トーリスと村人
「はぁ……くそっ!!」
空に昇っていた太陽が、山や谷、無数に並ぶ漆黒のドームの向こう側へと沈もうとしていた頃、とある一本の木の傍らで1人の男が苛立ちと憤りの心を溢れさせていた。
一応、この男の正体は『トーリス・キルメン』――人間たちから尊敬を集め、人々を導く存在として君臨し続けていた勇者のはずであった。だが、その姿は世界中の人々が見慣れたものとはかけ離れたものになっていた。煌びやかな装飾に包まれていたはずの衣装は各部が破れたりほつれたりと凄惨な有様になり、装飾は跡形も無く消え去っていた。美しく整えられていた髪もまた汚れに満ち、その輝きのほとんどを失っていた。そして、彼の表情からは余裕を示す笑顔が完全に無くなっていたのである。当然だろう、あの日――ダミーレインが帰還するはずだった日から、彼は変える場所も行くべき場所も見つからない浮浪人と化していたのだから。
「……くそっ……くそっ……くそっっっ!!」
何故自分がこのような目に遭わないといけないのか、どうしてこんなに苦労を強いられないといけないのか――トーリスの八つ当たりを素直に受け止めてくれるのは、彼が殴った地面だけだった。皮肉にも、長い放浪生活の中で彼の体に蓄積していた様々な堕落や怠惰の要素は無くなり、その体は次第にかつての引き締まった姿を取り戻し始めていた。だが、それもまた彼にとっては受け入れがたい事実であった。昔の体力が蘇り始めている事を喜んでしまう自分、そして彼を翻弄し続ける『魔物』が、憎くて仕方が無かったのかもしれない。
だが、その心もすぐに彼自身の体が打ち砕いてしまった。大きな音を立てて、トーリスが空腹である事を示したからである。
今日もまた、愚かな連中の隙を見て僅かばかりの食べ物を盗み取る、屈辱的な生活をしないといけないのだろうか――気持ちは重かったが、そうしないと命が奪われてしまうと言う現実が、彼には重くのしかかっていた。今は立ち上がり、次の朝日を見るため懸命に生き続けるしかない、魔物に対抗できる自分の手段はこれしかない――。
「……あああああああああああ!!」
――悔しさと苛立ちに包まれたトーリスは、大声を上げながら一本の木だけが立つ丘を駆け降り、『魔物』に占領された事を示す漆黒のドームが延々と並ぶ平原を走った。
だが、その勢いはすぐに終わってしまった。確かに体は元の引き締まった姿を取り戻し始めたとはいえ、所詮それは外見だけ。昔のように魔物相手に長時間奮闘したり、長い時間を懸けて逃げ出す魔物を追撃するほどの体力は蘇っていなかったのである。息が乱れたトーリスは、漆黒の空間が見下ろす中で座り込んでしまった。先程までの苛立ちは薄れたものの、体から溢れだす苦しさを抑える事は出来なかった。そして、少しづつ落ちつき始めた彼は、疲れた体を癒すための水を欲しがり始めたのである。
「水……水……どこだ……?」
既にほとんどを魔物に征服された世界では、清らかな水どころか川や池の水を探すだけでも一苦労になっていた。確かにそれらの水は至る所に点在しているかもしれないが、その場所は漆黒のドームによって封鎖され、トーリスのようなごく普通の人間は入る事が出来なくなっていたのである。それでも彼がここまで生き長らえていたのは、その息も絶え絶えな姿に僅かに残された町や村の人々が同情心を見せたり、偶然近くに川を見つけたりと悪運の強さが発揮されていたからかもしれない。
そして今回も――。
「……!!」
――トーリスは、漆黒のドームの中に隠れるように残された小さな『村』を見つける事が出来たのである。
つい先程までそこに何も無かった、と言う不可解な事実に気づく事無く、彼は一目散にその場所へと懸けた。そして、突然の乱入者に『村人』たちが驚くのも厭わず、大声で叫んだ。早く水をくれ、と。それに応えるかのように、やけに早く用意された水をがぶ飲みした直後、トーリスは体力の限界を示すかのように倒れ込んだ。
彼を見下ろす『村人』たちが薄ら笑いを浮かべていた事など、知る由も無かった。
