厄病女神とうわばみ
基本的に俺は毎日、遅くとも1時には寝て、8時には起きるようにしている。さして、大層な理由はない。何となく、そう定めているだけだ。
それは絹坂が来ようが来まいが、関係ないし、変える必要もなく、変えるつもりもない。
ただ、六畳の方の部屋に布団が一組敷かれて、深夜3時までラジオが流れているだけだ。
「お陰で少し寝不足だ」
「何がですかー?」
絹坂はせっせと味付け海苔でご飯を巻きながら首を傾げた。
「何がじゃない。貴様が夜中までラジオを流しっぱなしにしているから、俺は寝不足なんだ」
今日も朝から俺は不機嫌だ。原因は寝不足。これ以上でもなければこれ以下でもない。俺は寝付きが悪い性分で、何か音がしているとてきめんに眠れなくなるのだ。
「あー。ラジオ聞きながら勉強してたんです」
こいつはマジに勉強をしていたらしい。うちの大学に行くってのは本気だったのか。
「勉強はいいが、ラジオはうるさい」
「昨日、昼まで寝てたからいいじゃないですかー?」
「阿呆。あの日は、夜寝てないんだ。昼寝じゃない」
「それって、朝まで飲んでからですよねー? 自業自得じゃないですかー」
むむ。それもそうだが。
「あれだって、止むに止まれぬ事情があったのだ」
「事情ですかー?」
絹坂は信じていないらしい。
「嘘ではない」
「ふーん…。事情ってどんな事情なんですかー?」
俺が真面目な顔で言い切ると、絹坂の方も少しは信じる気になったようだ。絹坂は長いこと俺の周りをうろちょろしていたので、今では俺の言動から本心を推し測れるらしい。伊達に高校一の凸凹名コンビと呼ばれていたわけではないのだ。
「昨日、用があって大学に行ってな。その帰り運悪く面倒臭い先輩に捕まったのだ」
「面倒臭い先輩ですか?」
「うむ。三度の飯よりも酒が好きなくせに一人じゃ寂しくて酒が飲めんとほざく奴だ。その上、酒癖が悪い」
その先輩の酒豪っぷりたるや、尋常ではない。まさにザルと称すに足る。うわばみの化身かもしれない。
昨年秋の大学祭において行われた大酒飲み大会でのことである。勿論、先輩はその大会に喜び勇んで出場なさり、並み居る強豪を打ち破って一位を手にした。
そして、会場にいた誰もがアルコールの含まれるものを忌避する中、大喜びで優勝商品のビール樽に頬擦りしていたほどである。そのビール樽は一週間で消失し、今はうわばみ先輩の部屋のちょっとでかい椅子になっている。
「あー、凄い迷惑ですねー」
「だろー?」
俺たちはひとしきり頷き合った。
ここで、そのうわばみ先輩の迷惑っぷりを述べたり、勉強を教えてやったりしていれば、特に何もない平和な夏休みの一日であっただろう。
だろう。と言うのだから、そうではなかったのだ。
特に何もしていなくても厄介事を招き入れるのが厄病女神というものだ。
朝食を食べ終え、食器を片付けていると、そいつはやって来た。ある意味、厄病女神よりも面倒臭い。
「やあっ! 後輩よ。おはよう」
勝手にドアを開けて勝手にどかどか上がり込んで来た女性は例の酒豪のうわばみ先輩こと木暮二十日。
二十日先輩はセミロングの黒髪、きらきら輝く大きな瞳、170cm少しの長身で、とても立派なスタイルを誇る御仁である。いつも簡単な格好をしていて、今もノースリーブの真っ黒いシャツに短パンという超軽装。
まだ起きたばかりだったのでドアは施錠されたままだったが、彼女にそんなことは関係ない。何故ならば、ここは彼女の物だからだ。
このアパート、木暮壮の大家と管理人は彼女なのだ。全ての部屋の合鍵を彼女は手にしている。
二十日先輩を見て俺は深くため息を吐いた。
「元気か? 酒は飲めるか?」
俺の溜息を無視して、先輩はにこにこ笑いながら聞いてきた。
「飲めるかって、昨日、散々、飲んだばっかじゃないですか。お陰で全く元気じゃありませんよ」
「何だ何だ。軟弱だなあ」
二十日先輩はどかどかと部屋に入ってきて冷蔵庫を物色しながら言った。
昨日、酔い潰れてその軟弱者にここまで担がせたのは何処のどいつだと思ってるんだ?
