厄病女神は風邪をひいている
俺は風邪がすっかり嫌いになった。
風邪が好きな酔狂な奴など、殆どいないだろうし、元々、俺も嫌いだ。
しかし、今回の件で更に嫌いになった。今回の件というのは絹坂の夏風邪騒動であることは言うまでもないことだろう。
風邪をひいた病人は、普通、一日中、寝ているものだろう。
風邪をひき始めた病人は、やる気なく、ぐったりしているし、その方が病状の回復にとって有益であろう。
しかし、うちの厄病女神は違うらしい。
「先輩先輩ー。寝てるだけは、つまんないですー」
「うるせえ! 病人は黙って寝てろ!」
「先輩ー。本読んでくださいー」
「今、読んでる! 邪魔すんな!」
「口に出して読み聞かせてくださいー」
「んなこと保育園の先生に頼め!」
何故、風邪で寝込んでる病人と言い争いをせんとならんのだ? てか、絹坂、元気有り余りすぎだろ。本当に風邪なのか?
「先輩先輩先輩先輩ー! 本読んでくださいー! 本読んでくれないと寝ないですー!」
絹坂はぷーぷーと騒ぎ続けた。
俺は居間にいるのだが、襖を閉めたところで声など殆ど筒抜けだ。何の減音効果にもならん。
いい加減、煩くて我慢の限界だ。深層心理学の本が読めんではないか。ただでさえ馬鹿みたいに意味不明に難しいのに、こう煩くては頭に入らん。
「喧しいわ! 黙らんと口にガムテープ貼り付けるぞ!」
襖を開けて怒鳴りつけると、絹坂はニコニコ笑って本を持っていた。何やら小説らしき古本だ。
「これ、読んでください。全部読んでくれたら寝ます」
「ぬぅ…。本当だろうな……」
睨み付けると絹坂は嬉しそうにコクコクと頷いた。
渋々と本を手に取る。
分厚い。
「海底二万マイルだとぉっ!?」
もしやと思い、絹坂の顔を見ると、物凄く嬉しそうな顔で、にっこにっこ笑っていやがる。これ、長いんだよなぁ……。
「全部読んでくれるんですよねー?」
絹坂は楽しげに、にっこりと笑った。この鬼め。
暫く、海底二万マイルを読んでいると、いつの間にか絹坂は大人しく眠りについていた。
まったく、やれやれだ。
大層、疲れた気分で俺は昼飯を一人で作って一人で食い、その後は、いつも通り読書をして過ごした。錬金術の人体練成について書かれた本だ。
「先輩先輩ー」
起きやがったよ。まだ2時間くらいしか寝てないくせに。赤ん坊じゃねえんだから。
「汗でパジャマがびしゃびしゃにー」
そりゃなるだろうよ。そうする為に布団たくさんかぶせてるんだろ。
「だから、何だ? さっさと着替えればいいだろ」
「この状態で着替えても、すぐ気持ち悪くなっちゃうですよー」
ああ、まあ、そうかもしれないな。
しかし、風邪ひいてる奴にシャワー浴びさせるわけにはいかんからな。
「これで体拭いとけ」
乾いた白いタオルを絹坂に向けて放り投げる。
「うぎゅ!」
顔に命中した。その変な鳴き声は何だ?
