一.遭遇する七月六日(水曜日)(3)
放課後、俺は図書室のパソコンを借りてインターネットに興じていた。
インターネットというものの存在を知って以来、放課後は毎日のように図書室にこもっている。
もちろん、単なるネットジャンキーのヒマ潰しというわけではない。
千華の部活動が終わり、一緒に下校する待ち合わせの時間まで、俺自身の性質について少しでもわかることがないか調べるためだ。
しかし、現在までその結果は実らず、調べても調べてもオカルトかSFまがいの情報しか出てこない。まるで俺の存在がフィクションだと遠巻きに言われているようで、うんざりしていた。
俺の自分探しは、「名前がない」とはなにかというところから始まった。
たとえばインターネットの掲示板にどーでもいいことを書くとき、名前を書かないで書きこむやつがいる。匿名希望ってやつだ。「名無しさん」とか言ったりもするか。
でもそいつは、書き込みをするときに自分の名前を書かなかっただけで、実際には名前がないなんてことはない。役所に行けば戸籍にしっかり本名が書かれている。名前を持ってないなんてことはない。
それから、小説なんかじゃたまに最後まで本名が明かされないやつがいる。だがそいつだって、本名が書かれていないだけで、他のキャラクターからあだ名で呼ばれて、そいつもそのあだ名を自分のものだと認識しているのがふつうだ。
他人との間で通用する呼び名がある。自分に名前がないことで悩んだりしない。これらは厳密には名前を持っていない、とはいえない。
俺は名前はないが存在はしている。その根拠を他人に示すことはできないが、俺と亮は俺の存在を実感している。オカルトやフィクションの、ちょうど逆の現象だ。
いちおう、俺の存在が亮の精神的な病気ではないかという可能性も検討した。解離性同一性障害、いわゆる多重人格障害が持つ複数の人格のうちのひとりが俺であるという可能性。
だが、それも違った。亮の中に発生してから、俺は一度も亮に人格を交代したこともないし、複数の人格があることで起こるという記憶の混乱もない。
そしてよくよく原因となると言われる精神的なストレスも、亮の記憶からは見つからない。
俺の存在が亮の病気によるものではないという根拠はもうひとつある。俺が発生する以前には亮が持っていなかったが、亮の中に発生した俺がもっているいくつかの特殊能力。
亮の記憶を辿ることができるというのもそのうちのひとつだ。亮の記憶を使用する場合、俺は亮の記憶を「思いだす」のではなく、辞書をひらくように「探す」。探した情報が出てくるまでの時間はどんなに長くても一秒に満たないから、周りの人間からは俺がそういう検索をしていることはわからないだろう。
ちなみに、俺が発生してから今までの俺の記憶については、俺も「思いだす」という作業をする。しくみは自分でもよくわからないが、とにかく俺についてはこういう特徴だというわけだ。そして、そんな特徴を持つ症例は、記憶や人格に関する病気をいくら調べても見つからなかった。
小一時間ほどインターネットで調べ続け、パソコンのモニタから視線をはずすと、椅子の背もたれに体重を預けて溜息をついた。気付けば、図書室に残っている生徒もずいぶん減っている。
調べはじめてから、一度も解決の糸口さえ見つかっていない。自分と似た境遇の奴が居れば、と思ったが、それも見つけることはできなかった。当然と言えば当然で、ほかの誰もが俺に気付かないということは、俺と似たような境遇の奴がいても、そいつには誰も気付くことができない。
仮に、さっきの数学の富田や、もしくは千華の体を俺みたいな存在が支配していたとしても、それを認識することはできないのだ。俺が周りに、俺の存在を悟らせないのと同じく。
「そりゃ、見つかりっこねーよな……」
気晴らしに、ラックに置かれた今日の新聞をとった。ぱらぱらと眺めていると、地方のニュース欄に近所の地名を見つけ、目が止まる。
「通り魔未だ捕まらず」の見出し。夜、人気のない場所で通り魔が出現し、すでに何名か重体、死者も出ているらしい。
