町、終焉
その日の空は、どこまでも晴れ渡っていた。
雲ひとつも無い青空の中で太陽がさんさんと照り、心地よい暖かさを届けていた。
しかし、その光が当たる地上に、暖かい安堵の心は生まれていなかった。
「……」「……」
巨大な『壁』に設置された扉の前に、2人の男が何も言わずに立ち続けていた。彼らの体は頑丈な鉄で出来た鎧に包まれ、どんな敵が襲い掛かろうとも跳ね返してしまいそうな様相を見せていた。右手には長い槍を備えており、壁を乗り越えようとする侵入者をいつでも突き刺す準備をしていた。
彼らが佇む巨大な壁の内側には、大きな町が広がっていた。大小さまざまな家々と共に多数の商店や旅館、食事店が並び、多くの人々の生活がそこで営まれ続けていた。だが、人々から以前のような笑顔や楽しさは日を追うごとに薄れてしまい、代わりに町を覆いつくそうとしていたのは、底知れぬ不安や恐れだった。その象徴が、町を取り囲むこの『壁』だった。
今、この町の中から人々は自由に行き来することを禁じられており、また外側の人々が内部に入ることも容易には出来なくなっていた。唯一の出入り口となっているこの鉄の扉も、多くの兵士によって厳重に警戒されているのである。
何故ここまでして厳重な封鎖をする必要があったのだろうか。その理由は1つ、この町、いやこの世界は、恐ろしい『魔物』の脅威に晒されていたからである。
この広大な世界の向こうに、無限に広がり続けていると言う荒野から、恐ろしい魔物たちが生まれ続けている、と人々は噂していた。人知も及ばないこの場所に本拠地を構える『魔王』と呼ばれる存在が大量の魔物を操り、人間や自然を次々に脅かしていると言うのだ。
「……はぁ……」
扉を見張る男から漏れたため息は、それらの存在に対する恐怖や、自分たちの無力さに対する絶望混じりのものだった。
既にいくつもの町や村が『魔物』たちによって支配され、世界の地図から姿を消したと言う話が、男たちや壁の内側に住む町の人たちの耳にも入っていた。凄まじいほどの体術や常識を超えた魔術を駆使する『魔物』たちに、各地の町や村の兵士たちは一切の抵抗も出来ないまま倒され、町や村の住民ごと、永遠にその姿を消してしまったと言うのである。
一体彼らはどこへ行ったのか、それを知る人も、調べる手段も、一切存在しなかった。
「なあ、思ったんだが……」
ふと、右側の男が左側に立つ男に尋ねた。
自分たちがこうやって町の人々を守る最後にして最大の障壁となっていると言うのはよく分かっているし、絶対にそうならなければいけないというのは大いに理解している。しかし、本当に自分たちやこの巨大な『壁』だけで大丈夫なのか、と。
無駄な心配をするな、と左側の男は諌めたのだが、彼もまた同じ疑問を心の中に抱き始めていた。
『魔物』はずっと昔もあちこちの町や村を襲い、人々の生活を脅かしたり大事な田畑や森、川を荒らし続けていた。確かに、普通の人たちでは一切の太刀打ちも出来ない相手だった。しかし、ベテランの兵士を始めとする鍛錬を重ねた者たちなら互角以上の力で立ち回ることが可能な相手だった。
だが、今世界各地に現れている『魔物』は、それとは桁違いに強い存在である、と言うのだ。
そして同時に、今の『魔物』は厄介な特徴を備えている、と男たちは小耳に挟んでいた。人間とは明らかに異なる、様々な怪物のような姿だった以前の『魔物』とは異なり、その姿は見まごう事なき人間そのものだというのだ。
