一.遭遇する七月六日(水曜日)(1)
亮として授業に出席する教室に、俺は座っている。遠くで蝉のやかましい鳴き声が聴こえはじめて、窓から外を眺めた。やかましいが、蝉だって求愛で必死なんだ。しかたない。
校庭では体育の授業が行われていて、ハードル走をしている生徒たちの姿が見えた。数十秒ごとに体育教師のピストルが鳴り、そのたびに校庭の端から端へ、帽子をかぶった男子生徒が駆けていく。
「おっせぇな……」
ほお杖をついてつぶやく。遅く見えるのは当然だ。俺が座っているこの教室は四階にあり、窓から校庭のトラックまでは相当に距離が離れている。
遠くに見えるものの動きは遅く見える。空を飛ぶ飛行機がマッハに近い速度で飛んでいるのに、地上からはゆっくり動くように見えるのと同じだ。おそらく、校庭を走る彼らは一般的な男子高校生として申しぶんない速さで走っている。
見ているものは、実態は同じなのに自分の立ち位置で印象が変わる。よくあること。言ってみれば、俺が他人から認識されないのも、他人が俺の立場に立つことができないからだ。
「大輪田、聞いてるかー!?」
借りている身体の名前を呼ばれ、声のほうを向いた。
壇上の数学教師が、黒板に図形を描くときによく使う巨大なコンパスで俺を指している。
教師の名前は富田という。五十代の男性で、体育会系部活の顧問でもないのに、角刈りにジャージがトレードマークの異様に元気な教師だ。富田のいないところで、生徒達が呼ぶ時のあだ名は「トミセン」。
俺は姿勢を正した。大輪田亮という人物のまわりの評価は「真面目な男」らしいので、俺はそのキャラクターを崩さないように普段から配慮して態度を作っている。
「虚数iの性質で基本的なものを答えてみろ!」
べつに怒っているわけではないのだろうが、富田という教師はやたらに暑苦しく、声がデカい。こいつのせいで教室の温度が二度くらいは上がっている気がする。
そもそも、虚数の授業をするのにコンパスはいらないはずだ。人を指すのにわざわざ持ってきたということだろうか。ご苦労なことで。
富田の問いに回答するために、俺は亮の記憶を辿ってみた。
これは、俺の能力のひとつだ。
亮の中に俺が発生して、自分に起こった事態を探るためにいろいろ試しているうち、「亮が記憶したものは俺も引っぱりだすことができる」ということがわかった。俺が発生するまえに亮が食ったメシも、読んだマンガの内容も、そして必死に勉強した知識も、亮が覚えているものなら俺は全部使うことができる、ということだ。
そして亮は噂にたがわず勤勉な優等生だったので、こうして教師に指されてもなにも困ることはなかった。
「二乗するとマイナス一になります」
「よぉぉーし! 正解だ! 退屈かもしれんがよそ見するなよ!」
富田は満足そうに言って黒板に向きなおり、ガツガツと音を立てて「i×i=-1」と書きなぐった。チョークの粉が飛びちっている。
「ありえない数だが、こうして新しい定義を与えて数を考えるということが数学の楽しみだ! いやぁ楽しいな! じゃあ次だ、きょうは火曜日だから島村! おまえにつぎの問題を答えてもらう!」
謎の理論を大声で披露して、富田は島村と呼ばれた男子生徒にビシッとコンパスを向けた。
富田のターゲットからはずれた俺は小さく安堵の息をもらし、再びほお杖をついた。亮の知識を利用できるとはいえ、俺のものではない知識をまるで俺のもののように話すというのは、どうも気持ちが悪かった。ウソをついているわけではないが、ただ本を朗読しているような感覚だ。
虚数。二乗するとマイナス一になる数。数学の定義の中ではありうるが、実際には存在しない数。俺の存在も虚数のように、実際に生きているものとしては数えられないものなのだろうか。
「かけてもマイナスにしかなんねーって……」