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「……はっ……!!」
再びトーリス・キルメンの意識が蘇ったのは、彼が一度も潜り込んだ事が無いベッドの中だった。直前までの記憶とは異なり、太陽はだいぶ地上に向けて近付いており、間もなく長い夜が始まる事を知らせているようだった。そんなにも長時間ずっとここで眠り続けていた、と言う事実を目の当たりにした彼は、その時間を結果的に無駄に使ってしまった事を後悔した。今の彼にとって、魔物に対抗するべう懸命に生き続けるためには、1秒たりとも無駄には出来ないからである。だが、そのためには――。
「……!」
――大音響で鳴り響く自分の腹を満たさなければならなかった。
まるで獲物を探す動物のような目をしながら、トーリスはベッドの周りを見渡した。自分のような高貴な勇者を招き入れるのならば、ベッドの傍に美味しいご飯ぐらい用意しても良いはずだ、と言う傲慢な意識が、未だに彼の心には根付いていた。だがそのせいで、配給のみに頼る苦しい生活を強いられている町や村の人々から煙たがれ、最終的に追い出されると言う結末になってしまうと言う事には、まだ彼は気付いていなかった。むしろ、勇者をもてなしてくれない人々の方がどうかしている、と彼らを責める感情まで抱いていたのだ。
どうせこの場所も、勇者の凄さを忘れた愚かな連中ばかりしか住んでいないに決まっている――その諦めに似た感情は――。
「……あっ!!」
――唐突に現れた山盛りのパンによって、あっという間に消えた。
その直後、トーリスは何も考えず、目の前にある大量の食べ物にかぶりついた。こんなに沢山の御馳走を目の前にするのは、本当に久しぶりだったからかもしれない。味こそごく普通のパンそのものだったが、空腹を存分に満たしてくれると言う事だけで、今の彼には十分だった。
しかし、意識がその食べ物にばかり向いていた彼は、何故突然食べ物が目の前に現れたのか、と言う疑問に対しての回答を考える余裕は無かった。そして――。
『美味しいか、トーリス?』
「まあまあだね、ボクのような勇者に対して……え?」
――扉を開け、彼の元を訪れた『村人』の声に聞き覚えがある事に気づくまで、若干の時間を費やしてしまった。確かに久しぶりだったとは言え、今まで幾度となく、日常のようにその声を何度も耳にしていたにも関わらず。だが、それも仕方が無かったかもしれない。まさかこの自分、トーリス・キルメン以外にも――。
「……え……え!?」
『……久しぶりだな、トーリス・キルメン』
――『勇者』が生きていたなんて、誰が予想できたであろうか。
唖然とするトーリスに笑顔を見せた黒髪の女性を、彼は嫌と言うほど記憶していた。どこまでも真面目で計算高く、それ故に変わりゆく世界に対しての判断を誤り、勇者という地位を捨てて勝手に逃亡した挙句、魔物の手によって部下共々消されてしまったはずの魔術の勇者、キリカ・シューダリアその人だったからである。凛々しい声や顔つきも、トーリスとは対照的に地味ながらも勇者の威厳に満ちたその服装も、そして彼を見つめる視線も、全て記憶に刻まれたあの女勇者そのものだった。
「……な、な、な……!?」
『どうした?久しぶりに会えたのにその態度はないだろ?』
淡々と語るキリカの一方で、トーリスが目の前の人物が顔馴染みのものであると理解するまでさらに時間を費やしてしまった。死んだはずの者が何故ここにいる、ボクを惑わしに来たのか、と混乱のあまり様々な言葉を投げかけてしまった彼だが、それらの雑言を受け流すような態度を見せ続け、言葉を発し続ける主のみを疲弊させると言う嫌味のような態度を見せる彼女の様子に、トーリスも流石に目の前にいるのが『キリカ・シューダリア』であると納得せざるを得なかった。笑顔の裏で多くの者を舐め切ったような態度を見せる辺りも、完全にキリカそのものだと感じたからかもしれない。
