厄病女神と現代日本における負の巣窟
その日も暑かった。まあ、現代日本の夏にあって、暑くない日など無いも同然である。夏は暑くて当然。それは常識だ。
しかし、そうは分かっていても暑いと表現したくなるのが人間というもんだ。
「やれやれ、まったく、阿呆らしいほどに暑い。もう少しくらい涼しくしたって罰は当たらんと思うがね」
俺は昼飯となる予定の素麺を茹でながら、ぶちぶちと日本の気候に文句を言っていた。言ったってしょうがないのは百も承知だ。俺だって、日本の夏を迎えるのはこれでも二十回目なのだから。
未だ飽きずに我が部屋に居候を続けている厄病女神は、居間で数学の勉強中。
素麺が茹で上がるのを虎視眈々と待っていると、ふと、正面に気配を感じた。
前も記述したが、もう一度述べよう。台所は廊下に面していて、暑い日は、そこにある窓は開けっ放しになっている。
「……柚子。プライバシーを守れ」
「…ふぁ? あ、ああ、めんごめんご」
柚子は、あんまり申し訳なさそうな顔でヘリウムくらいに軽い謝罪を口にした。
諸君は忘れているかもしれないが、柚子は俺の隣室に住む危ない感じの漫画を描く漫画家である。
「また腹が減ってんのか? 締め切りはこの前、終わったんじゃなかったか?」
こいつは職業人とはいえ、思いっきり新人ゆえ、薄給かつ多忙の身で、しかも、趣味に馬鹿みたいに金を注ぎ込んでいるので、時期によっては飯を食う金や暇に事欠いている奴だった。
その時期というのは主に締め切り前で、それ以外の時期は何とか生きているはずであった。
「いやねー? 週刊誌に新しい連載を持つことになってねー? そのネームとか何とかで滅茶苦茶忙しいんだー」
と、柚子はヘラヘラ笑いながら言った。お前の様子だけ見てると忙しそうには見えんな。ぱっと見は社会を舐めまくって仕事を探す気もないニート。
「お前、新しい連載持つのか?」
「うん、あ、吹き零れるよー」
俺は酷く怪訝な顔をしながら素麺を茹でている鍋に水をぶち込んだ。
今現在、柚子が連載している作品は拷問、陵辱、殺戮なんでもありの鬼畜漫画だ。よく新人にそんなもんを連載させるもんだと思っていたが、よくそんな奴に次の連載を持たせるもんだ。大会社の考えることは分からん。
「で? 飯を食わせろと?」
「うん、お願い」
こいつはカレーを作ろうとして大量の消し炭を作り出すほど料理が出来ない奴で、いつも外食か弁当、そして、俺の施しで生きている。
「原稿料入ったら三倍返しだぞ」
「献本一冊あげるよ」
「いらん」
いつもしている会話をしつつ、柚子は部屋に上がり込み、俺は茹で上がった素麺を冷水に晒したり何なりをした。しかし、何で、俺は毎度毎度こいつに飯を施してやっているんだろうなー?
「うん、やっぱ、夏は素麺だよねー? 冷やし中華とか冷や麦も悪くはないけど、僕は素麺派だなー」
お前の夏の主食が何かなんて話題に興味は無いぞ。
「てか、飯食ったら、さっさと帰れよ。仕事あんだろーよ」
「そんなこと言わないでよー。冷たいなー」
柚子は床に寝そべって俺の本を読みながら答える。
「この本、書いてる意味分かんないよー。もっと面白いのないー?」
更には俺の蔵書に文句まで付けてきやがる。俺は食器洗い。柚子川はだらだら読書って。何だ? この理不尽でムカつく構図は? 待ってろ。柚子。今、この皿を洗い終えたら、廊下に蹴り出してやるからな。
俺がせっせと食器洗いに勤しみながら、ふつふつと怒りを充電していると、受験勉強をしているはずの絹坂が柚子に話し掛けた。
「柚子さんって漫画家さんなんですよねー?」
「うん、そだよー」
ろくでもない漫画家だがね。
「どんな仕事なんですかー?」
「漫画書いて編集さんに渡すだけー」
そんなこと小学生でも分かるだろうよ。
「漫画家さんの部屋って見てみたいかもー。興味あります」
ばっと俺は振り向いた。食器洗いの途中だが、そんなのは関係ない! 泡や水が台所に飛び散ろうとも、そんなことは些細な問題に過ぎない!
