その手足の毛は、自前か? いくら掛かった?」
『買ったんじゃない! 地毛だ地毛!』
「いや、でも、そんな感じのレイヤーにカメコが群がってる写真を某変態メガネの先輩に見せられたことが――――」
『地毛だっつぅの!』
リュウと名乗った少女は、まるで猫のように全身の毛を逆立ている。
『――――今、私と潤人の視野をリンクしたから、見えるようになったでしょ? あのチビが』
『チビって言うな! 腹黒女ッ!!』
ローズの囁きに反応したちびっ子少女が吠えた。
『相手の“聖霊”が見えて会話が可能なのは、私の視野と聴覚をリンクした時だけ。さっきまで“不幸粒子”を広げるのに意識を集中していたから、聴覚しか共有出来てなかったの。だから見えなかった』
(なるほど……)
潤人はもう1つ、リュウの姿と時を同じくして見え初めていたものに意識を向ける。
それは、自身から放出されているらしい“黒い靄”が辺りを薄暗く染め上げている光景。
『この靄みたいなのは?』
『それは気想だな。ローズと視野をリンクしたことで、潤人にも気想が色や明るさで見えるようになったのだ。だんだん暗くなっているだろう?』
この質問にはリルが答えてくれた。
『それじゃぁ、アズロットの周りだけ、ぼんやりと赤っぽく光っているのは――――』
『彼の気想よ? 今はまだ力の半分も出していないみたいだから、私達にしか視認出来ないけど、あの2人がもっと強く念じた気想を纏えば、普通の人間の目でも見えるわ』
当然、潤人と同時に視認しているであろうローズが答えた。
ローズが言うように、リュウという『聖霊』はまだ力をアズロットに供給していないのか、その“剣”に目立った発光や靄は見られない。
彼らは果たして、どんな能力を使うのか。
あの姿が何か関係しているとすれば、動物か何かに由来する力だろうか。
(そういえば、港で――――)
潤人は、港での寺之城とアズロットの会話を思い出す。
あの時は2人が厨二病かと疑ったが、会話の中に“竜”という単語があったはずだ。
『そうよ。あの男は“竜人”と呼ばれているわ。能力の系統は私と同じ“変化”よ』
と、潤人の思考を読み取ったローズが言った。アズロットの能力がローズと同じとは、つまり、潤人もそういった変化術を発動出来るという事だろうか。
(リュウジン……)
強そうな響きだ。
『あのチビは、その呼び名から、自分の名前を決めたのでしょうね』
『――――また、チビって言ったね?』
その瞬間、屋上の空気が変わった。
リュウの声色とともに。
『言うな、って言ったのに……』
淡く薄黄色に発光していたリュウの瞳が、その輝きを増す。
彼女の全身の毛がユラりと、重力に逆らうように上へと持ち上がり、黄色く輝く靄が放出され始めた。
リュウの小さな身体から放たれた、しかし物凄い重圧を秘めた“殺気”が、空間を満たしていくのがわかる。
『もう怒った! あの時みたいに、思い通りにはさせないんだから!』
唸るように言い放ったリュウは、アズロットの隣で四足獣のように両の手足をつき、身を屈めた。
『――――まぁ、そういう事だ』
アズロットが、その大剣の鋩子を潤人へと向ける。
『お前がその女を手なずけたっていうのなら、確かめさせてもらう。全力での勝負がしたいからな。決闘だ』
(ローズ、侵食の方は?)
『ごめんなさい。あの男の周囲を抑えるには時間が足りなかったわ』
(そうか。なら、後は俺が頑張ればいい)
潤人も、『魔剣』を両手で掴み、訓練で経験した剣道に習い、身体の正面で斜に構える。
『降参するなら今の内だよぉ?』
嘲るように口の端を吊り上げたリュウ――――その身体が、リルが“霊体化”する時のように、黄色い光に包まれ、アズロットが持つ白い大剣の中へと浸透し――――消えた。
すると、今度はアズロットの剣、そしてアズロット自身から黄色い靄が発生し、彼のブラウンの瞳が、淡く黄色に光り出した。
(来るか!)
息を呑み、踏ん張りを入れる潤人。
『じゃぁ、手筈通りに』
ローズがそう言うと、
『了解だ!』
実体化したリルが、第3者の視点で潤人をサポートするべく、屋上の淵――――フェンスの側まで走っていく。
いよいよだ。
視線を交差させる『魔人』と『竜人』
その時、潤人が開け放ったままにしていた、屋上に出入りするためのドアから突如ドアノブが外れて落下し、その時吹き付けた風にさらわれて転がり始めた。
そのままドアノブは向かい合う2人の間まで転がっていき、次の瞬間――――。
転がっていたドアノブが不自然に急停止した地点で、爆発が起きた。
聴覚が爆音を捉えるより一弾指早く、礫を纏った衝撃波が潤人の顔に撃ち込まれ、轟音と共に仰け反り、数歩下がった。
構えていた『魔剣』がある程度の爆風を切り開いてくれたらしく、運が良い事に倒れるまでは至らなかった。
「ッ!?」
予想外の事態に怯んでしまった潤人だが、この爆発はアズロットも予期していなかったらしく、
「衝撃感知式、なんとか粘着爆薬、って言ったか?」
アズロットが肉声で呟いているのが、僅かに聞こえた。どうやら、ドアノブが転がり込んだコンクリートには、粘着液状の爆薬が塗られていたらしく、そこへ偶然外れたドアノブが風で転がっていき、爆薬がそれに反応して爆発を起こしたらしい。
強力な気想でない限り、色も靄も見えないのだから、液状の爆薬など気付けるわけがない。
これは恐らく、レイラがアズロットに協力し、予めコンクリートの一部分に罠として塗り込ませたと考えるのが妥当だ。
(運が良かった。あのまま俺の方から向かって行ったら、間違いなく足を吹き飛ばされてた――――)
潤人は粉塵に目を擦りつつ、そう思った。
『あの男にとっては、不運でしょうね』
と、含んだ呟きを漏らすローズ。
(今のは、ローズの力の影響なのか?)