息も絶え絶えになりながらも何とか落ち着いた彼は、改めてどうして死んだはずのキリカがこの村で、しかも無傷で暮らしているのか尋ねた。しかし、戻って来たのは意外と呆気ない理由だった。そもそも自分は死んでおらず、部下の命と引き換えに何とか生き長らえ、この村で難を逃れる事が出来たのだ、と彼女は語ったのである。腑に落ちない感情は勿論あったが、キリカの糞真面目な顔を見る限り、トーリスは彼女が嘘をついているようには思えなかった。
「……色々言いたいけど、まさか君に助けられるとは……」
『礼は言わないのか?私はわざわざお前を助けたんだぞ?』
「相変わらずだね……ま、一応礼を言うよ」
トーリス・キルメンが、嫌々ながらも感謝の言葉を述べたのは、本当に久しぶりの事だった。
そんな彼を気遣うかのように、キリカは立ち上がれるか、と尋ねた。彼女以外にも勇者の生き残りがいた、と言う事を知った『村人』が、ぜひ彼をもてなしたいと宴の準備をしてくれたのだ。流石に食べ物は容易に口に入らないかもしれないが、最大限努力して得た美味しい酒などで彼の心をたっぷり癒す準備を行っている、と彼女はトーリスに様々な期待を抱かせるような言葉を並べた。
確かに、地位と名誉を重んじる彼がその誘いに乗らない理由は無かった。すぐに準備をしなければならない、と威勢良く立ち上がり、満面の笑みを見せたのは言うまでも無いだろう。だが、それでも内心彼はキリカが語る村人たちの事を蔑んでいた。腹が減っていた事もあり一気に食べてしまったが、先程のパンも焼き味がイマイチだったし、どうせ酒も配給とか言う物で得た余り物に決まっている、昔のような高級品にありつけることなんてないだろう、と。勿論、そのような様々な感情をトーリスは明かす事無く胸にしまい込み続けた。彼の顔は、人々の前で見せる『理想の勇者』に戻っていたのだ。
そして、トーリスはキリカに連れられ、立ち並ぶ建物の間を歩き始めた。
「やけに暗いな……」
『当然だろう、お前を皆が待っているんだ。留守にするに決まっているだろう?』
「あぁ、そうか……まあそうだよね」
やけに明るい星々が見降ろす中で夜道を進み続けたトーリスの前に、さらに明るく輝く建物が見え始め、同時に沢山の人々の声も耳に入り始めた。村人が彼をもてなすために用意した宴会場に、ようやく到着したのである。先に入ってたっぷり完成を味わってこい、と言う少し棘が生えたキリカの言葉にほんの僅かだけ苛立ちを覚えながらも、それ以上の期待感が湧き立ったトーリスは、勇み足で宴会場の扉を開いた。
「……え」
そして、一瞬で固まった。
確かに、そこにいたのは魔物でもなんでも無く、『人間』そのものだった。しかし、明らかにそれは普通の人間――様々な年齢や性別が集まるはずの村の宴会とは異なる様相を見せていた。会場をぎっしりと埋め尽くし、満面の笑みで勇者トーリス・キルメンを迎えたのは――。
『やあ、トーリス』やあ、トーリス』やあ、トーリス』やあ、トーリス』やあ、トーリス』やあ、トーリス』やあ、トーリス』やあ、トーリス』やあ、トーリス』やあ、トーリス』やあ、トーリス』やあ、トーリス』やあ、トーリス』やあ、トーリス』やあ、トーリス』やあ、トーリス』やあ、トーリス』やあ、トーリス』やあ、トーリス』やあ、トーリス』やあ、トーリス』やあ、トーリス』やあ、トーリス』やあ、トーリス』やあ、トーリス』やあ、トーリス』やあ、トーリス』やあ、トーリス』やあ、トーリス』やあ、トーリス』やあ、トーリス』やあ、トーリス』やあ、トーリス』やあ、トーリス』やあ、トーリス』やあ、トーリス』やあ、トーリス』やあ、トーリス』やあ、トーリス』やあ、トーリス』やあ、トーリス』やあ、トーリス』やあ、トーリス』やあ、トーリス』やあ、トーリス』やあ、トーリス』やあ、トーリス』やあ、トーリス』やあ、トーリス』やあ、トーリス』やあ、トーリス』やあ、トーリス』やあ、トーリス』やあ、トーリス』やあ、トーリス』やあ、トーリス』やあ、トーリス』やあ、トーリス』やあ、トーリス』やあ、トーリス』やあ、トーリス』やあ、トーリス』…
――キリカ・シューダリアと同じ姿をした女性たちだったのである……。