「貴様! 柚子の部屋に行く気か!?」
「ふぇ? え、えーっと…ダメなんですかー?」
絹坂は少し困惑気味に言った。純粋無垢な顔だ。それゆえにいかん。あそこはいかん。
「柚子の部屋は現代日本における負の巣窟だ」
「大袈裟だなー」
柚子がヘラヘラと言う。
しかし、決して、俺が大袈裟なことを言っているわけではない。間違いなく、あそこは現代日本における負の巣窟であり、有害物の倉庫だ。女子供が近寄って良い所ではない。立ち入り禁止区域に指定すべきだ。
俺が懇々と説明してやったところ、絹坂は暫し小首傾げて考えてから言った。
「うーん、尚更、興味が出てきましたー」
そう言って絹坂はてててと部屋を出て行った。俺の親切な説得を塵ほども聞いちゃいねえ。
しかし、俺は慌てない。その部屋の住人である柚子はここにいるのだ。部屋には侵入できまい。
「僕の部屋、鍵閉めてないから勝手に入っていいよー」
柚子がちょっと大声で言った。
「……お前、部屋の鍵閉めてないんか?」
「うん、だって、隣なんだけだから、誰か来たら分かるじゃん」
この糞馬鹿め。部屋の鍵くらいちゃんと閉めろ。
俺は心の中で毒づきながら、手を洗って泡を流してからタオルで拭いた。今から急いでも無意味だ。
「僕も部屋に戻るかなー」
俺たちが部屋にいた時は動こうともしなかった柚子は、そう言って俺と共に部屋を出た。こいつ、実は寂しがり屋なのか。
柚子の部屋にはすぐにたどり着いた。そりゃそうだ。隣の部屋だからな。ドアが開けっ放しなので、さっさと上がり込む。土足で。
「あー、靴脱いでよー」
当然、柚子は抗議してきたが、すぐに言い返す。
「貴様の部屋に素足では入れるか」
柚子は黙った。酷いと思ったのか確かにと思ったのかは不明。
絹坂は玄関入ってすぐの辺りで突っ立っていた。
「…………あ、せ、先輩……」
絹坂は俺に気付いたらしく、振り返って弱弱しく鳴いた。
「ほら、言わんこっちゃない」
当たり前のことだが、柚子の部屋の構造も俺の部屋の構造と一緒……な、はずだ。全然、違う空間に見えるのは何故だろうね?
たぶん、俺の部屋には物が全然無くて、柚子の部屋には物がありすぎるからだろうな。
「しかし、相変わらずここは汚ねえなー……」
柚子の部屋の玄関から台所にかけての一帯はゴミ袋と素で晒されたゴミの群集地帯となっている。虫が飛んでいてもおかしくない。というか、虫が卵を産んで、繁殖していそうな危険地域だ。
「絹坂よ。あまり、ここにいては正体不明の感染症にかかる可能性がある。早く退避した方が身の為だぞ」
「そこまで酷くはないよー」
俺の後ろから柚子が抗議するが、こいつの言っていることに耳を貸す必要はない。
「いえ、ここまで来たからには全容を解明せねばなりませんー」
何故か、妙な使命感に燃える絹坂はゴミ袋を掻き分け、奥地へと侵入した。阿呆め。渋々と俺も後に続く。
「う、こ、これはー……」
先程も申したとおり、部屋の構造は俺の部屋と変わらん。六畳間と四条間で構成されている。そのうちの六畳間は仕事用机、パソコン、いくつもの本棚、テーブル、ソファ、ベッド、タンスなどがひしめき合っている。そのせいで、ただでさえ、床面積は狭められているというのに、その上、色々と雑多なものが散乱している。壁にはアイドルとかアニメとかのポスターがべたべた貼ってある。
「整理整頓ってのはできないもんか?」
「うーん、僕、そーいうの苦手なんだよねー」
机の上やテーブル上、本棚、床に所狭しと置かれているのは、漫画、書籍、DVD、ゲームソフト、プラモ、フィギュア、銃、ナイフ。
「銃刀法違反ですよ!」
絹坂が叫ぶ。
「いや、モデルガンとかだろ?」
俺の言葉に柚子は頷く。いくら、こいつがダメ人間でも、銃刀法を破るほどの阿呆じゃあるまい。
「でも、色々改造してるから殺傷能力十分だよー。このナイフは本物ー」
阿呆だった。
「あう……先輩。この漫画……」
「む、絹坂。ここにあるものには手を触れてはならん」
いつの間にか絹坂が手にしていた漫画を取り上げる。お子様禁止漫画だ。
「その絵の子って、絶対、小学校低学年……」
「皆まで言うな。世の中にはこーいう文化もあるのだ」
この部屋に存在する漫画・DVD・ゲームソフトのおよそ七割がお子様禁止物品だ。エロいのグロいのドンと来い状態だ。物によっては発禁処分になりそうなものも含まれている。
絹坂は俺の言ったことを愚直に守って、手を触れずに恐る恐る観察している。
「何で、ここには18に×マークのやつばかりあるのだ?」
「おかずは多い方が良いじゃない」
この正直者め。
「こっちの部屋はどーなってるんですかー?」
絹坂が指しているのは四畳間の方だ。
「そっちは倉庫」
何を貯蔵している倉庫かは言うまでもない。この辺に散らばってんのと一緒じゃ。
柚子はすっかりリラックスムードで。ソファの上に転がって、湿気たポテチを食っている。まあ、自分の部屋で何をしようが勝手なんだが。
「お前、仕事は良いのか?」
「んー? 大丈夫大丈夫。漫画のネタっていうのはね。こーやって、ゴロゴロしているうちに思い浮かぶの。だから、こうやってるのも仕事のうちなの」
嘘吐け。
「ゴロゴロやってるのも仕事のうちだとー?」
玄関の方から低い声が聞こえてきた。
「あらー」
柚子が引き攣った笑みを浮かべて言った。だから、仕事せんで良いのかと聞いたのに。
「テメーはどんだけ大物のつもりだ? あ? 今日、上げる予定のネームはできてんでしょーね?」
玄関からやってきた柚子の担当編集である松永さんは怒ったような笑ったような顔で問い掛ける。俺は絹坂を手招きした。
「ま、まだ、真っ白、でふ……」
柚子は弱弱しい小動物のように震えながら言った。
「こんの穀潰しの糞野郎がーっ!」
「うわー! やめて! 殺さないでー!」
松永さんのバッグで滅多打ちにされる柚子。殺されはせんだろ。雑誌に穴開くから。
俺と絹坂は黙って怒声と悲鳴の響く部屋を後にした。
俺と絹坂は顔を見合す。
「漫画家って大変なんですねー」
「編集さんの方が大変じゃないか?」