『そうよ? あのドアノブ、ねじが緩んでいて今にも外れそうだったの。不幸粒子を絡ませたら、案の定簡単に外れたわ』
(そういう事も出来るんだな! おかげで助かったよ。ありがとうな!)
『べ、別にこのくらい、礼には及ばないわ!』
普段は妖艶で、舐めるような声色のローズが、少し慌てたように言う。
ローズでも、戦いになると慌てたりするのか、と、潤人は解釈した。
『聖霊』の新たな一面を見つけた少年の、決闘への恐怖心は、いつの間にか和らいでいた。
(コイツはもしや、あの女の仕業か?)
港で自身が仕込んだ呪文爆弾ほどの威力は無いが、それでも降り注ぐコンクリート片は片手をかざして防がないと痛い。
穿たれた穴を見つめ、アズロットは舌打ちした。
レイラから事前に、『屋上に置いてある褐色瓶に爆薬が入っている』との連絡を受けていたアズロットは、当初は“罠”という卑怯な手を使う事を強く拒んだ。だが相手は『魔人』だ。“プライドは捨てて、やれる事は全てやるべきだ”というリュウのアドバイスもあって、渋々、とろりとした爆薬をコンクリートにぶちまけてみたのだが。
『リュウちゃん達の靄に向こうの気を引き付けて、うまい具合に踏み込ませる算段だったのにぃ!』
リュウが犬歯を剥きだしにして唸る。
仕掛けた罠が思いもしないパターンで破られた。
周囲の黒い靄といい、今回もあまり猶予は無さそうだ。
(一番最悪なのは、俺の首輪が――――)
『アズロット!! その先は考えちゃダメ!!』
リュウの叱咤で、身震いするアズロット。
(ッ!! もういい! こっちから行くぞ!)
アズロットの首に取り付けられた首輪が、人の手によって拵えられたものである限り、“誤爆”の可能性もゼロではない。
その考えを走らせてしまうすんでのところで、間一髪、気持ちを切り替えたアズロットは、その大腿部を一気に膨張させて突進の構えを取る。
『おっけぃ!!』
アズロットが念じると、リュウは『竜牙』に赤い靄を纏わた。
灼熱を帯びた大剣が周囲の空気を熱し、剣の下部に蜃気楼が生じる。
(記憶が戻ったかどうかわからないが、リル嬢ちゃんの精神は一先ず安定したみたいだな)
ちらりと、屋上の隅に立つリルを一瞥したアズロットは、正面へとその意識を向ける。
(さて、ウルト。次はお前の根性を――――)
アズロットは、地を蹴った。
(見せてもらおうか!)
『来たぞ!』
フェンスの方でリルが叫ぶのと同時、潤人の視界一杯に、アズロットの巨体が迫った。
右手の大剣を、突進の勢いに上乗せする形で突き出してくる。
“ヴォンッ”という風切り音と共に、自分の顔目掛けて向かってきた白い刃を、潤人の動体視力はギリギリの所で捉え、反射的に首を右へ捻ってかわした。
じりじりと熱された空気が、潤人の左の頬を焼く。
アズロットの豪腕は、まるで空気を掴んでいるかのように理不尽なスピードで動き、もはや常人の肉眼では追いきれない刃の嵐を見舞う。
対する潤人は、強化された動体視力と反射神経に加え、時折聴こえてくるリルやローズの知らせと、僅かな勘を頼りに、紙一重の回避行動を取る。
小刻みな呼吸の中、轟くような風圧が潤人の鼓膜を圧迫した。
汗が飛び散り、血流が方々へと掻き回される。
「ッ!!」
どうにかラッシュを避け切った潤人へ、今度は刃ではなく、『竜人』の左拳が打ち出される。
メロンほどもありそうな、力強く握り締められたそのフックをまともに受ければ、潤人はそれだけで臓器が潰れ、KOされてしまうだろう。
潤人の上体は右へ傾いでいるが、重心はまだ大部分が両足に残っていた。
潤人は咄嗟に踏ん張りを利かせて上半身を動かしに掛かる。
両手で握った『魔剣』を、縦に構えたまま右へとスライドさせ、アズロットの拳をその刀身で横合いから殴りつけた。
アズロットはそうして弾かれた左腕を、右足を更にもう半歩前に踏み込ませる事で打ち込み姿勢に変え、強引に繰り出してきた。
「ッ!?」
『竜人』の殺人フックを往なした潤人は続いて襲い来るエルボーへの迎撃態勢を作る事は叶わなかったが、
(この攻撃を防げ!!)
一か八か目を瞑り、“パンチングミットのような緩衝材が自分の右側面をガードする”という光景を『想像』した。
(――――ッ!?)
