厄病女神寄生す
忘れていた頭痛がぶり返してきて、部屋に帰って薬を飲もうと思い、振り返ると絹坂が部屋に入ったところだった。
「貴様! 何やってやがる!」
部屋に入りかけていた絹坂の腕を思いっきり引っ張る。
「うわー。外に出ちゃいますよー。寒いよー」
絹坂はドアにしがみ付いて抵抗する。
「今は夏だ! 寒いわけあるか!」
「でもでも夜はやっぱり肌寒いですよー」
「それは貴様が半袖だからじゃねえのか!」
絹坂は黙った。暫く二人で引っ張り合いをした。
「ていうか、何で、ドア開いてるんだ!?」
「さっき、京島さんを見送ってる隙に鍵を取りましたー」
「このスリめ!」
俺はすぐさま絹坂を外に放逐し、我が安住の部屋に押し篭り、頭痛薬を飲んでぐっすり寝入る気満々であった。
己以外に頼る者無き大都会へやってきたうら若き乙女な後輩を治安悪化著しい大都会の路上に放置してむざむざ安眠を貪るとは鬼畜にも劣る所業と俺を非難するのは結構だ。大いに結構。
この時、俺はいち早く、この面倒臭い厄病女神を放り投げてぬくぬくとベッドの上で夢の世界へ旅立ちたかったのだ。そうしなければ俺の消化器官は何かを逆流させそうだったし、総合指令器官たる脳もがんがんと痛んでしょうがないのだ。
我が身の安寧の為ならば後輩の一人や二人の犠牲は致し方あるまい。
俺は本気で絹坂を放り出すことに全力を注いだ。
しかし、平素より成るべくエネルギーを消費しないように筋肉の活動を控えていたにも関わらず、いざ出番だ。筋肉よ。働け。などと云うのは無理な話だったのだ。
俺は力を入れ過ぎて、うっかりドアから手を離してしまった。
こけそうになって、バランスを崩す俺の前で無情にもドアがバッタンと閉まった。そして、ガチャリと音がした。
嫌な予感がする。
ドアを開けようとするが、さすが鍵。びくともしない。これでは無理矢理押し入ることは不可能だ。さすがだ。日本のほぼ全てのドアに鍵が付けられているだけのことはある。
しかし、治安悪化著しい昨今の日本ではピッキングなる技を駆使する鍵開け泥棒もいるそうである。このピッキングなる技があればこのドアを開けることなど朝飯前だ。
しかし、残念なことに俺はピッキング技術を習得していなかった。無念。
「おいおい。絹坂や」
「何ですか? 先輩ー?」
ドアの向こうから絹坂の間延びした声が聞こえた。
「これはどういうことだ?」
「不可抗力ですー」
不可抗力かー?
「そこは俺の部屋ではないのか?」
「そーですねー」
「何故、そこに貴様がいて、俺が外にいるのだ?」
「運命の女神の悪戯ですよー」
いや、違う。厄病女神の能力に違いない。
そして、その厄病女神は俺の部屋に侵入を果たし、俺を外に放逐していた。
はて? 俺は厄病女神を外に放逐して、己は部屋でぬくぬくするつもりだったのだが、さてさて、今の現状は何だ? すっかり逆じゃないか。
「絹坂や。ドアの鍵を開け、俺を中に入れたまえ」
妙な沈黙が流れた。おい。何だ? この静寂は?
暫しして、声が聞こえた。
「先輩ー」
「何だ?」
「先輩、中に入れてあげたら追い出しませんかー?」
ムカ。何様のつもりだ? そこは俺の部屋だぞ? 家賃払ってんの俺だぞ?
