レイン対魔王(8)
「……その汚らしい感情を捨てろ……レイン・シュドー……!」
「……ごめんね、無理……」
再度体制を立て直す過程で、レインはその目から流れていた水を一旦拭き取った。その感情を読み取り続けていた魔王の腹立たしさを溢れさせた言葉に従うように。
『世界の命運を賭ける』と言う壮大な思いを捨て、ただ魔王の本性、あの漆黒の衣装の中に包まれていた何かを暴くと言う方針に切り替えてから、レインは何度も目が潤み、そこからさまざまな感情を込めた涙が流れ始めるようになっていた。自らが負け魔王にこの世界が奪われてしまうと言う可能性を認識してもなお、彼女はどうしても自分の心から溢れ出す思いを抑えきれなくなっていたのだ。それが何か、彼女は既に知っていた。極端に言えば、ここで戦いを放棄し魔王に屈服しても良い、とまで考えていた。だが、それでは自分が抱える目的はほぼ達成されなくなり、魔王の正体をはっきりとこの目、この体で確かめないまま勝負がついてしまう――すなわち自分の敗北という事になってしまう。もう一度レインはその目を擦り、魔王目掛けて立ち向かった。
「魔王……私っ……!!」
「黙れ……ぐおっっっ!!!」
当然、その攻撃はすぐ跳ね返されてしまったが、その直後にレインは自らの体をわざと魔王に近づけ、そこから光と漆黒のオーラを纏った両足を思いっきり魔王に食らわせた上で思いっきり弾き飛ばしてもらった。次々に溢れ出し続けている思いに対する魔王の動揺が、ついにその行動にも現れ始めてしまったのである。だが、すぐに魔王は瞬間移動で体勢を立て直し、今度はそちらからレインに向けて迫ってきた。自分の正体が暴かれると言う怒りか、それとも目的を完全に変えた自分の行動が理解できない憤りなのかはまだ判別できないが、それでもレインは魔王のその仕草にすら、心に湧き上がる何かを覚えていた。
今まで、この魔王の強さに何度憎らしさや恐怖を覚え、何度その実力に驚愕したことだろう。
この漆黒の存在は、常にレインという存在より遥か先を進み、彼女が追い越せない場所で暗躍し続けていた。自分が何度泣き喚こうが関係なく、魔王はただ自らの思い通りに世界を動かし、そしてレインに対しても掌で操るかの如く振舞った。
「魔王……やっぱり……今も強い……ぐっ……!!!」
「何故泣く!何故涙を流そうとする!!何故、そのように考えるのだああああ!!!!」
しかし、それは同時にレインにとってかけがえのない――決して『予備』が創れそうにないほどの貴重な時間となった。
もし魔王がここにいなければ、レイン・シュドーは今頃どうしていたであろうか。魔物という多くの人たちが協力しなければ倒せない敵が現れない以上、争い続ける人間たちの中で彼女は何も未来を見出せずにそのまま野垂れ死んでいたか、はたまたそういった戦いに苛立った者たちの捌け口にされて一生を終えていたかもしれない。魔王という存在がいて、あの時屈辱的な敗北を喫したからこそ、こうやって自分は全力を出しながら戦い続けることができるのだ――レインの心の中に描かれたのは、魔王という存在の前で犠牲になった多くの者たちを重んじ、彼らを慈しむという『勇者』の心をぬぐい捨てた、自分の利益のみを考える利己的で自己中心的、そして傲慢な思いだった。
まさにそれは――。
「貴様……などと同類ではない!!」
「否定しようとも……私はそう思い続ける!!」
――全てを混乱に陥れ続けた、『魔王』のような考えであった。
そして、何度言ったか分からない言葉を、改めてレインは告げた。魔王には本当に感謝している、例え敵対してもその思いだけはずっと変わらない、と。全ての命が愚かさから救われ、統一された美しい意志に支配された世界を実現する事ができたのは魔王のお陰だ、貴方がいなければ世界は変わらなかった。だから――。
「私……魔王が『大好き』!!」
「!!!」
――何度も何度も鼻で嘲り笑い、受け流し続けていたであろうその言葉を、最早魔王は防御することが出来なくなっていた。自分に対する憎しみ、怒り、憤り、それらの感情が、彼女の言葉から感じられなかったことも大きかったかもしれない。
「……黙れ……黙れっっ……黙れええええ!!!」
「!?」
その直後であった。突然、レインは辺りの様子が変わった事に気付いた。目だけを頼りにしていれば、この荒れた世界の果ての大地に何の変化が起きたか見抜く事はできなかったであろう。だが、彼女は既に読み取っていた。もう間もなく、自分の体は魔王が創り出した『見えない壁』によって圧し潰されてしまうであろう事を。そうなればやることは1つ、その直前にここから少し離れた所に自分の体を瞬間的に移動させ、魔王のオーラの力から一旦逃れる事だ。そして、その場にもまたあの『壁』が襲い掛かった時には――。
「はっ!!ほっ!!はっ……!!」
「ぐっ……ぐううううっっっ!!!!」
――あの場所、この場所に姿を移せばよい。
