厄病女神一行旅立つ
「おーい! 行くよー!」
階下から無駄にでかくよく通る二十日先輩の大声が聞こえてきた。近所迷惑ではないだろうか? 毎夜、大騒ぎしているから今更か。
「さっ! 先輩、行きましょう! いざ、めくるめく伊豆の旅です!」
伊豆でめくるめくの形容詞は如何なものだ?
俺は絹坂に引っ張られるように部屋を出た。きちんとガスの元栓、窓、ドアの鍵をチェックした。よし。完璧。
サングラスをかけ、つばの広い帽子をかぶり、軍手をつけ、上着は長袖シャツ。下はいつも通りジーンズ。顔には日焼け止めを塗ってある。体には虫除けスプレーを噴出してある。よし、完璧。
荷物も整っている。暇つぶし用の本も持った。酔い止め、胃腸薬、頭痛薬も揃っている。蚊取り線香も用意してある。殺虫剤は二本ある。田舎は虫がよく出るからな。二本でも足りんかもしれん。全て完璧だ。
「先輩って、几帳面ですよねー?」
絹坂が感心したような呆れたような顔と口調で言った。
「几帳面で何が悪い?」
「んー。悪くはないですけどー」
「悪くないんなら言うな」
俺は不機嫌に呟いてから、ドアの鍵が閉まっているか、もう一度確認した。よし。大丈夫。
「ん?」
視線を感じて、その方を見ると、我が家の隣人で漫画家の柚子が手にご飯茶碗と箸を持って、阿呆みたいな顔で突っ立っていた。何やってんだ?
「どっか行っちゃうの?」
何故か彼は悲しげに言った。
「はいー。伊豆に旅行に行くんですー」
「銀行強盗じゃないんだ……」
まあ、帽子にサングラスに軍手という格好は、見ようによっては強盗にも見えよう。
「そっか。旅行か……。その間、僕は何を食べて生きれば?」
柚子は小首傾げて尋ねた。その仕草止めろ。男がやっていいもんじゃない。女でもやって良い奴と悪い奴に判れる高度な技だぞ。
「勝手に何でも食えば良いではないか。俺は貴様の飯炊き係ではない」
そう言ってやると柚子は悲しげに俯いた。そんなことしてもダメだ。俺はチワワのうるうる目にも負けない冷血非情人間と呼ばれた男なのだ。雨の日にべらぼー可愛いチワワが打ち捨てられていても何にも感じずに無視できる自信がある。
「あ、そだ」
柚子は突然、呟くと、自分のゴミ部屋に舞い戻った。
「ちょっと三分くらい待ってて!」
部屋の中からそう叫ばれた。何だってんだ。出発前だというのに迷惑なことだ。
「何やってんのー!? まだー!?」
下から二十日先輩に叫ばれる。
「カップラーメンができるくらい待ってくださいー!」
絹坂が叫ぶと、暫くして、また大声が聞こえてきた。
「カップラーメン食べるのー!?」
食うわけねーだろ。
カップラーメンが出来上がるまで待っていると、柚子が黴が生えているような古臭い旅行鞄を持って現れた。
「僕も行く」
あっけらかんと言いやがった。
「行くって、伊豆にか? 仕事は良いのか?」
「うん、一応、すぐやるのは無いんだー。大体の仕事は時間的に余裕あるし。原稿料も入ったし」
柚子はすっかり旅行に行く気だ。何だ。あっさり同行者が増えちまったぞ。まあ、一人くらい増えても悪くはないし、決めるのは俺じゃあない。今回の旅行において、俺は完全なるオマケだ。渋々付いて行くだけだしな。
それよりも何よりも。
「おい、行くなら、ドアの鍵を閉めろよ」
「えー? 面倒臭いから良いよー」
何て無用心な奴だ。お前は田舎の婆ちゃんか? ここは都会で、田舎よりも治安は悪いんだぞ? 鍵閉めてても盗みが入る昨今だというのに。
「鍵出して鍵穴にぶちこんでひねるだけだ。何が難しいのだ?」
「あの部屋から鍵を探すのが面倒臭い」
柚子はそんなことを言い出した。お前は何年前から鍵を閉めていないんだ?