絹坂は何やら思わしげな顔で俺を見つめている。
「何だ? 言いたいことがあったら、はっきり言え」
俺はまごまごと言いたいこと言わん優柔不断な奴は見ていてイライラする性質なのだ。
絹坂ははっきり言う方だった。はっきり言った。
「体拭いてください」
「んなこと、はっきり言うなっ!」
「何ですかー。言いたいこと、はっきり言えって言ったのは先輩じゃないですかー」
俺が怒鳴ると絹坂はぷりぷりと怒った。
それはそうだがねー。確かに言いたいことを言えと言ったがね。そんなことを言うとは思わんじゃないか。
「体拭いてくださいよー」
そんなこと言われても、自制心溢れる紳士とはいえ若い男である俺がうら若い乙女の裸の背中を拭いてやるというのは問題だ。
「拭けるわけがないだろうが! 自分で拭け! この馬鹿!」
「背中が拭けないんですー」
「嘘を吐け!」
背中に手が回らないって、体の固い老人じゃねえんだから。
「先輩が拭いてくれないんなら、この汗まみれのまんまで寝ます! 風邪が悪化しても知りませんからね!」
絹坂は拗ねたらしく、ぷいっとそっぽを向いた。逆ギレしやがった。とんでもない女だな。
よくよく考えてみれば、これは脅迫だ。背中を拭かなかったら、このまんま寝て風邪を悪化させて、看病期間を長引かせてやるという脅迫である。絹坂の言うとおり、これ以上、看病に付き合わされるのは、まっぴら御免だ。
仕方がないので俺は自分の頭の中で自己弁護の理論を積み上げる。
これはれっきとした看護行為であり、何もやましいことはないし、そもそも、患者である絹坂の望むことであって、一体全体、どこに問題があろうというのか? 絹坂は俺にとって妹かペットのようなものであろう? 何か問題があるか? あるまい。無いったら無いんだ!
よし。これでいい。諸君。文句は受け付けない。
「この阿呆め。背中を晒せ!」
俺は諦めて白タオルを握り締めた。糞忌々しい!
「わー! 先輩、大好きですー」
「黙れ! 気を立たせるようなことを、ほざくな!」
嬉々として喜ぶ絹坂を一喝してから、ベッドの側に座り込む。
「とっとと背中を晒せ! ありがたくも俺様が直々に背中を拭いてやる!」
「背中拭くだけじゃないですかー。そんな尊大に言わなくてもー」
絹坂はぶちぶちと文句を言いながら、パジャマに手をかけた。即座にその手を押さえる。
「おい、こら、この馬鹿娘や」
「はい?」
絹坂は何も分かってませんよ的な顔で首を傾げて見せた。お前、絶対に分かってるだろ? わざとだろ?
「こっち向いたまま脱ぐんじゃねえ」
女の子の大事なものがポロリしてしまうではないか。
「えー? ダメですか?」
「ダメに決まってんだろうよ! 何言ってんだこの馬鹿! とっとと後ろ向け! いい加減にせんと蹴っ飛ばすぞ!」
思いっきり怒鳴ってやると、絹坂は何もなかったかのようにテキパキと後ろを向いた。
「…はぁぁー…」
腹の底から溜息が出る。頭痛くなってきたぞ。とりあえず、さっさと済ませよう。
絹坂のパジャマの背中部分を捲った。
「ひうっ!」
「変な声を出すなぁっ!」
「だってー、先輩がいきなりするからー」
パジャマ捲るだけなのに、わざわざ確認に色々言ったりする方が何か嫌ではないか!