大量のオーラを凝縮させた『壁』を創ってレイン・シュドーの動きを邪魔し続けると言う臆病者になる事を拒否し、それを指摘したレインを真っ向勝負で打ち倒すと断言したはずの魔王は、既にその信念を撤回し、なりふり構わない攻撃を続けていた。ある意味勝つためには一切の手段も選ばず、約束を無かった事にしたり期待をあえて裏切ったりする魔王らしいやり方ではあったが、そこにはもう、レイン・シュドーが長年眺めるだけであった絶対に越えられない漆黒の壁は存在しなかった。懐かしく愛おしく、美しくも感じてしまう、今にも崩れ落ちそうなほどに劣化した漆黒の壁があるだけであった。
しかし、そんな魔王の動きを読み取りながら的確にオーラの壁の襲撃を避け続けているレインの声は、次第に詰まり始めていた。彼女は今にも、心の中に溜めていた本当の想い、本当の予感をぶちまけてしまいそうな状態になっていた。ここではっきりと言葉にすれば、あの時魔王に自分が長年抱えていた思いをはっきりと伝えられたように、少しは楽になるかもしれない。しかし、まだそのような段階になるには早すぎる、と彼女は懸命に自身の心を押さえつけていた。例え目から涙があふれ続けようとも、大声を張り上げづらくなっても、レインは我慢を続けたのである。
まだその時ではない、まだだ、まだだ――。
「うっ……うぅ……うぅ……」
「はぁ……はぁ……おのれぇ……」
――今だ。
『壁』を使った姑息な攻撃も通用しない事に対して憎しみを込めたかのような魔王のうなり声や歯軋りがどこまでも響く中、レインは少しの間だけじっと目を瞑った。瞼の裏に、これまで彼女が経験してきた様々な出来事が走馬灯のように流れた。苦しい事、楽しい事、辛い事、嬉しい事、そしてどこまでも長く長く、数限りない日数を費やしながら延々と続いたこの最後の戦いを、彼女はもう一度思い返した。やがてそっと目を見開いたとき、彼女の瞳を包んでいた涙は消え、頬を伝っていた一筋の線も乾ききっていた。
そして、レイン・シュドーは、自分の身体の一部とも言える、名もなき白銀の剣を構えた。それに合わせるかのように、魔王も全く同じ形をした剣を創造し、そこに禍々しいオーラを込めた上で構えた。
「……魔王……」
「……」
本当に、ありがとう。
今、楽にしてあげる。
「……黙れええええええ!!!レイン・シュドおおおおおおおおおおおおおおお!!!」
レイン・シュドーと魔王、それぞれの動きはほぼ同一であった。全く同じ速さで相手に近づき、全く同じタイミングで剣を相手の体に当て、そしてそれを防御する間もなく、両者はそれぞれの攻撃をもろに食らう事となった。しかし、その部位は異なっていた。魔王はレインの体に、レインは魔王の『仮面』に、輝く刃を互いに当てあったのである。
その直後からしばらくの間、世界は沈黙に包まれた。相手に背を向けるかのように、純白のビキニ衣装のみに身を包んだ美女と、漆黒の衣装と銀色の仮面にすべてを包んだ謎の存在は、じっと立ち続けていた。両者とも何も言葉を発さず、一切動かず、まるで先ほどの攻撃を互いに分析し、語り合うかの如くその体制を維持し続けたのである。
そして、先に沈黙を破ったのは――。
「……!」
――レイン・シュドーだった。
灰色の大地に伏せた彼女の腹にあたる部分からは、まるで鮮血のようなどす黒いオーラが溢れ続けていた。しかし彼女はその深い傷を治癒することなく、そのまま倒れこむという行動を選んだ。痛みというよりも熱さ、温かさのような感触が腹から全身に広がっていく感触を抱きながらも、レインの顔は安心しきったような笑顔に満ちていた。もう自分には治す気力も、決闘を続けるだけの根性も残されていない――長い長い戦いの果てに辿り着いたこの場所、この光景に、満足しているようであった。
やがて、起き上がる事すらできなくなっていた純白のビキニ衣装の美女の元に、あの漆黒の存在が近づき始めた。そっと顔を横に動かし、その存在を確認したレインであったが、叫ぶ事もなければ怖がることもなく、そのまま優しい笑顔を向け続けていた。彼女はもう知っていたのだ。これから魔王が行おうとしていたのは、『魔王』という存在を長年苦しめ続けた憎き敵対者を、二度とこの世界に現れることがないように処理するのではなく――。
「……」
――満身創痍になっていた『勝者』の体を、万全かつ最強の状態へと戻す行為である、という事を。
しばらく暖かく優しい光に包まれている間に、レインの身体からは今まで溜まりに溜まっていた疲れ――肉体も精神も、そして今までに費やした時間すらも消え失せていた。柔らかく豊かな胸にも元の張りが戻り、何度も砂ぼこりで汚れてしまったビキニ衣装も、美しくまぶしい純白に輝いていた。
そして、レインはゆっくりと立ち上がりながら、決闘の相手をじっと見つめた。
「魔王……」
「レイン……」
その漆黒の存在の左手は、横一文字に亀裂が走り、今にも割れそうな銀色の仮面を、懸命に押さえつけていた……。