「お酒ないなー」
先輩は冷蔵庫の中を漁りながら不満そうに言った。おそらく、ここに来なさったのは家の酒が切れたからに違いない。
「コップはどれでもいい?」
「いいですよ」
仕方ないといった顔でミス酒豪は麦茶を適当なコップに注ぎ、ぐいぐいと勢いよく飲み干しながら居間に向かい、
「…んぐ…んぐ……ん、ぶっ!」
勢いよく噴き出した。
「何やってるんですか!?」
「げほっげほっ!」
当然、部屋を汚された部屋の主として怒鳴りつけるが、二十日先輩は聞いていない。咽て咳をしながら指差す。
「けほっこほ。あの子誰さ?」
彼女が指差す先には絹坂がちょこんと座って勉強中だ。
「後輩ですが」
「後輩? 見たことないけど?」
「高校の後輩です。今、高校三年生」
「女子高生!」
二十日先輩は何故か悲鳴を上げるように叫んだ。
「おいおい! ぴっちぴちの女子高生を部屋に連れ込むなんて! 君は変質者か!?」
先輩はかなり嬉しそうな顔で大騒ぎする。
「人を変質者扱いする前に床を拭いてくれ」
と、言っても聞きゃしないので、俺は渋々と自分で床を拭く。
「おい! 君は変態か!?」
せっせと床拭きをする俺の肩を掴んで二十日先輩はそんなことを喚く。
「変態じゃありませんよ!」
「じゃあ、あれは何だよ? さらってきたんじゃないのか?」
呆れて言葉も出ん。
「先輩、誰すか?」
絹坂が口を挟んできた。
「彼女?」
いつかの時のように首を傾げて聞いてくる。
「あはは。あたしはこいつの彼女じゃないよ」
二十日先輩が絹坂の隣に腰を下ろして答える。
「先輩だ。先輩。先輩にしてこのアパートの大家。で、酒飲み仲間。あ、名前は二十日ね。二十日って書くのよ。二十日生まれだから」
そうだったのか。初めて知った。しかし、親も適当な名前を付けるなあ。
「どうも。絹坂衣です。先輩には夏休み中、お世話になるんです」
絹坂はぺこりと頭を下げた。
二十日先輩は暫くじーっと絹坂を見つめ、
「えいや」
ほっぺをぷにぷにと触った。
「うわー! 柔らけー!」
二十日先輩は小学生のように歓声を上げた。絹坂はされるがままに任せている。
余程、気に入ったらしく先輩はぷにぷにといつまでも触っている。俺が食器片付けを済ませるまでだから、十分ほどだろうか。やりすぎだろ。
「うわー、これ、いいなー。欲しーなー」
遂にはそんなことまで言い出した。手に入れてどうするつもりだ?
「ダメです」
そりゃ誰だってほっぺた取られたないわな。瘤取り爺さんじゃあるまいし。
「これは先輩のなんです」
「「はぁっ!?」」
俺と二十日先輩は声を合わせて叫んだ。
「あはははははっ! これ、お前のなんか!?」
「絹坂! 貴様、いきなり、訳分かんないことほざくな!?」
二十日先輩爆笑。俺激怒。
「訳分かんないことじゃないですよー。これ、先輩のじゃないですかー」
「何でだ!?」
「先輩好きそうだから、あげたんですよー」
絹坂は更に意味不明なことを言い出す。こいつは何を言っているんだ!?
「貰った覚えがねえぞ!」
「あれ? 言ってませんでしたっけー?」
絹坂は首を傾げる。
「じゃあ、今、言います。先輩、ほっぺあげますよー」
そう言ってほっぺたを俺に近付ける。
「いらんがな!」
そう怒鳴ると、絹坂はびっくりした顔で俺を見た。珍しく目が全開に開かれている。
「えー。先輩、これ、好きじゃないですかー? いっつも触ってましたしー」
「だからって頬を俺に寄越すってどういう発想だ!?」
「喜んでくれると思ったのにー」
絹坂は落ち込んだような顔で呟きつつ、ノートに「残念!」と書いた。
「お前は俺を何だと思ってるんだ!?」
俺たちが訳の分からない論争を繰り広げている間、二十日先輩は終始爆笑していた。
「あはははははっ! 君たち、良いコンビだねー! お笑いやったらいいよ!」
「先輩、お笑いですって」
「やらん!」
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