いいや。一々、反応するのが面倒臭い。とっとと拭いて終わらせよう。
俺は視線を絹坂のまんま裸の背中に移す。肌色の肌は確かに汗ばんでいる。というか、
「貴様、ブラしてないな!」
「はいー。無い方がやりやすいですよね?」
確かに、拭き易いが、そんなことは重要ではない。
「お前、何で付けてないんだ!?」
「えー? 寝る時、邪魔ですしー」
「さして乳もないくせにか!?」
「乳の大きさは関係ないんですー!」
まったくもって、けしからんことだ。
しかし、こんな下らん言い争いをしていてもしょうがないので、さっさと背中を拭いてやろう。
少しばかり桃色がかって汗ばんだ肌色。このすぐ向こうには女の子の大事な二つの脂肪の塊がー……いかんいかん。変なことを考えてはいかん。さっさと作業に取り掛かるべし。
ふきふきふきふきっと。
背中を少し拭くのにかかる時間など高が知れている。一分もしなかった。
「終わりだ」
そう言って立ち上がる。あー、どっこらしょい。
「えー! 早過ぎるですよー!」
何故か絹坂が不満そうに叫んだ。訳の分からん奴だなぁ。
絹坂の抗議の声を無視して後ろ手で襖を閉めた。一件落着。
夕方、絹坂には、またおじやと、ついでに家にあった桃缶をを食わせ、寝ろと命令してから俺の夕食を食った。全ての行動が絹坂優先になっている。気に食わん。
「先輩先輩ー」
就寝前に布団に入った状態で蘇生術に関する本を読んでいると、再び襖の向こうから声がした。寝てろよ。
これ以上、かまうのは面倒臭かったし、そろそろ眠たかったので暫くの間、無視していたが、
「先輩ー。先輩ってばー。ううー、先輩ー。来てくれないと泣いちゃいますー。先輩ー。泣いちゃいますよー。ねーってばー。うわーん。びーびー…………先輩ー?」
煩いこと極まりない!
俺の堪忍袋の尾は非常に耐久性に弱く、こーいう煩いのを黙って聞かないふりで無視していられないのだ。
「………………あー! 糞! 煩せえー!」
布団をひっくり返しながら跳ね起き、襖をずっぱーんと開け放った。
「何用だ!?」
「氷枕取り替えて下さい」
絹坂はそう言ってニッコリ笑った。
「ったく、そーいうことは布団入る前に言えというに…」
俺はぶちぶち文句を呟きながら新しい氷枕を冷凍庫から取り出した。冷たい。こいつをタオルで巻いて絹坂の頭の下に敷くのだ。
「ほら、絹坂、新しい氷枕を持ってきてやったぞ」
さすがにこれを投げつけるのは危ないので、近くまで持って行ってやる。
「頭の下に置いてください」
そんくらい自分でやれよと思わなくもないが、相手は病人。仕方ないので、絹坂の頭の下に敷いてやろう。
「……頭を上げろ」
渋い顔で指示し、前の氷枕を取り出し、新しい氷枕を入れる。
「ぬあっ!?」
入れようとしたら、突然、抱きつかれた。何だ!? 貴様、暗殺者だったのか!?
「な、何? 何だ?」
ちょっと混乱しつつ、よくよく顔を見ると、何だか心なしか赤い。息も荒く苦しそうだ。
「貴様! 悪化してるではないか!?」
「うへへへへー」
「気持ち悪い笑い方をするな!」
とりあえず、熱を計って、座薬でもぶち込むか?
「おい、放せ」
「やです」
即答された。
しかし、本当に放してほしいな。こんなふうに女と抱き合うような格好になるのは2年以上ぶりか…。
「……先輩」
絹坂が珍しく静かな口調で呼びかけてきた。
「何だ?」
「私の本心って分かってますよね?」
絹坂の顔は俺の胸に押し当てられていて見ることはできない。
「……何の」
「誤魔化さないで下さい。先輩はそんなに鈍感な人じゃないです。分かってるはずです」
絹坂の口調は静かで大真面目で怒りさえ含んでいるような気がする。
その彼女の言葉に俺は答える言葉を持たない。
「……先輩、私、先輩のことが」
「止めろ。それ以上、言うな」
そう言うと絹坂は一際強く抱きついてきた。
「……分かりました…。今、言うのはやめます。明日になったら忘れてるかもしれませんし…」
熱で朦朧としているからな。
絹坂は熱のせいで心の奥に押し込んでた本音が出易くなっているのかもしれない。
「先輩、せめて、寝るまで、一緒に、このままでいてください」
俺は絹坂の言うとおりにした。
仕方あるまい。絹坂は病人だしな。
まったくもって、困った甘えん坊の後輩だ。
風邪編、思ってたよりも長くなりました。
厄病女神が甘える甘える!
次話では風邪が治っていることでしょう。