沈黙。
打撃が、襲って来ない。
目を瞑ったまま覚悟を決めていた潤人が数瞬の沈黙の正体を視認するべく目を開けると、
「ッ!?」
一驚の色を浮かべたアズロットが見つめる先――――潤人の右腕のすぐ横で、エルボーを繰り出した『竜人』の豪腕が“何か”に塞き止められていた。
それは、黒い塊となって『竜人』の腕へと集る、『魔剣』の刀身だった。
『魔剣』はまるで生きているかのように、直線状だった己を湾曲させ、アズロットの左腕と潤人の右腕の間に割って入り、打撃を吸収していたのだ。
「――――ぉおおおおおおらぁあああああああッッ!!」
それでもアズロットは、その人間離れした筋力という筋力を総動員し、“魔剣ミット”ごと潤人を薙ぎ飛ばした。
潤人は潤人で、『魔剣』が見せた芸に度肝を抜かれて反応が遅れ、なされるがまま、ぬいぐるみのような勢いで斜め上方へ吹き飛んだ。
吹き飛んでいく距離に比例して、高度も棒グラフのように上昇し、4メートルを超えたその瞬間、潤人はフェンスの上を通過してしまった。
「ッ!!」
アズロットがその光景に舌打ちする中、
「うおおおおおおお!!」
潤人はフェンスを凝視しつつ『想像』し、叫んでいた。
“巻きつけ”と。
『魔剣』が再び“変化”する。
今度はその刀身をロープの如く引き伸ばし、フェンスの淵に見事に絡みつき、潤人の運動エネルギーを中和してみせた。
(――――やったぞ!)
そう安堵したのも束の間。
潤人は重力に引かれて落下を開始し、振り子のようにして校舎の壁面に叩きつけられた。
肺から酸素が強制的に吐き出され、衝撃に目が眩んだものの、“奇跡的”に舌を噛まず、剣の柄も離さずに居られた潤人は、壁に靴先を押し付け、『魔剣』を伝って屋上へとよじ登る。
「潤人っ!!」
フェンスによじ登り、巻きついた『魔剣』を引っ張ろうとするリル。
『リル! あなたはそれに触れてはダメよ! “滅びの力”は、あなたにも牙を剥くわ!』
ローズが念話で叫び、リルは“魔剣ロープ”に伸ばしかけた手を引っ込め、
「潤人! 大丈夫か!?」
代わりにと言わんばかりに、その上半身を乗り出して、潤人の体を引っ張り上げる態勢を取った。
「リル! 危ないから下がるんだ!」
そう呼ばわる潤人の脳裏には、“もしリルがバランスを失って落下したら大変だ”という恐れが浮かぶ。
『ッ!? ダメよ潤人! “剣を操ること”に集中して!』
と、二度叫ぶローズ。
その瞬間、“強風”が吹き荒れ、リルの身体が大きく前にのめり、
「きゃっ!?」
真っ逆さまに、落ちてきた。
「リルッッ!!」
潤人は咄嗟に壁を蹴り、落下してきたリルの身体に飛びついていた。
当然、『魔剣』から手を放して。
体感時間が、急激に引き延ばされていく。
世界がスロー再生される中、潤人は『想像』を力行し、仲間の名を叫ぶ。
『――――ローズ!!』
『もう! 仕方ないんだから!』
ローズは『|魔剣《メラン=ネグラ=ニゲル》』を更に引き伸ばし、潤人の片足――――その足首に絡ませる。
「うおおおおおおッ!」
潤人はリルと共に落下を続け、彼女の華奢な肩をしっかりと抱き寄せる。
そして、潤人の身体がリルに寄り添う形で、2人は逆さまの宙吊り状態に止まった。
「大丈夫か!? リル!」
潤人はすぐ目の前にあるリルの顔を覗き込む。
「ば、ばかもの! わ、わわわ、私は大丈夫だ! す、『霊人』なのだから、潤人がこんな危険なことをする必要は無かったのだぞ!?」
まるでコアラのように、両の手足でがっしりと潤人の身体に掴まり、ワナワナと震えるリル。
「恐いものは恐いだろ!!」
「――――っ!!」
潤人が鼻と鼻がくっつきそうな距離で捲くし立てると、リルはその人形のように整った小顔を真っ赤に染め上げ、俯いてしまう。
「畜生!」
そもそも自分がアズロットに吹き飛ばされなければ、こうはならなかったと、潤人は自身の不甲斐無さに歯を食い縛る。
『落ち着いて、潤人。“想像”はいい感じに出来てるわ。この調子で、“竜人”の隙を狙うのよ!』
(ああ! 問題は、どうやって、隙を、作るかだな! ていうか、引っ張り上げられるか!?)
『想像次第よ!』
「うぬぬ!」
潤人は唸った。リルを抱え、頭に血が上った上体では、なかなか思うように集中出来ない。
(ええと、こんな時想像するのは、あれだ! リール! 魚釣り!)
「……うると」
「――――どうした!? どこか痛むか!?」
俯いていたリルがぽそりと自分の名を呼んだので、想像を中断した潤人が顔を向けると――――。
――――――。
潤人の想像が完全に消し飛んだ。
たった今、リルにされた事――――このしんの感触は、
これまでの人生で、全く想像がつかないものだった。
「た、助けてくれたから、元気が出るおまじないをあげたのだからな? か、勘違いするな!」
リルはエメラルドグリーンの双眸を潤ませながら、上目遣いでぽそりと言う。
『なっ!? なんだか、私の存在って、邪魔になってたりするのかしら……』
常に、どこか大人びたような余裕を帯びて会話する印象の強いローズから、狼狽えたような声がした。
「ほ、ほら! 潤人! 放心してないで、シャキッとするのだ! 最後は、勝って帰るのだぞ!」
「――――ああ。勝つさ!」
潤人がそう答えると、リルは赤い頬のまま満足げに微笑み、実体化を解いた。
金色に輝く粒子が自分の中へと消えていき、身軽になった潤人は腹筋を使って、状態を逆さまから元に戻し、“魔剣ロープ”に再び掴まって屋上を見上げる。
(翼だ! ローズ!)