物騒なことだ。そういえば、先日のホームルームの時間に、「ひとりで下校するな、昼間であっても人気のないところを通るな」と注意された気がする。
「犯罪者の中とか、悪人の中に発生すれば、俺も気にせずそいつの体をいただいて人生を楽しむんだけどな」
実際、その立場になったらそうするかはわからないが、自嘲気味にそうつぶやいた。亮は返事を返さない。
「あ、あの……大輪田、くん?」
名前を呼ばれたような気がして振り向いた。
気がして、というのは、空耳かと思うほどに小さな声だったからだ。が、それは気のせいではなく、そこには小さなおかっぱの女子高生がおずおずと立っていた。すぐに亮の記憶を検索。
古林典子。亮とおなじクラスで、文芸部と部活もいっしょだ。
背は小さくて、百五十センチに届かないくらい。中学生、いやことによると小学生と間違われてもおかしくなさそうな、幼さの残る顔立ちだ。文芸部とかけもちで生徒会の書記も務めている。
性格は今の声に現れていたように自信なさげで、会話ではちょっと意見を言うだけで、責めたわけでもないのにすぐ謝ってしまう。文芸部では儚い結末を迎える恋愛モノをよく書いている。
「なにか用? 古林さん」
「あっ、えっと、ごめんなさい」
なにもしてないのに謝られた。こちらこそ、なんかごめんなさい。
古林典子はさらに「えっと」を四回くらい繰り返してから続ける。
「秋の文化祭にむけてなんだけれど……えっと、大輪田君は、その、出す? 作品……」
最後のほうはほとんどそよ風くらいの音量だった。黙っていると、亮からは難色をしめす反応。そりゃそうだ。今の亮はこうして感情の波に乗せてしか表現ができない。
亮が言葉を使えていたら、俺との意思疎通ももっと楽になるし、亮に俺の名前をつけてもらうこともできるはずだ。
それができないのに、もし俺が亮の代わりに思うままペンを走らせたなら、きっと読者が全員頭を抱えるような問題作が飛び出してしまうだろう。まさに鬼才。亮の高校生活にも大打撃。これはよくない。ここは断っておくしかない。
「うーん、まだ構想段階でしかないし、今年は出さないでおくよ、ごめん」
「あっ、えっと、そう、なの……」
残念そうな顔をする古林典子。なんだかこのまま小さくなって消えてしまいそうな儚さだ。えっとえっと、なんか妙な罪悪感が出てきたぞ。フォローしよう。
「い、いま考えてるのが大作になりそうだから、ちゃんと書いたら新人賞に応募しようかと思っててさ。だから、文化祭は、ごめん!」
両手を合わせて頭を下げると、古林典子は驚いたようにのけぞり、両手をぶんぶんふる。ついでに、俺の勝手な宣言に亮はもっと驚いていた。がんばれ亮、未来の文壇を存分ににぎわせてくれ。
「あっ、えっと、いいの、そっか、うん、頑張ってね」
「うん、ありがとう古林さん」
古林典子はまた一歩のけぞり、また両手を振りながら「そんな」とつぶやいて、それからすこしもじもじした。
「あの……出来上がったら、その、えっと、読ませてね。大輪田君の小説……えっと、楽しみに、してるから」
それだけ言うと、古林典子は頬をすこし赤らめて、小走りに図書室から出て行った。……出て行ったと思ったらそのままもう一度ドアを開けて、すぐに帰ってきた。
「あの、えっと、たまには部室にも顔を出してね」
「あ、ああ、わかった、こんど寄るよ」
俺のあいまいな答えに古林典子は小さく頷くと、ふたたび図書室から出て行った。
廊下を歩く古林典子の足音が遠ざかるのを聞いてから、亮の記憶を探ってみる。確かに文芸部にはたまり場になっている部室があることがわかった。
亮は俺が発生する数日前に一度訪れているようだ。だが、部室はもっぱら女子たちのおしゃべりの場になってしまっているようで、文芸部で数少ない男子部員である亮としては、すこし近寄りがたいイメージがあるみたいだ。
ハーレム状態だというのにもったいない。うむ、今度行ってみよう。
それから再び、図書室のパソコンで調べものを続けた。だが、やはり自分の正体に繋がる糸口すら見つけることはできなかった。