「まあ、細かいことは気にしない。それとも、あの中から、鍵を探してくれるー?」
俺は少しドアを開けて例の現代日本の負の巣窟を覗き見た。あの有象無象の中から一つの小さな鍵を探し出す……無理に決まっておろう。
「無理なことはいつまでやっても無理だから、最初からやらないに限るよー」
何だか、ダメっぽいことを言いながら階段を下りていく柚子。いつもなら、この辺で編集の松永さんが現れて、柚子をぼっこぼこにしながら罵倒し、漫画を描かせるところであるが、今は本当に、差し迫った仕事はないらしく、松永さんはついぞ現れなかった。残念。
「あらー? 柚子君も行くの?」
「ダメですか?」
「良い良いよ。おいでおいで。皆で行こーおぅ!」
二十日先輩はそんな調子ですぐに柚子の同行を許可した。単純な人だ。
その単純二十日先輩は膝丈くらいのジーンズにノースリーブの黒シャツに中型の鞄という超軽装だ。旅行に行く格好とは思えん。
そして、何故か、
「や、やあ、おはよう」
「……よう」
旅装の京島姉弟の姿もそこにはあった。
二人とも服装はいつもとさして変わらない上は半袖シャツ。下はジーンズ。京島弟のジーンズは何故だか穴だらけだが。ファッションなのか?
「お、おはよう。何故に?」
俺は怪訝な表情で挨拶した。何故か、いきなり京島姉弟も旅行参加メンバーに入っていれば、顔が怪訝にもなろうというものだ。
「うー……」
そして、何でか絹坂は警戒するように京島を睨みながら俺の腕にしがみ付いている。おいおい、乳が腕に当たるぞ。あんまり無いけど。まな板に少し立派な毛が生えた程度だ。
「……先輩。何か失礼なこと考えてません?」
絹坂がじと目で俺を見上げた。
「いや、全然」
俺は思いっきりしらばっくれる。これが一番の対策だ。
しかし、妙な時だけ勘が鋭い奴だな。
「いやー。昨日、みやと飯食ったんだけどさー」
二十日先輩が語りだした。ちなみに、みやというのは京島姉のことと思われる。名前が都だからな。
「その時、この子ったら、修学旅行以外に殆ど旅行したことないって言うじゃなーい。そしたら、先輩として旅行くらい連れて行ってあげたいじゃーん?」
じゃーん言われてもなー。
「ついでに弟君まで連れてってあげようというあたし偉い! 偉い私は酒を飲んでもいい!」
何だ。その訳の分からない論法は。
「ダメですよ。今、何時だと思ってんですか?」
「くじら」
「9時ね。しょーもないこと言わんでいいですから」
二十日先輩はぶーたれた顔で黙り込んだ。
「迷惑だったか?」
京島姉は申し訳なさそうな顔で控え目に言った。少しでも俺の首が縦に動いたら即座に回れ右して家にとって帰りそうな感じだ。たぶん、二十日先輩に誘われた時も、遠慮したのだろうが、押し付け的に来る羽目になったのだろう。
「いや、迷惑ではない。京島が来るのは全然嫌じゃないぞ」
「そ、そうか。なら、良かった」
京島はそう言って微かに微笑んだ。何か照れる。
「ほら! 先輩。行きますよー!」
いきなり、絹坂に引っ張られた。止めれ。転びそうだろ。
「さ! まずは駅まで行くぞー!」
「「おー!」」
二十日先輩が一人テンション高く叫び、絹坂と柚子だけが唱和した。
うーむ。マイペースで俺にべったりな厄病女神と、行動力溢れすぎる酒豪先輩。無愛想でクールな京島姉。今風を気取ってるが根は純粋で真面目な東。ダメなぼんくら漫画家という変てこなメンバーな温泉旅行か。どんなパーティーだ?
「やれやれ。変人ばっかじゃ」
俺は溜息と共に呟いた。
「見た目には先輩が一番怪しいですよー」
む。確かに。
楽しい旅行の始まりです。
明日も更新……できたら、良いなと思います。