そして、想像する。
港でアズロットがやって見せたように、自分の背に、黒く大きな翼が備わる事を。
こんな空想じみた想像は、生まれて初めて試す。
うまくいく保障など無い。
空想的であればあるほど、想像は曖昧で、気想術として成立し難いからだ。
だが、ダメもとでやってみる。
『ごめんなさい。無理だわ』
(……ですよね)
無理だった。
『あなたの想像が、イマイチ伝わって来ないの』
(漠然とし過ぎてるもんな。アズロットはどんな想像をしているんだろう?)
潤人は気を取り直し、養護施設の遊具――――登り棒の要領で、地道に“魔剣ロープ”をよじ登っていく。
暗闇に包まれたどん底の日々に別れを告げるかのように。
――――屋上まで。
アズロットは半ば驚いていた。
港の時とは打って変わって、寿潤人の戦闘能力が飛躍的に上がっている事に。
気想の量も、質も、運動能力も、反射神経も、精神状態も全て、別人のようだ。
今の寿潤人からは、“迷い”や“不安”も消えている。
(ウルトのヤツ、この一晩で何があっあんだ?)
嬉しさのあまり口元がにやけそうになるが、“油断は出来ない”、と、思い返した。
『あの腹黒女の気想なんか、あっち行け!』
と、その気想を使った波動で、『不幸粒子』による靄を振り払うリュウを余所に、アズロットは思案に耽る。
(あの女は、宿主へ力を与える代わりに心を蝕み、仕舞いにはその宿主の心身を乗っ取る……そのはずだ)
脳裏には、アズロット自身が殺めた、かつての戦友の姿が――――その笑顔が浮かぶ。王都の城壁で朝陽に照らされた、少女の笑顔が。
(どんなに誇り高い精神を持った人間でも、抗えない。誰であろうと容赦なく堕落させ、“不幸”へと誘う……)
アズロットは、『魔人』の“本心”を知らない。
(そのクソッたれな女を、ウルトは本当に手なずけたって言うのか?)
アズロットの戦友も優秀な術師であったが、月日が経つにつれて、その考え方や言動から誇りが失われ、堕ちていってしまった。
それを目撃し、終止符まで打ったアズロットにとって、『魔人』は憎しみを抱く存在だった。
(もしそうなら、ウルトに頼んであの女を呼び出させるか? ……いや、それじゃぁ、“試す”ことにはならねぇ。ウルトが完全に堕落させられて、操り人形になっている展開もあり得るわけだから、やはり実力行使で追い詰めて確かめるしかない……)
よじ登るのにかなり苦労しているらしい潤人を、屋上で待つアズロット。
このまま力ずくで寿潤人を追い詰め、極限の状況下で、彼が『魔人』を制御下におけるか否かを見るのだ。
時刻は午前4時半頃だ。東の空は更に明るさが増し、虹色を帯びている。
日の出はもうすぐだ。
アズロットにとっては、この日本で久方ぶりに見る日の出である。
だが、どんなに空が澄んでいても、『天候』は“雨”だ。
(手加減は無しだからな。この程度で死んじまうようじゃ、まだまだだぜ? 早く上がって来い!)
肩を回しながら、アズロットは内心で呟いた。
(殺さずにお前の中から“魔人”を引きずり出して、謝らせるまでは、とことん追い詰める!)
『あの“女”の事だし、また何か卑劣な手を使ってくるに決まってるよ!』
未だ唸りつつのリュウが、フェンスの方を睨んだ。
すると、そのフェンスの下部を、少年の片手が掴む。
壁面の汚れにまみれ、所々擦り傷を負いながらも歯を食い縛り、寿潤人は戻ってきた。
港で会った時よりも、垢抜けた表情になったように見える。
「随分遅いじゃねぇか! オレを退屈させるんじゃねぇ! まだ力の半分も出してねぇんだぜ? オレに本気を出させてみろよ!」
潤人がフェンスを乗り越え、コンクリートに降り立つのを見計らって挑発を飛ばしてきたアズロット。
「なら、吹き飛ばすのはフェンス内だけにしてくれ」
正直、今のような思いは二度と御免な潤人は率直に言った。
心臓がいくつあっても足りるとは思えない。
「そいつはお前次第だな。また吹っ飛ばされたくなかったら、てめぇで避けな!」
アズロットが剣を右肩に担ぎ直し、重心を落とす。
『何か来るぞ!?』
潤人の中でリルが叫んだ直後、
『溶炎弾!!』
アズロットの“念法”が、ローズの聴覚を通して潤人の耳に届いた。
そして、『竜人』が口腔内から放った“溶岩”が、真っ直ぐ潤人へと迫る。
「っ!」
間一髪、潤人はその場に半ば突っ伏すようにして、レーザー光線の如く射出された“溶岩”をやり過ごした――――かに見えたが、
「――――ッ!?」
アズロットは尚も一直線上に吐き出している『溶炎弾』の軌道を、彼の足元まで下向けた。
潤人の頭上を通過していた溶岩が、真下の潤人を縦に一刀両断するべく襲い掛かる。
咄嗟に右腕を頭上に掲げた潤人は、左手で掴む『魔剣』を盾のような板状に“変化”させ、溶岩を受け止めて身体への直撃を防ぐ。
『ああっ!』
これにはローズが苦悶を漏らした。
(ローズ!? 大丈夫か!?)