会話も出来れば食べ物や飲み物も普通に口の中にいれ、赤い血を流し、そして夜にはぐっすりと眠りに就く――その特徴は、普通の人間と一切の区別が出来ないほどだ、と男たちは上司や仲間たちから聞いていた。しかし厄介なのは、その魔物がどのような『人間の姿』をしているか、その情報については誰も知らない事であった。『魔物』に支配された町や村には一切の出入りが出来ず、内部で一体何が起きているか、それすら確認できないのだ。
もしかしたら、今暴れているのは魔物ではなく、いくつもの町を束ねる貴族や豪族たちが生み出した『兵器』の類じゃないか。そんな根も葉もない噂まで、あちこちの町や村で流れ始めていた。世界中の人々は、いつ自分たちが襲われるかと言う不安と恐れにさいなまれ続けていたのだ。
そんな人々を何としても守り通し、平和な日々を過ごさせなければならない。その使命感が、鎧の男達を動かしていた。だが、彼らの心の中にも日に日に不安が増し続けていた。
「あの勇者が、今もいたらなぁ……」
「……お前もそう思うか?」
左側の鎧の男の問いに、右側の鎧の男はもう一度肯定の意志を示した。
かつて世界中を襲った『魔物』たちは、世界を救うために現れた『勇者』たちによって倒された。どんなに強い力を持つ邪悪な存在も、勇者の剣や魔術、そして鍛えた体の前に次々に敗れ去った。そして彼らは、魔物たちを操っていた『魔王』の待つ荒野へと赴き、長い恐怖に終止符を打った。
男たちも、その目で世界を救った『勇者』の姿を見た。若々しくも凛々しい姿に、彼らも勇気を貰った。だが今、その勇者たちですら、世界各地を襲う新たな『魔物』の前に大苦戦を強いられ、そして倒したはずの『魔王』まで蘇ってしまうと言う事態に困惑していると言うのだ。
いつまで経っても結果を出せず、ただ苦戦していると言う報告ばかりを受け続けていた人々は、次第にかつての勇者たちを心の中で見捨て始め、代わりに新たな『勇者』を望み始めていた。恐ろしい魔物たちの横暴の前に立ち上がり、持ち前の力で恐怖を打ち破る姿さえあれば、自分たちは勇気を得ることが出来る、人々はそう信じ続けていた。
しかし、新世代の勇者が現れた、と言う噂や報告は、今のところどこにも流れていなかった。
「……結局、俺たちが守るしかないのか……」
「だろうな……」
希望が見出せない中、残された手段は巨大な『壁』を作り、そこを厳重な警備で囲んだ上でひっそりと内部で暮らすと言う逃げの方法だけだった。外の困っている人たちにはあまりにも厳しいかもしれないがこれしか道はない、町の人たちはその思いで苦しい現状を受け入れるほか無かった。
こんな日々がいつまで続くのだろうか。男たちがそんな事を考えていた時だった。
「ん……?」
高い壁に囲まれた町から硬い鉄の扉を抜け、彼方まで続く道の向こうから、誰かがこちらにやって来た事に男たちは気づいた。すぐに彼らは警戒態勢を取り、互いの槍を交差させて扉の前を塞いだ。
そして、道の向こうからやってきたのは、使い古した大きな布を体に纏った1人の人間だった。
「止まれ!」「何の用だ?」
ここを勝手に通すわけにはいかない、と強い口調でその人物に迫る男たちだが、返ってきた声を聞いて少しだけ拍子抜けした。
「あの、すいません……」
頭に被った布を取ったその人物の顔や、その口から発した声は、明らかに人間の『女性』のものだったからである。
青い瞳に少し濃い色の肌、そして整った顔つき。長めの髪は、後ろで一つに結われている。そして体を包む古い布は、胸の辺りで大きく膨らんでいる。まさに「美人」と言う言葉がぴったりの彼女を怖がらせてしまったことに、2人の男は罪悪感を感じてしまい、先程の無礼を謝った。
どうやら彼女は少し離れた別の村からここに立ち寄り、食料や飲料、様々な一般物などを調達するつもりだったと言う。近頃は魔物の影響で容易な旅も難しく、ここにくるのも一苦労だったらしい。しかし、それでもこの扉を通すわけには行かなかった。
