潜入
「どうしてここに?」
「むしろ、どうしてここに私がいると思わなかったのかしら?」
メアリはさらに近づいて来る。
思わず後ろに下がろうとして、窓にぶつかった。
予想外の大きな音に驚き、つい後ろを確認してしまう。
既に階下に兵の姿は無い。
その音に気付いて動く影はどこにも無かった。
不意にマイアが動く。
俺とメアリの間に入る形で。
メアリはマイアの前で立ち止まった。
前回の事を踏まえて尋ねた。
「まさか、あんたがエージェントだ、なんて言わないよな?」
消えたエージェントとは言わない。
相手がどういう情報を握っているのか分からない以上、余計な事を言う必要は無いだろう。
「もしもそうだって言ったらどうする?」
もしもそうなら、この国にいるポラリスのエージェントはすべて死んでいるだろう。
救出すべき対象は既に失われている。
実際にそれが有り得そうな気がしてしまっていた。
だから、確認してしまった。
「そうなのか?」
尋ねながら、いつでも武器を抜けるように意識を切り替えた。
マイアは武器を抜いていない。
マイアの武器、ハルバードの柄を短くしたような短槍は背中に背負われたままだ。
それでも彼女の手はそのままナイフのような鋭利さを誇る。
しかし、メアリの目には、俺が操るコードが見えている。
迂闊に動かせば、マイアを動かすより先にどうにかされかねない。
それくらいにこの女の事を評価していた。
この女がその気になれば、一瞬で部屋、それどころか建物自体が燃え上がるような気すらする。
しかし、女は街中で友達に会ったかのような気安さで答えた。
「残念だけど、今回は違うわ。別件よ。これでもね、色々とお仕事があるのよ、私」
メアリは右手を伸ばし、マイアの顔へと手を伸ばしてくる。
そして触れるか、触れないかの所で手を止め、マイアの顔を撫でるかのように手を動かした。
相変わらず敵意は見えない。
俺は動けなかった。
「でも、デッドアイが来るって聞いたから、顔だけでも見せておこうかと思って」
悪戯っぽく笑い、手を引き戻す。
そして1歩だけ後ろへと下がった。
ポラリスが探しまわっても見つからなかった女が目の前にいる。
そうだ。
見つからない以上は、ポラリスの目が届きにくい場所にいる。
それはつまり、戒厳令が敷かれ、ポラリスの人間が自由に出入りできなくなっているような緊張下の国はうってつけと言えた。
どうしてここにいると思わなかったのか?
その問いに、ようやく答えが見つかった。
「今回はお互い大変ね。時間も無いし、それでもやらなきゃいけない事はいっぱいあるし」
「何でも知っているような口ぶりだな」
「ええ。勿論知ってるわよ。そうじゃなければ、ここで貴方を待ち伏せなんて出来ないでしょ?」
確かにそれはその通りだった。
相手のペースに乗せられてしまっている。
何かを言うべきな気がしたが、何を言ったら良いのか検討も付かない。
口を開きかけ、思案してようやく何を聞くべきなのかに思い至った。
「それで、あんたは俺の敵なのか?」
「安っぽい科白ね。もっと気の利いた事を聞いて欲しいのに」
「それは無理な注文だな。正体不明の女にどう気を使ったら良いのか、皆目検討が付かん」
苦笑して応えると、メアリは身を引いた。
踊るように軽やかに。
「じゃあ、何も教えてあげないわ。分かる事から判断しなさい。またね、デッドアイ」
そう言いおいて、そのまま扉の無い出口へと歩いていく。
一瞬、追うべきか迷い、結局は見送った。
確かにやるべき事はたくさんあるのだ。
ここで謎の女と遊んでいる暇は無い。
邪魔をするつもりなら、最初からここで罠を仕掛けていれば良い。
それこそ敵に情報を流すだけで、簡単に取り囲み、捕らえる事が出来ただろう。
それをしなかったのは、本当に顔を見るためだったのかもしれない。
鼻で笑った。
一体どんな色男だと言うのだ、自分は。
部屋の外へと出て行った女にそっと声を掛けた。
「邪魔するなよ。頼むから」
既に姿は無く、そして声に返事は無かった。
◇
暗い道を選んでアルフェラスの街を走った。
アルフェラスはスバルとは違って、いくつもの街に別れていない。
街並もレオニスのような高い建物が並んだりもしていない。
3階建て、時折4階建ての建物がある程度だ。
遠くに高い壁が星空を隠しているのが分かる。
