一.遭遇する七月六日(水曜日)(4)
千華の部活が終わる時間が近づき、図書室を出た。
窓から差し込む夕日が、タイル張りの廊下に反射してきらきら光っている。午後六時をまわった校舎内にほとんど人の気配はない。遠くで吹奏楽部が練習する楽器の音が聞こえた。
下足箱へつづく階段の近くまできたとき、角の向こうから靴音がふたつ聞こえてきた。角から現れたのは背の高い女子生徒と、ついさっき会ったばかりの古林典子だった。
「あら? 大輪田君、いま帰りなの?」
「うん」言いながら亮の記憶を検索。「黒砂さん、古林さんは生徒会の仕事? お疲れさま」
黒砂幸、二年D組の生徒で、生徒会長。先月、受験勉強のために引退した三年生にかわって就任したばかりのようだ。
百七十センチはあろうかという長身。黒く光る美しいロングのストレートヘアーは、一糸乱れぬ規律で重力方向に整列している。千華もスタイルは悪くない、むしろ美人なほうだが、黒砂幸は美しさのレベルがまわりから頭ひとつ飛びぬけており、モデルとして十分務まりそうな整った身体をしている。高校二年生にしては非常に大人びていて、スーツを着せればOLと言っても通りそうだ。
生徒会長らしく校則をひとつとして破らない制服の着こなしは、その正しさゆえに凛とした美しさがあふれている。
成績も良好。というか、学年トップ。完璧が服を着て歩いている、とは黒砂幸のこと。
黒砂幸と古林典子は両手にいっぱいのプリントを抱えていた。生徒会の書類だろうか?
「大輪田君は図書館かしら。勉強熱心なのね」
言うと黒砂幸は微笑んだ。それだけで艶やかな魅力がある。古林典子と同い年とは思えない。
ちなみに古林典子はというと、黒砂幸の後ろでちょっと恥ずかしそうにもじもじしている。
「ちょっと調べものでね。黒砂さんたちは生徒会の仕事? それ、持とうか?」
黒砂幸のかかえるプリントの束を指して訊くと、黒砂幸は目線を一瞬手もとに落とす。
「ああ、これ? そうね、ありがとう。でも生徒会室はすぐそこだから」
黒砂幸は口の端ですこし笑った。その様子もどこか妖しく、美しい。
「あ……でも、そうね、もし大輪田君がよければ、ちょっとほかに手伝ってもらいたいことがあるの」
「すこしなら大丈夫だよ」
千華との待ち合わせにはまだ余裕があった。
「よかった、じゃあここでちょっと待ってて、これを置いてくるから。古林さん、行きましょう」
「あ、はい」
ふたりは連れ立って生徒会室に入り、数十秒後にふたたび部屋から出てきた。黒砂幸はポスターと画鋲が入っているらしき小さな箱を、古林典子は椅子をかかえている。
「このポスターを壁に貼ってくれるかしら。私は位置を見るから」
黒砂幸は図書室の前の壁を指し示す。さまざまな掲示物が貼られた中で、すこし高い位置に一枚分のスペースがあいていた。
「お安い御用だよ」
ポスターを受け取る。文化祭の出しものの募集告知らしい。
「私じゃ届かないから……えっと、ごめんね、大輪田君」
壁際に椅子を置きながら、古林典子は申しわけなさそうに言った。確かに、古林では椅子を足しても高さが届かなさそうだ。
椅子の上に立ち、縦横の位置を定めると、古林典子から画鋲を受け取ってその左上の端を留めた。
「あ、ちょっとまって」
「ん?」
二本目の画鋲を留めようとしたところで、黒砂幸に止められた。
「ちょっとずれてるわ。すぐ下のポスターと端を合わせて、右に二ミリくらい……」
「ん……わかった。こうかな」
画鋲をはずし、位置を修正する。
「うん、でも今度は右のポスターと上下が合ってないわ。下に三ミリずらして」
……なんてこまかいんだ。ちらっと黒砂幸を見ると、射るような鋭い目でポスターを見ている。亮の手前、従順に位置を合わせる。決して黒砂幸の眼力に恐れをなしたからではない。
「……よし、大丈夫ね。その位置で留めてもらえる?」
ポスターの四隅を画鋲で留め、椅子を降りた。黒砂幸は満足そうにポスターをながめている。
そのときようやく気がついた。この壁のポスターたちはすべて整然と、縦横ずれることなく綺麗に整列していた。
「ふふ、細かすぎる、って思ったかしら?」
黒砂幸が言った。心の中をのぞかれたような気がして、俺は思わず目を見開いた。
「確かに、ちょっとぐらいずれててもいいだろう、って思うかもしれないわ。たとえば自分の部屋ならその違和感を感じるのは自分だけだから、それでもいい。でもここは、毎日たくさんの人が通る廊下なの。ちょっとの違和感だとしても、それを通ったみんなが感じるなら、それはもう大きな違和感よ。やっぱり放っておいちゃいけないと思うの」
「へぇ……」
さすが生徒会長といったところか。素直に感心する。