「申し訳ないが、この先には『通行証』が必要なのだ」
「町の人たちや一部の商人にしか与えられていない訳でな」
「……そう、ですか……」
「失礼だが、君が『魔物』では無いと言う証明はどこにもない」
人間の姿をした魔物を容易に『壁』の内側へ入れてしまうと、大変なことになってしまう。例え長い距離を旅してきたと言う女性であっても、その約束を捻じ曲げることは出来ない、と男たちは告げた。
しかし、ここで追い返し、魔物が潜んでいるかもしれない外の危険な世界に放置したままにする、と言う事は、男たちにとって胸の痛い話であった。そもそもこういう風に巨大な壁を作り、外部からやってくる人たちを遮断すると言うことは、商業で発達し、たくさんの人たちが行き交ってきたこの町の歴史に反するものであり、反対するものも多かったと言う。それに加え、彼女の告げた村は以前から農作物が不作気味で、このままでは彼女やその周辺の人たちが飢えてしまう可能性もある。だからこそ、彼ら兵士は何とかしたいと願った。
そこで、彼らは一つの案を思いついた。
「え、本当に良いんですか……?」
「気にしないで頂きたい。このまま返すのも忍びないものでしてな」
女性にそう語ったのは、扉や『壁』を守る兵士たちをまとめる隊長格の男であった。
町に入るのに必要な身分証を持っていなかった彼女を入れると言うことは、町の存亡にも関わりかねない。話し合いの中で、例外を認めることには誰一人として賛成する者はいなかった。だが、その代わりに彼女が望んでいた食料などの品をこちらで調達し、そのまま村まで届けることを決めたのである。彼女1人でもって帰るのも大変だろう、と言う気遣いもあったのだが、最大の理由はたった1人、何の訓練もしていない女性だけで魔物だらけの道を歩かせるのは良くない事だ、と考えたからである。
「今回は特例です。今後、このような危ない真似は慎んでいただきたい」
「ご、ごめんなさい……」
頬を赤らめながら上目で謝るその女性の瞳に、男性の兵士たちは一瞬心を打ち抜かれたような気がした。しかし、彼女を送り届ける役目を担うこととなった女性兵士――長年の鍛錬を経て、男性と共に兵役に就く者――がてきぱきと準備を整える様子を見て、すぐに我に返った。
「それじゃ、行きますよ」
「分かりました……ありがとうございます」
丁寧にお辞儀をした女性を、この町を守る任務に就く者たちは笑顔で見送った。つかの間のやり取りに、誰もが久々の安堵の心を感じていたのだ。いつか『平和』が訪れ、このようなことをせずとも女性が町の中に自由に入り、道を行きかう賑やかな群集に加わることが出来る日を、兵士たちは祈っていた。
いつの間にか、空に輝いていた太陽は西の空に沈もうとしていた。東の方角にある山は、もう暗い空に包まれようとしている。そんな中、兵士たちは北の空が少しづつ厚い雲に覆われているのに気がついた。
「明日は雨か……」
「それも、結構大雨っぽいな」
扉に佇む2人の兵士の目に映ったのは、どす黒い色をした巨大な雲であった。たまにたくさんの雨が降るこの場所だが、あそこまで大きく、そしてあそこまで黒い雲と言うのはあまり見たことが無い。『魔物』も気になるところだが、大量の雨も明日の暮らしに関わる事態だ。注意が必要かもしれない、と2人が考えたときだった。
「……ん?」
「どうした」
何でもない、気のせいだ、と右側の兵士は返した。一瞬だけ、彼の視界が霧に包まれたかのように歪んだのである。だが、それはすぐに終わり、元の『壁』や、その外側に広がる景色が視界に戻ってきた。きっと疲れたのだろう、今日の任務が終わったら真っ先に眠ろう、そう彼は心の中で誓った。