トンボに似た羽根の生えた手の平程の小人、ピクシーを先行させ、その目で確認しながら進んだので、敵と遭遇する事は無い。
事前に頭の中に叩き込んでいた地図を元に、ひとまずは実地での位置関係を把握した。
歩き回る兵の数は多かった。
金星門を使ってのポラリスの潜入を警戒しているのだろう。
ポラリスからも、潜伏場所は都度都度で変えるようにと言われていた。
あの廃墟とて、明日には兵が踏み込んでくるかもしれない。
久しぶりに戦闘とは別の緊張感のある仕事だった。
日が昇る前に、使われていないアパートの一室を見つけ、鍵を勝手に開けて入った。
食料も適当な民家にピクシーを潜り込ませて確保してある。
また日が暮れたら、まずは軍関係の庁舎を当たるか。
念のために符丁を街に残してエージェントに接触出来ないか試す必要もある。
やる事は山積みだ。
そこまで考えて、横になった。
◇
室長からもらったジャケットを着、そしてその上から薄手の黒いマントで全身を覆った。
夜の街、その暗がりに身を潜め、ピクシーで先を探りながら進んで行く。
3日ほど調べて回って、ひとつ、いかにも怪しい施設を見つけていた。
そこへと向かって進んで行く。
相変わらず、街の中を回る兵の数は多い。
兵を避けるように迂回し、やっと辿り着いたのは周囲を柵で覆われた研究所のひとつだった。
すぐそばの建物の影で、入り口を窺うと案の定、警戒の目が厳しい。
ふたりの兵が番をしている。
それだけじゃなく、柵沿いに回る兵の姿もある。
中にも監視の目があるようだ。
正面から入るのはもちろん、適当な裏から入るというのも難しそうだ。
影のように付き従っているマイアをちらりとみた。
彼女も、今は全身を黒いマントですっぽりと覆っている。
一度、研究所から離れていき、適当なアパートの中へと侵入した。
3階建ての普通のアパートだ。
そのまま進んで行き、屋上へと向かう。
念のために、扉をわずかに開け、外を確認した。
特にそこには異変は無い。
屋上へと出ると、すぐに研究所のある方角へと向かう。
屋上の縁へと出ると、マイアにマントを脱がせ、俺を抱えさせた。
そしてそのまま、縁の外へと足を踏み出させる。
一瞬の落下感。
そして、すぐにそれは上昇へと変わる。
マイアが羽ばたく度に、力強く空へと舞い上がっていく。
マイアの背のコウモリのそれにも似た翼は決して大きくは無く、ともすれば華奢にすら見える。
しかし、俺ひとり抱えていても、全く問題なく進んで行った。
そのまま空高く舞い上がり、研究所へと向かい、そのまま研究所の屋根の上へと降り立つ。
地上には呆れる程の警戒があったのに、上からの侵入は想定していないのか、まるで警戒がなされていない。
まぬけな事だ。
それこそ、金星門から直接、ここに降り立ったエージェントだっていたかもしれない。
いくら警戒の目が向いていないとは言え、のんびりしていられる余裕は無い。
再びマイアにマントを被せ、手近な窓の鍵をこじ開けて侵入した。
外を厳重に警戒しているからか、中の警戒は意外にそうでもなかった。
とは言え、外と比べれば、と言うだけで、中にもそれなりの数の兵が歩き回っている。
ピクシーを先行させ、通路の辻に至る度に確認させ、いくつかの部屋を探って回った。
その結果、分かったのは、ここはどうやらエーテルの精製、それも高濃度のそれを大量につくり出すための研究施設のようだった。
エーテルなんて今時、特別珍しいものでもない。
一般家庭にも普及しているような生活魔術装置、それこそ明かりだったり、冷却器だったり、水道設備だったりの動力源として供給されている。
今いるのは3階だったが、1階、2階部分をくり抜いて、そのまま巨大な精製装置が置かれているらしい。
つまりはただのプラント。
ハズレだ。
何があるのか分かってしまえば、わざわざ実物を見に行く必要は無い。
侵入した窓へと戻り、侵入した形跡を最小限に留めて外へと出ると、そのまま飛び去った。
◇
プラントを調べた翌日からの調査はあまりうまくいかなかった。
いくつかの軍の庁舎や、監獄など、消息不明のエージェントについて調べてみたものの、あまり手応えは無い。
何よりも、これほどの緊張状態をいつから続けているのかと呆れるほどに、どこも病的な厳重警戒だった。
おかげで1週間を無駄に潰してしまった。
大規模破壊魔術の情報も、何も掴めていない。
人を捕らえて尋問するのを後回しにしていたためでもある
