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厄病女神、先輩を労わる

 俺は暫くの間、ドアに向かって頭を下げ続けた。

 空はすっかり明るくなり、どこかで雀がピーチクパーチク鳴いている。うるせえ。黙れ。丸焼きにしてやるぞ。糞忌々しい。

 ところで、何故、虚しく屋外に放逐されている俺がアパートの大家なり管理人なりに助けを求めにいかないか疑問に思っている方もおられるかもしれない。

 普通のアパートならば大家なり管理人なりが予備の鍵を持っていて、今の俺のように困った状況に陥った住人を助けてくれるはずだ。

 しかし、うちのアパートの大家は違う。今、俺が大家の住んでる一階一号室に行って土下座したとしても、大家の奴は俺を無視するだろう。というか、起きてこないだろう。そういう奴なのだ。サービス業の端くれにも置けん奴だ。

 しかし、何という悲劇だ。俺が絹坂に頭を下げねばならんとは。自慢じゃないが、俺はプライドだけは人の数倍の大きさを持っている。人に頭を下げるなんて卑屈な行為は人生で数えるほどしかしていない。

 その俺が頭を下げているのだ。親しい奴が見れば驚くことだろう。

 それだけ、俺は追い詰められているのだ。

「先輩ー。夏だから寒くないんじゃないですかー?」

「すまん。やっぱり早朝は冷える」

 だから、腹にも頭にも悪いのだ。あー、腹はぐるぐる頭はがんがん。

「頼む。入れてくれ」

「…夏休み中、お邪魔しますね」

「………相分かった」

 遂に俺は降伏した。気分は降伏文書に調印する降伏国代表だ。言い過ぎなのは分かっている。しかし、そんな気分なのだ。理解してくれ。

 ガチャリと鍵が解除され、ドアが開いた。

「さあさあ、先輩、どうぞ中に入って下さい。わぁ、顔色悪いですよー。もう真っ青じゃないですかー。お水は如何ですかー?」

 絹坂は弱りきった俺の姿を見た途端に心配そうに声を掛け、丁寧に俺を招き入れた。思わず涙しそうになったが事の根源はこいつだということを思い出して、俺は一層気分を落ち込ませた。どうやら精神まで脆弱になっているらしい。

「シャワーを浴びてはどーですか? それとももう寝ます? それか何か食べます?」

「いや、ちょっと退け」

 俺は水を一杯飲んでから、トイレに入った。

 このアパートの便所は当然水洗式洋式便所だ。生憎と、ウォシュレットはないが、そもそも、そんなものを俺は使わないので関係ない。

 俺はおもむろに陶器製便所を抱え込むようにして体を寄せた。

 そして、吐いた。滝のように。色々と。

「あー? 何か緑のが…。ああ、枝豆か…。そのまんまだなー。ちゃんと噛んで食わんと消化に悪いだろー」

 そんなどーでもいいことを呟いてみたりして。頭がおかしくなっているらしい。


「先輩、息臭いですよー」

 トイレから出ると絹坂が顔をしかめて言った。

 そりゃそうだ。ただでさえ、酒臭かったのが反吐のせいで更に臭いわ。

「はい、水と酔い止め薬です」

 勝手に薬を探し出してきたことを咎めようかとも思ったが、今はありがたかったので大人しく水と薬を飲み込んだ。

「これ、飲んだ後も効くのか?」

「さあ? でも、酔い止め系それしかなかったですよー」

 そう言って絹坂はぽてぽて歩いて居間に戻る。ちゃっかり荷物も入れられている。

 俺の居住空間はキッチン兼ダイニング兼リビングになっている六畳と寝室になっている四畳の二部屋から成っている。

 男大学生一人暮らしの部屋を詳しく描写しても誰も喜ぶことなどあるべくもないことは容易に理解できる為、俺の部屋の詳細な描写は割愛させて頂く。

 が、しかし、俺の部屋をそんじょそこらの野郎どもの部屋と一緒にされては甚だ遺憾だ。

 想像してみよう。男大学生一人暮らしの部屋を……。うわ、台所汚っ! おい、布団畳めよ! カビ生えてるし! このキノコ何ー! というふうな阿鼻叫喚地獄絵図が容易に思い浮かべられるであろう。

 だが、俺は違う。

「先輩の部屋って綺麗ですねー。うちの家より片付いてるんじゃないですかねー」

 絹坂が感心するのも無理はない。

 そもそも、健全な肉体に健全な魂は宿るというが、俺に言わせれば健全な部屋にこそ健全な人間はあるのだ。部屋綺麗ならば人格綺麗。大器な人物の部屋は自ずから整理整頓がなされるに違いないのだ。

「先輩、虫嫌いですからねー。汚くしたら虫でそうで恐いんでしょー?」

「……んなわけあるか。いつ、俺が虫嫌いだと言った?」

「だって、先輩、組織で行った夏休みの合宿旅行で常に殺虫剤と防虫剤を吹き散らしてたじゃないですかー」

「あれは、あれだ。あそこの森には危険な毒を持つ蛾が生息していてだな? それに昨今の蚊は危険な疫病を保持している可能性が…」

「先輩先輩。ゴのつく黒い虫が!」

「何ぃっ! まさか!」

 俺は素早く殺虫剤を手に取り、絹坂の指差す方向に噴射した。シュッと一瞬如きでは生温い。じっくり三十秒噴射し続ける。

「死ね! 死に去れ! 絹坂! 死んだ虫を捨ててはくれないか? 触りたくないんだ」

「はいはい」

 絹坂はいい感じの微笑を浮かべながら、その黒いものを掴んだ。

「直で触れるなんて恐ろしい奴!」

 もしも、うっかり、あいつを生で手で触ってしまったら、俺は発狂するな。間違いなく。

「あははー。これリモコンですよー。初めて先輩を騙せましたよー」

「……………」

「いたた、叩かないでくださいよー。あれ? 先輩、涙目? 涙目でぽかぽか叩いてくるなんて、どーゆー萌えキャラですか?」

「うるさいっ!」


「もう疲れたよ……」

「パトラッシュ」

「誰が某アニメの感動ラストを真似しろと言った?」

 絹坂は楽しそうにニヤニヤと笑っている。

「とにかく疲れているんだ。頼むから寝かせてくれ」

 俺はベッドに横になりながら呻くように言った。

「こっちも疲れてますよー。長旅してやっと来たら先輩留守で一晩鉄廊下の上で過ごしたんですからー」

 そうかい。俺には全然元気に見えたが気のせいか?

「とにかく。俺は寝る。死んだように寝る。邪魔せんでくれ」

「子守唄歌いましょうか? ねーむれーねーむれーよーいこーのなんとかー」

「それが邪魔だってんだ……。てか、歌詞覚えてないくせに歌うな」

 結局、俺が寝むれたのは一時間くらいして絹坂が俺の上に乗っかったまま寝入ってからだった。


先輩と厄病女神はようやく希望を叶えたのでした。

ところで、私も昨日から具合が悪いです。先輩の具合の悪さがうつったのかもしれません。

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