『ま、魔剣は私そのものなの。ただの物理的ダメージは効かないけど、り、“竜”が放つ聖なる炎はべつ!』
思わぬ弱点を語るローズ。潤人の左手が握る『魔剣シールド』の形状が歪み始めた。
『ローズはあいつの炎が苦手なのか!』
慌てた様子のリル。
潤人は“盾”を必死に押さえつつ、身体を起こし、屈んだ姿勢へと持っていく。
(あいつが吐き出すマグマを止めるぞ!!)
潤人は新たな“想像”を始める。その“想像”は、人なら誰もが一度は経験した事のある反射運動で、潤人自身も経験があったため、容易にイメージする事が出来た。
潤人の“想像”を、呻いていたローズがどうにか酌みとって“創造”に移行し、反撃に出た。
『不幸粒子!!』
あらゆる事象を“負”へと傾ける力が、空間に呼びかける。
“竜人を、襲え”と。
次の瞬間、潤人とローズの『想像と創造』によって発生した術がアズロットを見事に捕らえ、その様子を見た潤人はすぐさまローズに、こう質問した。
(ローズ、相手に幻を見せることは!?)
潤人の『聖霊』は闇の中で、力強く頷いた。
その口腔を徐々に焼きながらも、アズロットは『溶炎弾』を吐き続け、灰に溜め込んだ膨大な酸素の半分以上を射出した。
“このまま酸素を創造と共に吐き切り、間髪容れずに斬りかかる”と考えていたが、ここで想定外の事態に襲われた。
「――――がはッ!?」
咽たのだ。
排圧もしくはその熱が気管を刺激したか、激しく咳き込み、アズロットは『溶炎弾』を自分の足元に誤射してしまう。
コンクリートから白煙が立ち昇り、前方の視界が霞に遮られる。
(くそ! こんな時に咽ちまうとは!)
煙の向こう側に立つ黒い影を睨みながら、アズロットはホゾを噛む。
『――――年を取ったせいじゃないね。たぶん、“あの女”の仕業だよ』
活発さを感じさせる普段の甲高い声振りから一変し、低く唸るような、憎悪を秘めた声色でリュウが分析する。
(だろうな。タイミングが良すぎる)
アズロットは低く身構え、右手の刀印を胸の前に添えると、丹田に力を込め、再び結界を張る。
すると直ぐに、まるで蜘蛛の糸が体中に巻き付いているかのような、『不幸粒子』独特の感触が和らいだ。
「――――覇ッ!!」
同時に叫び、自身の生命エネルギー(即ち幸福粒子)を周囲に放出し、『魔人』が負に染め上げた空気を白煙ごと吹き飛ばす。
一見、一瞬叫ぶだけの気想術に思えるが、『魔人』の強力な気想に抗い、それを彼方へ押しやるには、かなりの質と量を備える必要があるため、常人が成せる技ではない。
現に、アズロットの力を持ってしても、まだ微量の『不幸粒子』が付近に滞空している。
それでも動揺の色は一切見せず、次の攻撃に移るべく二度刀印を構えるアズロットは、しかしその身を硬直させた。
今まで煙の向こうに見えていた黒い影は、寿潤人ではなかったのだ。
寿潤人に似せた、“黒い異物”。
まるでノイズのように、アズロットの視野に小さく焼きついて、あたかも離れた位置に少年が立っているかのように見せられていたのだ。
(コイツはまさか!)
『これは、アズロットの視野に直接掛けられた幻だよ! 本物は後ろ!!』
リュウがそう叫ぶのを耳にしたアズロットは、口元を吊り上げた。
(良い動きだ、ウルト!)
『竜牙』を握る左手に、力を込める。
(港の時よりは、大分良い。だがな――――!!)
アズロットは前後に開いていた両足のつま先を軸に、踵を回転させることで、脚部と胴部の向きを半回転分ずらして背後へと向き直り――――。
潤人は今度こそ一矢を報いる事が出来ると考えていた。
自ら吐き溢した“溶岩”の白煙で視界がぼやけたアズロットの隙を突いて移動を始め、その間アズロットの目には黒い人影を映しこみ、彼が一瞬怯んだところで、背後から大上段で斬りかかる。
今まさに、『魔剣』を両手で頭上に構え、振り下ろそうとしているのだ。
アズロットはまだ東側を向いたまま。
西側に回り込んだ自分には気付いていないようだ。
(――――もらった!)
潤人は心で叫び、振り下ろす。
だが。
『魔剣』を握る潤人の腕が、振り下ろす途中で止まる。
いや、正確には、止められた。
ほんの数瞬にも満たない間に、こちらに振り向いたアズロットの右手が潤人の左手を受け止め、縦一線の渾身の斬撃を止めたのだ。
(ッ!?)
油断した。
潤人の思考は悔やみを最後に、停止する。
「――――?」
潤人の全神経は今、己の腹部へと一斉に注がれていた。
こちらに振り向いたアズロット。
彼の手に握られた大剣。
その切っ先が、
潤人の腹部に隠れて見えない。
世界が、凍りついた。
恐ろしいくらいに太い、『竜人』の剣。
(その切っ先はドコダ?)
(何故、ミエナイ?)