兵力がただのひとりである俺に強攻策は取れない。
例えどこにそれがあるという事がつかめたとしても、相手にそれを知られるまでの僅かな時間で情報を入手しなければ、自由に動ける余地は本当に僅かになってしまう。
兵が捕らえられ、尋問されたと知られれば警戒は尚更強まる。
これ以上、警戒が強まる事を想像するだけでうんざりした。
俺の知らない所で別の誰かが潜り込んでいる様子は無い。
ポラリスの誰が俺を推薦したのかは分からないが、他にも潜入している誰かがいるのではないかとちらりと期待していた。
しかし、その様子は皆無だ。
あの謎の女を除いて、だが。
念のために街中に残した符丁、それにもこれまでの所、反応は無い。
もしかすると、最初からあまり期待はされていなかったのかもしれなかった。
エージェントがすべて捕らえられるような状況の中でも強引に動けるようにという事で、戦う実力を持ったレギュラーを差し向けたのだろうという事は分からないでも無い。
ただし、ひとりで出来る事なんてこの状況下では本当に僅かだ。
ひとまず潜入させておいて、遊ばせている間に多少の情報収集を。
実際の侵攻作戦が始まったら、その時に別の作戦を言い渡す。
そういうつもりだろうか。
愚痴を言いたくなっていたが、今回もインカムの使用は厳禁だ。
期限が来ればその限りではなかったが。
正直、打つ手が無い。
何もせずとも期限は迫る。
エージェントの事はもう諦めて、大規模魔術の情報に絞るべきだろう。
もはやこの街のどこかでエージェントが生きているとは思えない。
生きていれば、必ず痕跡が残るはずだ。
それが何ひとつ無い以上、死んでいると判断するのが妥当だろう。
時が経てば経つ程、無理な作戦をしなければならなくなるのは明白だった。
隠れ家から昼過ぎには起き出し、人通りにまぎれて食料を探しに出た。
マイアは隠れ家のベッドの下に放り込んである。
彼女には食料はいらない。
ポラリスによって調整された結果、エーテルのみで活動出来るようになっている。そのために、エーテルを調達する必要はあったが。
夜にはゴーストタウンかと見間違える通りも、昼になればそれなりに大勢の人が動き回っている。
兵の数も多い。
少しでも怪しい動きをすれば、すぐに捕らえられかねない。
もはや慣れ切った自然さで高くピクシーを飛ばし、時折視界をピクシーと切り替えながら、なるべく兵のいない通りを選んで街を進んだ。
やっとの事で、1軒の食堂の前に出たので、入って適当な食事を頼む。
すると、空いていた対面に腰を下ろす者があった。
「久しぶり、ってほどでもないわね。調子はどう?」
これがポラリスのエージェントだったらどれだけ助かっただろう。
しかし、座ったのはメアリだった。
その格好は街に溶け込むようになんて事のない普通の服装だ。
ただし、その金色の頭には目立つのを嫌ってか、スカーフが巻かれていた。
「すぐにでもここの兵にあんたを突き出したいんだが」
軽口を言うと、相手も応戦してきた。
「そんな事をしたらあなたも捕まるわよ。あなたのその目は怪し過ぎるし」
片目を眼帯で隠し、目つきも決して良くはない。
髪色はさすがに周囲に合わせて、染めてある。
「俺は腹が減っているんだ。頼むから食ってる間だけでもおとなしくしていてくれ」
どうせ騒ぎを起こすなら、それらしい研究施設あたりで起こしてそのまま侵入した方が余程マシだ。
運ばれてきたスープとパンをもそもそと口に運ぶ。
既に食事は取った後なのか、メアリは手にコーヒーカップを握っていた。
「さすがのデッドアイでも、今回はあまりうまくいってないのね」
「何でそう思う?って聞くだけ無駄か」
街の警備体制に変化は無い。
特に騒ぎも起きていない。
そこから判断したのだろう。
口にせずに、心の内で言葉にする。
元々こういうのはエージェントの仕事だ。
壊せ、殺せと言うのならともかく、探れ、ではな。
潜入系の作戦には確かに何度か関わっている。
しかし、そのいずれもが最終目標は殺せ、壊せ、だ。
いざとなれば強行突破で事を成す。
探れ、の場合だと、強行してそこがハズレだったら目も当てられない。
確実にここだ、と確信出来る何かが無ければ動けない。
エージェントのいない現状ではそれも難しい。
食べる手を止め、目の前に座る女を見た。
本当に、この女が全員皆殺しにしているのではないだろうか?