頭の痛さと胸のムカムカ具合と腹のぐるぐる具合が相まって俺は腹が立ってきた。ここは怒ってもいい場面だろう? いいだろう? いいと思う者は挙手せよ! うん、多数だ。
しかししかし、ここで俺がキレて大騒ぎするのは大人気ないことだ。大学二年生にもなって高校生相手に本気で怒るわけにもいくまい。今までは本気で怒っていなかったかどうかなんてことは気にする必要は無い。
大切なのは、今、俺は大人な行動をする必要があるということだ。
「絹坂や。遊びのつもりなら止めろ。俺は具合も機嫌も最悪なんだ。とっとと出て来い。アホたれ」
俺が呼びかけると、ドアの向こうは暫し沈黙。そして、絹坂はこう返してきた。
「それが人にものを頼む態度ですかー?」
ぶち。
「貴様、何様のつもりで、そんな偉そうなことをほざいてやがる!? ふざけたことぬかしてないで、とっととドアを開けろ! いい加減にせんとぬっころすぞ!」
俺は闇金の取立ての如くドアを蹴飛ばしながらがみがみ怒鳴った。
二歳年下の女子高校生相手に大人気ないと思う奴がいたら、俺と今すぐ代われ。俺は貴様の部屋で寝る。何度も言ってるが、マジで頭も腹もヤバいのだ。
「先輩ー」
俺の怒りは十分すぎるほど伝わっているはずなのに絹坂の声にさした変わりは無かった。さすが、今のところ俺が最も数多く怒鳴ったことがある相手だ。
「ちょっと聞きますけどー」
「はぁはぁ、何だ?」
ただでさえ体調が悪かった俺は全力で怒鳴り散らしたせいで余計に弱っていた為、少し落ち着いた心持ちで聞き返す。
何だ何だ? 何が聞きたい? 俺の調子か? 貴様のせいで最悪だぞ。
「コーンフレーク食べていいすか?」
「コーンフレーク食っていいか聞く前にここを開けろ! 糞ボケっ!」
俺は暫くの間、ドアの向こう側に怒鳴り続けた。色々と思いつく限りの罵詈雑言を並べ立ててみたが頭の調子がイマイチだったので普段の半分も出なかったがな。
正確な時間は分からんが、おそらく三十分はドアを蹴ったり怒鳴ったりしていたはずだ。
「先輩ー。もぐもぐ」
すっかり疲れ切って、某ボクシング漫画主人公の最終回の如く白くなっていると、絹坂の声が聞こえた。何か食ってやがる。コーンフレークか?
「牛乳無いんですね。ボリボリ」
絹坂は牛乳なしコーンフレークを食らっているらしい。
この言葉に普段の俺ならば即座にチョップを喰らわせただろうし、そのような暴力的手段に出なくても一分間くらいは怒声を浴びせていただろう。
しかし、俺にはもうそんな力は残されていなかった。
「………ああ、切らしてるんだ……」
力なく答える。
「後で買ってきますよー。駅の方にあったスーパーって九時開店すか?」
こいつはここに住み着くつもりらしい。
「……あっこは十時開店だ…」
言うまでもないことだが、それに徹底抗戦する力も俺には残されていない。何せ拠るべき城が占拠されている現状だ。
それでも、俺は最後の決戦を挑む。それが侍だ。日本男児だ。
「貴様、ここに住み着くつもりか?」
「はいー。とりあえず、夏休み中はお世話になろうかなーっと」
「……家主である俺の許可も得ずにか?」
また不機嫌虫が勢力を盛り返してきた。俺は刺々しく言ってやった。
「さっさと家に帰って親の脛齧ってろ」
「えー。ダメなんですかー?」
不服そうな絹坂の声。きっと頬を膨らませていることだろう。
「当たり前だ。俺がそんなお人好しに見えるか? この馬鹿め。いい加減、ドアを開けろ」
ドアの向こう側から、ぱたぱたと音が聞こえた。遠ざかっていく。少しして戻ってくる。
「先輩先輩」
「何だ?」
「今、冷蔵庫見たらあと三日くらいは立て篭もってられそうです」
「……………絹坂さんや。すまん。中に入れてくれ。寒い。腹に悪い。頭が痛い」
俺はドアに向かって頭を下げた。
初めて感想を頂きました。不覚にも涙が出るほど嬉しくなってしまいました。自分がこんなにも素直だったとは驚きです。