「生徒会長として、だからじゃないけど、『多数の他者』の視点を持つ、っていうことを意識するようにしてるのよ」
黒砂幸はまた美しく笑った。
黒砂幸の言う『多数の他者』の中に、黒砂幸が認識できない俺は含まれているのだろうか。内心でため息をつく。
「偉いな。いつも他の人のことを考えるなんて、大変そうだね」
「ううん、でも生徒会長の仕事がみんなのためになるなら、やりがいがあるし大丈夫よ」
見せた頬笑みには優等生の気品にあふれている。一瞬、差し込む夕日を後光と見間違えそうになった。
「じゃあ古林さん、行きましょう。大輪田君、ひきとめちゃってごめんなさいね。手伝ってくれてどうもありがとう。またね」
「あ、えっと、はい。またね、大輪田君」
そう言ってふたりは生徒会室へ戻っていった。俺も「また」と返事をして階段へ向かう。その途中で二人のほうを振り返る。颯爽と歩く黒砂幸の後ろを、親鳥を追うヒナのように、たどたどしく古林典子が追っていた。
「すごいな……しかし、あれだけ完璧な生徒会長じゃ、古林典子もやりにくそうだよな」
壁に整列したポスターを見て、二人に聞こえないように小さな声でつぶやくと、亮が肯定の感情を返してきた。
俺は亮の記憶から黒砂幸の更なる情報を引っ張り出す。その中から、生徒会役員選挙の一幕をチェック。
立候補者のスピーチで、黒砂幸は原稿も見ず、一度もつっかえることのない完璧な演説をした。対立候補だったA組の秀才男子に、二度と立ち直れなくなりそうなほどの圧倒的な票差をつけて当選している。
当選後の仕事ぶりも優秀で、学校がかかえていたさまざまな問題をつぎつぎに解決。中でも大きかったのは、校内にくすぶっていたいくつかの不良グループを全員更生させた、というものだった。結果、ついたあだ名が「女帝会長」。
ちなみに、古林典子には「小動物」というあだ名がついている。人間ですらない。おなじ生徒会なのにひどい扱いの差だ。そもそもあだ名じゃなくて分類だろ、それは。
とはいえ、黒砂幸のようにキレイ過ぎるもの、立派すぎるものにはバランスを求めるかのように妙なうわさも付きまとうものだ。
黒砂幸もその例外ではなく、更生させた不良を自分の手下として使っているとか、生徒会室の中ではワガママだとか、他の生徒会メンバーをいびっているとか、真偽不明の噂が流れている。さらにはあんなに美しい人が女であるはずがないから実は男だとか、アメリカから来たエージェントで女子生徒のふりをして日本の動向を探っているとか、そう見せかけてヨーロッパ某国の二重スパイだとか、いくらなんでもそれはないだろう、ってなものまで実にさまざま。
「キャラクターの強い人間の多い学校で」
つぶやいて、同じくキャラクターが強い人物のひとり、千華のことを思い出し腕時計を見る。もう千華の部活が終わる時間が近い。階段を小走りに降りて、下足箱へと向かった。
陽が沈みかけ、オレンジの光が校舎の間から洩れて、地面に木々の長い影を落としている。俺は千華との待ち合わせ場所である自転車置き場へ向かった。
弓道場の角を曲がると、反対側から歩いてきた男子生徒と目が合った。今日の授業中と昼休みに見た、あの名前も顔も亮の記憶にない男子生徒だ。
さっぱりしたショートカットで、よく言えばおとなしく、悪く言えば地味。背は高くも低くもなく、太っているでも痩せているでもない。これといって特徴のない外見だ。
男子生徒は俺を見つけると、すこし微笑んで「やぁ」と声をかけてきた。
「や。えーと……」
名前がわからないので、俺はすまなそうな顔を作って曖昧な声を出した。
「C組の佐倉貴だよ」
そう名乗った男子はすこし残念そうな表情。
「あ、あーそう佐倉君! ごめん、ちょっと出てこなかった」
もちろん嘘だ。亮はこいつのことなど覚えちゃいなかった。佐倉貴に同情。
ともかく、その名前を忘れないように頭の中で復唱した。いつも人と話すたびに亮の記憶を検索するクセがつき、事前に相手の名前を得ていたため、相手だけが亮を知っているというのはちょっと妙な気分だった。
まったく、ちゃんと覚えておけ、亮。
「ひどいなぁ忘れるなんて。たしかに、よくキャラが薄いって言われるけどさ。大輪田君は? いま帰りなの?」
「ああ、ちょっと待ち合わせなんだ」
「そっか。じゃあ、僕は帰るよ。またね」
「うん、また」
軽く手を振って、佐倉貴は校門のほうへ歩いていった。すぐ話を切り上げたのは、千華との待ち合わせに気を使ってくれたからだろうか? わざわざ話しかけてくるなんて、なにか用があるのかと思ったのだが。
「しかし、キャラが薄くても、名前があるだけマシだよな」
自嘲気味につぶやいてみる。
「調べる手間が省けた、ってところか」
佐倉貴の名前を忘れないよう、何度もつぶやきながら自転車置き場へ向かった。