一度、気安い雰囲気を作ってしまっただけに、そして今なおその雰囲気で話しかけてくるだけに、なかなか敵意を自らに呼び起こしにくいが、この女は味方などでは断じて無い。
「ん?なに?」
「ウチのエージェントをさっぱり見かけないんだが、何かその理由を知ってるか?」
考えるのも面倒になって、率直に尋ねた。
これで相手が敵国のスパイなら、あまりにも間抜け過ぎる対応だ。
それでも、このまま何もせずに時間を潰すのよりは余程マシに思えた。
たまには作戦を失敗する事もある。
それにしたって多少の言い訳の余地くらいは残しておきたい。
目の前に知ってそうな女がいるのなら、聞いておいて損は無いはずだ。
そう無理矢理に納得した。
「ああー、そうね。既に大方が捕縛、処刑されたみたいね。ご愁傷様。私がちょこっと細工してなかったらあの廃墟の情報も漏れて、来て早々に敵兵がいっぱいって事になりかねなかったのよ?」
悪戯げに笑って続ける。
「ひとり、ふたりは逃げ延びたけど、その内ひとりは私が捕まえて情報を搾り取った後、適当に放置したからねぇ。どこか深く潜ったのか、それとも既に死んじゃったのか、そこまでは知らないわ」
さらりと告げられた。
聞いていて、思わず口が間抜けに開いてしまった。
それを閉じ、視線に力を込める。
「なによ。睨まれても困るんだけど。親切に教えてあげたのに」
「……どーも」
知りたかった情報は知れた。
あっけなく。
嘘を言っている様子は無い。
仮に嘘でも、それでリードされる方向は、俺が元々考えていたエージェントの事はもう放っておこうというそれそのものだ。
瞬時にわき上がった様々な考えをスープと共に飲み干す。
エージェントの事はもう良い。
ならば後は魔術の方の調査だけだ。
コーヒーを飲み終えたのか、メアリがカップをテーブルの上へと置いた。
俺も食べ終えたので、ここにこれ以上いる理由は無い。
「じゃあな」
「ああ、待ってよ。今日は顔を見るのが目的じゃないの」
立ち上がりかけて、再び腰掛ける。
店の外に兵の姿がちらりと見えた。
今出て行くのは得策じゃない。
メアリを見ると、微笑んだ。
女が笑うのを見ると、つい嫌な予感が頭をよぎる。
こうなったのは誰のせいなんだか。
「ねえ、デートしない?」
「……この街に、そんなに良い観光名所があったか?」
一体、何の冗談なのか、突拍子も無い事をメアリは言う。
お互いに目的を持って潜入していると言うのに、どういう神経をしているのだか。
信じられない、と言う代わりに呆れた顔を差し向けた。
メアリは微笑んだまま続ける。
「そうね、きっとあなたは喜ぶわ。何しろあなたが今、一番行きたい所なんだから」
口元に手を当て、メアリがテーブルに手を突き、顔をこちらに近づけた。
それに合わせるのは気が向かなかったが、放っておくのも変に目立つ。
仕方なしに耳を寄せた。
メアリがそっと耳打ちしてきたその場所は、確かに俺が今、一番行きたい場所だった。
高濃度のエーテルは体に毒です。
飲むな危険。あと、油じゃないんでそのまんまじゃ燃えないです。
魔術的なコードに変換するか、そのための装置を取り付けるかしないと×。