だが、同じ異変を感じたのは、彼だけではなかった。口には出さなかったが、左側の兵士もまた、全く同じように周りが霧に包まれ、景色が一瞬歪んだように見えてしまったのである。
そして、2人は夜の任務を別の兵士と交代した後、すぐに床に就いた。気力はまだまだあったものの、重い鎧で体は疲れきっており、すぐに眠気が襲ってきた。そしてそれは、彼ら2人だけではなかった。
「あれ、お前もか?」
「ちょっと疲れが溜まってしまいまして……」
別の場所の防衛に就いていた彼もまた、同じように目の霞のような現象を味わい、任務が終わるや否や寝床にやってきたのだという。
「……やっぱり、俺たちは相当疲れているんだな」
「心もきっと、ヘトヘトなんでしょうね」
いつ果てるとも知れない『魔物』への恐怖に、自分たちの体の疲労も限界に近づいているのかもしれない、と彼らは横になりながら語った。いつどこに現れるか全く分からず、一度襲われれば最後、何の抵抗も出来ないまま、町や村はのっとられ、人間たちは二度とそこに入れなくなる。自分たちもやがてそうなるかもしれない、と言う恐怖によって暴動が起きてしまったという都市もあると言う。この町も、なれない『壁』に包まれた生活にいつ住民の不満が爆発するか分からない。『魔物』よりも先に、自分たち自身で町が壊滅する可能性もあるのだ。
やはり、この状況を打開してくれるのはたった一つ、新たな『勇者』が現れることしかない、と彼らは考えた。人々を邪悪から救ってくれる存在が必ず現れ、世界に『平和』を取り戻してくれる日は絶対にやって来る。かつての勇者たちを超える強さを持つ存在が、世界を救ってくれるはずだ、と。
「……おやすみ」
「おやすみなさい」
そして、眠気が限界に達した彼らは、そのまま目を瞑り、静かに夢の世界に入り始めた。その直前、彼らは町が静かに暗闇に包まれていく様子と共に、その風景がまるで『霧』に包まれていくかのように見えた。
やがてこの町は、夜の闇に包まれた。
月が照らす町の中は、月夜を隠す黒い雲、『壁』に包まれた町を包み込む霧、そして不気味なほどの静寂で覆われていた。
そう、本当に町からほぼ全ての音が消えていた。大小さまざまな家の中や、大きな商店の中、歓楽街を形作るオンボロ屋敷の中、あらゆる場所で、人々は吐息をたてながら眠りに就いていた。誰一人、町の中で目を覚まし続けているものはいなかったのだ。それはまるで、町の全てが静かな死を迎えたかのようであった。
そして、それはこの町を守るはずの『壁』も同様だった。頑丈な鎧に包まれた屈強な戦士たちは、立ちながらぐっすりと眠っていたのだ。彼らの周りには、景色を歪ませてしまうほどの濃い霧が、まるで毛布のように包み込んでいた。寝室で眠る男たちの体もまた、あの霧に包み込まれていた。それは決して目の錯覚ではなく、現実の光景だった。
その直後、霧に包まれた町に異変が起きた。人々が眠る建物の中から、突然『光』が放たれ始めたのだ。
ロウソクの明かりでも月の光でも、ここまでの明るさは形作ることは出来ないほどの眩さだ。しかもそれは1つだけでは無かった。兵士や商人、一般市民など町の全ての人々が明日の平和を信じながら眠り続ける場所の全てが、一斉に光を放っていたのである。
まるで昼間のような明るさだが、その光は一筋も町の外に漏れ出すことは無かった。内部で起きていることを隠すかのように、町は黒い雲や厚い霧の中に覆われていたのだ。
まさしくそれは、『魔物』によって侵略され、人々が侵入できなくなった様々な町で起きたものと全く同じ光景であった……。