それは、潤人の腹部――――胸から臍にかけて垂直に、白い刃が埋め込まれているからだ。
白い刃――――その根元が黒い液体に濡れ、ゆっくりと潤人の身体を持ち上げていく。
腹部から全身へ、電撃のように何かが駆け巡る。
緊張、激震、驚愕――――そして大熱。
潤人の本能が慄く。
――――イヤだ。
――――身体を駆け巡る感覚を、認識したくない。
だが次の瞬間。
世界が、地獄のような痛みが、動き出した。
「ぐぁアアアアアああああああああああああああああああああッ!!」
自分のものとは思えない絶叫が屋上に響き渡る。
まるで感電したかのように、頭部が、手足が、不規則に痙攣する。
胴部に強引に空けられた大きな裂け目。
白い切っ先は、潤人の背を食い破り、赤黒い肉片を帯びて突き出していた。
「ぐごォ、ごゴぉオオオオ!!」
体内の異音が、そのまま口から吐き出される。
おびただしい黒を吐き散らし、もがき続ける潤人。
なにか、
なんでもいい、
だれか、
だれでもいいから、
今、
今すぐ、
“コレ”を消してくれ、
イヤだ、
消したい、
どこかに行け、
キエロ、
ハヤク無クナレ、
ハヤク終ワレ、
(ッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッ!!!!)
朝陽が水平線から生まれ、屋上を照らし出した。
「――――まだまだ甘ぇんだよ」
そうつぶやき、アズロットは寿潤人を見据える。少年の両腕は剣の上部に掴まり、地から浮いた両足は半ばまで屈折したまま痙攣し、大きく見開いた目は何も見てはいない。
「……オイ」
眩い朝陽を背にして立つ竜人の声が、僅かに低められる。
「お前、オレが実はいいヤツで、どこかで分かり合えるとか、考えちゃいねえか?」
剣を持つ左手に力を込め、既に浮き上がった潤人の身体を更に持ち上げる。
“ズリュ”という音と共に、潤人の身体が剣の根元へ滑る。
「オレが手加減してくれるとか、助けてくれるとか、思っちゃいねぇか?」
アズロットは『竜牙』を横薙ぎに振るい、潤人の身体を無造作に投げ飛ばした。
体液が跳ね回り、肉がコンクリートの上で擦れ、削れる音が痛々しく鳴いた。
『……あとはリュウちゃんが“腹黒女”を食べておしまい、だよね?』
アズロットの顔色を伺うように、大剣の中から姿を現したリュウが、恐々とした様子で言った。
(まだダメだ)
アズロットは短く答え、横たわる潤人の下へと歩いていく。
1歩手前で立ち止まり、剣を担ぎ直したアズロット。
「世の中はな、そんなに甘くはねぇんだよ! 今のままじゃ、生き残れない! 負けるだけだ!」
まだまだ足りない事だらけな未成熟の少年を、叱咤する。
「守りたい物があるなら、死ぬ覚悟で戦え! 相手が何であろうと、殺す覚悟で戦え! 俺から、お前の大切な物を、守って見せろ!!」
アズロットは、潤人の中で聞いているであろう、リルの姿も思い浮かべる。
「自分が置かれた境遇は辛いかもしれねぇ。だけどな、いつまでもそれを引きずるな。痛みを知った分だけ、お前は強くなってるんだ。これからは、いずれ来る新しい試練にぶつかっていく覚悟を決めろ。もう過去を振り返るんじゃねぇ」
それは、寿潤人とリル・オブ・シャーロット・レスターだけではなく、自分自身にも、そして、I・S・S・Oという組織へ向けた言葉。
時代が目まぐるしく変わる中、過去の経験に全ての選択権を委ねていては、いずれ『不幸粒子』に敗れる。
どの選択が正解かなんて、人間にはわからない。『幸福』と『不幸』が常について回るこの世界では、どの道を選んでも、“良い事と悪い事”が、決断した道に影の如く付き纏うのだ。
――――ならば、全員が等しく成すべき事は1つ。
「自分で考えて、今大切だと思う事を選べ。それが出来ないって言うんなら、今ここで、俺はお前を殺す」
誰ともなしに言い放ったアズロットは、大剣を両手でしっかりと掴み、大上段に構えた。
『――――潤人! 潤人!』
闇の中、声がする。
『潤人! しっかりしろ! 目を覚ませ!』
『今痛覚を抑えてあげるから、もう少し辛抱して!』
リルと、ローズだろう。
だが今の潤人には、2人が何を言っているのか、よく理解出来ない。
腹部をあんなに太い剣が貫いて、臓器を破壊され、血を大量に吐いて至る所に撒き散らしたにも拘らず、意識はまだ消えていないのが不思議だ。
『魔人』の力の制御を誤れば、ローズの意志に関係なく、『不幸粒子』の悪影響を受けてしまう。
致命傷を負った今の潤人には当然、力を制御する集中力も想像力も無いに等しい。
だから『不幸粒子』に侵され、敢えて“意識は飛ばない”という苦しみを与えられ、死へと向かうのだろう。
死ぬまでの辛抱だ。
死ねば、もう苦しみは無いだろう。
『世の中はな、そんなに甘くはねぇんだよ。今のままじゃ、生き残れないぜ?』
アズロットが、何かを言っている。
『守りたい物があるなら、死ぬ覚悟で戦え。相手が何であろうと、殺す覚悟で戦え』