ぼそりとネガティブなことをつぶやくと、身体の中にいる亮の心が抗議した。
俺が亮の意識を押しのけて亮の身体を操っても、亮の心は身体の中にとどまっていた。それだけではなく、俺の意識に対してリアクションをとることができる。亮のリアクションは、はっきりとした言葉にはならないが、喜怒哀楽さまざまな感情をおびた波のようなもので、俺だけが認識でき、まわりの人間には伝わらない。
亮が俺とおなじ印象を抱いているかどうかはわからないが、俺は亮との関係は悪くないと思っている。俺が亮の中に発生したとき、身体の奥底に閉じ込められた亮ははじめ困惑し、つぎに俺に怒りを向けた。亮の怒りは当然だと思う。しかしその後一週間ほど経ったころには、亮は俺に怒りを向けなくなった。
俺はずっと、亮にすまないと思っていたし、まわりに誰もいないときは、なんども口に出して亮に謝った。そして他人から見た『大輪田亮』の立場が悪くならないように気を使って生活してきた。そのことが亮に理解してもらえたのである。
寄生状態の俺が言うのもなんだが、いまの俺と亮の間には信頼関係が成立している。
ネガティブな思考をした俺をはげましてくれた亮に心の中で礼をして、また授業を受けているフリに戻った。
亮の中に発生して生活をはじめ、最初に驚いたのがこの教室の風景だ。
いまでも理解しかねるのだが、まわりを見ると、きちんと話を聞く者、居眠りする者、小声でおしゃべりする者、塾の宿題を解いている者、さまざまだ。
さまざまなのに、なぜか全員が授業時間中は椅子にしっかり座っているということだけ共通している。
寝たいなら家に帰ってベッドで思いきり寝ればいし、声をひそめて話すくらいなら外に出てスナック菓子でも食べながら大いに話せばいいのに、こいつらはそうしない。「クラス全員で椅子に座る」ということが至上の価値なのだろうか。しかし、授業が終わると「授業だりー」などと平気で言う。
亮の記憶から引きだした授業とは「勉強を教えてもらう場」だったはずなのだが、この場はどうみても教えてもらいたいやつだけがいる場ではない。教えてもらいたいと思ってないやつは家に帰せばいいのに、この場の指導者であるはずの教師もその件については何も言わない。
ひょっとして、みんなで演劇でもしてるんじゃないのか? さっぱりわからん。
このクソ暑いなか、座っているだけというのは、正直かなりダルい。しかしどうやらこの場を離れて家に帰ったりすると、亮の立場は悪くなるらしい。だから俺もこうして授業に集中するフリをして、この教室という空間に同席するしかなかった。
にわかに廊下のほうが騒がしくなり、俺は目線を廊下へ向けた。
授業の終了時刻が近づいているようで、特別教室で授業だったらしい隣のクラスの生徒が教室へ戻ってきていた。
風通しを良くするために開きっぱなしになっている教室の扉から、隣のクラスの生徒たちが見える。
それを眺めながら、亮の記憶をひっぱり出して、わかる範囲で顔と名前を一致させてみる。さわがしくバカ笑いをしてる亮の友達、文芸部の女子集団、そのほかにも昨年亮とおなじクラスだった生徒達……顔は亮の記憶にあるが、名前があやふやなやつ、またはその逆も。
その対照作業をしていると、今度は面識のない男子の集団が通った。その中にいたひとりの男子生徒が、こちら見てすこし微笑んだ。
反射的にくいっと首を下げて応える。亮の記憶を探ったが、顔も名前も記憶の中に見つけることができない。
一年間もおなじクラスだったはずのヤツを忘れてしまうとは、ちょっと薄情じゃないか、亮。そう考えたとき、開いた扉の前を通った女子の集団のひとりが俺を見ているのに気付いた。俺と眼が合うと、ぱっと明るい顔で笑って手を振った。俺も微笑んで小さく手を振る。
亮が最近アタックに成功し、おつきあいを始めた女子だった。
