理由のない代償
片目を隠した男は、実に不思議な男だ。
狂ってはいない、普通の人間だが、果たして信じて良いのだろうか。
男は「生きる理由を探せ」と言った、だが、俺はその言葉に従わなかった。何より、俺にはもう何もないのだ。何もないのだから探しても見つかる筈が無い。
だが、俺は母を失った時に聴いた不思議な歌を思い出していた。あれは優しく不思議な歌だが、同時に俺には恐ろしくも思えた。だからだろう、俺は歌を、無理矢理記憶から消そうとした。
それに、男を信用出来なかった俺には、男の言葉は羽のように軽く、俺の心には響かなかった。
それでも母を失い、男に出会った夜は明ける。だが明けてもここは薄暗い。
灰色の壁に囲まれ俺はゆっくりと目を覚ました。
男は居ない。
帰ってくるのか、来ないのか、俺には分からない。だが、来るかどうか分からない男を待ち続ける事は俺には出来なかった。
待つという事自体が、可笑しいのである。
見ず知らずの、気紛れな男の帰りを待ったところで無意味だ。行くあても、理由もないが、気付くと俺は建物を出ていた。
灰色の分厚い雲が、光りを遮り、街は薄暗い。建物は崩れ、まるで爆撃があった後のようだ。
「……ん?」
それでも俺は、崩れた建物のそばに僅かな緑を見付け、近寄った。
そこには、緑に紛れ紫色の花が咲いている。
俺にはその花の名前は、分からない。だが、俺はその花から目が離せなかった。
だからだろう。背後に立っている人物に俺は、殴られるまで気が付かなかった。
意識が、深い闇に溶けていく。
次に、俺が目を覚ますと、目の前に昨日の男とは違い、瞳を欲望の光にギラギラ光らせた、獣じみた男達に囲まれていた。
俺は腕を縛られ、脚をひろげた状態で固定されている。衣服は何一つ身に纏っていない。動くことも出来ない。
俺は、こんな状況にも関わらず、冷静に昨夜の男の言葉を思い出していた。
――女は滅多にお目にかかれない。
欲を昂らせた男達が近寄って来る。その太く、ごつごつとした指先が俺に触れた。
逃れられない快楽と、屈辱の波に俺の意識は浚われていった。
◇◇◇
「さあ、犬……此方においで」
犬とは、俺の事だ。俺は四つん這いで歩き、男に近寄る。
俺の名は、何だったか、もう思い出せない。
「良い子だ、今日も可愛がってやるよ」
複数の手が、俺の体を撫で回し始める。俺は何も思い出せない。
俺の名は、何だ。
いくら問いかけても、答えは見付からない。俺はもう、何も考えられなかった。
これは、生きる理由を探さなかった、代償なのだろうか。
俺は今日も、快楽の波に身を委ね、ただ生きている。
自分の名も分からないまま。