『自分で考えて、今大切だと思う事を選べ。それが出来ないって言うんなら、今ここで、俺がお前を殺す』
――――そうか。
アズロットが、止めを刺すのか。
『それでいいのか?』
今度は、聞き覚えの無い男の声がした。
ローズが何かしてくれたのか、少しだけ、言語理解が出来る。
『もう、終わりなのか?』
誰だろうか。
アズロットでも、寺之城でもない。
朦朧とする感覚の中、その声だけがはっきりと聴こえる。
その声は、1人ではない。
若い青年の声と、年を重ねたような低い声。それらがまるで、トンネルの中で話しているかのような反響を含み、重なり合って聴こえてくる。
『終わりにして、いいのか?』
その声の問いかけで、潤人の脳裏に、皆の姿が蘇る。
潤人が道を切り開くきっかけ――――その背中を見せてくれた寺之城。
潤人の身を案じ、治療に付き合ってくれた万炎。
潤人のためを想い、1人で戦い続けてくれていた咲菜美。
共に戦う仲間を得て、決意を新たにしたローズ。
王族という立場を放れ、初めてできた友達と過ごし、幸せそうに微笑んだリル。
終われない。
終わりたくない。
終わりにして善いはずがない。
終わらせない。
この世界は理不尽で、不平等で、『不幸粒子』にまみれ、勝つのはいつも“悪”かもしれない。
先に待つのは悲しみと、痛みと、絶望かもしれない。
後悔するかもしれない。
本当に、そうかもしれない。
それでも。
そうだとしても。
抗ってやればいい。
今ここで終わるよりは善い。
どこかに潜み、溢れるチャンスが、無くなるよりは好い。
仲間のために、守りたい物のために戦うのだ。
何度でも『不幸』に抗うのだ。
理不尽な世界が嫌だった。
後ろ向きにしか考えられない自分が嫌だった。
――――けれど。
それでも人間には、戦わなければならない時がある事に、潤人は気付いた。
自分には、守りたいものがある。
不運に苛まれ、苦悩の挙句に尽き果てるのではなく、『不幸粒子』に抗った潤人は、不条理な世界に弄ばれる内に無くしてしまっていたものを、今ようやく、取り戻した。
潤人の中で、これまでに無いほどの質と量を備えた気想が湧き上がる。
それは、中学生時代の潤人にあって、高校生になってからの潤人には無かった感情。
それは、潤人が長い間忘れていた感情。
それは、潤人の知らない闇で葛藤し続けた幼馴染が、小隊長の言葉を受けて思い出した感情。
それは、己の罪の意識に侵され、滅びを望んでいた少女が、潤人の言葉を受けて抱いた感情。
それは、『霊人』となり果て、望みも希望も潰えていた少女が、想いを寄せた少年の“取り柄”。
それは、『魔人』を宿す少年に、秘められた“力”。
寿潤人の、“真の力”。
どこまでも深く、どこまでも強固に湧き上がる“その感情”が、潤人の身体に変化をもたらした。
限界を知らない『幸福粒子』が、潤人に憑依したローズの『不幸粒子』を塗り替え、取り込んでいく。
そして、『幸福』も『不幸』も無い、それらを超越した『気想』が溢れた。
その『気想』が潤人の全身を覆い、あらゆる傷を急速治癒させていく。
胴に穿たれた大穴も、まるで幻であったかのように消滅する。
全ての神経が復活し、感覚が研ぎ澄まされていく。
『潤人、何も心配は要らないぞ!』
『私達が、ずっと側についているから!』
リルとローズの声に押され、潤人はその身体に力を込めた。
(――――ああ。ありがとう)
今度は『不幸粒子』を司る左手ではなく、右手に、『魔剣』が現われた。
剣の様子もこれまでと違う。
その刀身も、柄も、全てが白く発光していた。
それが、潤人、リル、ローズ、3人の気想が織り成す色だとでも言うように。
揺ぎない感情を燃やし、立ち上がる潤人。その両の黒い瞳が白い光を帯び、灰色に淡く輝く。
寿潤人は、覚醒した。
そして。
朝陽が照らす屋上で、溢れ出す感情を叫んだ。
「諦めて、たまるかああああああああああああああああああああッ!!」
あらゆる『不幸』を吹き飛ばす激昂の猛りが、青い空へと響き渡った。
寿潤人の一連の“変化”を見たアズロットは大剣を構えたまま驚嘆し、半歩後退った。
白にも、黒にも見て取れる未知の気想が吹き荒れ、寿潤人の全身に纏わり付き、近づこうとするものを寄せ付けない鎧のように、宿主を守っている。
これが“真の姿”であるとでも言うように。
その凄まじい濃度の気想は、触覚で気想を感知出来るアズロットには大嵐のように感じられ、その気想に秘められた意志には熱気すら覚えるほどであった。
『ナンなのさ、あれ……?』
と、茫然自失のリュウがつぶやく。
『聖霊』ですら解らない事を、アズロットが解るはずもなかったが、
「……」
彼の口元には、僅かな笑みが浮かぶ。
やったのだ。
ついに、あの少年はやり遂げたのだ。
ここまで来たなら、やる事は1つ。
「行くぞ! リュウ! 気合い入れろ!!」
こちらも全力で、ぶつかる事。
アズロットは敢えて寿潤人を追い込み、“死”の恐怖と、絶望と、痛みを教えた。そして、それを乗り越えて来れるかどうかを試した。
(上出来だぜ! ウルト――――!!)