亮の彼女は国分千華という。友達の間で呼ばれているあだ名は『チッキー』。二年C組、見つめられると吸い込まれそうな大きなぱっちりした目と、腰に達しそうな長さながらきちんと手入れされた艶やかなツインテールが目印。
背丈は百六十センチに満たないくらいで、高校生女子としては平均的か。しかし引っこむところが引っこみ、出るところが出た、亮にはもったいない健康美人だ。弓道部に所属している。
文芸部に所属している亮なんぞとは接点がなさそうだが、高校一年生のころ、二人は同じクラスだったため、おたがいに面識があった。
なぜ亮は国分千華に惹かれたのか。
亮の記憶をたどってみると、一年生のはじめのころ、亮は千華のことをなんとも思ってはいなかった。むしろ、ややオーバーに感情表現をする千華のことを、ちょっと面倒くさそうだと思って避けていたようだ。
しかし一年生も終わりの二月なかばごろ。部活の帰り、亮が自分の自転車を取りに駐輪場へ向かっていたときのことだ。
自転車を停めている駐輪場は学校の裏手、弓道場の隣にあった。弓道場の前で、亮は千華が、弓道のイメージトレーニングをする姿を見た……で、その姿にひと目惚れしてしまったらしい。
亮の学校で異性交遊は禁止されていない。俺さえいなければ、亮の高校生活はいまごろ大変充実したものになっていだろう。
ところで、俺は亮の記憶を辿って亮が抱いた印象を「知る」ことはできるが、その印象や亮が抱いた感情までを「実感する」ことはできない。
俺は亮の見た場面をすべてビデオを見るように再生できるが、亮の印象の記憶を引っ張り出したことでその感情を追体験して「俺が」千華に惚れるということはない。
俺は亮じゃないから、亮とは感じかたが違うという、ごくあたりまえのことだな。
亮の記憶の中にはたしかに千華が弓を構え、矢を引くような動きをする姿があった。だがそれを見ても、特別な印象を抱かなかった。
それが俺の人格の問題なのか、それとも亮が遭遇したシチュエーションが重要なのかはわからない。ともかく亮は、それから千華に積極的に話しかけるようになり、ケータイのメールアドレスをゲットし、今年の六月上旬に思いきって告白をした。そして意外にもOKを貰い、お付き合いを始めたわけだ。
ちなみに俺が亮の身体の中に発生したのはそれから二週間程度経ったころ。これから亮と千華のバラ色の恋愛が始まるというのに、俺はなんというお邪魔虫だろうか。
ふとズボンの右ポケットのあたりに振動を感じて、富田に気付かれないようにそっと携帯電話を取りだす。授業中の携帯電話の使用は校則違反だ。着信のライトのパターンから、千華が送ってきたメールだとわかる。
メールには『今日もおひる一緒に食べよう♪ 屋上のいつもの場所でね(*^^)v』と書かれていた。
画面の中で絵文字が楽しげにアニメーションしている。
まだ扉のところに残っていた千華が両手を後ろに組みウインクすると、嬉しそうに自分の教室へと向かって行った。
クラスの全員から見えるところであんなアピールをされると、すこし恥ずかしい。
携帯をズボンのポケットに戻したとき、少し背中を乱暴に押され、後ろを振り返る。後ろの席の新田が俺と千華のやりとりに気付いたらしく、ニヤニヤ笑いを浮かべていた。
新田孝一郎。亮の友人で、部活には所属してない。亮たちの男子グループのムードメーカーだ。
いいやつだがおしゃべりで、亮と千華がつきあい始めたことが発覚したとたん、その事実がクラス中、いや学年中に広まった。
顔が広いため、学校の内外問わず情報が集まるのだが、大変困ったことにこいつには秘密という概念がない。結果、つけられたあだ名はニュースステーション新田。略して『Nステ新田』。
新田は小声で「ヒューヒュー」とかなんとか言っている。後ろ手で払うようにあしらって、そのまま新田を放っておいた。