0.挨拶する
はじめまして。いきなりだが、あんたに質問したいことがある。あんた、そう、今この文章を読んでいるあんたの名前はなんだ? あんたは周りからなんて呼ばれている?
ああ、別に名前を教えてほしいわけじゃないんだ。俺に「名前はなんだ」と聞かれて、そこであんたが自分の名前を思い描くことが「できる」ということが重要なんだ。
自分の名前を思い浮かべてくれただろうか? 恐らくあんたは自分のことをあんたの名前で認識しているし、天涯孤独の身とかでもなければ、あんたの周りの人間も、あんたのことをあんたの名前で認識しているだろう。
名前がない人間はいない。すべての人間は、ひとつ以上の名前を持っている。
しかし、俺には名前がない。自分や他人が俺のことを認識するための言葉を持っていない。名前はなんだと聞かれても、沈黙するしかない。
さらに俺は、誰からも認識されることができない。だから、俺には名前が与えられることもない。そんな通常ありえない存在が俺だ。
他人から認識されないってのがどれだけ辛いか想像できるか? 世界中のありとあらゆる人間があんたを忘れ、あんた自身もあんたの名前を忘れ、自分以外の世界中の人が、あんたの存在を認識できなくなったとしたら。
……最悪だろう?
自己紹介を続けよう。俺は今、他人から「大輪田亮」と呼ばれている。
……頭がおかしいヤツだと思わないでほしい。もう少し詳しく話そう。ここは順序が大事だ。
二週間前、梅雨が明けて本格的な暑さが顔を出したころ、俺は「大輪田亮」という人物の中に突然「発生」した。
「大輪田亮」は十七歳、高校二年生。特別なあだ名はなく、友人からは名前で亮と呼ばれている。名前から予想されるとおり男だ。家族は両親と妹がひとり。成績は良好、部活動は文芸部。趣味は読書と言いつつ、その中身はおもに少年マンガ。模範的このうえない、文化系のさえない男子高校生だ。
俺はそんな大輪田亮の意識をおしのけ、その身体の中に意識だけの存在として割りこんだ。なんでそうなったのかはわからない。気付いたら大輪田亮の中に存在していた。俺にはそれより前の記憶はない。
俺が大輪田亮の身体の中に割りこんだことで、大輪田亮本人の意識は身体の奥底に閉じこめられ、身動きがとれなくなってしまった。だからいま、大輪田亮の身体を支配し動かしているのは俺の意識だ。
しかし他人からすれば、俺の登場の前後で外見上の本人そのものにまったく変化はなく、大輪田亮がそこにありつづけているように見えている。だから俺は周りから大輪田亮と呼ばれている、というわけだ。
俺にとって、それはたまらなく気分が悪かった。俺の意識とは関係なく他人の身体に間借りさせられ、しかも俺のものではない名前で呼ばれる。しかし俺には主張すべき名前がない。
解決策を考えてみた。たとえば自分に適当な名前を付けて主張したらどうだろうか。
だがそれでは、大輪田亮は自分の家族、彼女や友人、クラスメートから、突然わけのわからないことを言いだした相当なイタい子と思われるのがオチだ。
遅れてきた中二病。そんな不名誉を未来ある男子高校生に背負わせるのは、本意ではない。
では俺が大輪田亮として居座ってしまえばどうか。しかし俺はそんなことができる悪人ではない。善良な俺のポリシーに反する。ここまで平和に生きてきた、そしてこれからも平和に生きていくであろうひとりの男子高校生の人生を奪うなんていうのはやはり本意ではない。
だが、このまま俺が亮の身体に居座っていていいわけがない。よって、俺は自分の置かれた立場を理解したとき、三つの目標を定めた。
一つめは俺がいったいどういう存在なのかを知ること。どういう性質を持っていて、なぜこうして他人に迷惑をかけているのかを知りたい。
二つめはこの大輪田亮の身体からなんとかして、できるだけ平和に出ていくこと。さっきも言ったように俺は善良だ。すくなくとも俺なら自分の身体の中にこんなハタ迷惑な奴がいたらすぐにでもご退場願いたい。未来ある男子高校生をはやく解放してやりたい。
三つめは俺の名前を手に入れること。俺は自分に名前がないと思ってるし、まわりは俺のことを大輪田亮だと思っている。
大輪田亮ではない俺そのものの存在を認めてもらい、自分と他人の両方から承認を得られる名前をなんとかして手に入れること。
以上で、俺の大まかな自己紹介は終わりだ。最後にひとつ決めごとをする。俺は名前を持っていないから、こうして俺が文章を通してあんたたちに話をするときは、かならず俺の視点から語りかける。第三者の視点からの語りじゃ、名前を持たない俺のことを記述するのに支障がある。「大輪田亮の中にいる名前のない存在はこう考えた……」なんて長々と書いたら、俺だってあんただって疲れる。だからこの話は最後まで俺の視点で進む。
俺についてのその他のことは、これから話をしていく上ですこしずつ伝えていこう。ともかく、いまは俺に名前がないこと、だから名前が欲しいこと、亮の身体を借りて生活していることだけわかってくれればいい。
それじゃあ、話をはじめよう。