最後に、その“信念”を貫き通せるかを試す。
アズロット自身が全力で“敵”となり、ぶつかる事で。
『ごめん、アズロット。リュウちゃん、ちょっと弱腰になってたよ』
(この程度でビクついてるってことは、もしかして、お前も老けたんじゃねぇか?)
『なっ!? 今老けたって言ったなぁ!? それはレディにはタブーなんだぞォ!?』
(じゃぁ、ウルトのヤツに、俺達がまだ現役だってところを見せて挽回するしかねぇな!)
『っしゃぁぁぁ! やってやらあぁぁぁぁぁぁぁ!!』
アズロットは大きく息を吐き、腹部の筋肉を思い切り凝縮させる。
そして、唱えた。
「竜に楯突く馬鹿野郎はどいつだ?」
纏うのは、全ての獣を支配下に置いた、崇高な生命エネルギー。
灼熱のオーラで武装し、肉体面も数倍に強化するその術は、アズロットの十八番。
「そいつに王が誰か教え込め!その身を以って!」
“闘気の鎧”が、発動した。
アズロットの皮膚が、迷彩を施したかの如く赤銅色に染まり、赤褐色の靄がその巨体を包み込み、その瞳が獲物を求めるかのように微かな光を帯びる。
「かかって来い! ウルト!!」
大剣『竜牙』を両手で構え直し、叫んだ。
(――――さぁ、ウルト)
がらりと顔つきの良くなった少年が、白と黒に燃え盛る凄まじい気想の靄を従え、その剣を構えて向かってくる。
(――――俺の、最後の試験だ!)
逃げも隠れもしない、どっかりと構えるアズロットは正々堂々、それを迎え討つ。
『魔剣』と『竜牙』が、激突した。
白と黒、そして赤の靄が鬩ぎ合い、屋上に爆風が吹き荒れる。
激しい鍔迫り合いに、アズロットも寿潤人も歯を食い縛り、足はコンクリートにめり込み、互いに一歩も譲らない。
「うぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!」
「ォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!」
目を開けているのも辛い暴風の中、しかし互いに目を逸らさず、数十センチの距離でにらみ合う。
それに合わせるかのように、鬩ぎ合っていた靄が混ざり合い、アズロットの想いが潤人に、潤人の想いがアズロットに、それぞれ流れ込んだ。
これは2人にとって初めての現象だった。
アズロット達の脳裏に、潤人の苦悩と、ローズの本当の想いが流れ、ローズの抱える真実を知ったリュウは、その目から涙を流した。
アズロットと潤人が尚も激しく競り合う中、闇の中で向かい合うリュウとローズ。
ローズも、アズロット達の壮絶な生涯に感銘を受けた様子で、その瞳を揺るがせていた。
リュウは涙を溢しながら何かを口にし、ローズへと抱きつく。
ローズも、堪え切れずに大粒の涙を流し、リュウを力一杯抱きしめた。
その時が、訪れようとしていた。
「「――――ッ!?」」
アズロットと潤人、双方の剣に、亀裂が生じる。
そこで動揺してしまったら、一気に気想が乱れ、剣諸共打ち砕かれてしまうが、2人は、一層力を込めて踏ん張る。
あまりの負荷に悲鳴を上げる身体。
額の血管から血を噴き出し、その口からも血を滴らせ、しかし2人は――――微かに笑った。
そして。
『竜牙』が、刀身の半ばから砕けた。
最大の障害を突破した『魔剣』が、アズロットの腹部に向かい、その肉を、臓器を、深く、深く、切り裂いた。
『――――』
(――――)
世界が、静まり返っていた。
アズロットは完全にバランスを失い、後方へと倒れていく。
大量の“紅”を吹き散らし、その靄を煙のように漂わせて。
(――――やれば、出来るじゃねぇか)
何故か、痛みは無かった。
潤人の“気想”が、配慮してくれたのだろうか。
(合格だ)
――――――――。
『――――アズロット、ごめんね』
(何がだ?)
『リュウちゃん、負けちゃった』
(お前が謝る事なんて、ないさ。俺達は本気だった。あとは運の世界だろ? ローズと和解出来て、よかったじゃねぇか)
『でも、アズロットが』
(何泣いてやがる。悲しむことじゃねぇ。みんないつかは、こうなるのさ)
『……』
(リュウ、いいか?)
『なぁに?』
(あいつに――――ウルトの中に、ローズたちと一緒に憑いてやれ)
『え?』
(あいつはこれからも、たくさんの困難に向き合わなきゃならない。お前が居てやれば、きっと心強いはずだ)
『――――やだ! 何言ってるのさ! アズロットと一緒に居る! 今、回復術掛けるから――――』
(回復に必要なだけの気想が、もう残ってないことくらい、わかってるだろ?)
『でも――――』
(いいんだよ、リュウ。オレはもう十分だ。仕事はやったし、最後にいい勝負が出来たしな)
『やだよ――――そんなのやだ――――』
(オレが初めてお前の存在に気付いたときのこと、覚えてるか? あのときのお前、ニコニコしながらオレに食いものせがんだんだぜ?)
『……ぇふ。ひぃん』
(――――泣くなよ。あのときみたいに笑えって。オレは、あの世でお前を見ててやるから)
『……ひく』
(そろそろ、おわかれだ。おまえは、ひとりじゃない)
『……うぅ』
(いままで、ありがとうな)
『……アズロットぉ!!』
(げんきでいろよな。やくそくだぜ……?)
何の感触も、
何の音も無い。
真っ白な世界へと、
アズロットの心は、安らかに溶けていった。
アズロット。
安らかに。




